2017年03月19日

本能と理性

さて、今まで何度も書いているが、食欲を我慢するのはかなり難しい。

今日は1食にとどめておこうと思っていても、コンビニの前を通過する瞬間に、何か「自分でないもの」に突き動かされている自分がいる。
で、気がついたらレジでパンを買っていて、こんなはずじゃなかったのになあと思いながら大して空腹でもない胃袋を満たすことになる。

この場合の「自分でないもの」というのは、多分実際には「本当の自分」である。
それは「本能」とか「潜在意識」とかと呼び換えても良い。
そして「自分のようなもの」は、「理性」とか「顕在意識」とか呼ばれるものである。

こういう分野の話は、過去100年以上前から心理学や精神分析の分野でさんざん研究されてきたことと思われるので、ここで素人が不確かな想像を記述するのもなんであるが、まあ構わず続ける。

「理性」の特徴の一つには、それが言語化されている、ということがあるような気がする。
つまり「本能」の方は言語化されていない訳で、それは脳みそのかなり深いところから、情動の力を持って人体をコントロールしているものである。

「理性」というのは時々「本能」の働きに気づいてそれをモニターし、言語によって実況中継したりするのであろう。
まあ大体の場合、「本能」の働きはあまりに無意識的過ぎて、それを逐一全部「理性」がモニターするというのは無理である。
「理性」がその時特に関心のある場合のみモニターしているに過ぎない。

例えば、あとひと月で体重を2kg減らそう、などと決意している場合、「本能」のコントロールのままにコンビニでパンを購入する自分の姿に、「理性」はハッと気がつくのだろう。
しかしたいていの場合、「理性」がそこで行うのは「本能」によってコントロールされている自分を言語的に正当化する作業であって、つい今さっきまで頑張って仕事をしていつもより余計に脳みそを使ったからパン食っても大丈夫とか、今日の晩御飯は多分あんまり食べないからとか、色々言い訳してパンを買い、結局美味しく食べる。

こういう「本能」と「理性」の関係は、おそらくよほど意思の強い人でも弱い人でもそんなに変わらない。
意思が強く、自分をコントロールすることが上手な人の場合、単に「理性」によるフィードバックで「本能」をうまく騙しているのに過ぎないと思う。

結局のところ「本能」が全てをコントロールしているのである。

この状況は、個人以外にも社会集団に対するメタファーとしても有効ではないか。
好き勝手に気ままにうごめく群衆、そこに一定の秩序を与えようとする法律の仕組みや行政組織などは、あたかも一人の人間における「本能」と「理性」の関係のようにも見える。
そして社会集団においても「本能」の方が「理性」よりかなり強力であるというのは言えそうである。
理性なんていうものは、多弁なばかりのくせに根拠薄弱で、失敗した時は言い訳ばかり、そういうもののように見える、そんな気がする。
posted by ヤス at 08:04| Comment(0) | 徒然なるままに