2017年03月25日

人間の優位はどこにあるか

このところ「自我」について考えている。
「自我」というのは自分の中の意識化された部分のことだろう。
言語化され、顕在化された自分の中の一部が「自我」。

しかし「本当の自分」の中に占める「自我」の割合というのは、実は1%かそこらなんじゃないか、というのを最近思う。
脳機能の中の情動や生存本能的な部分は、おそらく大部分言語化されておらず、意識化されていない。
でもその部分こそが人間性を決める本質であるというのはおそらく間違いあるまい。

前に書いた「受動意識仮説」によれば、人間の行動は無意識が決定し意識はそれを後追いしてあたかも意識が主体になって行動を促したかのように思い込むだけ。

人間は人間である前にまず生き物である。
生き物というのはなるべく死なないように頑張る、そのようにできている。
人生の意味は何かと言うと、生き物として生まれてきた以上なるべく死なないように頑張る、そのことに尽きる。
それ以上に深い意味はないように思われる。

とにかくも人間は、哲学的思索に耽る以前に、生き物として死なないように頑張ることを自動的に頑張る。
それは生まれ落ちた瞬間からそうであって、まだ意識とか自我とかが芽生える前から多分そうである。
赤ちゃんはお腹が空いたらぎゃーと泣いて空腹を訴える。
そこに言語的な思索は無いわけで、ただ餓死しないように自動的に泣く。


話は少し変わるが、2045年に人工知能が人類の能力を超えるといわれているシンギュラリティ問題があったりする。
すでにチェスでも将棋でも囲碁でも人類は人工知能に敵わなくなっている。
そういうボードゲームでなくても、株式市況の新聞記事くらいなら人工知能で十分に書けるという時代になりつつある。

その辺の会社で事務員が行なっているルーチンワーク的な業務も、間も無く人工知能で置き換え可能になる。
あるいは税務とかコンサルティングとか、ひょっとしたら会社経営の社長の仕事も人工知能の方が数段上手にやる、そういう時代が来るのかもしれない。

で、いろんな仕事が人工知能に置き換わって人間の仕事がそれに奪われるというのを今みんなが心配しているわけだ。
技術が進化して知的能力で人類が人工知能に太刀打ちできなくなる未来がすぐそこまできていて、その中で人間の人工知能に対する優位はどこにあるのか、人工知能にできなくて人間だけに可能な仕事は一体あるのかということが問題である。

で、ふと思ったのだが、人間というのは知的存在である以前にまず生き物であり、しかも無意識的な生き物の部分が、意識的、知的な部分の何倍も大きい。
逆にいうと人工知能のライバルとしての知的な部分は人間の中のほんの一部に過ぎない。

まあだからどうなのという話だが、なんとなくそう思ったので、この続きはまたしばらく考えようと思っている。
posted by ヤス at 10:30| Comment(0) | 徒然なるままに