2017年04月25日

思想的傾向

人の心には、程度の差こそあれ何らかの「主義」や「性向」というのがあるだろう。
このような「心の傾向」というのは、時に大きな力になる。
何かの研究に没頭している研究者というのは、多くの場合自分が思う仮説を追い求める。

iPS細胞やSTAP細胞などの研究者ならば、すべての臓器になりうる万能細胞の存在を信じ、その再現に全力を上げる。
万能細胞の例に限らず、学術研究における「仮説」は往々にして間違っていて、その場合は研究者がいくら徹夜で実験をしても彼の期待する結果は得られない。
ただ結果が得られないのは後知恵視点でこそ言えることで、まだその成否が不明の段階では、研究者は自分の説を信じ続ける他に道はない。

最近では全世界的な経済成長の停滞に対する「リフレ政策」が、成否を問われている。
金融緩和というのは、成長停滞に対する「痛み止め」としては確かに効果があるのかもしれないと思う。
しかし問題の根本は人口問題とか「経済的フロンティア」の消滅など、金融とは別次元のところにあるようで、痛み止めだけでは問題は解決しないのは自明だろう。

しかし今なおリフレ派と半リフレ派の議論は続いている。
どちらの論も、それなりの理屈を土台に理路整然と論を立ててそれなりにもっともらしい。
一体どちらが正しのか、それは何十年か経ったら結果が出る話ではある。
しかし明確な結果が出るまでは双方ともなかなか後に引けない。

人間が抱く主義や信念は、その人を前に駆動する強力な原動力になるわけだが、一方で人間を頑なにし誤らせることがあるようだ。
ある研究で多数の政治・経済の評論家の将来予測を分析したところ、その「将来予測の分布」はランダムに出した予測の分布とあまり差がなかったらしい。
この場合評論家の持つ専門知識は予測精度を上げることに貢献していないことになる。
彼らの予測は多くの場合客観的事実より自分の主義主張に立脚する傾向が見られたそうだ。

ある程度自分の頭の中に何らかの思想的傾向が形成された人の場合、その人の行動は周辺の客観的状況よりもむしろその人の頭の中の思想的傾向に左右される、ということがあるようである。

だから全く同じ客観的状況の中でも、人によって行動の選択が全く違ったものになるのだろう。

あまりに思想的傾向の強い人間のことを指して、「頑固」とか「融通がきかない」とか評されがちだ。
だが多様な思想的傾向があるとすれば、それは人間の行動に一定の多様性を与える。
そういう意味で、何かの主義を持ち、それによって行動が強力にドライブされることは悪いことばかりでもないと思う。

ふと思ったのは、人工知能とかは、そういう思想的傾向を持って判断にバイアスがかかったりするのかということだ。
そこのところはどうなのだろう。
などと思った。
posted by ヤス at 09:28| Comment(0) | 徒然なるままに