2017年03月11日

愛国について考える

森友学園問題は昨日急展開を見せて、いよいよ収束に向けた大きな力が蠢いているように見える。
野党は一段と怪気炎を上げているが、どこまで真相を解明できるのか。
どうも世の中の関心は、政治家がらみの疑獄事件というところから、エキセントリックな愛国理事長が運営する私立学校の詐欺事件、に移行しているようでもある。

あの理事長の愛国思想というのは、どうもかなり底の浅いものだったようで、そのことが世間に露見するにつれ、過去にお付き合いのあった政治家たちも次々と愛想をつかして一斉に他人ヅラしているのだろう。
あの理事長のようにあまり自分勝手に気ままに行動していると最終的に泣きを見るという、道徳の教科書になりそうな教訓譚ではある。

この話の本質からは少しずれるかもしれないが、今回の事件で愛国というものについて少し考えた。
そもそも愛国というのはなんなのか。

よく言われる話であるが、英語では「ナショナリズム」と「ペイトリオティズム」は全くの別物だそうだ。
しかし日本語ではどちらでも「愛国心」となってものすごく曖昧になる。

もう一つ、「愛」の部分の意味合いをどうとるか。

「愛」というくらいだから、「好き」などというレベルはかなり超えているのだろうか。
あるいは打算抜きの盲目の愛という意味だろうか。

わたし個人としては、おそらく一般的な意味での「愛国心」はほとんどない。
しかし日本の国は安全で便利だし、日本語は通じるし、生活スタイルも思考様式も現代日本にかなり馴化しており、明日からずっと外国で暮らせと言われたら正直困る。




吉野ヶ里遺跡の環濠集落やギリシャ文明における城壁で囲まれたポリスの例を見たりしていると、国家の本質というのは突き詰めると「軍事」である、と言えるような気が最近している。
近代国家が人口で1億人をはるかに超えるくらい大規模化したのも、大きくなった方が軍事的に有利だからであろう。

日本のGDPは500兆円で国家予算は100兆円とか言う。
そして医療や年金などの福祉費用が50兆円とか60兆円とかかかっているらしい。
しかしそれらは、極論すれば防衛費5兆円を捻出するための露払い、前捌きに過ぎないと言える。

あるいは「愛国心」は、そのような国家の性質がもたらした一つの道具であるようにも思う。

「愛国心」は日本の国民の当然の義務であるとか、いやそんな胡散臭いものはないとか感情論で不毛な議論をするのではなく、「国家」のあり方や哲学を論じないとただの罵り合いにしかならない、と思う今日この頃である。

折しも今日は3月11日。
そう言うことを議論できる日本国であって欲しいと思う。
posted by ヤス at 10:59| Comment(0) | 徒然なるままに