2017年03月11日

愛国について考える

森友学園問題は昨日急展開を見せて、いよいよ収束に向けた大きな力が蠢いているように見える。
野党は一段と怪気炎を上げているが、どこまで真相を解明できるのか。
どうも世の中の関心は、政治家がらみの疑獄事件というところから、エキセントリックな愛国理事長が運営する私立学校の詐欺事件、に移行しているようでもある。

あの理事長の愛国思想というのは、どうもかなり底の浅いものだったようで、そのことが世間に露見するにつれ、過去にお付き合いのあった政治家たちも次々と愛想をつかして一斉に他人ヅラしているのだろう。
あの理事長のようにあまり自分勝手に気ままに行動していると最終的に泣きを見るという、道徳の教科書になりそうな教訓譚ではある。

この話の本質からは少しずれるかもしれないが、今回の事件で愛国というものについて少し考えた。
そもそも愛国というのはなんなのか。

よく言われる話であるが、英語では「ナショナリズム」と「ペイトリオティズム」は全くの別物だそうだ。
しかし日本語ではどちらでも「愛国心」となってものすごく曖昧になる。

もう一つ、「愛」の部分の意味合いをどうとるか。

「愛」というくらいだから、「好き」などというレベルはかなり超えているのだろうか。
あるいは打算抜きの盲目の愛という意味だろうか。

わたし個人としては、おそらく一般的な意味での「愛国心」はほとんどない。
しかし日本の国は安全で便利だし、日本語は通じるし、生活スタイルも思考様式も現代日本にかなり馴化しており、明日からずっと外国で暮らせと言われたら正直困る。




吉野ヶ里遺跡の環濠集落やギリシャ文明における城壁で囲まれたポリスの例を見たりしていると、国家の本質というのは突き詰めると「軍事」である、と言えるような気が最近している。
近代国家が人口で1億人をはるかに超えるくらい大規模化したのも、大きくなった方が軍事的に有利だからであろう。

日本のGDPは500兆円で国家予算は100兆円とか言う。
そして医療や年金などの福祉費用が50兆円とか60兆円とかかかっているらしい。
しかしそれらは、極論すれば防衛費5兆円を捻出するための露払い、前捌きに過ぎないと言える。

あるいは「愛国心」は、そのような国家の性質がもたらした一つの道具であるようにも思う。

「愛国心」は日本の国民の当然の義務であるとか、いやそんな胡散臭いものはないとか感情論で不毛な議論をするのではなく、「国家」のあり方や哲学を論じないとただの罵り合いにしかならない、と思う今日この頃である。

折しも今日は3月11日。
そう言うことを議論できる日本国であって欲しいと思う。
posted by ヤス at 10:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月10日

モバイルオーダー&ペイ

アメリカのマクドナルドが、アメリカ国内だけでなく日本を含む世界の店舗で「モバイルオーダー&ペイ」を導入することを発表した、という報道が流れていた。
「モバイルオーダー&ペイ」とは、あらかじめスマホから注文しておいて指定時間に商品を受け取るという仕組みである。
これを使うと行列に並ばずに済む。
決済もスマホ経由で電子的に行うことになる。
店の方もレジでオーダーを聞いてお金をやり取りする手間がなくなって良い。

ただしこの仕組みを円滑に機能させるためには、指定時間にきちんと合わせて製造するオペレーションを完成させる必要があって、これは言うほど簡単ではないらしい。

このニュースを見て思ったのは、計画の中に日本もちゃんと入っていて良かったなということだ。

調べてみると、現在各国の個人消費における電子的決済比率では、日本が2割弱であるのに対し、アメリカが4割強、韓国などは7割以上になっているらしい。
先進各国の中では、日本はかなりの「現金決済」大国である。

ちなみに2015年の日本の電子マネー決済金額は4兆6千億円、クレジットカード決済金額は49兆8千億円、デビットカードが7700億円とのこと。
日本の年間の消費金額は280兆円くらいなので、電子マネーなどはまだまだ少ない。

しかし電子マネーは対前年16%増、クレジットカードは7.7%増とかなりの勢いで増加しており、電子マネーはだいたい3年で倍になる計算である。

今回の米マクドナルドの計画は、おそらくレジの決済がおおよそ電子化して準備ができた、ということのような気がする。
日本のマクドのレジがどの程度電子化しているのかは調べてもよく分からなかったが、日頃のお店の状況を見るに、まだ半分も行っていないのではないかと思う。

そうなると「モバイルオーダー&ペイ」がちゃんと機能するかどうか心配になる。


マクドナルドに限らず、飲食店や小売店でオーダーやレジ業務をスマホを使ってセルフ化し効率化するというのは、今後の業界の流れとして不可避のものであると思う。
この問題に関し既存の飲食店などからは、オーダーやレジでの対面の接客こそが我が社が提供するサービスの根幹である、というような話を聞くこともある。
しかしこの部分を自動化することで対売上比で1%でも利益が改善することになれば、企業側としてもはや見過ごすことはできないだろう。

我が社がやらなかったとしてもライバルがやれば、競争力上の遅れをとることになる。
特に客単価千円以下のファーストフードやファミレス、小売業界ではコンビニあたりが取り組めば一気に普及するような気もする。

ただオーダーやレジの自動化にあたっては日本国民の「現金決済好き」が大きな障壁になるかもしれない。

今後アメリカのマクドナルドがどうなるのか、ちょっと注意してみようと思う。
posted by ヤス at 15:18| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年03月09日

教育勅語問題

あいかわらず森友学園問題が紛糾していて、ここにきて補助金詐欺の疑いも出てきているようだ。
この問題がいつ頃どのような形で収束するのかはよく分からないが、おそらく政権退陣などの大事には至るまいと思う。
先の甘利経産大臣の辞任の一件でも、客観的状況ではかなり贈収賄的な感じに見えたけれど、多分今ひとつ世間の後押しがなかったので検察も動かなかったのではないか。

今回の件でも、それほど政権支持率が下がったという話を聞かない。
支持率調査に多少の眉唾を見込んだとしても、現政権に対する世論の風当たりは実際そんなに強くないように思う。
だから一通り議論の材料が出尽くしたところで、この事件は急速に風化していくような気がしてならない。

しかし一方で、この事件に関し別の論点も出てきている。
例えば教育勅語の評価についてである。

教育勅語は1890年(明治23年)に発布されたものらしい。
明治憲法下では、各種の法令は形式としては主権者である天皇の命により発布されるのだが、明治憲法により各所管大臣の署名が必要ということになっていた。

しかし教育勅語に関しては大臣の署名がなく、つまり天皇から国民に直接の「お言葉」として発布された、それが「勅語」というネーミングの意味らしい。
教育勅語の内容は、その真ん中辺には父母に孝行、兄弟仲良く、夫婦仲睦まじくなどなど、ある意味真っ当な道徳的徳目が並んでいて推奨されている。

先日の稲田防衛大臣をはじめとする「教育勅語再評価派」とでもいうべき人々は、その辺りを指し示して「その内容のどこが問題なのか」と言っているようだ。
しかし問題はもちろんそういう点ではない。
言うまでもなく教育勅語の土台となっている天皇中心主義、天皇を長とする国家的家父長制度の思想、そこの部分が問題となっている。

また教育勅語は1948年にGHQによって法的に正式に否定・廃止されている。
教育勅語を評価する考え方があることは別に構わないと思うけれど、現職の政治家が評価すると言うのは、戦後ずっと継続している現行の政治思想に矛盾すると言う意味で問題があるだろう。
政治家が教育勅語を再評価すると言うのなら、戦後の政治思想、アメリカの占領政策による民主化に対する「明確な反省」がないといけない思う。

皇国史観とかいわゆる「国体」と言う考え方に関して、戦後生まれのわたしなんかは、かなりの違和感を覚えるわけであるが、「国体」を重んじる人々の思想というのは、紀元前660年の神武天皇即位を歴史的事実と信じ、天皇を中心とする「国体」は所与のものであると信じているのではないかと感じる。
欧米流の近代思想的には、国家というものは多分に人工的なものと考えていると思う。
一方で日本国における「国体」は、それが太古の昔から当然に存在した自然物であるという感じが強くあって、だから人工的国家をイメージする人々と、自然物である「国体」をイメージする人々の間ではずっと議論が噛み合わない、そういう気がする。
posted by ヤス at 11:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月08日

キレるオジサン

JR東日本が毎年「鉄道係員に対する暴力行為の件数・発生状況について」とうレポートを公表しているらしい。
その中で50代60代の加害者が増加傾向である、というのが最近ちょいちょいニュースに取り上げられたりしている。
特に中高年のオジサンたちがキレやすく、ちょっとした社会問題化しているということがある。

よく考えるとわたしもその問題の年齢に該当する、キレるオジサンの年格好になっている。
わたし自身は、日常生活でほとんどキレることは無いと思う。
一応そういうことにしておく。

しかし知り合いの中には、誰とは言わないが確かによくキレる人がたまにいる。
しかもそういう人は、普段の人間性というのはそんなに悪いものではない。
ベタなオヤジギャクを飛ばして周辺の苦笑を誘ったり、何かとこまごま人の世話を焼いたり、いたって良い人である。
だからこそこちらとしては付き合いが継続しているわけであるが、そういう人が時々キレる。

その目撃例としては、飲食店でアルバイトと思しき若い女の子に対し、口の利き方がなっていないと突然キレたのを見たことがある。
確かに若い人の言葉遣いには、その独特の言い回しがオジサンたちの心を妙に逆撫でするような表現がたまにある。
が、そういうのは単なる世代間ギャップであって、若い人の方には悪気はない。
なんたって向こうは一応仕事で接客しているのであるから、まあそのスキルにかなり問題があったにしても、悪気があろうはずがない。

しかしキレるオジサンの方は、その仔細な言葉遣いの違和感に対し「なんや、その言い方は、、、」と突然大声を上げる。
どうも微妙に馬鹿にされているように聞こえるらしい。

飲食業界は現在空前の人手不足が続いており、ただでも接客上のプレッシャーが原因で辞めていく人が発生する、とも聞く。
しかもこのケース、立場的に反論の難しい相手に対する「キレ」であって、客観的に見てあまり格好のいい「キレ」ではない。

しかし、日常は良識もユーモアもあるオジサンが、何かのスイッチが入ってキレてしまうのである。
あれって何なのか、という疑問が今もって解けないのである。

ただオジサンというのは「カミナリオヤジ」という言葉があるように、昔からやたら怒る、怒鳴る、そういう生き物とされてきた。
わたしの現時点での推測は、おそらく中高年の男性がキレるのは、それが団塊の世代だからとか、昭和何年頃に生まれた世代だから、とう世代的原因よりもある一定の年齢になるとホルモンバランスだか脳のニューロン配列が変化してキレやすくなる、そういう年齢的原因が要因ではないかと思っている。

だから、俺はキレないよ、と思っていても加齢によりある頃からキレやすくなる、ということはかなりあるのではないか。
周囲に迷惑をかけないうちに、その辺のメカニズムを勉強してなるべく平和に暮らしていけるよう、オジサンはがんばろうと思っています。
posted by ヤス at 15:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月07日

スマホは便利だ

iPhone7に機種変して5か月経った。
わたしの場合iPhoneを使い始めたのは2009年のiPhone3GSからだと思うが、iPhone7は歴代iPhoneの中でかなりエポックな存在だと思っている。
それはApple Payの機能が搭載されたからで、おかげで買い物の時に財布を取り出す頻度が激減した。

Apple Payは、導入前にニュースで見知った時は一体どんなすごい仕組みなのだろうと興味津々だったが、実際に使ってみれば何の変哲も無い普通の電子マネーであった。
わたしはカードタイプの電子マネーを使ったことがないのでよく分からないのだが、多分スマホ搭載の電子マネーは通信回線につながっているのでチャージが便利、というのがあるのだろう。

Apple Payの場合は、さらにクレジットカードと連携してチャージの手間がない、というのがおそらく最大のメリットなのだと思う。
その辺の情報は調べればすぐに出てくるのだろうが、面倒臭いのでとりあえず今はそういうことにしておく。

とにかく現時点において、コンビニやマクドナルドやスーパーマーケットなど、わたしが買い物に利用する店舗の多くで電子マネーが使えるようになっており、現金を使わなくなった。
多分現在のわたしの総支出における現金使用比率は、1割以下になっている。

そういう話を他の人としていると、電子マネーはいくらお金を使ったか体感しにくく、したがってついつい浪費してしまう心配があるという意見を聞くことがある。
しかしわたしの場合、電子マネー化して特に出費が増えたということはない。
よほど浪費癖のある人でない限りその心配は杞憂だと個人的には思っている。

逆に電子マネーではクレジット会社のサイトにログインして、過去1年分くらいの支出履歴をずらっと閲覧できたりするし、必要ならデータをCSVでダウンロードできたりする。
現金より電子マネーの方が支出管理はずっと簡単・精密にできて便利だと思う。


しかしiPhoneを始めとするスマートフォンは、電話機能以外にメールチェック、スケジュール管理、電子書籍の読書、表計算、文書作成、さらにはGPSを利用したナビゲーションや高機能万歩計などなど、いろんな機能がこれ一つにぎゅっと凝縮されるようになった。

現在タブレットやPCの販売台数が減少傾向だというけれど、小さくて軽いスマホがどんどん高性能化すれば、これ一台で済ませる方がずっとお手軽で合理的である。

また現金入りの財布よりも、パスコードロックのかかったスマホの方が、紛失した時もいくらか安心できる。

そういうことで、進化の止まらないスマートフォンは、PCやタブレットを駆逐するのみならず、財布や筆記用具や録音機やカメラなどのあらゆる文具・電子機器を駆逐して、スマートフォン一つあれば全部事足りる、ということになりそうな勢いであるなあ、と思った。
posted by ヤス at 09:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月06日

ブロックチェーンかぶれ

このところブロックチェーン関連の本をいくつか読んでいて、頭の中身がそっちの方向に少しかぶれたかもしれない。
そういう強いバイアスがかかった状態を前提で言うならば、ブロックチェーンはインターネット以上に世界を変えうる技術のように思われる。

ボストンコンサルティングの調査によると、2016年の日本の「インターネット経済」の規模は約42兆円でGDPの5.6%だという。
しかしインターネットの活用によって、あらゆる産業の生産性向上が生じており、その意味で上記の数字の何倍も実体経済に影響を与えているように思う。

中でも金融産業はインターネットの恩恵を最も享受している。
金融産業のネット化は、国境を越えるような遠隔地との金融取引で威力を発揮し、コンピューターの高性能化による高速取引などともあいまって、金融空間の規模をネット化以前より何倍にも膨張させた。

しかし一方でインターネットというのは、18世紀以降に生じた工業化社会の流れを引き継いで、生産量の拡大とか生産速度の向上をより一層促進するもの、として存在していたようにも見える。

もともと工業化社会では、自動車とか住宅とかの「物体」を製造することが経済活動の主体であり、金融や情報産業は「物体」を製造する産業を補佐するものだった。
それがネット化によって、情報・通信の業界が「手段としてのコミュニケーション」ではない、「コミュニケーションそのもの」を経済価値化して成長した。
そして金融の世界では、投資や投機の新しい手法が恐ろしく発達して、その経済規模は「物体」を製造するものづくり産業をはるかに超える規模に膨張している。

ただそうは言っても、インターネットがもたらしたのは量の拡大であり情報や金融産業の存在は「物体」産業の余禄であったものが少し大きくなっただけ、という風に見えなくもない。


しかしブロックチェーンがもたらすのは、既存の会社組織や取引方法を根底からひっくり返すものである、少なくとも既存の経済思想を破壊する要素を含んでいるように思われる。
しかもそれは仮想通貨を手始めにこの1〜2年の間に急速に進展し、多分またあと5年もすれば想像もしないレベルにまで進化を遂げているのは間違いない。

そうなったら今話題になっている、金融政策が効いているといないとか、安全保障がどうした、政治手続きの問題がどうしたとか、そういう社会的な問題・課題の議論の前提が全然変わってくるのではないか。

ブルース・リーの映画を観た後、心の中で「アチョー」と叫んでしまうように、そんなことを思う今日この頃である。
posted by ヤス at 10:39| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月05日

ページランクが無くなった件について

かつてGoogleが検索順位を決めるのに使っていたという「ページランク」というのがいつの間にか無くなっている。
そんなことはIT業界の人には今さらのことなのかもしれないけれど。
ちなみにページランクとは、数年前まで大抵のブラウザのツールバーに表示されていて、0〜10の範囲でページのランク付けをしていたアレである。

調べてみると、Googleが提供していたページランクを表示するツールバーの機能はしばらく前に廃止されたらしい。
ページランク情報の更新は2013年に停止されていて、自分のウェブサイトのランクがいくつなのかはどんな方法でも分からなくなったようだ。
ただしGoogleの検索順位付けのアルゴリズムではページランク情報は現在も利用されており、つまりGoogleはページランクは付けるけれどそれを公開するのを止めたということらしい。

そういうのも業界の人には当たり前のことだろうがわたしは今さら知った。

最近は以前ほどSEOのサービスの宣伝を見なくなったと思っていたのだが、これはページランク情報が非公開になったために、SEO対策の成果が見えにくくなったことがあるのだろうか。
成果が見えないとSEOの業者も請求書を書きにくいのかもしれないと思う。

言うまでもないが、何かのキーワードで検索した時に上位に表示されることはサイトのPVを稼ぐ上で死活的に重要なことである。
検索サービスの提供者であるGoogleとしては、「本当に優れたサイト」を上位に表示することが顧客満足度的には必要なことである。
しかし多分に恣意的なSEO対策が蔓延してサイトのコンテンツ内容のレベルよりもかなり高いページランクを各サイトが獲得するようになると、上位表示が必ずしも「優れたサイト」でないことになる。
こうなるとGoogleの検索サービス利用者は不利益を被ることになる。


ページランクのことを思い出したのは、昨今流行りのフェイクニュース対策としてページランクの仕組みが良いメタファーになるのではないかとふと思ったからである。
何か良いアルゴリズムを考えて、ニュースの「確からしさ」を星5つくらいでランキングして、明らかなフェイクは星無し、非常に確からしいのは星5つ付けるとニュースの読み手の参考になると思ったのである。

しかし、Googleのページランクと一緒で、そのうち偽ニュースの星獲得対策みたいな手法が編み出されて、星の数とニュースの確度の関係は程なく崩壊するのかもしれない。

おそらくそういうイタチごっこが、ネット社会のある種のお約束なのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月04日

マラソンの醍醐味

さて、吉備路マラソンからそろそろ1週間が経とうとしている。
若干の休憩期間を経て、ぼちぼち練習を再開した。

ということで昨日の朝からまた走り始めた。
しかしまだ脚がだるい感じが残っている。
今日は土曜日ということもあって、昨日より少し長めに走った。
昨日走ったおかげか、脚のだるさはだいぶん緩和したのであるが、今度は走り終わりの方で少し膝がガクガクしてきた。

よくマラソン練習のノウハウ本に書いてあるのだが、一般人のマラソン練習は月間走行距離が150kmを超えるあたりから急に故障する人の割合が増えるという。
マラソンという競技は、特に競技力のレベルが比較的低い段階では、練習量するほどどんどんタイムが上がる。
しかしだからと言って、暇に飽かせてとにかくたくさん走ろうとすると、あっちこっちが痛くなることは必然である。

その辺りがマラソンの面白いところだと思う。
おそらく正しいマラソン練習の段階というものがあって、それは二段階になっているのである。

まずそれなりの練習に耐えられる心肺機能や筋力をある程度準備して、それがある程度整った段階でその心肺機能や筋力の範囲内の強度の練習ができるようになる。
で、その範囲を超えるような練習をするとどこかが痛くなって練習をお休みする羽目に陥る。

だからその時点の体力が許容する練習量を逸脱しないように、うまくコントロールできていると、長期離脱なく練習が継続できて効率的にパフォーマンスアップができるという算段になる。

よくマラソン業界の人が「脚づくり」と言ったりするやつのことであろう。
つまり良い練習をするためには、まずその前に練習のための練習が必要であるということである。

しかし考えてみると、業界の人が「脚づくり」という業界用語を考えたり、一般のマラソンランナーが分不相応に練習し過ぎて故障する、というのは、それだけ無理をする人が後を絶たないということがあるものと思われる。

最近は、「スロージョギング」とか言って、とにかく一般的な常識よりもかなりゆっくりとしたスピードで走っても十分なトレーニング効果があるという理論も提唱されていて、実際の体験としても、ゆっくり走る練習だけでもそれなりに十分な効果があるという実感はあるのである。

しかし人間のサガというのは不思議なもので、科学的理論がゆっくり走りなさいと言っているのにも関わらず、走っていて体が温まって調子が出てくると、ついつい飛ばしたくなる。
今日は1時間走ったら帰ってこようと決意して練習に出かけても、走っているうちになんだか気分がいいのでもうちょい距離を伸ばそうか、などと余計なことを考えてしまう。
この辺りの人間の心理状態というのは、何なんであろう。

いずれにしても、マラソンの練習で無理をしないということ、自分の体力を冷静に測って練習強度が許容量を超えないようにコントロールすることは、ある意味マラソンの醍醐味であるな、と思ったりした。
posted by ヤス at 16:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月03日

ブロックチェーン

このところブロックチェーンについての話題をよく聞くようになった。
関連の書籍もたくさん出ている。
今、Amazonで「ブロックチェーン」のタイトルの本を一覧で見たら、昨年の夏以降くらいから出た本を中心に20冊くらい並んでいる。

ブロックチェーンに関しては仮想通貨ビットコインとセットで語られることが多いが、思い返してみると、一昨年に世間を賑わせたビットコイン取引所マウントゴックスの事件というのがあった。
この事件はフランス人のオタク青年マルク・カルプレスが経営するビットコインの取引所から大量のビットコインが忽然と消えたというものだった。

この事件は、最初カルプレスは、システムがハッキングされて大量のビットコインが盗まれたと言っていたのが、本当はカルプレス自身がネコババしていたという事件だったと思うが、この事件が起きてマウントゴックスが破産に至ったのが2014年2月。
この事件が起きるまでは、当時彗星のように現れたビットコインに対して世間の注目も熱かったのを憶えている。
その頃にブームに乗って出版されたビットコインを特集したムック本がうちにも転がっている。

しかしマウントゴックス事件を潮に世間の熱は急速に冷め、以降しばらくビットコインやブロックチェーンの話題は世の中のニュースから姿を消したように記憶している。

マウントゴックス事件で一時期冷めてしまったビットコインやブロックチェーン技術への注目が、昨年あたりから再度盛り上がっているようだがこれは何が原因なのだろう。

世の中でビットコインの話題が過熱したり冷めたりを繰り返している間、世界中の政府機関や金融機関、研究機関などがずっとブロックチェーンや仮想通貨についての研究を続けていたらしい。
その成果がだんだん出てきて、しかもそのどれもがブロックチェーン技術の有用性を認めたものになっている。
しかも今年に入ってから現実世界でも中央アジアのジョージア(旧名グルジア)政府が情報管理に導入することを発表したりした。
報道では土地の売買や登記にブロックチェーン技術を使う例が出ていた。

また日本の三菱UFJ銀行もプライベートブロックチェーンの仮想通貨を今夏運用開始する計画を発表したりしている。


ブロックチェーンを利用した分散型の情報管理の話と、ビットコインなどの仮想通貨の話は分けて考える必要がある。
その上で例えばジョージア政府のブロックチェーン技術の導入については、行政の管理すべき情報が、ひょっとしたら政府組織や行政機構に不正が横行していて適切に管理できなくなっているのではないか、などと邪推したくなる。

また最近の、全世界的な仮想通貨への関心の高さは、政府発行通貨に対して人々がかなり不安を感じていることの裏返しではないか、などと思ってしまう。

そうでなくとも国家というもののあり方は今色々揺らいでいるように思えるのだが、ブロックチェーンという新手の破壊的技術もまた、国家の屋台骨を大きく揺らしているようで、10年くらいしたらどうなっているかかなり楽しみではある。
posted by ヤス at 10:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月02日

ルール破りについて

報道によると、ソフトバンクグループがアメリカで行った投資会社の買収に絡み、一部投資家にインサイダー取引の疑惑があったらしい。
このニュースを聞いてソフトバンクが疑惑の主であるように一瞬勘違いしたのだが、あくまでも一部の投資家がインサイダー情報を用いて不正な株売買をしたということらしい。

いつも思うのだけれど、インサイダー取引というのは微妙な犯罪であると思う。
株の売買というのは、もちろん一般の投資家が知らないディープな企業情報を持っている方が絶対的に有利なわけだ。
しかしオープンになっていない内部情報に基づいて株を売買するとインサイダー取引になって手が後ろに回る。

その企業の将来を推測するのに、あくまでも公知になっているオープンな情報を元に株価の行方を占うのは適正な取引。

その線引きはなかなか微妙なところではないかと思えてしょうがない。

多分インサイダー取引規制の考え方は、株取引に常に多くの投資家が参加できる状態を維持することを目的としており、そのために市場参加者が情報アクセスに関して全員公平であるようにしよう、というのがある。

市場経済というのは、参加者が全員公平な立場で、その中で一定のルールに基づいて競争するということで成り立っている。
逆にいうと公平維持のために定められているルールを破ることによって、時に莫大な利益を不法に得ることもできる。

世の中にはたくさんの会社があって、今年はいくら儲かった、いやうちはこんなに損をしたと一喜一憂している。
でもほとんどの企業経営者はたくさん利益を出したいと思っており、できれば個人的にも裕福になれるに越したことはない、と思っているだろう。

そういう中では、当たり前のことだが常にルール破りの誘惑はある。

最近大阪の方で森友学園なる学校法人が不正に土地を入手したとかいう疑惑に関するニュースが流れている。
国会でももっぱらこのことが議題に上がって喧々諤々やっている。

その国会の議論を聞いて少し思った。
質問を投げかけられて答弁する側は、しきりに「少なくともルール上問題はない」と繰り返しているようにしか聞こえない。
おそらくもうひと月・ふた月もしたら、この問題はルール上の範囲内で適正に行われていたという結論で、国民の記憶からもどんどん消えていくのかもしれない。

ただ大切なのは、ルールそのものよりもそのルールが定まった元にある考え方であると思う。
日本の社会は、行政組織も政治家も企業経営者も、その点もう少し生真面目になった方がいいんじゃないかと時々思ったりする今日この頃である。
posted by ヤス at 09:07| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月01日

マラソンシーズンも終わりだ

さて、今日から3月である。
気象庁のデータベースを見ると、3月の平年気温の推移は10日を過ぎる頃からどんどん暖かくなり、毎日の最低気温の平均値(ややこしいな)は月初は2度台だったのが中旬に4度台になり月末には6度台まで上がる。
同じく最高気温の平均値は11度台だったのが16度近くまで上がる。

要するに、この時期は日に日に暖かくなるのが数字の並びを見ているとよく分かる。
暖かくなってそのうちに桜も咲く。

ついこの間そうじゃ吉備路マラソンが終わったところだが、冬が終わって暖かくなるとマラソンシーズンもひとまず終了である。
しかしながら、わたし的には4月にもう1本フルマラソンの予定を入れてある。
おそらくこれが今期のフルの走り納めになる。

今シーズンはここ数年悩まされていた足の故障がウソのように治って久しぶりにたくさん練習できた。
そのおかげでこの間の吉備路も数年ぶりに気持ちよく走れた。
4月のフルではもう少し体重を軽量化して、そのぶんちょっとだけ速く走れれば良いなと思っている。

しかし最近はどこのマラソン大会も大盛況で、本当に信じられないくらいのランニングブームである。
その一方で時々マラソンをしない人から、「マラソンなんかなんでやるの」と聞かれることがある。
素朴な質問であるがなかなか返答が難しい。

わたしとしては、「走ると脳の中で気持ちよくなる物質がピュッと出るからじゃないの」と答えることが最近は多い。
しかしその真の理由は本人的にも未だ謎である。

この間の吉備路マラソンで走り終わった後、さらに続々ゴールするランナーたちが皆死にそうな顔で最後の数十メートルを駆ける姿を見て「なぜマラソンを走るのか」の質問を思い出した。

あの苦しそうな顔のランナーたちはなぜそんなに苦しいのに走るのか。

フルマラソンというのは長いので、中にはかつてのわたしのように練習不足で途中からフラフラ歩いたりする人も多くいる。
が、一方で多くの人が最後まで頑張って走り続けてゴールする。
42kmの道のりを最後まで歩かずにゴールするには、それなりに日常的に走っていないと難しいだろう。

「なぜ人はマラソンを走るのか」という質問は、「なぜ人はマラソンの練習を継続できるのか」という問いに変形することができると思われる。

練習といっても、週に1回2回の人もいればほとんど毎日走る真面目な人もいるだろう。
わたしの場合は平均すれば週に3回4回くらいだが、あまり面倒臭いと思ったこともないし、かといって走りたくてたまらんというほどの衝動があるわけでもない。

ただなんとなく走っているような感じである。
そのあたりの動機付けをもう少し突っ込んで考えてみたいのだが、そろそろ文章が長くなってきた。
また今度ゆっくり考えてみる。
posted by ヤス at 10:31| Comment(0) | 徒然なるままに