2017年04月02日

共感は危険か

昨日は4月1日で、エイプリルフールの日であった。
インターネット以降、毎年この日は世界的にさまざまな「嘘ニュース」が流されるのを目にするようになった。
しかし気のせいであろうか、昨日のエイプリルフールは例年に比べて嘘ニュースの勢いが弱かった気がする。
これはどうもこの一年ほどの間に、たとえエイプリルフールでない日であろうと、たくさんのフェイクニュースが流れるようになったせいじゃないか、と無理やり想像する。

しかし考えてみると、インターネット化に伴うフェイクニュースの増大というのは、ある意味必然だったような気もするのである。


戦国時代の梟雄、毛利元就は、安芸の国のほんの一部を領有する弱小領主であったが、数々の謀略を巡らして大内氏や尼子氏など周辺の有力大名を滅亡に追いやって中国地方を統一した。
謀略の多くは、敵方の内部に「嘘の噂話」を流して敵将と有力家臣の信頼関係を寸断するものだった。

もし毛利元就の時代にインターネットがあったら、元就はネットを最大限活用し、いろんなフェイク情報を流して宿敵を撹乱したであろう。


選挙制度を土台にした民主主義政治の権力闘争では、情報戦の勝利こそがその本質だと考えられる。
その昔は、ラジオやテレビなどの放送媒体、新聞や雑誌などの紙媒体を押さえることが最重要課題であった。
そこに1990年代にインターネットが出てきて様子がかなり変わった。

ラジオ・テレビにしろ新聞・雑誌にしろ、これらは放送会社や新聞・出版社というそれなりの大組織が編集制作して世間に向かって流す。
そのようなメディア組織はほとんどすべて営利企業であり、経営トップを頂点にそれなりの組織的まとまりを持っている。

だから政治が情報をコントロールするためには、極論すればメディア会社のトップを手懐けることが出来ればそれでよく、あるいは人的な関係に依らなくても資本関係や商取引の流れに介入することでも良い。

それがインターネットが出てきて、メディア会社からマスの大衆に情報を流す、という「安定した情報の一方通行状態」がかなり様変わりした。
個人単位で、ある時は自らブログを書いたりあるいはネットで見つけた情報を「リツイート」するようになった。
それなりに知名度のある個人の場合、その影響範囲は大メディアと互角であったり、個人的信奉に支えられている分、かえって影響力が大きかったりもするだろう。

このような時代の「情報操作」は、メディア会社に対する直接的介入ではなく、個人や組織を問わずさまざまな情報発信者がひしめく「情報市場」に対する操作でないといけない。
それはせっせと「草の根的フィエク情報」をネット社会の底辺から流し込む方法であったり、あるいはその草の根フェイクに整合する振る舞いを、それがたとえ客観的事実とはっきり違っていたとしても、自信満々に情報操作者が徹底することだったりする。

ポイントは、大衆個々の思想に響くような情報を流して共感を呼ぶことだ。

人間の持つ「共感」機能は、本来社会を平和に維持し楽しく気持ちよく生活するために重要だと思う。
しかしフェイクニュースが飛び交う現代社会では、人々は不用意に共感すると思想的に「操作」される恐れがある。
メディアやネットで何かの情報を見たら、あるいは友人や会社の同僚との会話でも、まずその情報がフェイクではないかと疑ってかかるべきである。

だから現代人の思考の基本は、「共感」は危険で「疑心暗鬼」こそが正しい態度である。

そういうことで現代人は毛利元就や斎藤道三、または宇喜多直家の「毒饅頭戦法」などの手法を勉強し、努めて実践するべきなんじゃないか。
なんかいつの間にか大変な時代になったような気がするのである。
posted by ヤス at 08:58| Comment(0) | 徒然なるままに