2017年04月30日

伝統の一戦

伝統の一戦といえば、巨人阪神戦あるいは早慶戦などが思い浮かぶ。
ところでこの時の伝統という言葉、この言葉の意味が少し引っかかったので調べてみた。

「伝統」は「伝」と「統」で出来ている。
「伝」は字句通り「伝える」こと、「統」は「ひとつながりに続いて」いるようなイメージの意味らしい。
また「統」には「統べる」などという使い方でコントロールするとか統御するとかいう意味もある。
これは想像であるが、あるモノを長く存続させる様子が転じてそのモノの維持に腐心する様を表す意味が「統」の字に加わったのではないか、と思ったりする。

それやこれやを考えると、「伝統」というのは単に昔から淡々と続いているだけではダメで、その存続にそれなりの尽力があることが必要なのではないか、そういうイメージが浮かぶのである。

巨人阪神戦(もしくは阪神巨人戦)は、ただ淡々と戦っているのはもはや伝統の一戦ではなく、強い巨人と阪神が戦っているのが正しい伝統の一戦のありようだろう。
あるいは最近トップ選手を輩出しているフィギュアスケート界はそろそろ伝統の域に入りつつあるようだが、例えば凋落著しくなって久しい男子マラソンはもはや「伝統の糸」が切れている。

統の糸へんを見る限り、繋がってこその伝統であるようで、そういう意味では男子マラソンは伝統の作り直しが必要なのだろう。
(女子マラソンもぼちぼち頑張らないと糸が切れそうだ)

このように「伝統」の意味について理屈をこねた上で世の中のスポーツ中継などを観てアナウンサーが時折発する「伝統」の意味を考えた場合、そこにはすでに切れてしまった伝統や、その維持に大した尽力の無い伝統など、まやかしの伝統が案外散見されるのではないか、とどうでもいいが思ったりする。

しかし思うのは、例えば衣笠祥雄の連続出場記録とか双葉山の64連勝とか、何かが続くということに人はなぜそこまで執心するのだろうかということ。
連続出場でたまに一つ休んだり、連勝の途中に一敗したりしたところで数字上は大した違いがないような気がする。

切れると困るのは、例えば王統の血筋で、これが切れると王様一族は王権を失って大変なことになる。

あるいはそれ以外の伝統でも、一旦切れると再興するのに、連続的に維持する何倍もの労力を必要とするからわざわざ切れないように頑張るのかもしれない。

伝統に似た言葉で「老舗」というのでも、気をつけないといけないのは過去の栄光にあぐらをかいてしまうことだろう。
そうなった瞬間にそれは伝統でも老舗でもない、ただの歴史的事実になる。

伝統にとっては案外「今」が大事なのである。
どうでもいいがそんなことを思った。
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2017年04月29日

穴を塞ぐ

ちょっと前に福岡の道路陥没事故、そして事故からの急速な復旧工事が話題になったがあれはいつだったか。

あの事故で思うのは、あれだけの大きな穴をあっという間に埋め戻して道路を復旧し、その早さが賞賛されたわけだが、そもそも街の真ん中に多穴が空く事故が発生したこと自体がもっと問題視されるべきだったろう。

調べたら事故は昨年11月だったらしい。
あの後事故原因もほぼ究明されて、真下で行われていた地下鉄工事が原因らしい。
(他の原因説も根強いみたいだが)
類似の事故が過去に起こっていたこともあるらしく、そうなると近い将来にまた同じようなことが起こることもあるのかもしれない。

今回書こうとしていることは道路陥没事故のメカニズムについてではない。

事故で開いた穴を塞ぐ仕事の「生産性」についてだ。
そもそも穴を塞ぐ仕事は、穴が開かなければ不要のものだった。
そういう意味ではこの仕事の生産性はゼロもしくはマイナスという評価になる。
というと、ちょっと関係者の皆さんには可哀想かもしれない。

しかしこういう種類の仕事はたくさんある。
パッと頭に浮かぶのは、東日本や熊本などの震災復興だろう。
特に東日本大震災については、復興予算も10兆円単位の莫大なもので、復興予算に関しては予算の未消化や流用、不正受給による焼け太りなど問題が多い。
しかしながら、まずは大きな損害を蒙った被災地域の復興が何よりも優先されるべきであって、そのためには多少の「事故」には目をつぶるべきだろう。

で、復興工事などで何兆円という予算が投入され、地域の建設業等にはそれなりにお金が回っていると思われる。
しかしこの辺の予算投入による付加価値の増加というのはどう評価すべきなのだろう。

先日の元復興大臣の発言によると、東北地域の損害額は25兆円ほどにもなるらしい。
今後もし、この地域で25兆円分のGDP増加があったとして、それでやっと震災前に復元したことになる。

震災は天災で不可避のものであり、先の陥没事故と比較するのは適切ではないような気もするが、どうもあの穴を埋める工事と震災の復興とが、頭の中でなんとなくダブって浮かんだ。
とりあえず、今日はそれだけ書いておく。
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2017年04月28日

ランエボの復活予想

今世界中に自動車会社はたくさんあるが、しかし全世界で220兆円と推計される業界規模の割に、企業数は少ない。
それは既述の通り自動車という製品が複雑高度化して、研究開発にも莫大な費用が必要なことが大きな理由である。
また自動車が軍需と近く、ほとんどが第二次大戦前からの企業で占められていること、早々に足場を築いた自動車会社が業界を占有する構造というのがあるように思う。

第二次大戦後、自動車業界の民間需要が急拡大して軍需の何倍もの規模になり各自動車会社も規模拡大のために民需中心の会社に変化していったのだろう。
ヨーロッパなんかでは、しばらく自動車会社の国営時代があったりしたが、自動車業界の「民需化」の進展とともにそういう国有化状態が解消されていったのだと想像する。

民需化した自動車の製品開発の肝は、お客が「欲しいクルマ」を作ることであろう。
それは各社のブランド戦略につながっている。
ざっくりいって、アメリカのお客は大きくて見栄えが良いクルマが欲しくて、ヨーロッパのお客は走行性能が優秀でデザインや内装にもうるさく、日本のお客は安くて壊れないクルマが良かった、というところだろうか。

各国の自動車会社の製品イメージがずいぶんと違うのは、各国市場の「欲しいクルマ」の種類が違うからに違いない。
今、曲がりなりにも生き残っている会社というのは、それなりに市場の欲しいクルマを作る能力があったということになる。

日産がルノーに買収されてカルロス・ゴーンが日産に乗り込んできて最初の頃にやったのは、フェアレディZとGT-Rの開発にGOを出して日産のブランドイメージを再構築することだったという。
スポーツカーというのは台数は売れずたいして儲からないけれど、会社にポジティブなイメージを付加する。
自動車という製品は、安いのでも百万円くらいするやつを今の日本では平均9年くらいで買い換えている計算になるらしい。
(20年前は平均6年強だった)

やや大仰に言えば、とにかく「欲しい」圧力を最大に高めて、無理やり市場に製品をねじ込んでいるようにも見える。

そういう中でブランドが毀損して「欲しい」圧力が弱まると、たちまち売上が急減する。
その点不正のあったVWと三菱では、VWはブランドがしぶとく三菱は脆かった。

三菱に関して言えば、度重なる不祥事でダメージが蓄積していたこともあるけれど、一方でランエボをやめパジェロを10年以上もモデルチェンジなしで放置するというところに、根本的な戦略の誤りがあったように思う。結果論ではあるが。

ランエボもパジェロも台数が売れるクルマではないが、三菱では数少ない「欲しい」クルマだったと思う。
ということで、三菱に大ナタを振るうゴーンさんは、そのうちランエボを復活させパジェロをビッグチェンジするのではないか、というのが目下の予想である。
まあ全く根拠はないが。
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2017年04月27日

三菱自動車2

2016年の世界自動車販売台数は、フォルクスワーゲン(VW)がトヨタを逆転して首位に返り咲いた。
2015年の排ガス不正から、早くも立ち直ったようである。
VWの戦略には一つ特徴があって、それは中国市場にどのメーカーよりも特化しているところである。
VWの販売台数は、その40%が中国市場で出ているらしい。
中国市場は年間28百万台の世界一の自動車市場だ。
2番はアメリカの1786万台、日本は3番で497万台。

25年ほど前にリュックを担いで中国に旅行した時は、北京の街中はVWゴルフとダイハツシャレードが大半を占めていたと記憶している。
その頃からせっせと中国市場を開拓していたのが現在のVWの躍進につながっているのは間違い無いのだろう。

VWは排ガス不正でかなりイメージダウンしたけれど、しかし過去数十年にわたる信用の蓄積は、この程度のイメージダウンで崩壊するものではないようだ。

VWは、ヒトラーの国民車構想によって完成した「タイプ1(=ビートル)」がそのスタートである。
戦後は、たぶんヒトラーの肝いり会社だった負い目もあったろうと想像する。
また戦後長い間ビートル頼みだった商品構成にゴルフが加わって、ゴルフの走行性能や安全性の追求姿勢が世界的な評価も集めて、会社としての発展に繋がっていったものと思われる。

さて、三菱自動車である。
三菱自動車は日本最古の自動車メーカーで、現在も陸上自衛隊に戦車や各種車両を供給している。
戦前も帝国陸軍の主力97式中戦車を開発・生産していた。

こういう歴史はVW・三菱に限らず、自動車メーカーというのはだいたい戦前戦後と軍需に関わっていたところが多いようだ。
三菱を買収したルノーは、第一次大戦で現在の戦車の原型となったルノーFTを作った会社だ。

純粋な戦後の民需主導の自動車会社で今パッと浮かぶのはホンダくらいだ。

そんなことはともかくも、VWはヒトラーの国民車から始まって、戦後しばらくビートルで稼いだのちゴルフで花が開いた。
ゴルフの成功は、質実剛健である意味地味なクルマ作りのコンセプトに支えられていたと思う。

でVWのブランドイメージは、これは個人的なイメージであるが、ヒトラーの国民車のイメージを払拭すること、もともとキューベルワーゲンなど軍用車両の会社だったことを払拭することがその土台にあるような気がする。

しかし一方の三菱は、戦前から現在に至るまで軍用車両に深くコミットしていて、代表的なブランドは四輪駆動のパジェロで、自衛隊にも通称「パジェロ」と呼ばれる汎用車両があって、戦後しばらく国営会社だったVW以上に官製企業のイメージが強いような気がする。

その辺が三菱自動車凋落の遠因ではないかと思う。
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2017年04月26日

三菱自動車のその後1

ちょうど一年前の今くらいの時期だったけれど、三菱自動車燃費不正問題の発覚があった。
もう随分昔のような気がする。
あの問題を機に三菱自動車は日産ルノー連合の傘下に入ることになり、辣腕のカルロス・ゴーンが再生に向けた舵取りを行うことになった。

その前年にはフォルクスワーゲンによる米国での排気ガス不正問題があって、一連の燃費や排ガスデータの改ざん問題は、自動車業界の競争の厳しさ、そして環境規制の高いハードルの存在が強く印象付けられた。

改めていうまでもないけれど、自動車業界はなかなか大変な業界である。
自動車産業は、19世紀末にガソリンエンジンが完成し、1908年にフォードT型が世に出てモータライゼーションの口火を切って以降発展を続けてきたが、20世紀末になって合従連衡が急速に進んだ。

小さいメーカー、と言っても売上規模で1兆円とか2兆円とかの規模くらいだが、それくらいの小規模だとまず莫大な研究開発費負担に耐えられない。
研究開発費が増加したのは一つには、安全や環境など各国政府の規制がどんどん厳しくなっているのがある。
そしてもう一つには、ハイブリッドや電気自動車化、さらには自動ブレーキなどのアクティブセーフティー技術、そして自動運転技術などの新技術対応。



今から40数年前、わたしの家に自動車がやってきた時のことを少し憶えている。
確か中古の、スズキのフロンテだったと思う。
なぜか記憶に残っているのは、マニュアルミッションのレバーの根元のあたりに隙間があって、走行中にその隙間から下の地面が後ろに流れていくのが見えた、その映像である。
あのフロンテには、電子機器的なものは多分カーラジオくらいしかなかったのではないか。

チョークレバーというやつが付いていて、エンジン始動の際には必ずこれを引いていた。
そしてエンジンがかかったらしばらく暖機運転をするのが常識だった。
当時の車は、鉄の箱にタイヤとエンジンが載っているだけの単純な機械だったように思う。

それが今では燃料噴射装置を始めあらゆる機能が電子制御になり、ABSやらエアバッグやら、昔になかった装備もものすごく増えた。
また「鉄の箱」の部分も、安全基準に適合するためにスーパーコンピューターを駆使して入念な設計を行い、実車による実験にも多くの費用が必要だ。

そのように高度化し複雑化する自動車という商品を世に送り出すには、小規模メーカーではなかなか厳しい。
その観点からは、三菱自動車の日産ルノーへの「併合」は必然だったようにも思える。

ただ小規模メーカーの戦う土俵として、「ブランド」というのがまだ残っている。
そこのところを重点に書きたかったのだが、そこへいく前に字数が嵩んだ。
この続きはまた明日。(たぶん)
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2017年04月25日

思想的傾向

人の心には、程度の差こそあれ何らかの「主義」や「性向」というのがあるだろう。
このような「心の傾向」というのは、時に大きな力になる。
何かの研究に没頭している研究者というのは、多くの場合自分が思う仮説を追い求める。

iPS細胞やSTAP細胞などの研究者ならば、すべての臓器になりうる万能細胞の存在を信じ、その再現に全力を上げる。
万能細胞の例に限らず、学術研究における「仮説」は往々にして間違っていて、その場合は研究者がいくら徹夜で実験をしても彼の期待する結果は得られない。
ただ結果が得られないのは後知恵視点でこそ言えることで、まだその成否が不明の段階では、研究者は自分の説を信じ続ける他に道はない。

最近では全世界的な経済成長の停滞に対する「リフレ政策」が、成否を問われている。
金融緩和というのは、成長停滞に対する「痛み止め」としては確かに効果があるのかもしれないと思う。
しかし問題の根本は人口問題とか「経済的フロンティア」の消滅など、金融とは別次元のところにあるようで、痛み止めだけでは問題は解決しないのは自明だろう。

しかし今なおリフレ派と半リフレ派の議論は続いている。
どちらの論も、それなりの理屈を土台に理路整然と論を立ててそれなりにもっともらしい。
一体どちらが正しのか、それは何十年か経ったら結果が出る話ではある。
しかし明確な結果が出るまでは双方ともなかなか後に引けない。

人間が抱く主義や信念は、その人を前に駆動する強力な原動力になるわけだが、一方で人間を頑なにし誤らせることがあるようだ。
ある研究で多数の政治・経済の評論家の将来予測を分析したところ、その「将来予測の分布」はランダムに出した予測の分布とあまり差がなかったらしい。
この場合評論家の持つ専門知識は予測精度を上げることに貢献していないことになる。
彼らの予測は多くの場合客観的事実より自分の主義主張に立脚する傾向が見られたそうだ。

ある程度自分の頭の中に何らかの思想的傾向が形成された人の場合、その人の行動は周辺の客観的状況よりもむしろその人の頭の中の思想的傾向に左右される、ということがあるようである。

だから全く同じ客観的状況の中でも、人によって行動の選択が全く違ったものになるのだろう。

あまりに思想的傾向の強い人間のことを指して、「頑固」とか「融通がきかない」とか評されがちだ。
だが多様な思想的傾向があるとすれば、それは人間の行動に一定の多様性を与える。
そういう意味で、何かの主義を持ち、それによって行動が強力にドライブされることは悪いことばかりでもないと思う。

ふと思ったのは、人工知能とかは、そういう思想的傾向を持って判断にバイアスがかかったりするのかということだ。
そこのところはどうなのだろう。
などと思った。
posted by ヤス at 09:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月24日

リコーの業績

今朝のニュースにコピーやカメラで有名なリコーの件が流れていた。
「コピー機が売れない!」というタイトルの記事で、リコーの2017年3月期の業績がかなり悪化していることを受けた記事である。

リコーのIRのサイトを見てみると、なるほど業績が急降下している様子がよくわかる。

リコーの売上高は、4年前の2013年3月期1兆9245億円が2016年2兆2090億円へ順調に拡大しているように見える。
しかし営業利益率を見ると2013年3月期の5.7%が2016年3月期4.6%と下がっている。
これが直近の2017年3月決算ではさらに下がる見込みで、前年まで額でも1千億円あったものが300億円にまで減少する見込みで、率では1.5%まで下がる。

IRサイトには地域別の売上データも載っていて、それを見ると年々減少する日本国内の売上を海外売上の拡大でカバーしている様子がよくわかる。
ただし、リコーの売上は半分近くは国内で上げていて、キャノンなどの競合と比較してもかなり国内比率が高いのではないかと思う。


リコーといえば、わたしの家にもリコーのコンパクトカメラが転がっている。
CX3という1千万画素、10.7倍ズームレンズのついた200gほどのカメラで、2010年2月発売のカメラだったようだ。
この当時のリコーのカメラはラインナップもたくさんあって元気があった。
リコーはその後ペンタクッスを買収してカメラ事業の立て直しを図ったりしているが、どうもはかばかしくないらしい。

カメラ事業は規模が小さいのでまあ良いとして、2.2兆円の売上の大部分を占める1.4兆円のオフィスプリンティング事業、つまりコピー機事業が問題なのであろう。

まあ無理もない。
わたしが実際に見聞した範囲で言っても、事業所向けのコピー機は数年前から乱売合戦の模様を呈している。
本体の値引きはもとより、コピー1枚の単価もどんどん下がっているようである。

ちょっと気になって「コピー用紙」の生産量を調べて見ると、日本製紙連合会のサイトにデータがあって、「印刷・情報用紙」はピークが2005年頃で約1万2千トン、それが2015年には8893トンまで漸減している。
10年間で26%程度も減っている。

印刷用紙の生産量がコピーの使用ボリュームにぴったり正確に比例しているわけではないだろうが、概ね傾向は一致しているのではないか。
世の中におけるコピーの利用量は確実に減ってきており、その中でキャノンやゼロックスと激烈な競争をしているのであるから儲からないのは当然だろう。

ニュース記事には今後の対策として電子黒板などオフィス内の電子機器の連携を進めるようなことが書いてある。
しかし今後はIoTとかインダストリー4.0とか言って、企業の仕事のやり方自体が劇的に変わろうかというご時世である。
電子黒板で未来を語っている限りにおいて、リコーの将来は暗いと言わざるを得ない。
そのような気がする。

ただし、リコー伝統の変態的カメラだけは、なんとか残して欲しいと思う。
posted by ヤス at 10:19| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月23日

レッテル貼り

少し前から「レッテル貼り」という言葉が気になっている。

ウィキペディア情報によると、「レッテル」とは「letter」のオランダ語読みであるらしい。
初めて知った。
英語で言うところの「ラベル」の意味のようだ。
ここで言うラベルは裏に糊のついたシールのことだ。
セブンイレブンなんかに行くと、パンや弁当類に確かにシールラベルが貼ってある。
で、商品名が書いてあって値段が記載されている。

小売店で販売する弁当などは、法律でラベルの内容や文字の寸法などもちゃんと決まっている。
そのシールが貼られることによって、コンビニの棚に並んでいる弁当は、晴れて正式の商品としての資格を得、弁当として販売が可能になる。


さて、話が逸れた。
レッテル貼りとは、議論の場において「偏見に基づいてある人や物事をなんらかの一言で片づけ、ステレオタイプに押し込むことで、対象を単純化・矮小化する行為全般」のことだという。

例えば誰かの人間性、行動足跡の一部を取り上げて彼の人格全般を決めつけてしまう。
言い換えるところの、「誤った一般化」である。
部分はあくまでも部分であって、全てではない。
当たり前だ。

賃上げ要求のきつい従業員はそれをもって共産党系の左翼であるとか、竹島に関して韓国に厳しい人物を最初から右翼であるとか決めるのは、やや即断が過ぎる。

考えてみると「右翼」「左翼」と言うのもわかったようなわからないような微妙なレッテルだ。

よく知られているように、右翼という語はフランス革命後の議会で右側に旧王党貴族派が席を占めていたことに由来する。
守旧派や保守派のことを右翼といい、社会変革を目指す急進派が左翼ということになるのだろう。
現在の日本では、右翼も左翼も歴史的使われ方の中で様々な意味が付加されて、そもそもの意味からはかなり膨らんだ内容を含んでいるようである。

右翼といえば、大音量の街宣車、少し元気の余ったガタイの良い男性集団を思い出すし、左翼は飛行機をジャックしたりする人が、個人的には思い浮かぶ。


そういえば今共謀罪の国会審議が行われている。
共謀罪においては、未遂の組織犯罪取り締まりを目指しているようだが、そのために「犯罪組織」の認定が問題になっている。
この認定問題は、国家による厳密な認定ということで短絡的なレッテル貼りとは違うはずだ。

しかし考えてみると、頭の悪いレッテル貼りも(未遂の)犯罪組織の認定も本質としてほとんど変わらないのではないか、という疑問が浮かばなくはない。

ところでなぜ「レッテル貼り」はオランダ語的表現になったのだろう。
やはり幕末頃、蘭学普及の中で出てきた言葉なのだろうか。
そこのところが気になる今日この頃である。
posted by ヤス at 09:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月22日

表情観察

「非言語的」なメッセージは、時に言葉よりも強い影響を与えうる。
例えば表情。

誰かと話をしている時に目に映る相手の表情は、あまり意識に上らないけれど、こちらの受ける印象のうち、思いがけないほど大きな割合を占めているのだと思う。

そういう相手の表情の微妙な変化をリアルタイムで読み取りながら、こちらとしては相手の気分を想像して次に投げかける言葉が頭の中で浮かんでくる、そういうものだろう。

わたしは大昔から電話で人と話をするのが苦手だった。
特に仕事の電話は、社会人になりたての頃は恐ろしいほど苦痛だった。
電話は相手の表情が見えず、もっぱら受話器越しにやり取りする言葉だけがコミュニケーションの手立てである。
しかもあまり考える時間がない。
文書やメールとかなら伝達内容を整理して作成することができ、受け取った場合もその意味をじっくり考えることができる。

しかし電話は、大体の場合コンマ何秒かで次に発する言葉を用意していないとやり取りが続かない。
困った時に、「上司と相談してまた折り返します」とかなんとか言えばいい、というようなことはだいぶ後で学んだ。

しかし相手が面前にいて表情が見える時は、電話よりかなり楽にコミュニケーションが取れる。
個人的にはそうなのである。

わたしの場合、おそらく子供の頃から相手の表情を読み取ってご機嫌を想像するようなクセがあって、会話のラリーを続けるのに相手の表情を読むことが必須の要素になっていた、というのがあるような気がする。

しかしこの場合に一つ困ったことがあって、面前に相手がいる場合でもその人がものすごく無表情な場合、表情の見えない電話と同じようなコミュニケーション困難が生じる、ということがある。

世の中にはいろんなタイプの人間がいて、特に仕事を通じて出会った仕事のできる人々のことを思い出すと、喜怒哀楽の表情が豊かなタイプと逆に恐ろしく表情を変えないポーカーフェースの2つのタイプがいる。
当然ながら無表情の人はかなり手強い。
でもそういう人でも心の中に喜怒哀楽の感情がないわけではなくて、長年の訓練で顔の表に内心の動きが出ないように自らをしつけているのだろうと思う。

ただこういう無表情系の人物でも、一旦信頼関係が出来上がるとなんとなくその表情が読めてくるような気がするから不思議だと思う。
逆に喜怒哀楽の表情が豊かな人というのは、その「表情のノイズ」によって「真の感情」を顔面から消しているということがあるのではないか。

そうやってややこしく考えていると、人間の表情観察は思いのほか面白かったりする。
そんなことを思った。
posted by ヤス at 10:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月21日

偶然性に委ねる

人生というのは思い通りにいかない。
というのは今さら言うまでもない。
しかし考えてみると、「お思い通り」の「思い」はどんな「思い」なのか、それがそんなに具体的で明瞭なものなのか、そこが問題だ。

人間は、あるべき将来というものをそれほど具体的には思い描けるものでもない。
明確な未来を思い描いて、そこへ向かってまっすぐに突き進むというのは、ある少数の人々だけがなしうる特殊能力であって、その他の大部分の人々は、ただ普通に生きるのでそれなりに忙しい。

そういうものではないかと思う。

それに明確な未来を思い描けることが、人の生き方として必ずしも最高の生き方、と断言できるわけでもなかろう。
旅行のやり方にも、旅の目的やスケジュールの詳細をきっちり決めてできるだけ効率的に行う方法もあるだろうけれど、一方で行き先も決めず、その時の気分でふらふらとさまようような旅もまた思いがけず良い旅であったりする。

おそらく人生の大部分は偶然性なるものに支配されていて、人生が思い通りにいったと思える部分は、個人的目分量では数パーセント程度ではないかと思う。
人生の9割がたは思いがけない出来事の連続で、しかしそのような偶然性の揺らぎこそが人生の面白さの本質であるような気もする。

人間が頭の中で思い描いた未来をそのままトレースしていくような、そんな社会主義国の計画経済のような生き方は、そもそもあり得るものではないし、あったとしてもつまらないに決まっている。


以前にも度々触れたが「受動意識仮説」的な考え方では、人間の行動は潜在意識が全てを決めていて、顕在意識、つまり人間の自我は後からそれを追認するだけに過ぎないということがあった。
その考え方によると自我には主体性がなく、目標を思い定めてまっすぐに歩んでいるような種類の人々も含めて、我々人類の人生は非常にふわふわしたものという感じになる。

受動意識仮説によると、自我というのは高等哺乳類に備えられた無意識に対する一種のフィードバック装置であって、無意識がふわふわ行動しているのを自我がじっとモニターし学習してそれを無意識の意思決定回路に戻している。
それによって人類は生きているうちに少しづつ賢くなる。

しかし自我が異様に肥大化した人類では、自我自身が、自分こそが行動の主体であると勘違いするに至っている。
そこにこそ、人生の思い通りにならない感じの理由があり、一方で人生に偶然性が大きく作用する余地を生んで「思いがけない面白さ」が生じることになる。

人生は、思い通りにしようと気張り過ぎるのではなく、ある部分では努力放棄して偶然性に委ねてしまうことも必要な気がする。
その方が結果として「思い通り」に近づくのではないか。
これはある意味、偶然の神様との騙し合いのようでもある。

そのように、ぐうたらな人は思ったのでした。
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2017年04月20日

恵瓊の高転び予想

どうも最近の日本の政治情勢は非常にひどい状況だ。
先日も地方創生大臣が二条城の例を出して、
「文化財は保護するだけでなく、観光立国の観点からも地域資源として活用していくことが重要だ」と発言し、その時に二条城には英語表記がなく観光マインドのない学芸員が「ガン」であるというような発言を行った。

その時に大英博物館を引き合いに、ロンドンオリンピック前に大英博物館で観光マインドのない学芸員をクビにして改装した話をしたらしい。
しかしどうも例に出した大英博物館の話は徹頭徹尾の事実誤認であったらしい。
また二条城には英語表記がちゃんとあったらしい。

これらの事実誤認は、おそらく本人がどこかで仕入れた伝聞情報を元にしたのであろう。
根拠不確かでも自説を補強する方向の情報であれば簡単にこれを鵜呑みにし、オフィシャルの場で臆面もなく披露するというのは、何かネトウヨ的軽薄さを感じる。

現内閣では、他にも法務大臣や防衛大臣がこれまでに国会答弁などで散々批判されてきてもいる。
これは評論家などが指摘している通り、日本の大臣職というものが、政治家の得意な専門知識を活かした専門職ではなくて、当選回数や論功行賞に対する褒賞と化していることが一番の問題なのだろう。
そこへ行くとアメリカなどは、大統領は稀代の変人が当選・就任したけれど、周辺の閣僚はそれなりのスペシャリストが収まっているようである。

今回、シリアへのトマホーク攻撃から始まって中国による北朝鮮への暴発牽制の流れは、ロシアを必要以上に刺激したりと最初は非常に危険な綱渡り的施策であると見えた。
しかし現在のところなんとなく丸く収まっていて、実は全体として非常な深謀遠慮の元に画策されたものだったのではないかという気がする。
アメリカの防衛政策はアメリカだけの問題でなく国際的な影響力が大きく、したがって素人大臣の入る隙はない。


戦国時代に毛利氏の謀将で僧侶でもあった安国寺恵瓊は、本能寺の変の10年前に信長を評して、数年後に『高ころびにあおのけに転』ぶだろうと大予想した。
恵瓊の予想は的中して、権力の絶頂にあった信長はあっけなく死ぬ。
それを持って安国寺恵瓊の先見の明を評する向きもあるが、しかし考えてみると当時の信長の権勢の盛んな様は、それなりの眼力の人物なら誰でも、将来の高転び不安を予想していたのではないかとも思う。


現政権は、党内外に有力な対抗勢力もなく当面これといって不安材料もないが、一方で信長政権ほどには自立しておらず緻密でもなく、森友学園問題にしてもむしろ迂闊さが目立つ。
総選挙のタイミングも難しく、どこかで高転びのリスクがあるように思うのだがどうなのだろうか。
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2017年04月19日

コンビニセルフレジ

コンビニでセルフレジを導入する計画が動き出したらしい。

セブン、ファミマ、ローソンなど大手コンビニ5社と経産省が共同で2025年までにセルフレジ化を進めるらしい。
そのために、全ての商品にRFIDタグつけないといけない。
現状ではRFIDタグは一つ10円くらいのコストがかかるらしいが、これでは100円のパンのような低価格商品にタグをつけるのがコスト上難しい。

だから実用化のためにRFID一つ1円程度にする計画とのこと。

世間ではこのニュースに対し、有人レジがわずらわしいと思う人は歓迎し、セルフレジが面倒臭い人は疑問を投げかけるという反応が出ているようである。

わたしもコンビニの「有人」レジは、時々わずらわしいと思うことがある。
近くの行きつけの某コンビニは、だいたい時間帯で決まった店員の顔ぶれになっている。
夕方行って買い物する時、その時間帯はだいたいの場合、ある30代と思しき小太りのお兄さんがレジをしてくれる。
しかしそのお兄さんが、悪い人ではなさそうなのだがいかにも応対が大味で、レシートは言わないとくれない、表情も無愛想で(人のことは言えないが)あんまり爽やかな感じではない。
まあそこまではどうということはないのだが、極めつけは、明治のヨーグルトを買った時に付けてくれるスプーンが、カレーを食べるときに使うような大型サイズのやつなのだ。

彼の手さばきはそれなりに素早いので、レジの現場では気がつかなくて、だいたい帰って袋の中を見たときにその大型サイズのスプーンを発見して非常に残念な気分になる。

他にも、恐ろしくタバコ臭いおじさんとかいて、若干のマイナス気分を味わうことがある。
だいたいの場合、接客に縁のなさそうなおじさん系店員に残念な人は多いような気がする。

コンビニレジのセルフ化は、レジの時間は短いけれども、このような接客時の「残念感」リスクを低減する有効な手段となりうるという点で、個人的には期待大である。

ただし、現状のレジの有人接客では若い女性が出てくることも当然ある。
レジがセルフ化するとマイナス面も消える訳であるが、時々発生する妙齢の女性との貴重なふれあいの時間もなくなるのは痛し痒しである。
しかしまあ最近の若い労働力不足の状況から、今後若い女性がレジをしてくれる割合はどんどん減少することが予測されるので、ここは割り切るしかなさそうである。

技術進化による経済活動の効率化が極限まで進むと、レジ接客のような人間臭い「無駄」はどんどんなくなるのだろう。
それは昭和育ちのおじさん的には、たとえレジで時々腹の立つ店員がいたとしても、やや寂しくはある。
でも多分セルフレジが始まればあっという間に慣れて昔のことは忘れそうな気もする。


考えてみると、スーパーマーケットもコンビニエンスストアも出現からせいぜい数十年の業態で、小売流通業は今後想像もつかない便利さに向けてどんどん変わっていくのだと思う。
posted by ヤス at 13:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月18日

飼い犬が迷子になる

最近、自己決定感というものについて時々考えている。

今問題になっている長時間労働の問題、これも要するに長時間の労働が「自己決定的でなく」行われていることが問題の本質だろうと思う。
もっぱら自分の意思で長く働くぶんには、やらされて働くのに比べると精神的疲弊も随分と違うものになるだろう。

少しややこしいのは、表面的には自己決定的だがその実はそうでもない、というのがありうることだ。
例えば家族を食わせるために頑張って働くというのは、ある意味とても自己決定的である。
しかしそれが何かのバランスが崩れたとき、家族が食うためにはどうしても働かないといけない、となって、自己決定的でなくなるのかもしれない。

その境目というのは非常に微妙でわかりにくい。
それは多分に気の持ちようという側面もあるように思われ、その意味では同じシチュエーションでも気持ちを切り替えれば自己決定感を感じることができるようになるのかもしれない、とも思う。


そもそもたいていの動物は自由を愛する。
ペットの犬や猫でも、稀に忽然と消えていなくなることもある。
ツイッターなんかに、「飼い犬が居なくなりました、探しています」というのがたまに出ている。

彼ら、犬や猫が飼い主の家に居ついているのは、ただ単に餌にありつけて夜露をしのげる便利な場所だから、そのような生存上の利便だけが理由なんじゃなかろうか。

家の外には広大な未知の世界が広がっている。
そこには食料があるかどうかも分からず、思わぬ天敵や数々の危険が待ち受けている可能性だって低くはない。
だがそれでも自由からの呼びかけに抗えず、彼ら犬や猫のうちの何匹かは未知の世界に踏み出していくのだろう。

昔は、ペットの犬がいなくなると、うちの何とかちゃんが「逃げた」と表現していたような気がする。
でも最近は、ツイッターなんかでは「逃げた」とは書いていない。
大抵は「迷子になった」とか書いてある。

でも多分彼らは「逃げた」のだと思う。
危険が少なくて食料にも困らない快適な生活環境を捨てさせるほどに、未知なる世界は魅力的だったのだろう。

たとえ寿命を削っても自由が欲しいというのは生き物の本性であり、それは人間も例外ではないと思う。

現代社会は様々な精神疾患やら病気までは至らずとも精神的疲弊の状況があちこちにあるわけだが、それは人間の生活環境がかなり不自然になっており、逆にいうと人間的になり過ぎている故であろう。

そういうわけで、たまには逃げてみることも悪いことではない、と思う今日この頃でした。
posted by ヤス at 10:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月17日

メガネ

先日の土曜日に、新しいメガネを注文した。

今のメガネの右っ側のヒンジのところ(呼び方はヒンジでいいのか?)が壊れたので、メガネ屋に直してもらいに行ったことから話は始まる。
修理している時間についでに視力を検査したのだが、かなり近眼の度が進んでいて車の運転にも支障が生じる。
だから新しいのを作ろう、ということになった。

人が何かモノを購入するときの心理の揺れ動きというのは、観察するとかなり面白い。
メガネ屋におけるわたし自身の心理も、かなり揺れた。

まず、メガネというのはかなりの高額商品だ。
左右のレンズが1枚ずつ、プラスティックやらチタンやらのフレームに嵌って、それだけのシンプルな構造であるのに、一眼レフカメラ用レンズの、4枚も5枚も屈折レンズを使ってかつオートフォーカスその他の電子機構が組み込まれた物よりも高かったりする。

決して安くはないメガネを買う決断を突然迫られて、わたしの心はかなり揺れた。

自動車の運転に必要な視力は0.7だそうである。
土曜日のわたしの視力は、メガネを掛けてもその基準にかなり不足していた。
この状況では、早晩メガネの新調は避けられない。
メガネの購入は、やむを得ない判断と言える。

問題はいくらのメガネを買うか、ということであろう。

若い時分からメガネを買ってきた経験に照らしていうと、年をとるほどにその購入価格が上がっているような気がする。
一つには度が進んでいることがあるかもしれない。
さらには、高屈折薄型レンズがどうとか非球面がどうとかブルーライトカットがどうしたとか、次々に新しいオプションが登場して価格を引き上げる。
また、歳をとると「近くが見えない」という新たな問題が生じて、その対策にまた追加費用が発生する。

わたしは自称カメラ好きでもあり、前述のようなメガネの新しい機能というのは決して嫌いなたちではない。
ただそのために、気をつけていないと店から提案されたオプションを次々にセットする恐れが強いことをよく自覚しているつもりだ。

さて、土曜日にメガネを直しに行って、その時にメガネの新調を提案されてまず思ったことは、「新しいメガネが欲しい」という強烈な物欲である。
人はなぜ、新しい物品の購入が必要になった時に、その物品を強烈に欲するのだろうか。
度が進んで新しいのが必要、という理由は、物欲に対する格好の補強材料だ。

財政状況が決して万全ではないなか、なぜあのように軽率に購入の決断を下してしまったのか。
「1日よく考えてみます」
とか言って、交渉内容をよく精査すべきであったような気もする。

ただもう注文は確定し、手付け金も少々払った。
今はもう、全てを受けれいて新型メガネの出来上がりを楽しみに待つべきではないのか。
なかなか心の折り合いがつかない。

ということで、人がモノを買うときの制御し難い物欲の動きや、心理学的な適応反応の出現は、我がことながら非常に興味深い。
そういうことでも考えていないと、衝動買いの後ろ暗さを塗り込めることが難しい。
そんな、今日この頃である
posted by ヤス at 10:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月16日

日本的統治

今の日本には色々問題があるが、それでも他の多くの国に比べるとかなり過ごしやすい国のような気がする。
よその国に住んだことがないので実際のところはよく知らないが、多分そう思う。

その理由は、まず日本は様々な意味での自由が概ね保証されている、ということがある。
この国には、過剰に場の空気を読んで自縄自縛に陥ったりする謎の風習とか、メディアが過度に権力の意向を忖度して追唱報道を行ったりということはある。
またあまりに社会的に突出すると検察権力に拘束されたり、未熟な司法制度のせいで無辜の人が冤罪で罰せられたりという統治システム上の欠陥もあったりする。

ただし検察の捜査動機は、多くの場合国民世論の空気を読んだ結果だったりする。

しかしまあ、一般庶民がごく普通に生活するにおいては、発言も行動もほぼ自由で制限がない。
欧米のいくつかの国、特にイギリスなんかはロンドンの街中に監視カメラが設置してあって、そういう監視体制は国民にとってはある種無言のプレッシャーになっているのではないか。
こういう監視体制は、テロの脅威がよほど身近にあるためなのだろうけれど、想像するだに息苦しい。

ただ時々思うのは、日本における自由というのは、世間に漂う「空気による縛り」がかなり有効に働いていて、その分の抑制効果がある意味国家による規制や監視体制を肩代わりしているのではないかということである。

これは、アジア的というのか、日本的というのか、個人の権利よりも社会規範を重要視する風土の賜物であると思われる。
この間から問題になっている行政官僚組織における忖度騒動やメディアの自主規制など、我々には「お上」の意向を先取りして、統治業務の一部を自主的に実施する仕組みが社会に組み込まれているのではないか。
また自動車業界における馬力規制とか、行政命令によらない業界自主規制というのも日本の特徴だろう。

それらの自主規制は、権力側の指示命令によるものではないので責任の所在はあくまで自主的に規制している業界側に存する。

忖度社会の特徴は、責任ある立場の人や組織が責任を取らず、忖度する「下々」の方の人間が責任を一身に引き受けるというところにある。
なにやら赤穂浪士の忠臣蔵を思い出さないこともない。

おそらく日本における「お上」というのは、神輿に担がれて「無為の治」の流儀で統治を行うイメージなのだろう。
そういう日本的統治って果たしてどうなのだろう、と思ったりしている。
posted by ヤス at 07:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月15日

C-2新型輸送機

先月の3月27日、航空自衛隊の新型輸送機C−2の開発が完了したらしい。
C−2は最大積載量36t、12t積載時の航続距離が6500kmという高性能輸送機である。

空自は既存の輸送機として昭和50年代に生産終了したC-1輸送機と、アメリカから輸入したC-130Hハーキュリーズを運用している。
C-2は老朽化し2011年に順次退役年限を迎えるC-1を代替すべく2000年に開発開始されたそうだ。

しかしこのC-2は、自衛隊の兵器開発では毎度のことながら、性能的にかなり中途半端な部分が目立つ。
まず、C-2輸送機は開発費総額が当初目標の1700億円をかなり超過して2600億円かかっている。
また当初目標では2014年中に配備開始の予定がこれも2年以上遅延した。

ただし、開発費超過と開発期限遅延は、最近の複雑高度化した航空機開発では諸外国でももはや当たり前の出来事なのでこれはまあ目をつぶることができる。

最大の問題は1機あたりの調達費だろうと思う。
開発費総額が2600億円かかり、今後の導入予定機数が30機とされているので、1機あたりの開発費は87億円になる。
これと直接の製造コストの足し算が調達費になる。

ただし、代替予定のC-1輸送機は現在21機しかない。
C-1輸送機は最大積載量8t、2.6t搭載時の航続距離1700kmとC-2に比べるとかなり劣る。

ということは、現在のC-1の輸送能力をそのままC-2で代替するなら、調達機数は21機よりかなり少なくて済むはずである。
アメリカから輸入したC-130Hは16機あってこちらは最大19t、5t時航続距離4000kmだそうである。
C-130Hも含めて代替するということで30機なのかもしれない。

しかし所詮30機である。
C-2は現在の調達費が1機あたり200億円くらいで、これは最大積載量77tで戦車も運べるアメリカのC-17の250億円とあまり変わらない。
C-17は279機生産されていて、当初の目論見通りイラク戦争で中東に戦車を含む大量の兵器・物資を運んでその実力を発揮した。
アメリカの兵器開発にも色々問題はあるのだろうが、兵器の仕様が実戦にマッチしており、その点無駄が少ない。

幸か不幸か日本は70年間実戦経験がないので、開発する兵器がほとんど国内軍需企業への経済対策が主目的になっているように見える。

今後C-2の調達費を「世間並み」にするには外国への輸出が必須だろう。

時に、C-2の開発にゴーサインを出したのは森喜朗政権の時代だったらしい。
何か、2020年東京オリンピックの競技場問題とC-2開発がダブって見えるのは、気のせいだろうか。
posted by ヤス at 15:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月14日

長時間労働について

さっきYahoo!ニュースを見たら、OECD(経済協力開発機構)の報告で、日本に対して経済成長のために、

「長時間労働の文化を変革し、ワークライフバランスを改善することが必須」と強調した。
 また、借金を重ねる日本の財政に懸念を示し、健全化に向け消費税率を段階的に引き上げるよう求めた。

このように述べられているらしい。

本当のことを言うと、わたしは諸外国の労働時間の実態をよく知らない。
少なくとも実際に見たことがない。
だからニュースとかで色々とこの問題について聞いて、どうも日本の長時間労働は問題だなと思ってはいる。
しかし自分としては長時間労働是正の話に心の底から納得していたわけではない。
自分の脳みその中を振り返って、そう思う。

それにアメリカなんかでは、IT企業でも金融産業なんかでも朝早くからハードワークをしている様子がハリウッド映画で描かれたりすることもある。
わたしは、低時給の単純作業において労働者が長時間拘束されることは確かに問題だと思うが、一方で労働者自身にある程度自由裁量のある仕事においては、「時間の縛り」を外すことはいいんじゃないかとも思う。

しかしこの場合、「ある程度の自由裁量」が曲者である。
自由裁量には「本当の自由裁量」と「見せかけの自由裁量」があるのかもしれない。
それに労働者は、根本的には、もらう給料に見合った労働を雇用主に提供する義務を負っている。
そこのところはあまり「自由」ではない。

単純労働と裁量労働では、同じ労働でもかなりちがうと思う。
工場のライン仕事のように、決まった単純動作を繰り返すタイプの仕事は、時間による生産量のばらつきがあまりなく、その意味で時間管理の考え方は単純である。
それに対し、裁量労働というか、創造的側面の強い仕事、それなりに複雑な仕事というのは、人により場合によって、時間あたりの生産量が大きくばらつく。

ある人が30分で終わらせる仕事でも、不慣れな人もしくはサボりがちな人はまる1日かけてやることもあるだろう。

最近しきりにニュースで流れる長時間労働に伴う問題というのは、このような単純労働と裁量労働の問題がややごっちゃになっているような気がした。
例えばクロネコヤマトのオーバーワークは、ここでいう「単純労働的な問題」だと思うし、以前に起きた電通の過労自殺は「裁量労働的な問題」であったように思う。

明らかに後者の方が問題が複雑で、解決が難しそうである。
これは労働時間管理以外にも、給与や評価制度なども合わせて考えていく必要があると思う。

さらにいうと、「本当の裁量労働」のキーになるのは「自己決定感の充足」という部分ではないかと最近考えている。
そのように思っているのであるが、今日は長くなったのでひとまず終わり。
posted by ヤス at 10:18| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月13日

東芝のその後

東芝が監査法人の意見不表明で四半期決算の発表に踏み切ったのがニュースで出ていた。
東証も上場廃止の是非を審査をしているらしい。
個人的には東芝はもう実質上場廃止状態であって、つまり上場メリットはとっくの昔になくなっていると思う。

東芝がここまで上場維持にこだわるのは、経営者のメンツもあるのだろうが、もう一つは銀行団からの融資が止められて(融資引き上げまたは新規融資凍結)、倒産に向かってまっしぐらになる可能性を危惧しているのかもしれない。

さらにもう一つ、東芝の行なっている原子力発電所事業は安全保障上特殊な位置付けにあり、日本政府はもちろんアメリカ政府も事業継続を希望しているだろう、ということがあるそうだ。(日米政府がどの程度強くそう思っているか、真偽不明だが)

しかしそういう原発関連や核関連技術にまつわる政治的状況こそが、かなり時代錯誤的であると見える。
東芝がここまでダメになったその理由は、そのような政治的状況にもたれかかる経営マインドであると思う。

政治的状況にもたれかかる経営としては、アメリカの軍需産業などは皆そうであるが、やはり米ソ冷戦構造の終焉でかなり構造が変わり、経営的にも冬の時代に入って大型の合併などでなんとか乗り切っている状況だ。
そのしわ寄せ、アメリカの軍需産業や原子力産業の帳尻合わせがアメリカの政治的子分である日本政府及び東芝などの官需企業に及んでいるようである。

その証拠に東芝はバブル崩壊直前の1990年に史上最高利益を上げて以降、売上はかなり拡大した時期もあったが「利益率」はこの時を越えることがなかった。
(粉飾によって「額」が最高になったことはあったようだが)

したがって東芝が本気で再生するつもりがあるならば、前述のような古い枠組みから脱却することは絶対条件であるように思われる。
今回東芝はアメリカの子会社ウェスチングハウスは先月末に破産申請して海外原発事業からは撤退し、つまり原発事業は国内に特化することになったようだ。

ついでのことに、国内原発事業も日立か三菱に売却した方がこの際身軽になって良いのではないか。
と思ったけれど、まあ多分そうはならない。

東芝に限らず、時代に合わせた価値判断の転換はどうやら難しいようである。
posted by ヤス at 10:19| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年04月12日

人生の不平等 後編

人の人生というのはどうしようもなく不平等であるという話について。

この、不平等である、というのは例えば全地球的共産主義革命を成功させれば克服できる、というものでもない。
この不平等は物理現象としての不平等であって、人類の英知を総動員したところで克服できないのはいうまでもない。

わたしの人生の置かれた環境が他の誰かより著しく有利、あるいは著しく不利というのは不可避の現実だ。
社会システムの改善によってその有利不利はいくらか平らに均すこともできるだろうが、全地球の人類が完全に真っ平らになる、という未来は絶対に実現しない。

ところで、新しくこの世に生まれてくる子どもは、自分の意思で生まれてくるわけではないということについて昨日言及した。
しかし最近読んだ本に、逆のことが書いていた。

人間の「親」はほぼほぼ自らの意思で子どもを産むわけであるが、その時にどういう子どもが生まれてくるかということこそ大きなバクチであり、子どもの誕生は多分に偶発的なイベントである。

男の子が欲しいと思っていても女の子が生まれるかもしれず、思い持病や障害を持って生まれてくることもしばしばあるだろう。
子どもは親を選べないけれど、親の方もどんな子どもが生まれるかはもっぱら偶然に左右される。

考えてみるまでもなく当たり前の話であるが、しかしその本を読むまでその点についての想念が、わたしの中では見事に欠落しているのにふと気がついた。

結局のところ親の方も子どもの方も、「事前に」お互いを選ぶことはできないのであって、偶然の親子関係を粛然と受け入れる他はない。

これは、生命科学が進化して男女の産み分けなどがある程度可能になったとしても、親の思いのままにならない部分は相当程度残るということで、絶対的なものである。

親の方でも子どもの方でも、組み合わせの偶然性をどうすることもできない。


かなり手短に、かつ途中の理屈を端折っていうならば、実は偶然性がもたらす不平等というのは、ある種の幻想と考えることができる気がする。
その幻想は、人間的価値観がもたらすものである、そのように考えることが可能だと思う。
貧乏人の家に生まれるか金持ちの子どもになるかというのは、経済的価値観というフィルターがもたらす幻想ではないか。
不平等と思っていたのは大部分が人間の創造した価値観による幻想である、そのように言えるような気がする。

そうやって考えると、世の中のあらゆる不平等は「多様性の維持」と読み替えることができる、そういう気がするのである。
人間の自我の作用によって、人類の行き先があまり一箇所に集中しないように、いい塩梅に多様性が維持されて人類という種が継続する。
そのために結果として偶然性は存在しているような気がしなくもない。

そう考えると、人生が思う通りにいかないことにも一定の意味を見出せそうだ、と思った。
posted by ヤス at 10:51| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年04月11日

人生の不平等 前編

よく、ぐれた子どもが親に言う決めゼリフとして「産んでくれと頼んだ覚えない」というのがある。
まったく、子どもとしてはどんな家庭環境に生まれてくるか、どういう人物を親に持つかは一種のバクチである。
最近の調査では、富裕家庭に生まれた子どもは教育機会も手厚くなって結果よい大学に進学可能となり、将来の年収も貧困家庭生まれより高くなる傾向がある、という結果が明らかになっている。

運命論というのはあまり信じたくないけれど、子どもとしては生まれ落ちた瞬間にある程度人生の方向性が決まっている、という感じになる。
もちろん豊臣秀吉のように極貧の身から天下人になる例もあるし、その逆に金持ちからホームレスに転落する例も枚挙にいとまがないだろう。

しかし統計的に俯瞰で見る限り、どんな家庭環境に生まれるかはその子どもの人生にとって影響が大きい。
それは喩えるならマラソンのスタートラインが他の人より1kmとか2km前方からスタート出来るイメージかもしれない。
それは実力差によっては逆転不可能な差ではないが、場合によっては絶対的なアドバンテージになりうる。

ましてや視点をグローバルに広げると、平均国民所得が年8万円のコンゴ民主共和国の貧困家庭に生まれるのと、今の日本の年収800万円くらい、そこそこ豊かな家庭に生まれるのとでは、人生の困難さや寿命・健康状態なども考え合わせると恐ろしいくらいの不平等があるのは間違いない。



こういう根源的な不平等というのは、普通の日常ではあまり意識されないけれど、ひとたび人生の困難にぶち当たった時、会社をリストラされたとか大病を患ったり大失恋をしたとかいう時に、ふと脳裏によぎるものであろう。
自分の人生における不幸は、育った環境に恵まれなかったせいではないか。
自分だけが著しく、人類における不平等の害を一身に負っているのではないか。

そういう被害妄想が自分の身にもいつか生じないとは限らない。
そして、今各地で頻発している暴力事件や銃乱射やテロ事件などは、その類の被害妄想がいくらか影響していることはこれも間違いない。

テロや銃乱射にまで至らずとも、やけ酒を喰らって健康を害したりやる気を失って仕事に支障を来たしたりということは十分ありうる。
だから我々は、来るべき人生の危機に備えて人類における人生の絶望的不平等に対する心構えを日頃から用意しておくべきだろうと思う。

そのことについて今から考えようかとも思ったが、今日は長くなったので続きはたぶん明日書く。
posted by ヤス at 11:15| Comment(0) | 徒然なるままに