2017年06月30日

ビットコイン

最近、ビットコインがちょっと大変らしい。
来る今年の8月を境に規格が分裂する危機にあって、このタイミングで、ビットコインを今まで持っていた人々が他の仮想通貨に乗り換える動きを見せているらしい。
実を言うとわたしも昨年、ほんのちょっとだけビットコインを買ってみたのだけれど、その相場の乱高下で眼が回りそうになって、こんなに相場が動くんじゃおちおち買い物に使ったりも出来ないなあと思ったりしていたところだった。

わたしがビットコインに投資した金額は、まあ小学生のお年玉くらいの規模にすぎないが、しかしビットコインは買ってはみたものの、当然のことながら保有している感覚はほとんどない。
売り買いもせず、仲介業者にお小遣いを少し預けているだけなので、現状実質的にはお小遣いを騙し取られているのとあまり変わりはない。

しかし冒頭のような不穏なニュースを耳にすると、ここいらであっさり売却処分した方がいいのかな、それとも最初から実験のノリで買っているわけであるから、ビットコインが分裂し、消滅して雲散霧消するところまでとことん付いて行った方がいいのかな、などと迷ってしまう。

だが仮想通貨というのは、名前に違わずなかなかに「実感」の薄い通貨であるように感じられる。
しかし考えてみると「貨幣」というものは本来そういうものだったのかもしれない。

なにせ日銀でせっせとお札を刷っても、日本の物価がほとんど反応しないというくらいに、今や日本円の存在もかなり怪しい感じになっている。
(ちなみに実際の市中の貨幣流通量はあまり増えていないので、言うほどお札は刷っていないと思う)

しかし一方で、何はともあれ現代社会は「貨幣社会」である。
給料は年貢米ではなく日本円で支払われ、ものを買うにも貯金をするにも貨幣がその土台にある。

だが今の貨幣社会は金本位制でもないし、世の中に出回っている福沢諭吉や夏目漱石の柄の紙切れの背後には、何かちゃんとした物質的な「実質」のようなものは何もない。
敢えて言えば貨幣の発行元の「信用」を、貨幣を使う人々が信じているだけのことだ。

そうやって考えるとビットコインも日本円も大した違いはない。
大した違いはないというのは、どちらもまあそれなりにちゃんと信用出来そうだというよりも、ビットコインも日本円もどちらも大した実態はない、ということである。

ということで、その最後を見届けるためにも、小遣いを投じたビットコインは売らずに置いておこう、となんとなく思ったのでした。
posted by ヤス at 10:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月29日

手段に生じる自我

手段と目的は、しばしば混同され、入れ替わり、手段が目的を乗っ取る、ということが起き易い。

例えば日本における官僚機構がその例としてよく引用される。
日本の官僚、とくに国家の高級官僚は学歴も一流で頭が良い。
しかもその大半はいわゆる善人である。
よくは知らないがたぶん9割以上が善意の人で真面目に仕事に打ち込んでいるに違いない。
にもかかわらず、今日の日本では官僚機構に端を発するさまざまな弊害が存在するように見える。

大きな弊害として、岩盤規制がある。
大学の設置許認可は強力な規制の枠で固められており、新設は至難の業である。
大学新設の前に立ちはだかる固い守りを官僚が担っていて、それがある特定の業界団体の利益に結びついたりしている。
そしてそこにいわゆる天下りの余地が生じている。

こういう官僚の利権がらみの岩盤規制が日本の場合数限りなくあって、日本が右肩上がりの時代、まだ元気が良かった頃はそんなに問題にされてこなかったけれど、世の中の利益の総量が減りつつある今の時代では、だんだん社会的に許容されなくなっている。

しかし依然として規制は減らず、政治も掛け声だけは威勢がいいが実効として規制廃止に向っているかというと疑問である。


なんでこんな事になるのか。
官僚機構というのは、考えてみるまでもなく日本国家を運営するための手段としてのシステムであった。
これは例えがあまり上手くないかもしれないが、運送会社における運送手段としての「トラック」のようなものである。
これは最初の頃は性能も十分で、とても役に立っていた。
しかしこの「トラック」に知らない間に密かに「自我」が芽生えていて、本来なら人間の運転するままに動くだけの存在だったはずが、「トラック」自らの意思で勝手にいろいろと行動するようになっていたという話だ。
こんなことが実際の運送会社で起こっていればホラーであるが、今の日本の官僚機構の動きはそれに近いと思う。

しかも時代が進んでこれからはトラックじゃなくて無人ドローンの時代だとなった時に、「トラック」には自我が芽生えているので自己保存の本能から廃車になるまいと抵抗を始めるかもしれない。

本来無機物であるはずの「トラック」に「自我」が芽生えるとものすごくややこしくなるわけだが、どうせ自我が芽生えるなら、「ターミネーター2」で親指立てて溶鉱炉に沈んでいった「T−800」型のように本来の目的をわきまえた、手段としての自覚を備えた「自我」であって欲しい、と思った。
posted by ヤス at 10:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月28日

将棋が面白い

さて、ニュースとしてはやや落ち着いたようであるが、将棋における藤井聡太四段の29連勝がついに達成された。
わたしも将棋の内容はチンプンカンプンながら、対局の様子をAbemaTVで夜の8時半頃から投了までつい観てしまった。

で、今さらながらだけれど将棋の世界というのは面白いと思う。
将棋界には160人ほどのプロ棋士がいるそうだが、それらの棋士が8大タイトル(少し前までは7大タイトルだった)をかけて熱い戦いを繰り広げる。
また女流棋士というのもあって、若くてきれいなお姉さん方が難解な棋戦に臨む姿は、そのギャップから非常に萌える。

また棋士の面々はどの人物もかなり癖があって、中にはわざわざ強めのキャラ設定を自ら行う棋士もいたりして、そのあたりのエンターテイメント性がかなり秀逸なのである。

またひとつ感心するのは、最近の藤井四段フィーバーでテレビのバラエティ番組などにも何人も棋士が登場するようになっているのだが、それらの棋士がちゃんとしたテレビタレントとして「出来上がっている」ことだと思う。

これは、各棋士とも普段から持ち回りで対局解説をやっていてしゃべりがこなれているということが大きいのだろう。
特に将棋の勝負は、持ち時間の長い対戦の場合は一手打ってから次を打つまでに1時間も2時間もかかることがあったりして、その間「解説トーク」で番組をつなげないといけない。

ともすれば間延びしてつまらなくなる可能性が高いところ、次の指し手予想とか今までの棋譜のおさらいとか、対戦者の人物紹介とか、全然関係のない解説者個人の面白話とかいろんな話題でつなぐことによって棋士たちのトーク能力は自ずと高まっていくのだろう。

わたしがパラパラと将棋の動画をネットで観ていて個人的に面白いと思ったのは、「藤井システム」でおなじみの元祖フジイ、藤井猛九段である。
他にも、わたしのような初心者にも非常に分かりやすく指し手の解説をする人とかいてなかなかに面白く飽きないのである。

そういえば最近テレビで引っ張りだこの加藤一二三九段も、若干滑舌が悪いのはご愛嬌だが、そのトークの面白さはとても70歳代後半のおじいちゃんのそれではない、テレビ的な切れ味鋭さがあると思う。

そういうことで将棋コンテンツはニコニコ動画なんかでもゲーム、政治と並ぶ三大コンテンツに並び称されるほどのポテンシャルを持っているわけだが、個人的には若干心配な点が少し有る。

それは将棋ビジネスの経済構造がかなり新聞社のバックアップに依存している点である。
これは長らく将棋コンテンツを新聞紙面で活用してきた経緯からある意味しょうがないわけであるが、新聞の購読部数減少による将来の利益減少を考えた時、新聞マネーに依存しない将棋界のあり方というのを今から準備しておく必要があるのだと思う。

まあ将棋のコンテンツパワーを考えると、収益化の可能性はたくさんあるのかもしれないが。
ということで藤井四段の今後についても注目していきたいと思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 12:12| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年06月27日

ややこしい妄想

さて、今日も性懲りも無く昨日の続きを書く。

昨日、人間は他の生き物と同じくDNAの入れ物に過ぎないという考え方について書いた。
DNAと呼ばれるタンパク質の塊がいつ頃誕生したのかは知らないが、DNAはその誕生以来ひたすら自己複製を続けて今日に至っている。
そして自己複製に必要な材料のアミノ酸を最初は適当に手近にあるのを使っていたのだろうが、そのうち材料を自分自身で作った方が効率がいい、ということで光合成とかが始まったのだと思う。

いや、都合がいいから光合成を始めたというよりは、ただひたすら無心に自己複製を続けながら色々とやっているうちに、たまたま光合成の能力を身につけてしまった、そういう個体がたまたま出来上がったのだと思う。

言うまでもなく自己複製能力の高い個体は、その後に繁栄し数が増える可能性も高い。
何億年も自己複製をしているうちにたまたま光合成能力を身につけてしまい、あるいは単細胞から多細胞化したり個々の細胞が色々と機能分化したりしながら、自己複製能力の高い個体がどんどん増殖していった。

そのうちあるものは植物になり他のものは動物になりして、「DNAの入れ物」は多様化の一途を辿ったものと思われる。

その中の一派が、脳機能が肥大化したところに特徴を持つ人類と呼ばれる動物である。
この動物はものを考えたり憶えたりするのが得意なことによって他の生き物に比べて高い生存性と繁殖能力を維持している。(今のところは)
さらにこの動物の得意技としては、複雑な推論能力、道具の製造能力を持っていて、生物的な進化の次元を相当に超越した「自己進化」の能力を持っていることである。

この動物は「自我の芽生え」からせいぜい数十万年ほどで他の野生動物的な暮らしぶりから卒業して、人工的な「人類的社会」を築き上げるに至った。
そして「人類的社会」の開始からせいぜい1万年ほどの後に、シリコン半導体による電気仕掛けの機械によって、この動物が「AI=人工知能」と呼ぶところのモノを創造した。

さて、AIを発明するに至った人類という名の動物は、それでもやはり実のところはDNAの入れ物であることに変わりはない。

少し視点をずらして考えると、人類というのは、DNAが意図せずに40億年かかってたまたま作り上げたDNAにとっての人工知能である、と言えなくもない。

ということは、別途人類が最近になって創造したAIは、DNAが創造した「人類という名の人工知能」の作品であるということで、人工知能が作った「AI=人工知能」と言えるのではないか。

ここで考えられることは、人類が作り上げたAIが、さらに「彼」なりの人工知能を創造する可能性もあるのではないかということだ。

少し話がややこしく、頭が痛くなってきたのでとりあえず今日はここで終わることにする。
posted by ヤス at 08:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月26日

DNAの雑感

最近ちょっと人工知能とか、人間の認知機能の本をチラチラ読んだりしているのだが、それらの本を読んでの感想は、「人間」とか「人間の自我」とかいうものは、本当はかなり単純なつくりなのではないか、ということである。

人間の持つ自我とか創造性とか感情の動きとか、そういう「心の動き」の原理は案外単純なつくりであって、実はAIによって十分に再現可能なのではないかと、なんとなく思う。

というのも、前にも何度か書いたのだけれど、人間の情動は高等哺乳類の進化の延長線上にあるのだと思う。
(これは単なる個人的な仮説(妄想)に過ぎないが)

情動による記憶強化のメカニズムが高等哺乳類でだんだん進化してきて、それとともにその機能を司る大脳皮質が拡大したとりあえずの最終型が人類であるような気がする。

人類の場合、情動〜記憶フィードバック機能にプラスして言語能力や道具の製造などの周辺能力も獲得するに至り、その点で犬や猫と、あるいはチンパンジーやゴリラと比べても隔絶しているように見える。

しかしこの大脳皮質がもたらした人類の特殊能力は、あくまでも小脳や脳幹などの原始脳の補助機関に過ぎないのである。たぶん。
そして小脳や脳幹などの原始脳はまた、ひたすら自己複製を繰り返す「DNAの存在」を補助する装置であるに過ぎない。(と思う)

DNAというのは、単純なタンパク質構造の壮絶な繰り返しである。
その繰り返しのパターンのごくごく微妙な違いが、トカゲやカエルやウサギやサルの違いとなって表れる。
そう書くとまるでDNAは生き物の「設計図」であるようにも思えるわけだが、その実は逆さまで、DNAはおのれの複製をつくるのに有利ないろんな「身体=DNAの入れ物」を選んでいるのに過ぎないのである。

それはある時代は恐竜の一派であったりするし、今なら人間もわりかし上手くいっている方かもしれない。
しかし実はDNAの入れ物として地味に大成功しているのはゴキブリとかの昆虫類、あるいはもっと単純な菌類であったりするのかもしれない。

DNA視点でみてどの生き物がいちばんの成功作なのかはわたしにはよく分からないけれど、しかしそうやって考えるとこの人類社会の間近で起きている人間関係のギスギスとか、あるいはニュースで流れてくる頭の痛くなるような社会問題が少し違って見えてくるような気がしたのであるが、まあ気のせいかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 14:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月25日

ポストトゥルース2

昨日ポストトゥルースについて考えたわけであるが、しかし思いがけず明るい結論が出てきたような気がした。
わたしは今までポストトゥルースの意味として、デマゴーグや撹乱情報によって民主的な政治手続きが阻害されたり無実の個人が貶められる可能性について悲観していた。

ネット時代の発展に伴い世の中に流通する情報量が爆発的に拡大し、かつ情報の発信源がこれまでのようなマスメディアからの一方通行だけではなくて個人からも発信されるようになったことで、情報撹乱の可能性が高まって世界は混乱の度合いを深めていくのではないか、そういう不安がこれまではあったような気がする。

しかし少し考えてみると、まあ当然といえば当然であるが、情報量の拡大や発信源の多様化は悪いことばかりではなくいい面もある。

ネット以前の社会では、我々個人レベルで受け取る情報はテレビや新聞、書籍などがせいぜいであり、何かの疑惑やモヤモヤを突き詰めて解消したいと思ったら、個人で一次情報源に直接の取材活動でも行う他なかった。

それが今では、とりあえず情報量だけは短時間でたくさん集めることができる環境が整っている。
自分の目で確かめる、という意味では直接取材には及ばないが、しかしとりあえず新聞やテレビの報道内容について、ネットで二次情報・三次情報を追いかければそれなりの検証はできる。
ネット上に転がっている、当てになるかどうか分からない断片情報を元に想定される真実を自分の中で再構成する論理的思考力と、「見たくないものも直視できる」強靭な精神力さえあれば、我々は20〜30年前より相当に真実に近づくことが可能になっているのではないか。

世の中にはいろんな人が何かの意図を持って、または無自覚的にあまたのフェイクニュースを流し続けているわけであるが、そういうフェイクだらけの現代ではあるがむしろ昔より真実に近いところにいるのだと思う。

ただ、今はまだここ10年くらいの間に起きた技術的な変化にみんなびっくりしていて、身体が環境に慣れていない。
もうあと10年か20年くらいすると、生まれた時からこういう情報環境だった、という世代が社会の中心に位置するようになってちょっとずつ時代が前へ動き出すのではないか。

そうなることを期待して、少しくたびれたおじさん世代も、「頭の中で真実を再構成できる思考力」と、「見たくないものも直視する精神力」を鍛えないといけないなあ、と思った。
posted by ヤス at 10:03| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月24日

ポストトゥルース時代

少し前から「ポストトゥルース=ポスト真実」という言葉がよく聞かれる。
ちょうど一年前のイギリスのEU離脱国民投票や11月のアメリカ大統領選が、ポストトゥルースの概念が広まる大きな契機となったようである。

以下ウィキペディア情報。
「ポスト」は「後に」「次の」の意味があるが、ポストの後に来る言葉が「過去のもの」という意味になり、それから転じて「重要でない」という意味にもなるらしい。


少し説明が難しいけれど、ポストトゥルースという言葉の意味は、ひとつひとつの事柄の嘘のことを指すというよりは、時代全体としての「真実性のなさ」という「時代の状態」を表す概念であるように思われる。

だから「ポストトゥルース」を自分なりに意訳すると、「まともな真実のない時代」ということになるのだろうと思うのである。

しかし考えてみると、いまだかつて人類社会がまともな真実だけで構成されていた時代というのもなかったような気がする。
よく言われるように、歴史は時の権力によって書き換えられる。
だから歴史資料の解読は、誰が何の目的によって記録したかをよく吟味して読み解く必要がある。
あるいは毛利元就や斎藤道三の例を引くまでもなく、権力闘争や国家間戦争において謀略戦、情報戦はつきものである。
あるいは少し昔のテレビや新聞のニュースの中にも、明らかな間違いや意図的な偽情報が入っていなかったという証拠はどこにもない。

要するにポストトゥルース的な状況は歴史時代を遡る大昔から存在したのである。
それがなぜ今になって「ポストトゥルース」と命名され、明示的に認識される必要があったのか。

それは多分、昔と違って偽の真実が、あまり時間をおかずに暴かれる可能性が生じる時代になったからではないか、と思う。
それは、インターネットの時代になったことが原因であることはいうまでもない。

しかしことはそう単純でもないかもしれない。

メジャーなネットニュースのみならず、SNS等を通じても毎日いろんな「事実」がわたしのところに流れて来る。
そういうのには名の知れたジャーナリストや「ちゃんとした」新聞社などの情報もあるし、正体不明の組織や個人からのものもある。

それらの情報は、新聞社のは真実で正体不明の情報源は偽情報とは限らない。
そのどれにも偽情報である可能性があり、いくらかの真実を含んでいる可能性もある。

現代という時代は、おそらくそうやって世の中に無数に流れている情報を拾ってきて、自分なりに事実を再構成する、そういう時代なのではないかと思う。

だから世の中に流れているニュースの数だけの事実がある、というよりはそのニュースを受け止める「受け止め手」の数だけ事実があるのだろう、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月23日

無根拠の類型化

何年か前に観たテレビ番組で、何の番組かは忘れたけれど最近よくあるパターンのバラエティ番組だったろう、そこで「血液型占いを信じるか?」という質問を出演者に訊ねる、という場面があった。
出演者の中には東大出身の政治家もおり、ポジション的に「頭が悪い」キャラの現役アイドルもいた。

で、その反応はアイドルは信じないと言い、東大出の政治家は信じると答えた。
この答えを聞いてわたしは少なからず考えるところがあったのである。

血液型占いというのには何の科学的根拠もない。

過去に何人かの研究者がわざわざいくつか実験して、人間の性格や知能と血液型に明確な因果関係のないことは実証済みである。
またわたしの経験の範囲内でも、A型だから真面目で几帳面、O型だから大雑把、とかいうよくある当てはめに該当しない人はたくさんいる。

というか血液型占いの性格の当てはめは、だいたいどんな人にでも当てはまるような「言われてみればそう思える」的な曖昧なものであり、その意味ではこれはまさしく「占い」的である。

しかし血液型占いの信奉者は思いのほか多い。
特に企業経営者とか政治家とか、一般には相応の知性が必要とされる立場の人間にも信奉者が多い。

しかし最近はこれを問題と考える流れも出来ていて、今から10年以上前にはBPOが血液型をネタにした番組づくりについて一定の配慮を求める声明を出したりもしたらしい。
また「ブラハラ=ブラッドタイプハラスメント」という言葉も出来たりして、この10年くらいの間に世間的なブームはかなり収束はしているようだ。

血液型占いを無批判に信じる態度というのは、それをネタに友達同士で楽しくおしゃべりするくらいなら大して害はない。
しかし人間に対する「無根拠の類型化」に何の疑問も持たない姿勢は、人種差別や外国人ヘイトを行う心理と根は同じである。


で、冒頭の東大出の政治家は血液型占いを信じてアイドルは信じない件。
このシーンを観て、わたしは政治家っていうのは本当にろくでもない阿呆ばっかりだなあと思ったのと同時に、学校の勉強は多分おろそかにしているだろう現役アイドルの意外に知性的な面を見たような気がした。

アイドルというのは、人数も多く競争が激しい。
そこで生き残り、キャラを確立して売れるためには相応に合理的な行動と科学的な態度が不可欠である。
だから血液型がどうとかあまり気にしないのだろう。
そこへ行くと政治家にはそういう合理性がほとんど必要ないのかもしれない。

というとこれもアイドルと政治家を無根拠の類型化に当てはめる行為であまり望ましくないだろう。

何にせよ血液型占いのような「便利な道具」で目の前の人間を判断しパターンに当てはめるのは、頭を使わずに分かった気分が味わえるので楽チンで良いが全く知性的ではない。
目の前の人を判断するには、やはり個別の人間ごとに自分の知性と経験をフルに動員し一生懸命考える、というのが唯一の正しい方法だろうと思うのである。
posted by ヤス at 08:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月22日

クリエイティビティ

AIに対する人間の強みはある種のいい加減さ、予測不可能性である、みたいなことを書いた。
それはただの個人的な思いつきであってちゃんとした確証があるわけではない。
ただよく言われるところの、クリエイティビティは人間だけのもの、というのが、どうもそうではないんじゃないかと思えてしょうがなく、クリエイティビティ以外の強みは何かないかなあと考えたまでである。

クリエイティビティとは「感動を作る能力」であると、とりあえず定義した。
そしてその「感動」というのは、人間だけの専売特許ではないと思うのである。

それは人間だけではなくて、ある程度大脳皮質が発達した高等哺乳類ならそこそこのレベルで持っているものだと思う。

感動というのは、キレイなもの、何かすごいものを見て驚き、かつちょっと恍惚とした気分になる、みたいな感情だと思う。
人間の感情にはそういうプラスの感情以外にも悲しいとか辛いとか恐ろしいとかいうのもある。
あるいは気持ちいいとか嬉しいとかいうこともあるだろう。

そういう感情の「正体」が一体何かということである。
これらのプラスの感情、マイナスの感情は、大脳が発達した高等哺乳類が持つ、ある種の記憶の補助機能なのだろうと思う。


なんかの木に生えている赤い実を食べたら、甘くて美味しくて感動した。
そうしたらその美味しかった感動とともにその「りんご」の赤い色や形をしっかり記憶にとどめておいて、次にりんごを見つけた時に備える。

反対に、黄色と黒のシマシマの猫の大きいやつにある時飛びかかられて間一髪逃げおおせたら、その「虎」の姿を恐怖の感情と一緒にしっかり記憶して、次回シマシマ模様を見かけたら一目散に逃げる。

そういう生存性強化のための記憶の補助装置として「感情」というものがある時生じたのだろうと想像する。
こいう記憶能力はカラスなんかもかなり優れていて、人間の顔もかなり覚えて個人識別できるらしいので、逆にカラスにも「感情」のような機能が備わっているのかもしれない。



とにかくも感情というのはある程度の哺乳類に標準装備の基礎的な機能であり、したがって感情の発動条件はかなりパターン化されている。
だからそれなりの基本知識を学習した人工知能であれば、人間を感動させたり悲しませたりするのに必要な「情報の合成」はお手の物であるに違いない。

実際最近の映画やテレビドラマでは、脚本を分析する専用のソフトがあって、ハリウッドあたりでは脚本をそれらの分析ソフトにかけて修正するというのが当たり前になっているらしい。

そのうち脚本の制作そのものも、あるいは映画監督やプロデューサーの仕事も人工知能に取って代わられることだってありうると予想する。
それどころか、あと数年もすれば映画俳優も全部CGになっていて、それが本物と見分けがつかないということになるだろう。
(すでに部分的には、CGの俳優は当たり前になっている)

そうなると企画・制作・出演が全部AI、という映画も遠からず実現する。
そうなった時の人間の役割が問題であり、ちょっと心配になるわけであるが、長くなったのでまた今度考えることにする。
posted by ヤス at 09:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月21日

AIに対する人間の強み

さてAI=人工知能の話も世間的にはいい加減煮詰まってきた感じもあるし、個人的にも若干飽きてきた面もある。
しかしこのところの将棋の藤井聡太四段の活躍で、わたしの中では再び興味が再燃してきた。

実際のところ将棋の世界でもしばらく行われていた「電王戦」、いわゆるAIと人間棋士の対戦は公式戦はもう終わっている。
これはつまりAIと人間の対戦はすでに決着が着いた、AIは人間を明らかに超えてしまったということなのかもしれない。

しかしそこに出てきたのが藤井聡太四段。
まるでAIのようにミスをせず、勝負どころで奇想天外の一手を打って敵を混乱に陥れるその棋風から、あるいは藤井四段ならAIに勝てるのではないか、という声もあるようだ。


究極的に考えると、将棋で人間がAIに敵わないのは確かである。
それは、将棋には論理的なルールがあるからである。
将棋が論理的なゲームである限り論理計算能力が人間よりはるかに高く、多分将来は今よりもっと能力アップするAIが人間に負ける道理はない。

しかし今のところ計算容量の関係で、AIも想定される手筋の全てを網羅しているわけではない。
パターン認識とか過去の棋譜のデータベースを参照して計算をかなりの程度端折っている。
その端折り方こそが将棋ソフトアルゴリズムの肝であり、ちょっと人間的な部分でもあるのだと思う。

このような前提で将棋対戦における人間のAIに対する強みを考えてみると、それは非論理的で想定外の奇手を打てること、なのではないかと思うのである。
ちなみにわたしは将棋は駒の動かし方くらいは分かるが、上級者の対戦を見ても何がどうなっているのかまったく分からない素人である。

だから「奇手が打てるのが人間の強み」なんていうのは素人の妄想に過ぎないのだけれど、調子がいい時の阪神・藤浪の荒れ球に名うての強打者がキリキリ舞いするように、予想外の奇手には人間棋士もAIも混乱するのではないか、という気がしてならない。


AIといえば、将来人間の仕事がAIに奪われるから人間にしかできないことを確立しないといけないという話がある。
人間の強みはクリエイティビティだから、みんな創造的な仕事を磨いた方がいいよ、という理屈になる。

クリエイティビティというのは「感動を生み出す能力」だと思っているのであるが、人間の感動はかなり論理的にプログラムされた定型的パターンであるような気がする、だからクリエイティビティはむしろAIの得意分野なのではないかという気がするのである。

むしろ人間の強みは、ある種のデタラメさ、いい加減さ、藤浪の荒れ球(ただし調子がいい時)のような予測不可能性にこそあるのではないか。
ここから先はまだ考えがまとまっていないので、またよく考えを整理して何か思いついたらまた書くことにする。
posted by ヤス at 10:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月20日

マクド、マルウェア感染

マクドナルドが少し大変なことになっている。
いや、ものすごく大変なことになっているのかもしれない。

16日未明に、システム障害が発生したらしい。
dポイントカードと楽天カードが使えなくなった。
しかしわたしは、その時はすでに面倒くさくてdポイントカードを出さなくなっていたので、そこは他人事だった。

それが昨日、1日ぶりにマクドに行ってみたら電子マネーのiDも使えなくなっていた。
昨日のニュースによると、マルウェアの感染による大量のパケットでネットワークがダウンしたということである。

しかもつい先ほど、店の奥の方からこんな声も聞こえてきた。

「ごめん、来月のシフト、手書きでお願いしまーす、ネットが使えないのでー」

だそうである。

多分問題はかなり深刻である。
マクドの場合全国の店舗は本部とネットワークでつながれており、POSレジデータがリアルタイムで本部に流れている。
それで現在の売上情報とか逐一本部で把握できているわけだが、そういうのも多分今はストップしているのだろう。
シフトとか社内メールとかあらゆるネットワークが止まっている。
月末をまたぐと仕入れ請求の管理やFCとの経理上のやりとりなんかも大変そうだ。
その場合、電卓片手に手書きでやることになるのだろうか。

システムのことはよく分からないけれど、PCの場合ならこういう時は電源ボタン長押しで強制終了し、再起動するに限る。
ひょっとしたら近いうちに全店一斉休業してシステムをシャットダウンすることになるのではなかろうか。

なかなか恐ろしい状況である。
マクド的にも当然ながらセキュリティ対策は行なっていただろうが。
マルウェアがどの経路から侵入したのか分からないが、ここはジタバタしないでお店を全休にして、根本的な処置を行った方がいいような気がする。

ネットワークやコンピューターシステムは、今や経営の絶対外せない基礎インフラになっている。
半分病んだ形でなまじ頑張ると、とんでもない二次被害三次被害が発生するリスクだってあると思うのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 09:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月19日

急がば回れ

今朝、セブンイレブンに寄って、本コーナーでいつものように雑誌類をパラパラ立ち読みした。
その中で、月刊プレジデントをパラパラめくっていたら、先日民進党を離党した長島昭久氏のインタビュー記事があった。
その記事の中の5〜6行くらいしかちゃんと見ていないのだが、その5〜6行の中にこんな趣旨のことが書いてあったと記憶している。


どこの国でも政権交代は10年くらいの周期で起きている。
日本の場合でも、民進党は本当は10年後を目指して腰を据えて取り組んでいかないといけなかったのだ、みたいなことである。


斜め読みで見たので内容を正確に覚えていないが妙に納得した。
わたしは長島昭久という人をよく知らないし、なんならそんなに好きなタイプの政治家でもないのだが、しかしセブンでちら見したその意見はまったく正しいと思った。

それはひとつには、戦後日本では政権交代の仕組みが機能したことがなく、というかその仕組みがまだ存在していないということなのだろう。
ひょっとしたらアメリカやイギリス並みの仕組みが出来るまでに、あと数十年要するのかもしれない。
それは、少し時間はかかるが政権交代の政治土壌が出来始めたということなのか、あるいはせっかくの政権交代の萌芽が途中で摘み取られてしまったということなのか、そこはよく分からない。

おそらくは前者であって欲しいと思うわけだが、しかし確かに今の野党第一党・民進党はやることなすことが短絡的であり過ぎるように見える。
蓮舫氏が代表になったのも、「とりあえず」選挙に強そうというのが主な理由だろう。
しかし今になって見ると、当初の思惑が裏目に出ているようである。

民主主義は多数派形成が正義ではあるが、しかしちゃんとした多数派を構築するには党内における政策的方向を時間がかかってもまとめていく必要がある。
そこのところが民進党はずっと寄せ集めで数のみを目指したために、結果として肝心の数が減っている。

別に民進党が必ず野党第一党である必要はないと思うが、しかし健全な民主主義のためにはちゃんとした野党第一党が必要なこともまた間違いない。



ところで今、中学生棋士の藤井聡太四段が話題だ。
テレビのワイドショーなんかでもバンバンとりあげられている。
そういう番組を観ていると、藤井四段は相手の心理まで見透かした老獪な将棋を打つというのをやっていた。

囲碁でも同じだと思うが、ここで打った手が何手か先でものすごく効いてくる、というのが将棋の醍醐味と思う。
最近の藤井四段の話題で、将棋の勝負における「急がば回れ」的な世界にあらためて気づき、面白いと思った。

ただ「急がば回れ」を勝負の現場で実現するには日々の研究の積み重ねと何より強い精神力が必要だろう。

それで「急がば回れ」というのは、伊達や酔狂で諺になっているのではないのだなあ、と今更ながら思うのである。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月18日

AKB総選挙、衝撃発表

昨日、恒例のAKB総選挙があった。
今年の総選挙はあらゆる意味で波乱だらけだった。

まず、直前になって激しい雷雨が予想される状況になり、野外でのイベントが中止になったこと。
これについては梅雨時期の沖縄開催がそもそも無謀だったのではないか、などの批判も聞かれた。
ただそういう批判はなんだか後づけの理屈に聞こえる。
若干のリスクを気にせず(気付かずかも)どんどん新しい試みにチャレンジするのはAKBグループらしくて良いと個人的には思う。
このような大規模の野外イベントでは「お天気リスク」というのがあるのだ、ということを今回運営はよく学んだことだろう。
それでいいんじゃないか。

波乱の二つ目。
NGTの荻野由佳が速報1位、最終票数でも5位に入った。
今回NGTは全体的にものすごく票数を伸ばしたようである。
今回から選挙を辞退したゆきりんの票が他のメンバーに流れたのだろうか。
ディープなファンなら何か感ずるところが有るのかもしれないが、わたしには躍進の原因が皆目わからない。
まあそのうち各種の分析記事が出てくることだろう。

さらに波乱の三つ目。
これが最大の大波乱だと思うのだが、20位に入ったNMB須藤凛々花の結婚発表。
これにはびっくりした。

わたしの家にはテレビがなく、したがって開票番組をオンタイムで見ることが出来ない。
だから夜の9時過ぎにそろそろ結果が出たかなとネットニュースを見て最初に飛び込んできたのがこれだった。
ぱっと見、記事の意味が飲み込めなくて困惑した。
結婚するって言うのは、ファンのみなさんと結婚する気持ちです、というくらいみなさん大好きですよ、みたいな意味なのかなとまず思った。
しかしどうやらリアルの結婚発表らしい、ということをやっと理解した。

そしてこの衝撃発表に対し、直後のスピーチで19位の峯岸がぼやいたり11位に入った高橋朱里が苦言を呈したりしたらしい。
またOGの大島優子も批判的な反応を示し、さや姉も困惑のようすであるらしい。
何より、この発表に対してファンから「金返せ」的な批判が殺到しているとも言う。
わたしは直接的にそれらの批判を見たわけではないが。

この衝撃事件に関し、わたしは恋愛禁止の掟を守りファンを大切に思う高橋朱里の涙にはかなり同情した。
彼女らが数百人のメンバーがひしめく中、各々地道にファン層の拡大に努力してきた、その集大成の選挙の場でガチの結婚発表とは違和感があり過ぎると最初は感じたのである。

しかし少し考えているうち、最近のSMAP騒動とかその他のタレントの事務所移籍や独立に伴う奴隷的な契約慣習とか、今の芸能界が抱える闇に対し、この衝撃発表は須藤凛々花なりの意見表明だったのではないか、そういう気がしてきた。
まあ本人は直接的にはそういう意識はなかったかもしれない。
が、結果として、これまでは「商品」として消費されてきた「アイドルの女の子」が、事務所やファンに対してイーブンな関係のちゃんとした人格を認められる存在になるために、今回の衝撃発表はいいきっかけになったのではないか。

そういう意味では、かなり違和感はあったけれどこれは必要な違和感であり、結果的に良かったんじゃないか、今はそのように感じているところである。

posted by ヤス at 11:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月17日

ポケコン、Palm、iPhone

今年の2017年1月、iPhoneが登場してから10年経った。
それ以前に「スマートフォン」と言えば、小さいキーボードが付いた黒い携帯電話のBlackBerryのことを指した。
しかしiPhone以降は全面タッチディスプレイのやや大きなカマボコ板みたいのが世の中的にはスマートフォンの共通了解になった。

iPhone以前、やっぱりタッチスクリーンの薄いカマボコ板みたいなPalmという携帯情報端末があった。
調べてみると1996年頃に登場したものらしい。
わたしもPalmの端末を2台とソニー製のCLIEというクローンマシンを1台買って使っていた。

Palm端末などの情報機器を総称して当時はPDAと呼んでいた。
Palm以前にもPDAはあってシャープのザウルスはその代表格であろう。
さらにAppleのNewtonや、さらにその以前にはソニーや富士通なども「手のひらサイズのコンピューター」的なマシンを出していたらしい。

1990年頃の話である。

さらにそれ以前には「ポケットコンピューター」という製品ジャンルがあった。
カシオとシャープが双璧であり、関数電卓とコンピューターの合の子のような感じのマシンが多かったけれど、オプションで超小型の感熱プリンタやテープ式の拡張記憶装置などの周辺ガジェットがたくさん用意されており、オタク心をくすぐるに十分過ぎる状況であった。
わたしはカシオ派で、PB-110とPB-1000というのを買った記憶がある。
1980年台後半の話だ。

あの頃は32KBのメモリが1万円だったか2万円だったかしたと思う。
(「KB」っていうのは「GB」と100万倍差っていうことでいいのだろうか。つうことは、この30年ほどでメモリは100万倍くらいのオーダーで値下がりしたということらしい)

雑誌「ポケコンジャーナル」に掲載されているBASICで書かれたゲームプログラムを2〜3本入力すると、さしものPB-1000の標準搭載のメモリはすぐにいっぱいになったものである。
メモリを増設したいけれど、たかがゲームプログラムを打ち込むのに1万円も支出するのはアホらしい。
だから古いプログラムを上書きして新しいゲームを入れた。

そんなことはともかく。

ポケコンを駆逐したザウルスやPalmなどの「PDA」は1993年頃に出てきてPalmが生産終了したのが2005年、10年少々がPDAの時代。

そのPDAを駆逐したiPhoneが出たのが10年前だが、iPhoneは若干勢いは落ちがたPalmと違ってまだ寿命が尽きそうな感じではない。

ということはポケコンやPDAはスマホ誕生にあたっての露払い、前兆のようなものであり、スマホこそが真打ち登場、だったのかもしれない、そういう気がする。
またAIや音声認識技術の急速な進化により、スマホがそれらのインターフェイスとしてますます活躍しそうな感じもある。

個人的にいうと、かつてポケコンやPalmに投資した額の何倍(あるいは何十倍か)もiPhoneにはすでに投資していると思う。
逆から見ればスマホはPalmなどに比べても桁違いに大きな経済的価値を生んでいるということになるのだろう。

だからiPhoneはまだ当分は今の調子で生き残っていくのであろう、とどうでもいいけれど思った。
posted by ヤス at 10:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月16日

今年の夏は暑くなりそうだ

この間梅雨入り宣言したと思ったら、途端に雨が降らなくなった。
スマホで向こう一週間の天気予報を見ても、しばらく晴れと曇りのマークが続いている。
連日雨の日が続くといろいろ面倒くさいわけであるが、しかしこの時期に雨が少ないと今後の水の供給が心配になる。

なんでも今年は4月下旬から5月にかけてかなり雨が少なかったらしい。
気象庁のデータによると関東甲信越以西の各都道府県の降水量は、平年比が軒並み30%〜40%台だったようだ。
近所の田んぼも山の方から順番に田植えが進んでいるようだが、水は足りているのかなあとやや心配している。

例年の梅雨は、中国地方では6月7日に梅雨入りして7月21日に明けるそうだ。
で、心配される雨の量であるが、これは予想によると6月中旬以降長雨の傾向が続いて降水量は平年よりやや多めの見込み。
なんでも南の方から暖かく湿った空気が流れ込んでいるらしく、もしこの予想通りならこれからしばらく蒸し暑い日が続く。


さて、話はやや変わる。
以前にも書いたがわたしは今年、昔出場したことがある「2017歴史街道丹後100kmウルトラマラソン」に再び挑戦しようと考えている。
挑戦しようと思っているが、まだエントリーはしていない。
4月に最後のフルマラソンを走り終わって、その後しばらくランニングをサボっていて、やっと一週間ほど前から再度走り始めたところである。

一月以上ランニングをサボっていたために当初2〜3日は膝がガクガクになって先が思いやられた。
しかし数日続けて走るうちに、体が走り方を思い出したらしい。
ゆっくりであれば10km超の距離でも楽に走り終えることができるようになった。
京丹後の100kmは制限時間が14時間である。

前回の出場は10年以上前だったが、13時間40分弱くらいだった。
1kmあたりに直すと8分10秒くらいである。
前回はエイドステーションのたびにバナナを食べながらくくつろぎ、かわいい中学生のボランティアにふくらはぎをモミモミしてもらった。
また後半に入ると登りの坂道は基本歩き、そのうち平らな道でもフラフラ歩くらいまあまあ辛かった。
だが、最後の20kmくらいは止まると足が固まって動かなくなるので、なるべく歩かないように、止まらないように頑張った。

あの過酷な100kmを10歳以上歳とった現状で再び完走するには、それなりにトレーニングを積む必要がある。

特にこれからの暑い季節がどれくらい暑くなるのかはトレーニングに多大の影響を及ぼすであろう。

エントリーの締め切りは7月24日。
まだ定員には達していないようである。
もう少しトレーニングを続けながら様子を見て、大丈夫そうならエントリーしようと思っている、妙に慎重な今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 09:49| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月15日

サル多数出没

昨日吉備中央町の山の中を高梁市に向けて車で走っていたら、100mくらい先の道路の上にタヌキだか犬だかよくわからないが四つ足で歩く「動物」のシルエットが数匹分見えた。
で、近づいてよくよく見るとニホンザルの親子である。

母親ザルとおぼしきやや体の大きなのが、車を怖がるでもなく道の真ん中にデンと腰を下ろし、じっとこちらを睨んでいる。
そしてひときわ体の小さい子猿が3〜4匹、道の端の方でチョロチョロと走り回っていた。

その辺の道はこれまでも度々通ったことのある走り慣れた道であったが、サルを見かけたのは初めてだったのでやや驚いた。
しかし驚くのはまだ早い。
そこからさらに数百メートル走るとまた別の群れが、多分10匹以上のんびり道路を横切って散歩している。
さらに数km車を進めるとまた別の群れがいる。

この日は吉備中央町を抜けて高梁市に抜けて行ったのだが、その道すがら合計で30匹くらいのサルを目撃したのではないかと思う。
サルを1匹2匹見かけるのも稀なことなのに、このように集団で遭遇するのは今までなかった。

サルの生息地の山で何か事件でもあったのだろうか。
山の上の方の食糧事情が悪化して里に近い方に降りてきたのだろうか。
かなり気になる。

ちょっとだけネットで調べてみた。
ここ最近、全国的にクマ被害のニュースがものすごく増えている。
それと同様にサルの出没情報も増えているらしい。

原因はいろいろあるみたいだが、一つには、中山間地の過疎化が行き着くところまで行ってしまって、山の手入れがほとんどされなくなった。
その結果、昔は適当に間引きされていたコナラやクヌギが生え放題になって餌になるドングリがたくさん出来るようになり、そこにクマが寄って来るようになった。
そんな感じで山の上の方から人里近くにクマが降りて来て、そのうち畑や人家の方にも出没するようになった。

つまり過疎化で山の上の方の野生動物の生息地と人間の生息地の間の緩衝地帯にどんどん動物が進出して来ているということらしい。

過疎化の結果クマだけでなくサルも人間の居住圏に出て来て今までにないニアミスが起こるようになっている。

しかもサルの場合、ちょっと離れて眺めている限り、表情が豊かで動きも面白く愛嬌があってなかなか可愛い。
ちょっと親切な人だったら餌をあげたくなったりするかもしれない。
しかしサルは思いのほか凶暴で咬みつきの被害も多発している。
しかも頭がいいから弱そうな人間とか、以前痛い目に遭わされた人間とかをちゃんと記憶している。

だからサルを見かけたら大声を出して棒を振り回したり石ころを投げつけたりして追い払うべきである、とサル被害の対策のサイトにも書いてあった。
(ただしこちらが一人で分が悪そうな時はくれぐれも慎重に)

この場合、野生の作法に習って、サルどもに対し人間の縄張りを激しく主張するのがサルにとっても人間にとっても良いようなので覚えてこう、と思った。
posted by ヤス at 11:18| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年06月14日

加計学園問題

森友問題に続いて加計学園の問題がクローズアップされている。

「総理のご意向」の文書が真正のものであるかどうかが今のところの争点となっているようである。
件の文書に関し、官邸サイドは一貫して出所不明の怪文書であり真偽や流出元について調査する必要はないと主張していた。
しかし前文科省次官の前川氏が会見を開いて文書は真正のものであると断言したことから風向きが変わった。

各種の世論調査では、今まで高い数字を維持してきた内閣支持率がジリジリと下がっているというのも出てきている。
折しも来月は東京都議選がある。

機を見て自民党を離党した小池旋風が相変わらず強い。
自民党にとって厳しい戦いが予想される。

今回突如として政府が方針を転換し、文科省内で件の文書に関する職員への調査を行うことを決定したのは、多分に都議選を意識してのものだろう。


しかし加計学園問題に関しては、森友問題にも増して色々と評価が難しい。
加計学園に対する獣医学部の認可は、果たして身内に対する利益誘導なのか岩盤規制の破壊であるのか。
わたしは、基本的には今回の一連の騒動においては前川前次官の肩を持ち、現政権を批判する立場をとっているつもりである。

しかし考えてみると、加計学園問題の根底には、大学の学部新設認可に対して行き過ぎた行政の規制があったことは否めないような気がする。
つまり政府側が、これを岩盤規制改革であると主張すればそう言えなくもない。

逆に考えると、岩盤規制の存在によってかえって権力による「身内への利益誘導」の誘惑が発生し得たという意味で、この国にある数々の岩盤規制こそが森友学園や加計学園問題の根源であるとも言えるだろう。

とすると、本当に悪いのは官僚システムの方であり、権力の暴走は官僚システムの瑕疵に基づいた「ほんの出来心」ということになるのだろうか。
だとすると前次官の前川氏の肩を持つのは筋違いになる、というややこしい話になる。



この問題での省内調査に際し、文科副大臣から法令違反を明示しない内部告発は公務員法違反で処分する可能性に言及したらしい。
これはかなり無茶苦茶な発言だ。
そういうことを言ったら内部告発はほとんど成立しなくなる。
組織の自浄作用のためにはある程度の内部告発の仕組み、自由な発言の雰囲気は欠かせないはずであるが、この文科副大臣は頭がおかしいとしか思えない。

文科省の現職の人々には是非この機会に事実を明らかにしてほしい。
そして、今回の一連の事件を契機に日本の官僚システムが少しは良い方向に向くことになりはしないかと、ほんの少しだけ期待して事態を注視しようと思う。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月13日

新卒採用の今後

さて、今に始まったことではないが、現在新卒で入社した人々もその多くが数年のうちに辞めてしまうという。
厚労省のデータによると、平成27年では1年以内離職率11.8%、2年以内22.8%、3年以内31.9%らしい。
よく3年で3割辞めるという「噂話」が業界内でささやかれていたがどうも本当らしい。

しかしこれはあくまでも平均値である。
おそらく大企業よりは中小企業において離職率は高くなっている。
わたしの周辺情報では、ある中小企業は新卒者をある年に10名ほど採用したが、5年もするとその10名が全滅した。
しかもそういう年は稀ではない。
10年して新卒者が生き残っている方がどちらかというと奇跡的である。
だから人材の主力は自ずと中途採用者に頼らざるを得ない。

そもそも新卒採用できる企業というのは、ある程度の経営規模、経営余力のあるところに限られるだろう。
社会人経験のない新卒者に対し、お辞儀の仕方や名刺の渡し方から始まり、アポ取りや報連相、仕事の段取りなどなど仕事のイロハを教えてある程度出来るようになるまでの「空走距離」の間も会社は給料を払わないわけにはいかない。

合理的に考えるなら、そのようなイロハをひととおり習得済みの「第二新卒」を採用することこそ、持たざる中小企業にとっての得策であるように思われる。
しかし、すべての企業がそうではないが、新卒者を採用したい会社は相変わらず多い。

その理由を少しネットで調べてみた。
一つには企業文化の問題である。
新卒で採用した方が我が社のカルチャーが浸透しやすい。
よその会社を数年でも経験していると我が社のカルチャーに染まりにくい、ということがあるのだろう。
だから社員と会社が同じ企業理念のベクトルを維持するのに、新卒採用が有効であるという話だ。

もう一つ、組織の年齢バランス、平均年齢を若く保つ、同期入社の横連携など組織の活性維持に関することがあるらしい。
ただこれは意地悪く見れば若手社員の割合を一定数維持することで平均賃金を下げる、という副次的意味合いが結構大きいのではないかとも思う。

しかし今後は日本における「新卒一括採用」制度の維持は難しいのではないか。
というか、前述した通り地方の中小企業では新卒採用は難しいところが多く、新卒採用は一定規模以上の大企業のものになっているように思われる。

まず、若年人口が減って莫大な採用コストをかけても中小企業には人が来ない。
また運よく採用できても教育コストを回収する前に辞めてしまう。
若年人口の減少に伴って新卒採用の割に合わなさはどんどん加速する。
やがて大企業でも採用・教育コスト面を考えて新卒採用から脱落するところが出るだろう。

そのうち新卒一括採用は名の知れた一部の有名企業だけのもになるのではないか、というかもう既にそうなっているのかもしれない、と想像するのだが実態はどうなのだろう。
posted by ヤス at 08:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月12日

零式艦上戦闘機二二型

今月の3日、4日に「レッドブルエアレース」という単発プロペラ飛行機によるレースがあったらしい。
そこで復元された「零式艦上戦闘機二二型」、つまり旧帝国海軍の「ゼロ戦」が展示飛行を行った。
復元されたゼロ戦が日本の空を飛ぶのは20年ぶりだとネットニュースには書いてあった。

ゼロ戦は、第二次世界大戦の日本軍を象徴する存在であると言われることがある。
それはつまり、ゼロ戦が1940年の夏に中国戦線に初登場してから太平洋戦争初戦の真珠湾やインドシナ戦線、そして1943年頃のガダルカナルくらいまでは圧倒的な「キルレシオ」(被撃墜に対する撃墜率)を誇る無敵の戦闘機であったのが、戦争中盤以降敵の対策が進んで急激に勝てなくなっていったからだ。

太平洋戦線初期の連合国軍の戦闘機は、米海軍がF4Fワイルドキャット、米陸軍はP40ウォーフォークやP38ライトニングなど、イギリス空軍はハリケーンなどだったがいずれもゼロ戦との空戦では分が悪かった。
また1943年にオーストラリア上空でゼロ戦と戦ったスピットファイアは新型のマーク5型であったそうだが、高出力のロールス・ロイス・グリフォンエンジンを積んだ高速機で、欧州戦線ではドイツ軍のBf109Fと互角以上だったにもかかわらずゼロ戦にはかなり苦戦した。

その後アメリカ海軍は大型戦闘機のF6Fヘルキャットが主力になり、陸軍も超大型のP47サンダーボルトが出て来て対戦後半にはP51マスタングが主力になる。

この間、日本海軍はゼロ戦を細々と改造してずっと主力に据えたまま。
ちなみに「零式艦上戦闘機二二型」の、型番の最初の二は機体番号、次の二は発動機番号である。
だから二二型は最初の型に対して機体にマイナーチェンジ(主翼端折りたたみ)を一回加え、発動機も換えた(栄一二型→二一型)やつだ。
最終的にゼロ戦は五二型が主力で終戦を迎える。
機体のマイチェン6回目の六二型も数百機作られているがこれは急降下爆撃能力を付与された戦闘爆撃機型で、最後の方は特攻に使用されたらしい。

つまりこの間ゼロ戦のエンジンは1回チェンジされただけ。
スピットファイアなどは対戦中に「マーク22」まで延々と改良が加えられ、エンジンは最初千馬力程度のロールス・ロイスマリーンが2千馬力超のグリフォンにまで強化されている。
ゼロ戦の方は栄一二型の940馬力が二一型の1130馬力になっただけである。

機体改良以外にも、レーダーの導入や編隊空戦方法の刷新など戦術面でも日本軍はどんどん立ち遅れて、戦争の終盤ではかつてカモにしていたF4Fにも勝てなくなっている。




日本で国家が成立し大和朝廷が出来上がる頃、当時の「日本」はかなりの積極外交を行っており朝鮮半島にも何度か大規模派兵を行ったらしい。
しかし半島介入政策は最終的にはうまくいかず、有名な白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗戦を喫する。
以来豊臣秀吉の半島遠征まで引きこもりの消極外交時代がずっと続き、秀吉以降は明治維新まで再び引きこもる。

要するに日本という国は歴史的に戦争下手の国なのである。
秀吉の時もそうだが、たまたま技術革新が上手くいって一時的に強くなっても、継続的に強い状態を維持することができない。
少なくとも歴史的にはそういう実績がない。

ゼロ戦二二型は、そういう長期スパンでの日本歴史も象徴している、と思った。
posted by ヤス at 10:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月11日

ストロベリームーン

ニュースでストロベリームーンっていうのが出ていた。
おととい9日の満月は地球から一番離れた状態、つまり年間で一番小さく見える満月だったらしい。
しかもいつもの月に比べるとイチゴのように赤く輝いて見える。

しかし赤く見えるのは「気のせい」らしい。
だいたい低い空に出る月はいつでも赤く見えるんだそうだ。
夕日や朝日が赤いのと同じ原理。
だからこの日に限らず、赤い月は年中見られることになってストロベリーのありがたみが薄れる。

だいたいストロベリームーンって、生まれて初めて聞いた気がするのも気のせいだろうか。
ストロベリームーンは「恋を叶えてくれる月」とも呼ばれるとネット上に書いてあったが、この表現、おじさんだけが今まで知らなかったのか。
調べてみると、この言い方の起源は昔のネイティブアメリカンにあるという。

頭にわしの羽根飾りをつけて、顔に絵の具を塗りたくった昔風の「インディアン」を思い浮かべるに、「ストロベリームーン」とはまた随分ハイカラな表現だなと思った。
だいたい月をストロベリーに喩えるっていうことは、「ストロベリー」もまたネイティブアメリカンにとっては身近なものだったといことなのだろうか。

と思って調べたら、「野生のイチゴ」は世界中かなり広い範囲に分布していたらしい。
そして現在のイチゴは南北アメリカ大陸原産のものをオランダで交配して出来上がったものらしい。
ということでアメリカ大陸はいわばイチゴの「本場」と言えなくもないようである。
だから「ストロベリームーン」がアメリカ大陸由来であっても不思議ではない。


そんなことはともかく、おとといの月は一番小さい満月だというけれど、そんなに小さいようには見えなかった。
一番大きい状態とどれくらい違うのか。
地球からの距離でいうとおとといはだいたい36万3千キロくらいだったらしい。
逆に一番遠いのは40万5千キロ。
その差4万2千キロ。
割合では1割くらいの差。

4万キロっていえば地球の赤道の長さである。

思った以上に大きな差だが、しかし考えようによっては赤道程度の距離の差っていうのは、個人的には案外スケールが小さいようにも感じる。
月は意外と地球に近いのである。

おとといの月の見た目も1割くらい小さく見えたのだろう。
しかしその程度の大きさの差を感じるには、おじさんの感受性はあまりに貧弱であったようだ。
今回の満月の「大きさ感」をよく覚えておいて、半年後に見られる最大の満月と比べてみようかと、今だけ思ったりしている。
posted by ヤス at 08:03| Comment(2) | 徒然なるままに