2017年05月02日

地毛証明書

今さらだが、「地毛証明書」なるものが話題になっているらしい。

我々が中学生だった時代、つまり35、6年も前にそういうものがあったかどうか、記憶が残っていない。

多分あったのかもしれない。
わたしの居た西宮市立上甲子園中学校は、男子は丸刈りでこそなかったがそれなりに「整った」校則もあり、また「スカート丈チェック」や「もみあげチェック」など、謎の風習もあった。
またちょうど校内暴力がどうにか鎮圧され沈静化した時期だったので、まだ校内にはピリピリとした空気が漂っていた。
実際、たまに生徒の誰それが教師に掴みかかったなどという小規模な暴力事件が発生することもあった。
しかし逆に先生が生徒を殴るのは事件とはならず、そこかしこで先生は生徒を殴りつけていたものである。

さて、地毛証明書である。
ここまで世界がグローバル化し、人権思想もまあそれなりに普及した現代日本に、まだそんなものが残っていたとは驚きだ。

地毛証明書の正当性については、普通に考えると普通に大きな疑義があると言わざるを得ないわけだが、しかしそういう普通でないものが未だに生き残っていることの意味とはなんなのだろう。

ふと思うのは、学校というのはかなり刑務所的な存在なのではないか、ということだ。
しかもこの場合の刑務所は、矯正と社会復帰を目的とした真っ当な刑務所ではなくて、管理の効率化を追求するだけのダメな刑務所。

多くの日本の中学校等は、生徒の管理を効率化したいのだと思う。
意識してそう思っていないかもしれないが、無意識に強くそう願っているに違いない。
学校になるべく面倒な問題が発生しないこと、ただでも仕事が多くて先生のマンパワーが足りない中で日頃から生徒を手なずけて管理を容易ならしめることは、かなり基本的な問題意識であろう。

「服装の乱れは心の乱れ」というのはあるいは統計的に有意なのかもしれない。
しかしそもそも「乱れ」の定義が拡張されすぎており、ただの多様な個性も「乱れ」のうちに入れられているのではなかろうか。

それはとりもなおさず、筋の通ったことも不条理なこともひっくるめて問答無用で生徒に刷り込むためだろう。

こういう「人間管理」の効率化思想は、学校のみならず会社組織などにもあるのかもしれない。
企業社会、あるいは家庭もひっくるめた日本における社会全体の要請、その凝縮したのが学校に降りてきているのではないか、そんな気さえする。
ただこういう組織管理の効率化要請は、アメリカにもヨーロッパにもかつての社会主義国にもある普遍的現象であるようにも思う。
日本の問題は、「全体」と「個人」が綱引きをした時に「全体」勢力が強すぎることだろう。

もう少し「個人」の側が強くなって「全体」とのバランスを取り戻す必要があるように思う。
posted by ヤス at 08:13| Comment(0) | 徒然なるままに