2017年05月09日

草間彌生の点々

連休中、ちょっとしたはずみで、長野県は松本市にある松本市美術館に行く機会を得た。
というのも松本に行ったのが5月1日で、その日はたまたま松本市の市制施行110周年の記念日だったらしい。
それで市内の教育文化施設が無料開放されていて、現存12天守の一つ松本城にもただで登ることができたのであるが、そのあと市内をフラフラしていて美術館に入ってみたらそこも入館無料だった。

松本市美術館には同市出身の有名なアーティストである草間彌生の作品が展示してあった。
わたし的には、アートの世界は決して嫌いな方ではない。
しかし何かの芸術作品を見て震えるほど感動した、などという体験をしたことがない。

そこのところが、何かちょっと自分自身に対して物足りない感じがしなくもない。
たまにふらりとどこかの美術館に入って作品を見るたび、そういうことを思ったりする。

松本市美術館に展示してあった草間彌生の作品は、館外にあるケバケバしい彫刻作品やあの特徴的な点々模様の、というか水玉模様のひたすら繰り返したのをキャンバス一面に描いた「絵画」などには少々ギョッとさせられはした。
3m四方くらいの巨大なキャンバスに、大小の水玉をアクリル絵の具で一つ一つ丁寧に描いてある作品を見て、その水玉をやはり全部手で描き入れたのだろうと思うとその「労働量」には敬服せざるを得ない。

水玉の平均直径を約10cmとして、一辺3mにおよそそれが300個並ぶので、縦横掛け算してこのキャンバスにはおよそ900個の水玉を手で描き入れたことになる。
水玉のサイズは大小あるので、その数はあるいは千個以上かもしれない。

で、思うのは、そういう芸術作品の価値のことである。
草間彌生の作品が価値を持つのは、水玉を描き入れる労力の結果ではないだろう。
その作品が少なくない人の心を動かした結果相応の価値を持つに至ったのであろう。

しかし芸術作品に感動できる才を持たないわたしには、その肝心のところが実感できない。
こういうのは他の人はどうなのだろうと思うのだが、例えば美術館に入って他のお客さんをしげしげと観察した時、「フランダースの犬」のネロが教会の絵に感動したように、美術館の作品に感動している人というのはいるのだろうか。

最近のアート作品のオークションで一番高い落札額は3億ドル(330億円ほど)にもなるらしい。
それだけの経済的価値が付けられるというのは、需要と供給の関係におけるものすごい強い需要が存在するということなのだろうけれど、その「値段の理由」というのもかなり理解が難しい。

どうもアートの世界というのは、有名な美術館にどれほどの格付けで陳列されているのかとか、その値段は今どれくらいなのかというかなり間接的な情報でしか理解ができない。
目の前に見えているのに触れられない、そういうマボロシのような感じこそが、あるいはアートというものの本質なのではないか、とやや負け惜しみ的に思ってみる。
ということで、芸術作品に心動かされる日がいつか来るのだろうか、などと草間彌生作品の点々を見ながら思ったのだった。
posted by ヤス at 16:01| Comment(0) | 徒然なるままに