2017年04月18日

飼い犬が迷子になる

最近、自己決定感というものについて時々考えている。

今問題になっている長時間労働の問題、これも要するに長時間の労働が「自己決定的でなく」行われていることが問題の本質だろうと思う。
もっぱら自分の意思で長く働くぶんには、やらされて働くのに比べると精神的疲弊も随分と違うものになるだろう。

少しややこしいのは、表面的には自己決定的だがその実はそうでもない、というのがありうることだ。
例えば家族を食わせるために頑張って働くというのは、ある意味とても自己決定的である。
しかしそれが何かのバランスが崩れたとき、家族が食うためにはどうしても働かないといけない、となって、自己決定的でなくなるのかもしれない。

その境目というのは非常に微妙でわかりにくい。
それは多分に気の持ちようという側面もあるように思われ、その意味では同じシチュエーションでも気持ちを切り替えれば自己決定感を感じることができるようになるのかもしれない、とも思う。


そもそもたいていの動物は自由を愛する。
ペットの犬や猫でも、稀に忽然と消えていなくなることもある。
ツイッターなんかに、「飼い犬が居なくなりました、探しています」というのがたまに出ている。

彼ら、犬や猫が飼い主の家に居ついているのは、ただ単に餌にありつけて夜露をしのげる便利な場所だから、そのような生存上の利便だけが理由なんじゃなかろうか。

家の外には広大な未知の世界が広がっている。
そこには食料があるかどうかも分からず、思わぬ天敵や数々の危険が待ち受けている可能性だって低くはない。
だがそれでも自由からの呼びかけに抗えず、彼ら犬や猫のうちの何匹かは未知の世界に踏み出していくのだろう。

昔は、ペットの犬がいなくなると、うちの何とかちゃんが「逃げた」と表現していたような気がする。
でも最近は、ツイッターなんかでは「逃げた」とは書いていない。
大抵は「迷子になった」とか書いてある。

でも多分彼らは「逃げた」のだと思う。
危険が少なくて食料にも困らない快適な生活環境を捨てさせるほどに、未知なる世界は魅力的だったのだろう。

たとえ寿命を削っても自由が欲しいというのは生き物の本性であり、それは人間も例外ではないと思う。

現代社会は様々な精神疾患やら病気までは至らずとも精神的疲弊の状況があちこちにあるわけだが、それは人間の生活環境がかなり不自然になっており、逆にいうと人間的になり過ぎている故であろう。

そういうわけで、たまには逃げてみることも悪いことではない、と思う今日この頃でした。
posted by ヤス at 10:29| Comment(0) | 徒然なるままに