2017年05月14日

人間と器

大器晩成などと言って、「器」という字はしばしば人間の才能とか人間性そのものの意味として使われる。
「器」の通常の意味であるところのコップや茶碗やお皿など「食べ物などを盛る入れ物」としての意味と、人間の才能の意味はどの辺で繋がったのだろうとふと考えた。

入れ物としての器は、当然ながら大きいものや小さいものがある。
そこから「人間の器」の意味で、「器が大きい」「器が小さい」というふうに使うようになったのだろうか。

しかしなぜ「器」なのか。

昔の中国思想、特に老荘思想で器について言及している。
老荘思想的には、器の本質は器本体の硬いところではなくて中身の空洞部分であると考える。
同様に家で大事なのは立派な屋根や壁面ではなくて、人間が入って生活できる中の空間である。
というのは、いかにも老荘的な考えだと思う。

しかし改めて考えてみると、中の空洞に本質が存在するような「器」的なもの、というのがこの世にはたくさんある。

例えば自動車である。
自動車には鋼鉄製のボディにエンジンとタイヤなどが付いていて、中にシートがあって人が乗る。
エンジンが何馬力だとかサスペンションの動き具合がどうとか、専門雑誌では世の自動車の性能の高低や運転の味わいなどについてさんざん語られている。

しかし人が乗らない無人の車、例えば将来実現化が予想される無人運転の輸送用トラックについて想像してみると、これは人間が乗らないので、乗り心地が悪かろうがどうだろうが、積載している荷物と走行中の周辺に悪影響がなければどうでもいい。

自動車の評価というのは、搭乗する運転手や乗客との関係において発生するものであることが改めてわかる。

そういえば湯飲みや茶碗などの「器」においても、そこにお茶や食べ物を入れること以外に、その器を使う人間の存在というのがある。

器の「性能」評価としては、その器の空洞部分に食べ物が必要なだけ入るかどうかということのほかに、それを人間が使う時に使いやすいか、心地よいか、ということもあると思った。

自動車の評価には、馬力や最高速度や燃費性能などの「スペック的な性能」と、人間が乗った時の「感じ」、運転の気持ちよさやシートに座ったりハンドルを操作した時の気分の良さなど「人間が感じる性能」の二つがあるようである。

それは食器の方の「器」も同様で、その茶碗の最大容量や水漏れしないことなどのスペック性能とは別に、その茶碗を手に持った時の持ち心地、料理が入った時の美味しそうな感じなど人間が感じる部分がある。

元に戻って、「人間の器」の場合であるが、人間の場合も知能指数や100m走のベストタイムなどスペック的な性能と、それとは別に他人との関係における他人がその人に感じる部分、というのがあるだろう。

まあどうでにいいことだけれど、つらつらと思ってみた。
posted by ヤス at 10:03| Comment(2) | 徒然なるままに