2017年03月26日

人工知能と身体性

人工知能の身体性の無さというのはもう多分あちこちで言われている話だ。
でも身体性が無いというのがどういうことなのか、そこが今ひつピンと来ない。

それで改めて人間の身体性というのを考えてみると、人間は大部分が身体性でできていて、そこに進化の最後の方の過程で、一番上にちょこんと知性が乗っかったようなイメージが浮かんだ。
比喩的にいうと、99%の身体性の上に1%の知性が載っている。
それが人間の構造バランスのような気がしている。

この場合の身体性にはかなり色々と重要な意味がある。
まず一つは、身体性があるというのは人間の体がタンパク質で出来上がった臓器やら筋肉やらの複雑な構造になっているということ。
そして体の組織は外から入ってきた物質、いわゆる「食べ物」を胃腸で分解吸収したもので徐々に置き換えが進む。
そうやって新陳代謝のサイクルが絶え間なく動いて、体の組織は古くなった部分を入れ替えて正常運転を保っている。

そういう生物の個体内部における新陳代謝の上位構造として、生物種としての新陳代謝があって、それは各個体に寿命が設定されていて、各個体は適当な年齢で死亡して次の新しい個体が種としての存続を引き継ぐ。

そうやってある個体から新しい個体に種の存続が引き継がれるときに、DNAの極々わずかな変化が生じて、それが何万年分も積み重なって生物の進化というのが起こる。

ということで、人間の身体性は生物としての進化メカニズムの重要な一部であり、そのシステムデザインに個体としての寿命も組み込まれている。

というかそれが「生き物」であることそのものである。
人間の他の生き物との違いは、99%の身体性の上に1%の知性が乗っかって、その1%の知性が人間を従来の生き物とはかなり違うものにしたことだろう。

で、今、人工知能という人間の知性による発明品が、その知性の働きを大部分代替しようとしているわけである。
それは単なる計算や記憶や株式市場の予想などにとどまらず、そのうち面白い小説を書いたり映画を製作したり美術作品を作ったり、そういうクリエイティブなところにまで及ぶのではないか。
人工知能があらゆる社会現象や人間の行動心理を学習すれば、それくらいは朝飯前になるのではないか、そういう気がする。

そうなると人間の主要な役割が、再び身体性の領域に帰っていくのだろうか。
今「人間の」お笑い芸人とかがやっているエンターテイメントを人工知能が提供してくれるようになり、人間はもっぱらそれを観るだけの存在になるとか言うと、ちょっとそれは困る気がする。

人工知能の発達が人間の知性を受動的にさせるのではなく、人工知能を相手にすることによって人間の知性がより高まる未来、そういう風になるように期待したいと思った。
posted by ヤス at 10:46| Comment(0) | 徒然なるままに