2017年03月09日

教育勅語問題

あいかわらず森友学園問題が紛糾していて、ここにきて補助金詐欺の疑いも出てきているようだ。
この問題がいつ頃どのような形で収束するのかはよく分からないが、おそらく政権退陣などの大事には至るまいと思う。
先の甘利経産大臣の辞任の一件でも、客観的状況ではかなり贈収賄的な感じに見えたけれど、多分今ひとつ世間の後押しがなかったので検察も動かなかったのではないか。

今回の件でも、それほど政権支持率が下がったという話を聞かない。
支持率調査に多少の眉唾を見込んだとしても、現政権に対する世論の風当たりは実際そんなに強くないように思う。
だから一通り議論の材料が出尽くしたところで、この事件は急速に風化していくような気がしてならない。

しかし一方で、この事件に関し別の論点も出てきている。
例えば教育勅語の評価についてである。

教育勅語は1890年(明治23年)に発布されたものらしい。
明治憲法下では、各種の法令は形式としては主権者である天皇の命により発布されるのだが、明治憲法により各所管大臣の署名が必要ということになっていた。

しかし教育勅語に関しては大臣の署名がなく、つまり天皇から国民に直接の「お言葉」として発布された、それが「勅語」というネーミングの意味らしい。
教育勅語の内容は、その真ん中辺には父母に孝行、兄弟仲良く、夫婦仲睦まじくなどなど、ある意味真っ当な道徳的徳目が並んでいて推奨されている。

先日の稲田防衛大臣をはじめとする「教育勅語再評価派」とでもいうべき人々は、その辺りを指し示して「その内容のどこが問題なのか」と言っているようだ。
しかし問題はもちろんそういう点ではない。
言うまでもなく教育勅語の土台となっている天皇中心主義、天皇を長とする国家的家父長制度の思想、そこの部分が問題となっている。

また教育勅語は1948年にGHQによって法的に正式に否定・廃止されている。
教育勅語を評価する考え方があることは別に構わないと思うけれど、現職の政治家が評価すると言うのは、戦後ずっと継続している現行の政治思想に矛盾すると言う意味で問題があるだろう。
政治家が教育勅語を再評価すると言うのなら、戦後の政治思想、アメリカの占領政策による民主化に対する「明確な反省」がないといけない思う。

皇国史観とかいわゆる「国体」と言う考え方に関して、戦後生まれのわたしなんかは、かなりの違和感を覚えるわけであるが、「国体」を重んじる人々の思想というのは、紀元前660年の神武天皇即位を歴史的事実と信じ、天皇を中心とする「国体」は所与のものであると信じているのではないかと感じる。
欧米流の近代思想的には、国家というものは多分に人工的なものと考えていると思う。
一方で日本国における「国体」は、それが太古の昔から当然に存在した自然物であるという感じが強くあって、だから人工的国家をイメージする人々と、自然物である「国体」をイメージする人々の間ではずっと議論が噛み合わない、そういう気がする。
posted by ヤス at 11:25| Comment(0) | 徒然なるままに