2017年03月31日

ホールディングスの方も見てみる

昨日は事業会社の日本マクドナルド株式会社の決算書を見たのだが、今日は持株会社である日本マクドナルドホールディングス株式会社について見てみようと思う。

日本マクドナルドホールディングス株式会社はジャスダック上場企業なので決算情報が自社のサイトに出ている。
日本のマクドナルドの企業グループは、ホールディングスの下に日本マクドナルドと店舗指導を行う株式会社エブリデイ・マック、ドコモとの合弁会社であるTHE JV株式会社の3社がぶら下がっているらしい。

ホールディングスの決算情報は全部のグループ会社の連結である。
損益計算書を見ると、売上高は事業会社のマクドナルドと同じ数字が並んでいる。
ということはエブリデイ・マックとTHE JVは、少なくともグループ外への売上はゼロで内部取引のみということである。

気になるのはTHE JVの存在である。
ドコモと合弁のこの会社のおかげで、電子マネーのiDが使えたり、最近熱心に取り組んでいるDカードのポイントが貯まったりするということのようである。
また、わたしは携帯がソフトバンクなので知らなかったが、ドコモの携帯を買うとマクドナルドのアプリがあらかじめプリインストールされているらしい。
(真偽のほどを確かめたわけではない)

携帯電話というのは、今や端末機器も通信速度も各社似たようなもので、あとは値段の叩き合いしか競合手段がなくなっている。
こういう状況でマクドナルドのようなナショナルチェーンと提携しておくと、携帯会社にとって幾らかの非価格競争力につながるのかもしれない。

そんなことはともかく、ホールディングスの決算書。
決算をざっと見渡した感じでは、事業会社のマクドナルドは売上と利益だけを計上し、資本市場や銀行からの資金調達など財務項目はホールディングスが引き受ける構造になっていることがよくわかる。

一昨年度まで2期連続で巨額の損失を計上したために、ホールディングスの長短借入金が200億円ほど増加し、最大80.5%もあった自己資本比率は直近で60.8%に低下している。
まあ低下したと言っても件の東芝などと比べると月とスッポンほどの違いがあるが。

また、ホールディングスの決算コメント内には「時価ベースの自己資本比率」の推移も載っていて、そっちの方は簿価より随分高くて225.4%。
(時価ベースの自己資本比率:市場株価で計算した自己資本比率)
しかもこっちは少なくともこの5年間、一貫して上昇し続けていて、株式市場はマクドナルドの将来を明るいと思っているようである。
あとホールディングスの方に材料費率と労務費比率も載っていて、材料費率35.4%、労務費比率28.7%、その他26.0%とある。
その他が気になるが、ファーストフード業界だけあって材料費も労務費もそれなりに高い。当期利益率も2.4%となかなか「リーン」な事業構造なのである。

あとついでにフランチャイズ売上も含めた全店売上も載っていた。
2012/12期が5298億円。
それが2015/12期に3766億円まで減少(28%減)し、直近で4385億円まで回復したらしい。
ということはこの先、900億円分くらいは少なくとも売上拡大余地が残っているということだろうか。
その場合あと2割増くらいは行けることになる。

ということでマクドナルドという会社の将来は、結構明るいということが分かってかなり安心した。
posted by ヤス at 10:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月30日

マクドナルドの決算書

さて、マクドナルドの業績は相変わらず好調のようである。
運営会社の日本マクドナルド株式会社は非上場企業であるが、決算報告がウェブサイトに出ていて、それを見ると業績の回復ぶりがはっきりわかる。

少し話がそれるが、日本のマクドナルドの組織体制は、事業会社の上に持ち株会社の日本マクドナルドホールディングス株式会社というのがあって、そのホールディングス会社がジャスダックに上場しているらしい。
事業会社の日本マクドナルド株式会社はホールディングスの出資100%になっている。
そういう事情があって非上場の日本マクドナルドは業績を開示しているのだろう。

で、日本マクドナルド株式会社の貸借対照表と損益計算書を見てみる。
ちなみに日本マクドナルドは12月決算なので直近のH28年12月期を見る。
損益は、直営店売上が1641億円、FC収入が625億円の合計2266億円。
で、売上総利益297億円、営業利益70億円、経常利益64億円、税引後の当期純益56億円。
注目すべきは直営店売上原価が1495億円、原価率で91%になっているところ。
開示データには原価明細がないのだが、多分この原価には人件費も入っているのだろう。
それにしてもなかなかの高原価率というかFL比だと思う。
(FL:F=食材費、L=人件費)

マクドナルドは、2014年の後半に色々と「事件」が起こって売上が急減した。
記録を見ると2015年1月には対前年比で売上が38.6%も減っている。
それが2015年の8月あたりからぼちぼち下げ止まって、2016年の1月には前年の数字が悪かった反動増で30.9%の前年増になっている。
以降コンスタントに対前年で10%以上の売上増を継続していて、2017年の1月が11.5%増、2月が17.3%増。
(数字は全店売上の対前年比)

決算も最悪だったH27年12月期が売上1895億円当期純損失351億円、その前のH26年12月期は売上2223億円の純損211億円。

貸借対照表を見てみると、2期連続で巨額の損失を計上したために日本マクドナルドの自己資本はマイナス、いわゆる債務超過になっていて総資本1108億円に対し自己資本がマイナス433億円。
銀行借入は無し、その代わり関係会社短期借入金というのが1065億円ある。
多分借入はホールディングス会社からするようになっているのだろう(推測です)が、この借入は経営危機前のH25年12月期は440億円しかなかった。
この2年ほどはキャッシュアウトがかなり大変だったようだ。

ということで日本マクドナルド株式会社の決算内容は、非上場ということもあってかなりラディカルだが、その分実態が分かりやすくなっているのだなと思った。
posted by ヤス at 10:34| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年03月29日

愚痴

森友学園問題は、27日の新年度予算成立後も引き続き尾を引いている。
さすがに最近はわたしも飽きがきて、国会の追及場面をYouTubeで見るとこもめっきりなくなった。
同時並行で流れている東京都の豊洲市場移転問題は、百条委員会の実施というイベントがあって浜渦下副知事と石原元知事が証言したそうだ。
本来、森友学園問題さえなければ世間のニュースはこちらの話題で持ちきりだったのだろう。
しかしネタの新しさと登場人物のキャラの濃さ、並びに安倍首相への疑惑というスケール感の大きさで豊洲問題はかなり霞んだ。
劇場政治の主役を奪われた格好になり、小池都知事は内心がっかりしているのではないか、と勝手に想像する。

しかしこの二つの政治問題は、共通点があるように思われる。
それは「出口が見えない」ということで、豊洲問題は一体移転するのかしないのか見通しが見えず、そして森友問題はことごとく対立する証言の食い違いが証明される見通しがない。

ただ豊洲問題は最終的には「えいやー」の政治的決断が下されることにならざるを得ない。
ただその決断がいつかがよくわからないが。
おそらく小池さんは、都民世論が築地・豊洲のどっちを支持しているのか一生懸命読もうとしているのだろうが、現時点でそれが読みきれない、ということなのだろう。
世論がどっちかにどっと振れれば、あっさりそっちに決まるに違いない。

さて、問題は森友問題である。
おそらく3月10日頃までは、適当なところで手打ちをして事態を有耶無耶のうちに収束させようという空気が濃厚であった。
ところが意外なことに籠池理事長の証人喚問が実現して、そこで理事長が改めて自身の主張を明確過ぎるほどにはっきり喋ったために、政権側というか安倍首相の方も引っ込みがつかなくなったようである。

だからこれは、理事長側か首相側、どっちかが斃れるまでこの仁義なき抗争は終わらない。
そして現時点においては、メディアを手懐け裁判所や検察に隠然たる影響力を保持する首相側が圧倒的に有利、従って斃れるのは理事長側だろうという観測が成立する。

今回の問題を見ていて思うのは、現在の日本の政治が抱える病理の深刻さだ。
その病理とは、ある政治勢力が周辺を「仲間」とそうでない人々に峻別し、すっかり縮小してしまった国内の利益原資を仲間の方に誘導する方法があまりにスマートでない。
政治による利益誘導は昔から存在したと思うが、昔は利益原資がそこそこ潤沢で、仲間でない人々も適当に潤った。
しかし今の利益誘導はゼロサムゲームになっていて、どこからか利益を引き剥がして仲間の方にそれを持っていく、ということになっている。

現首相はその意味で非常に律儀で頼りになる人物なのであろう。
だから金融緩和・円安誘導・株高演出の流れも止まらない。
そして例えば並み居る日経連企業が利益確保のためにどのような行動をとるべきかは自明なのであって、それがこの病理を不治の病にしている。
どうも明るい締めくくりが思い浮かばないので、今日はここでおしまい。
posted by ヤス at 10:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年03月28日

忖度

「忖度」と書いて「そんたく」と読むらしい。
今回の森友学園事件の最大の功績は、行政官僚組織における「忖度」のメカニズムをクローズアップしたことではないか。

忖度という言葉自体はもうずっと昔から存在し、会話の中にもごく稀に紛れ込んだりすることもあった。
しかしこの言葉の持つ不思議なメカニズム、あるいは魔法のような効力に関しては、ほとんど意識することがなかったような気がする。

わたしが若かりし頃サラリーマンをやっている時分の苦い思い出であるが、しょっちゅう「お前は本当に気が利かない」と言われていた。
全く、何かのおまじないのように繰り返し「気が利かない」と言われていて、たまに渾身の「気を利かせる」ことを頑張ってみたら、今度は「余計なことをするな」と言われる。

あまりに卑近な例を持ち出すのは適切ではなかったかもしれないが、「気を利かせる」こと、すなわち「忖度」することは、なかなか高度な技術であると個人的には思うのである。
「忖度」というのはそのものずばりの英語訳が存在しないようで、つまり多分、日本に独特の概念であるらしい。
考えてみると忖度は、組織文化的にもかなり高度な概念である。
忖度のメカニズムにおいては、上司と部下の間に明示的な指示命令が存在しない。
だから何かことが生じた際に、責任が上司に及ばず部下のところでせき止められる。
おそらく責任を一身に背負った殊勝な部下は、後で「おつとめご苦労さん」とかなんとか上司に労をねぎらわれて、それなりの戦後補償を受けることができるのだろう。
(あるいは非情な上司の場合、あっさり「トカゲの尻尾」にされて終わりかもしれない)

今、国会では森友学園問題で野党による安倍首相への執拗な追及が続けられている。
しかしこれによって現政権が退陣はおろか何らかの責任を負うこともないだろう。
それはこの問題が主要部分においてどうも「忖度」メカニズムによって駆動されていることが考えられ、その場合政治家や官僚幹部による現場への明確な指示命令の証拠は当然に存在しないからである。

評論家によっては、だから野党の追及は無意味であって、本来の予算審議に集中した方が良いという意見もある。
しかしその場合、国有地をびっくりするような安値で購入する可能性は、その裏道を知っている人にとっては違法性のない「当然の権利」として是認されることになる。
いわゆるモラルハザードが生じる。

森友問題の意味というのは、国有地の購入にあたって「忖度」メカニズムを起動することによって少なくとも市価の10分の1以下で購入できることが白日の下に晒され、しかし問題が明るみに出ることでさあこれから安く国有地を買おうと思って順番待ちしていた人々がなかなか安く買いづらくなって地団駄踏んでいる、そういうこともあるのかもしれない。
だから国民としては、国有財産の価値を保持するためにこのことを忘れないように努力しないといけない。
というのは、まあ難しいのかもしれないなあと思った。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月27日

道徳の教科化と生産性低下

少し話題に乗るタイミングが遅れたが、道徳の教科書検定が話題になっているらしい。
なんでも今まで正規の教科外の授業であった「道徳」が、小学校では2018年から晴れて「教科化」されるのだという。
で、その小学校道徳の教科書の検定がこの間終わり、その検定内容の不可解さがかなり興味深い。

道徳の教科化は、その理由のひとつがいじめ問題にあるらしい。
また道徳の教科化は小学校に続いて中学でも順次開始されるという。
はたして道徳の授業を教科外から教科に格上げすることによって、いじめ問題は改善されるのだろうか。

ところで教科外を教科に格上げするというのはどういうことか。
文部省のサイトで資料をちら見すると書いてあった。


“「教科」とは、教科書を使用し、教科ごとの免許があり、数値による評価を行うものを言いますが、道徳については、数値による評価を行わず、担任が担当することから、特に「特別の教科」という新たな位置づけが設けられました。”


それで「特別の教科」というのが出てきたのか、と納得がいった。
それと文科省の資料には、数値による評価はしないが「評価はする」、と書いてある。
さらに「入試には使いません」とわざわざに強調している。

道徳の授業を「教科化」するというのは、ちゃんと通信簿に評価しますよという意味なのであろうが、さてその評価方法はどうするのだろう。
いっそ数値評価の方が現場の先生には無理がなくていいんじゃないか、非数値評価で先生は対応出来るのか、心配になる。

資料には、「「国や郷土を愛する態度」などの個別の内容項目の評価はしない」、だから「「愛国心」を評価することなどあり得ません」とも書いてある。

その割に、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ」云々の理由でパン屋を和菓子に変えるそのメンタリティーがかなり不可解である。
これは教科書の記述に国や郷土への親しみが足らない部分を発見するメンタリティーが不可解というのがひとつ、親しみの不足を補うためにはパン屋より和菓子屋が適切と思うその想像力への不可解がもうひとつ。
かなり何重にもわたって不可解である。



“道徳科の評価は、道徳科の授業で自分のこととして考えている、他人の考えなどをしっかり受け止めているといった成長の様子を丁寧に見て行う、記述による「励まし、伸ばす」積極的評価を行います。”

というのが道徳の評価の方針であるらしい。
もしわたしが小学生でこの授業を受けたとして、道徳の教科書に書いてある和菓子屋のくだりを自分のこととして考えることが出来たかどうか、他人の考えを受け止め得たかどうか、甚だ自信がない。
まあわたしはわりかしソトヅラの良い子供だったので、適当に迎合してうまくやり過ごしたかもしれないが。

しかしこのようなアンチクリエイティブな議論を見るにつけ、日本におけるホワイトカラーの生産性が低いという問題の原因がなんとなく分かるような気がするのは、気のせいだろうか、と思った。
posted by ヤス at 13:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月26日

人工知能と身体性

人工知能の身体性の無さというのはもう多分あちこちで言われている話だ。
でも身体性が無いというのがどういうことなのか、そこが今ひつピンと来ない。

それで改めて人間の身体性というのを考えてみると、人間は大部分が身体性でできていて、そこに進化の最後の方の過程で、一番上にちょこんと知性が乗っかったようなイメージが浮かんだ。
比喩的にいうと、99%の身体性の上に1%の知性が載っている。
それが人間の構造バランスのような気がしている。

この場合の身体性にはかなり色々と重要な意味がある。
まず一つは、身体性があるというのは人間の体がタンパク質で出来上がった臓器やら筋肉やらの複雑な構造になっているということ。
そして体の組織は外から入ってきた物質、いわゆる「食べ物」を胃腸で分解吸収したもので徐々に置き換えが進む。
そうやって新陳代謝のサイクルが絶え間なく動いて、体の組織は古くなった部分を入れ替えて正常運転を保っている。

そういう生物の個体内部における新陳代謝の上位構造として、生物種としての新陳代謝があって、それは各個体に寿命が設定されていて、各個体は適当な年齢で死亡して次の新しい個体が種としての存続を引き継ぐ。

そうやってある個体から新しい個体に種の存続が引き継がれるときに、DNAの極々わずかな変化が生じて、それが何万年分も積み重なって生物の進化というのが起こる。

ということで、人間の身体性は生物としての進化メカニズムの重要な一部であり、そのシステムデザインに個体としての寿命も組み込まれている。

というかそれが「生き物」であることそのものである。
人間の他の生き物との違いは、99%の身体性の上に1%の知性が乗っかって、その1%の知性が人間を従来の生き物とはかなり違うものにしたことだろう。

で、今、人工知能という人間の知性による発明品が、その知性の働きを大部分代替しようとしているわけである。
それは単なる計算や記憶や株式市場の予想などにとどまらず、そのうち面白い小説を書いたり映画を製作したり美術作品を作ったり、そういうクリエイティブなところにまで及ぶのではないか。
人工知能があらゆる社会現象や人間の行動心理を学習すれば、それくらいは朝飯前になるのではないか、そういう気がする。

そうなると人間の主要な役割が、再び身体性の領域に帰っていくのだろうか。
今「人間の」お笑い芸人とかがやっているエンターテイメントを人工知能が提供してくれるようになり、人間はもっぱらそれを観るだけの存在になるとか言うと、ちょっとそれは困る気がする。

人工知能の発達が人間の知性を受動的にさせるのではなく、人工知能を相手にすることによって人間の知性がより高まる未来、そういう風になるように期待したいと思った。
posted by ヤス at 10:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月25日

人間の優位はどこにあるか

このところ「自我」について考えている。
「自我」というのは自分の中の意識化された部分のことだろう。
言語化され、顕在化された自分の中の一部が「自我」。

しかし「本当の自分」の中に占める「自我」の割合というのは、実は1%かそこらなんじゃないか、というのを最近思う。
脳機能の中の情動や生存本能的な部分は、おそらく大部分言語化されておらず、意識化されていない。
でもその部分こそが人間性を決める本質であるというのはおそらく間違いあるまい。

前に書いた「受動意識仮説」によれば、人間の行動は無意識が決定し意識はそれを後追いしてあたかも意識が主体になって行動を促したかのように思い込むだけ。

人間は人間である前にまず生き物である。
生き物というのはなるべく死なないように頑張る、そのようにできている。
人生の意味は何かと言うと、生き物として生まれてきた以上なるべく死なないように頑張る、そのことに尽きる。
それ以上に深い意味はないように思われる。

とにかくも人間は、哲学的思索に耽る以前に、生き物として死なないように頑張ることを自動的に頑張る。
それは生まれ落ちた瞬間からそうであって、まだ意識とか自我とかが芽生える前から多分そうである。
赤ちゃんはお腹が空いたらぎゃーと泣いて空腹を訴える。
そこに言語的な思索は無いわけで、ただ餓死しないように自動的に泣く。


話は少し変わるが、2045年に人工知能が人類の能力を超えるといわれているシンギュラリティ問題があったりする。
すでにチェスでも将棋でも囲碁でも人類は人工知能に敵わなくなっている。
そういうボードゲームでなくても、株式市況の新聞記事くらいなら人工知能で十分に書けるという時代になりつつある。

その辺の会社で事務員が行なっているルーチンワーク的な業務も、間も無く人工知能で置き換え可能になる。
あるいは税務とかコンサルティングとか、ひょっとしたら会社経営の社長の仕事も人工知能の方が数段上手にやる、そういう時代が来るのかもしれない。

で、いろんな仕事が人工知能に置き換わって人間の仕事がそれに奪われるというのを今みんなが心配しているわけだ。
技術が進化して知的能力で人類が人工知能に太刀打ちできなくなる未来がすぐそこまできていて、その中で人間の人工知能に対する優位はどこにあるのか、人工知能にできなくて人間だけに可能な仕事は一体あるのかということが問題である。

で、ふと思ったのだが、人間というのは知的存在である以前にまず生き物であり、しかも無意識的な生き物の部分が、意識的、知的な部分の何倍も大きい。
逆にいうと人工知能のライバルとしての知的な部分は人間の中のほんの一部に過ぎない。

まあだからどうなのという話だが、なんとなくそう思ったので、この続きはまたしばらく考えようと思っている。
posted by ヤス at 10:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月24日

証人喚問が終わって

さて、昨日の国会予算委員会で件の籠池理事長の証人喚問が行われた。
証人喚問は午前と午後の4時間半にわたり行われたそうであるが、わたしは昨日珍しく忙しかったのでその様子を1時間ほどしか見ていない。

また証人喚問の後に、外国特派員クラブで記者会見も行われたようだがそっちも見ていないので、後でアーカイブを探して見ようと思っている。

ここへ来てこの問題がにわかに盛り上がった感じがあるが、理事長の証言の様子は、予想外に落ち着いて淡々としたもので、かつ100万円の寄付についても明確に断言していた。
後、新たに浮上して来た理事長宛の昭恵夫人付き秘書からのFAXもなかなか興味深い。

100万円の寄付金についてはそれ自体に違法性はなく、昭恵夫人はFacebook上で早速反論してはいたけれど、万が一この寄付金授受が立証されたとしても本質的には大した問題でない。

まあ密室の出来事であり、もらったことの証明も、もらっていないことの証明もまったく難しい話なので、首相サイドとしては「もらっていない」ことを一貫して主張するというのが基本方針なのであろう。

しかし今回偽証罪に問われるリスクを賭けて籠池理事長は「もらった」と明言したわけであり、その一点において現段階で理事長側が一段優位になったことは確かだ。
この状況を再びイーブンに戻すには、昭恵夫人も証人喚問に立つことが必要だろう。

しかし寄付金問題は問題の本筋ではないから、首相サイドとしては夫人の喚問は見送り、従来通り「もらっていない」主張で押し通す気がする。

首相にとって、言うまでもなくFAX問題の方がより危険である。
このFAXのやり取りの構図からは、昭恵夫人が秘書を通じて財務省に「働きかけ」ているように見える。
これは、当初首相が言っていた「私や妻、事務所は一切関わっていない。もし関わっていれば首相も国会議員も辞める」発言に「抵触」するように思われる。

今回の問題は、当初から比べてかなり事態がもつれてきたように見えるけれど、それでも現段階では内閣退陣に至るところまでは深刻化していない。

ただ首相サイドに立って見ると、結果論ではあるが今回の事態の収束に向けた手際はかなり悪かったように見える。
まず今回の理事長の喚問はかなり余計であった。
理事長が100万円問題を突然出してきたのは、自分から喚問に呼ばれようというある種の策略であったようだ。
今回はまんまとそれに引っかかった。
その辺は、自分たちのメディア統制や役人の制御能力について自信が過ぎたのではないか。
現段階では国民から安倍おろしの声はあまり聞こえてこないように思われる。
それは今のところ有力なポスト安倍が国民の脳裡に浮かんでいないからだろう。
そういえば鳥取出身の自民党代議士がいたけれど、彼の最近の文章を読んでみると、わりかし慎重に現政権に対する批判が書いてあったりする。
この辺の人がどんと表に出てくるようになると、今回の騒動がもっと面白くなると思うのだが。

というのはちょっと不謹慎な見方かもしれないと、少しだけ反省して今日はおしまい。
posted by ヤス at 11:17| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月23日

もう少しバイクの話

オートバイの話が続いた。
ついでにもう少し。

わたしが若かった頃、つまり日本のオートバイ市場が最高に盛り上がっていた頃であるが、当時の若者は二輪の中免を取っておおよそが250ccのバイクを目指した。

当時はレーサーレプリカというカウル付きのレーサーもどきのオートバイが全盛の時代だった。
個人的な感覚であるが、周辺に居た同世代の半分以上は中免を取っていたのではないかと思う。

で、そういう若者の多くがレーサーレプリカの250ccを買ったわけだが、当時の250ccレプリカのカタログ馬力はほぼ全部45馬力だった。
悪名の高い「馬力規制」のせいである。
例によってこの「馬力規制」は法令の定めではなく、業界団体の自主ルール。

ただ、たったの250ccで45馬力というのは、自動車のエンジンに比べると異常な高出力である。
これもまあ言わずもがなだが、これら250cc・45馬力エンジンはショートストロークの超高回転型に出来ていて、レッドゾーンが1万5千回転とか中には2万回転とかいうのがあるくらい桁違いによく回るエンジンだった。
しかもたったの250ccを4気筒にして回るようにしていた。
1気筒あたり62.5cc。
よく回るはずである。

またその当時は、今は絶滅した2ストロークエンジンも現役だった。

1980年代初頭、2ストエンジンや4スト4気筒の超高回転型エンジンで250ccバイクの馬力がどんどん上がって、それが馬力規制の誕生につながったらしい。
1989年に決まったそうで250・45馬力、400・59馬力、750・77馬力、オーバー750・100馬力というのがそれである。

さらに1992年には250・40馬力、400・53馬力へと厳しくなった。

この馬力規制は2007年には撤廃されたけれど、今のオートバイは、250ccは30馬力とかせいぜい35馬力くらいのが多い。
大排気量モデルではかつての規制値を超えるものも出ているが、250ccに関してはかつてのハイパワーに比べるべくもない。

技術は確実に進歩しているはずなのになぜ250ccの馬力は30年前より大きく劣るのか、というのが個人的な疑問としてずっとあった。

調べてみると、どうもその主因は日本の厳しい騒音規制であるらしい。
小さいエンジンでかつてのようなハイパワーを絞り出すには、今の騒音規制は技術的なハードルがかなり高いということのようである。

ということで長年の疑問が少し解けた。
ちなみにわたしのかつての車歴は、スズキGSX250E・29馬力、ヤマハセロー225・20馬力などであり、規制値の45馬力250に乗れなかったのが今でも心残りなのである。
posted by ヤス at 16:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月22日

オートバイが売れない話の続き

今の日本でオートバイが非常に売れていない、というのを昨日書いた。
オートバイが売れなくなった要因には色々ある。
1986年の原付ヘルメット規制や軽四、電動アシスト自転車普及などである。
関連情報を見ていたら2006年には二輪の駐車違反取締りの民間委託が始まって、それが原因で二輪販売が落ち込んだ、というのがあった。
特に下駄がわりの原付や250cc以下の軽二輪が落ち込んだらしい。

ただオートバイの販売に関しては悪い話ばかりでもないようだ。
日本は世界に冠たるオートバイメーカー四社、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキがある。
この四社で世界の二輪販売のほとんど半分を占めていて、比較優位という意味では非常に重要な業界なのである。
そういう重要業界の衰退を日本の経済産業省が放置するはずもない、ということで経産省が2013年に現状40万台規模の国内二輪販売を2020年に100万台にしよう、という方針を打ち出したらしい。

これは多分アベノミクスの成長戦略の一環として出されたものだろう。

現在のオートバイの国内販売における特徴の一つに、購入者平均年齢の高齢化がある。
今オートバイ購入者の平均年齢は50歳くらいで、この10年で約10歳上昇したという。
最近リターンライダーというのをよく聞くけれど、これは1980年代の若かりし頃にバイクに乗っていた人がオジサンになってバイクの世界に帰ってくるパターン。

要は若い人の新規参入が極端に減って、このままいくと10年後には平均年齢60歳とかいうことになるのかもしれない。
ただライダーの高齢化は日本だけでなく、アメリカやヨーロッパでも大方同じ傾向があるようだ。

あと、世界各国の人口当たりの二輪車保有台数の比較の情報がネットに出ていて、日本は2011年時点で100人当たり9.5台。
ちなみにアメリカは2.6台、イギリスは2.3台。
先進国で多いのはイタリア14.2台、スイス10.5台。
さらに東南アジア圏では、台湾65.3台、マレーシア34.7、ベトナム29.5台。
東南アジア圏の異常な数字はさておくとして、ざっくり見た感じ日本の二輪普及率は世界的には決して低くない。

上記の数字からは、かつて1980年台の年間販売300万台とかいうのは、日本に訪れたアジア的バイクブームであり、その後日本は他の先進国並みに落ち着いたように見える。
ということは経産省の2020年国内販売100万台は、歴史の歯車を巻き戻すようで、非常に難しいことのように思われる。

あと、日本のオートバイブームが急速に沈静化したのは「3ない運動」をはじめとする警察の取り締まりの影響が無視できない。

警察庁にとってオートバイは犯罪予備軍の養成装置に見えるらしく、この傾向は程度の差こそあれ先進国では共通のようである。
かつて尾崎豊が「盗んだバイクで走りだす」と歌ったけれど、オートバイはある意味反権力の象徴のようなイメージがあって、警察の目の敵にされやすいのかもしれない。

ちなみに、尾崎豊が生前吐露したところによると、あの歌で歌った「盗んだバイク」は実話に基づいていて、そのバイクは「ヤマハ・パッソル」。
田舎のお母さんが買い物によく乗っていたやつだったそうである。
おしまい。
posted by ヤス at 10:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月21日

オートバイ市場縮小

今の日本ではオートバイが売れていない。
かつて、わたしが青春を謳歌していた1980年代後半には、日本のオートバイ販売はざっくり今の10倍くらいの規模があった。

わたしが初めて「運転免許証」を取得したのは確か1986年。
中型二輪免許を島根県益田市の合宿教習所で取ったのを記憶している。
1986年といえば原付のヘルメット規制が始まった年だ。
ちなみにわたしの最初のバイクは、ホンダの「ラクーン」という50ccの、ミッション付きアメリカンもどきの原付だった。

そのバイクは部活の先輩から代々受け継がれてきた骨董品で、雨が降るとキャブレターに水が入ってエンジンが停まった。
そういえば名義変更などをした記憶がない。
ひょっとしたら自賠責とか入っていなかったかもしれない。

そんなことはともかく、譲り受けたラクーンに乗って風呂上がりに広島の街を駆け抜けたことを妙に具体的に憶えている。
想像するに原付ヘルメット規制が4月1日からで、免許取ってラクーンを入手したのがそれより少し前だったのだろう。


ところでオートバイの販売台数がピークだった1982年は、原付から大型まで合わせて320万台以上販売されていたらしいが、その8割以上は原付一種、いわゆる50ccバイクだった。
1982年は他の年に比べて販売台数が突出しているのだが、それはHY戦争といってホンダとヤマハの乱売合戦の影響らしい。
HY戦争といっても若い人には分かるまいが。

1983年以降戦争が落ち着いたのか270万台以上あった原付一種の台数がどんどん減っている。
無論1986年のヘルメット規制もかなり影響している。
2010年代では原付一種販売台数は25万台前後、これは原付二種(〜125cc)、軽二輪(〜250cc)、小型二輪(250cc〜)の3種合計と同規模の台数だ。

逆に言うと原付一種以外は、原付一種ほどには販売台数の減少幅が大きくない。
とは言うものの1985年からの比較で、126cc以上のオートバイ販売台数は31万台が10.9万台に減っている。
約3分の1に減少。

50ccクラスが10分の1になったのよりは多少マイルドだが、それにしても大した減りようである。

ヨーロッパあたりでも、オートバイの販売台数はじりじり減っているらしい。
日本にはオードバイの世界4大メーカーが頑張っているわけだが、今までよく潰れなかったものだと思う。
それはひとつには東南アジアの成長があったからだろう。

でも日本で二輪販売が減ったのは、国民が豊かになって二輪から軽四に移行したというのがある。
また電動アシスト自転車の登場、高性能化によってだいぶん市場を食われたことも大きいらしい。
日本と同じ変化は東南アジアでも起きるだろう。

そうなると今後10年20年後には、世界のオートバイ市場はかなり縮小しているかもしれない。
市場が縮小すればメーカーのラインナップも絞り込まれて、今のようにたくさんの車種の中から選ぶというのが出来なくなるのかもしれない。

また20年もすれば四輪業界は自動運転化が進んでいるだろう。
そうなった時にオートバイの存在がどうなっているのか。
かなり心配だなあ、とどうでもいいけれど思ったのだった。
posted by ヤス at 15:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月20日

23日証人喚問

森友学園問題であるが、23日に学園理事長の証人喚問がある。
ここでおそらく例の100万円寄付金問題などについての証言があるのだろう。
それ以外にも何か新しいネタげ出てくる可能性も否定できないが。

しかし安倍首相からとされる100万円の寄付金は、いろんな報道を見るにつけ相当に信用性に乏しいように思われる。
あくまで個人的推測だが、多くの人が言っているようにこの寄付金は昭恵夫人宛ての講演謝礼を受け取ってもらえなかったので、学園内部で勝手に寄付金に振り替え処理したものだろう。
少なくとも報道されている状況からはそのようにしか見えない。

だとすると、証人喚問においてこの寄付金についての証言が改めてあったとしても、理事長側にかえって不利に働くことになる。
野党側が一番欲しい証言は、やはり学園側からどこかの政治家に金銭が渡っていて、その政治家が役人側に強く働きかけた、そういうシナリオであるように思う。
実際に先のこんにゃく報道にあったように、学園側では金銭贈与の未遂については証言が出ている訳で、未遂でなく実際にお金が渡っているということは十分にあるような気がする。

問題はそれがどこの誰かということになるだろう。
果たして今度の証人喚問でその種の証言が飛び出るのかどうか。
その辺を推測するにはちょっと材料が少なすぎてよく分からないのであるが、なんとなくの予感としては、今度の喚問では寄付金問題の他に理事長の「政治的主張」が繰り返されるばかりで新ネタは出てこないのではないか、という気がする。


野党寄りの立場で考えると、この問題は理事長サイドから攻めるのはかなり得策でないと思う。
それよりは土地取引の検証の方に全力を注ぐべきではないか。
土地売却価格の正当性を検証し、そのために現場検証や工事業者、過去の土地所有者への調査などを突き詰めていくべきではないかと思う。

この土地取引がかなりの力技で行われたことは、外から見た感じでも相当に濃厚であるという気がする。
真偽が甚だ不確か学園理事長の発言をテコに首相を攻めるのは、どうも攻め手として筋が悪い。

それとこの学校にどこかの政治家が関わっていたとして、その関わり方の問題。
ただ単に森友学園の教育思想に共鳴し、公共の観点から小学校新設を助けたいと思った政治家がいた場合、それ自体に何の問題もない。
(贈収賄的要素がなければ。あと学園の教育実態には実際に問題があったが)

現段階では、「私が手伝いました」という政治家が一人も手を上げていないわけで、それはそういう人が一人もいなかったのか、手伝ったが名乗り出るには不都合な真実があるのか。
(土地取引の不正が証明されればこれはかなり不都合な真実になりうる)

もし政治家が関与していなければ、全ては役人のやったことということになる。
そういえばつい最近、東京の方でそういう発言があったけれど。

もし全て役人がやったのなら、これは役人の「政治家化」であって、本来無色透明で不偏不党であるべき役人にとってはかなり由々しき事態であると思う。

ということであまり期待せずに23日のニュースを待ちたいと思う。
posted by ヤス at 10:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月19日

本能と理性

さて、今まで何度も書いているが、食欲を我慢するのはかなり難しい。

今日は1食にとどめておこうと思っていても、コンビニの前を通過する瞬間に、何か「自分でないもの」に突き動かされている自分がいる。
で、気がついたらレジでパンを買っていて、こんなはずじゃなかったのになあと思いながら大して空腹でもない胃袋を満たすことになる。

この場合の「自分でないもの」というのは、多分実際には「本当の自分」である。
それは「本能」とか「潜在意識」とかと呼び換えても良い。
そして「自分のようなもの」は、「理性」とか「顕在意識」とか呼ばれるものである。

こういう分野の話は、過去100年以上前から心理学や精神分析の分野でさんざん研究されてきたことと思われるので、ここで素人が不確かな想像を記述するのもなんであるが、まあ構わず続ける。

「理性」の特徴の一つには、それが言語化されている、ということがあるような気がする。
つまり「本能」の方は言語化されていない訳で、それは脳みそのかなり深いところから、情動の力を持って人体をコントロールしているものである。

「理性」というのは時々「本能」の働きに気づいてそれをモニターし、言語によって実況中継したりするのであろう。
まあ大体の場合、「本能」の働きはあまりに無意識的過ぎて、それを逐一全部「理性」がモニターするというのは無理である。
「理性」がその時特に関心のある場合のみモニターしているに過ぎない。

例えば、あとひと月で体重を2kg減らそう、などと決意している場合、「本能」のコントロールのままにコンビニでパンを購入する自分の姿に、「理性」はハッと気がつくのだろう。
しかしたいていの場合、「理性」がそこで行うのは「本能」によってコントロールされている自分を言語的に正当化する作業であって、つい今さっきまで頑張って仕事をしていつもより余計に脳みそを使ったからパン食っても大丈夫とか、今日の晩御飯は多分あんまり食べないからとか、色々言い訳してパンを買い、結局美味しく食べる。

こういう「本能」と「理性」の関係は、おそらくよほど意思の強い人でも弱い人でもそんなに変わらない。
意思が強く、自分をコントロールすることが上手な人の場合、単に「理性」によるフィードバックで「本能」をうまく騙しているのに過ぎないと思う。

結局のところ「本能」が全てをコントロールしているのである。

この状況は、個人以外にも社会集団に対するメタファーとしても有効ではないか。
好き勝手に気ままにうごめく群衆、そこに一定の秩序を与えようとする法律の仕組みや行政組織などは、あたかも一人の人間における「本能」と「理性」の関係のようにも見える。
そして社会集団においても「本能」の方が「理性」よりかなり強力であるというのは言えそうである。
理性なんていうものは、多弁なばかりのくせに根拠薄弱で、失敗した時は言い訳ばかり、そういうもののように見える、そんな気がする。
posted by ヤス at 08:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月18日

森友学園問題について

どうも森友学園問題が予想外の展開になってきた。
というか、少々不謹慎ながら面白くなってきた。

ここへ来て学園理事長が首相からの学園に対する寄付金100万円の存在を明らかにしたのはどういう意味だろう。
もちろんこの理事長の発言に関しては、事実でない可能性も多分にあると思われる。
これまでさんざん合理性に欠く発言や著しい矛盾をはらんだことを言ってきた理事長であるので、この寄付金発言をそのまま飲み込むのは無理がある。

ただ一方で、これまでの理事長の発言は彼の立場を考えれば理解できるもの、ある種の合理性が感じられるものだったことも事実なのである。
たとえば例の小学校の建設工事契約書が同じ日付で金額が3種類あった件であるが、これは学校認可を確実にし、補助金受給額を増やすなど、それぞれの金額には明確な意図が感じられるものであった。
(違法だけれど)
あるいは会見での某新聞社へのかなり強めの苦言や幼稚園の教育内容に関する姿勢などは、理事長の思想の方向性に照らせばまあ分からないこともない。

しかし今回の100万円寄付金発言はどうだろう。
あるいは、これまで否定していた国会招致に関し、23日に証人喚問という形を決断したのはどういうことなのか。


この問題は、巷間言われているようにあくまでも最大の焦点は不透明な土地取引に関する点が最重要であることは間違いない。
国有財産の売却にあたって、はたして意図的なダンピングがあったのかなかったのか。
あったとしてそのダンピングの責任を負うべき人物は誰なのか。
そこを明らかにすべきなのは言うまでもない。

さらに言えば学校認可をめぐるプロセスに問題はなかったか。
もっと言えば認可に当たって政治的な力が働いていたのか否か。

この2点がメインテーマであろう。
そして2点に共通して影響力を行使した人物がいたのかどうか。


逆に言うと、この問題は俯瞰で眺めれば明らかに政治的意図が働いているようにしか見えない。
また財務省で一切の記録が残っていないなんていうのも、怪しいことこの上ない。

例のこんにゃく発言で「政治的な力」の状況証拠の一端が垣間見えたりもしたわけであるが、しかし明確な物証は何も出ていない。

そしてこの状況下で野党がいちばん頼りにしたいのは、状況的に見た怪しさから内閣支持率がじりじり下がって政権のボディーブローになる、というような現象であるが、この問題以降内閣支持率はかなり下がったものの、歴代の内閣退陣レベルの支持率までまだかなり距離がある。

ここについては民進党支持率の絶望的な低さが効いているようである。

結局のところ、万が一これで内閣が退陣になったところで、じゃあその次どうするの、という大きな宿題が次に出てくるのは避けられない。
野党の方はぼちぼちそっちの展望も示す必要があると思うのだが、その期待はできるのだろうか。

というようなことをちょっと思った。
posted by ヤス at 16:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月17日

宅配サービスの心理的負担

最近、ちょっとAmazonで続けざまに買い物をした。
この1週間で多分5つか6つくらい。
しかし結果的に、自宅で荷物を受け取ったことは一度もなく、コンビニ受け取りまたはヤマトの営業所留めにして取りに行った。

どうもこのところクロネコヤマトの配達スタッフが再配達で悲鳴を上げているニュースが気になって、荷物を自宅送りにするのが気がひける。

あるニュースでは、ヤマトは恒常化していたサービス残業体質に対し一部の社員から請求を受ける訴訟沙汰になっていて、事態を打開するために巧みな広報戦略で世論を味方につけ、運賃値上げを行なって残業代の原資を作ろうとしている、と流れていた。

上記のニュースはまあ事実なのかもしれない。
ヤマトの値上げは需要と供給の関係からいっても妥当であろう。
さらにヤマトの社員にきちんと残業代を払うこともまた当然であるし、労働需給の観点からも、待遇改善しないと配達スタッフの確保がままならず業務が止まって困ったことになる。

また日本の宅配サービスは、諸外国に比べてサービス過剰なのではないかという意見も最近かなり目にする。
わたしもそう思う。

わたし的には、自宅に荷物を届けてもらうのはちょっと心理的負担が大きい。
だいたい昼間は留守のことが多いので、自宅配達だとかなりの割合で再配達になる。
それでも少し前までは、ヤマトの配達の人から「今から配達に行くけれど居ますか」みたいな電話が入ることが多かった。
その場合は、電話口で時間帯をすり合わせてめでたく配達を完了することもできたのであるが、なぜか最近、多分ここ半年くらいの間に電話が入ることもなくなった。
よほど配達業務が「激化」しているのだろうかと心配になる。

だから少し面倒だけれど、現在ではコンビニ受け取りかもしくはヤマトの営業所留めにする。
まあコンビニ受け取りもコンビニの手間を考えるとやや気がひけるのだが。

おそらく日本の単身世帯の多くは同じ状況だろう。
宅配サービスは、自宅に直接届けてもらうことがサービスの「売り」であるが、しかし多くの人にとってはそれが少し「ありがた迷惑」になっている部分がある。

宅配サービスは、2〜30年くらい前のまだ単身世帯が今ほど多くない時期に発想され出来上がったものである。
少し今の世の中に合わなくなっていると同時に、爆発的に増加した物流量にも合わなくなっている。

一つ思いつきで書いてみるが、宅配ロッカーとかの設置が難しい地方なんかでは、地域の小売店などが宅配業者と提携して荷物の受け渡し場所になったらどうだろう。
少し駐車場に余裕があって客の入りがやや寂しいお店なんかの場合、忙しいコンビニで荷物を受け取るよりよほど気楽に利用できるだろう。
店にとっては新しい来店機会の創造につながるしそんなに難しい話ではない気がする。

ただしその場合も荷物の受けたわたしのシステムを簡便にすることが必要だ。
今のヤマトとファミマのシステムは煩雑すぎて利用する気が少し失せる。

あと郵便局とヤマトが連携すれば(かつての宿敵同士だが)とても便利だ。
早くAmazonで心置きなく買い物できる日が来てほしいものだと思う、今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:57| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月16日

シャープのテレビ国内生産撤退

どうも森友学園問題は新事実がどんどん発覚してきて思わぬ方向に進むのかもしれない。
3月10日に学園理事長が小学校の認可申請取下げを発表した時には、これでそろそろ幕引きなのだろうと思っていたが意外な展開になった。

さて、この問題で世の中のニュースは持ちきりのようで、東京都の豊洲移転問題もややもすると後ろに引っ込み気味で、あれだけ騒いだトランプ大統領のその後の動向などはほとんど見なくなったような気がする。
それ以外にも東芝の上場廃止危機や働き方改革、天皇退位問題などのニュースが端に追いやられているように見える。

そんな中でひっそりと、鴻海に買収されたその後のシャープが液晶テレビの国内生産から撤退するというのが流れていた。
生産工場だった、あの有名な三重県・亀山工場は今後はスマートフォンなど小型端末向け液晶パネルの生産に集中するそうだ。

シャープの亀山工場には第一工場と第二工場があって、第一工場は実質的にAppleのiPhone向け液晶専用工場になっているらしい。
第一工場は設備投資の大半もAppleが負担しており、実質的にはシャープが場所を貸してAppleが工場管理をしている状態だそうだ。
シャープの液晶テレビは第二工場で製造していて、ただ最近は市況の悪化でかなりテレビ以外の中小機器向け液晶デバイスの割合が増えているという。

だからテレビの生産から撤退といっても別段驚くようなニュースでもない。

シャープの亀山工場はIT不況下の2002年に誘致されたらしい。
しかしその後2009年に、より巨大な堺工場が稼働を開始してシャープの液晶生産の主力は堺に移ったため、亀山工場は稼働率が低下して実質的な操業停止状態になった。
しかし一方の堺工場も操業状態は火の車だったらしく、2012年に鴻海の傘下に入ることになり、一方で亀山工場は既述の通りAppleの設備投資を得てiPhone専用工場に生まれ変わった。

ここまでの経緯を見て思うのは、シャープは液晶テレビでサムスンなどとの競争が激化し、将来がかなり不透明な段階で亀山工場の新設を決断し、さらにその後すぐに亀山の約4倍の規模の堺工場を立ち上げた、その蛮勇というのか、先見性の無さである。

実際亀山も堺も数千億円規模の大投資だったにもかかわらず、操業開始から数年で当初計画が瓦解している。
計画が狂った主要因としては2008年のリーマンショックが大きかったのだろう。

しかし2000年代前半に企画された巨額のものづくり投資が2010年代に入って脆くも崩壊したその流れを見るにつけ、この時期の10年余りくらいの流れが何か日本の政治経済全体の流れを暗示しているような気がしたのであるが、まあ気のせいかもしれない。
posted by ヤス at 10:20| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月15日

篠山城

さて、お城の話だ。
兵庫県のわりかし山奥の方に、篠山城というのがある。
ここは毎年3月第一日曜日に篠山ABCマラソンが開催されてその発着点になるところで、わたしも過去に3回くらい出走したことがある。
そのうち一回は吹雪の中でベストタイムを出したそれなりに思い出深い場所である。
もう10年以上前の話だが。

で、その篠山城であるが、ここは近世城郭史跡としてもなかなかのものだと思う。
まず、石垣が高くて立派なものが往時のままに残っている。
そして幅の広い水堀が高石垣をぐるりと囲んでいて、さらにその濠の要所の3箇所に「馬出」と呼ばれる戦闘陣地が設置されている。
(馬出のうちのひとつはほとんど埋め立てられて現存しない)

馬出は出入り口に設置される防御・攻撃用の施設である。
篠山城は徳川氏のもとで多くの城を縄張りした藤堂高虎の手になるものだそうだ。
幅の広い外堀と高石垣、四角い形の馬出は藤堂高虎の築城の特徴で、濠の幅は当時の火縄銃の射程距離を意識したものらしい。

篠山城は、1609年に徳川家康が山陰道の押さえとして築城を命じたものである。
ちょうど関ヶ原の戦いと大阪の陣の間の時期で、豊臣陣営包囲網の一環としてわずか6ヶ月ほどの突貫工事で築城された。
工事をあまりに急いでいたので、天守閣を建てる土台の天守台までは造っていたがついに天守閣そのものが建つことはなかった。

篠山城は外堀の一辺が約400mのほぼ真四角の形をしており、その周りをてくてく歩くとサイズのデカさを実感できる。
もし籠城戦をすれば、たぶん数千人単位の兵を楽々収容出来ただろう。

篠山城は城の分類上「平城」になるのだろう。
日本のお城は古いのは自然の高い山を利用した「山城」がほとんどで、年代が新しくなるほど平地に降りてくる感じである。

山城と言えば、現存天守が残る備中松山城や天空の城で有名な竹田城があるが、そういう山城は麓に日常の行政事務を行う屋敷があって、いざという時には山の上のお城に籠城することになる。
実際に備中松山城では信長の中国平定戦に伴う宇喜多と毛利の小競り合いがあって実戦も経験しているようだ。
その痕跡なのかどうか、備中松山城天守の一階には暖房用の囲炉裏が掘ってあって、それを見ると籠城時のひもじい感じが伝わってくる。
(実際には城内での火気は火事の恐れがあって囲炉裏は使われなかったらしい)

そこへいくと、立派な濠と高石垣で守られた篠山城は、籠城よりはむしろ攻撃軍の出撃に重きをおいているようである。

だから山城よりは平城の方がその背後にある権勢の強大さが見えて、もしお城をもらえるなら断然平城がいいと思った。
(たぶんもらえないけれど)
posted by ヤス at 14:02| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月14日

吉野ヶ里遺跡と免疫機能

最近、ちょっと城跡めぐりに凝っているというのは以前に書いた。
お城というと、一般的には石垣と天守閣のイメージが強いと思うが、天守閣がちゃんと建っているお城というのは案外少ないようである。

立派な石垣というのも必ずあるかというとそうでもなくて、静岡の高天神城跡や尼子氏の根城であった月山富田城などは全体に土の城の印象が強い。
ただ立派な石垣はないけれど、要所に大掛かりな空掘が掘ってあって、また往時には各種の建物が建っていたであろう広大な曲輪(台地状になっている城郭内の平地、別名で二の丸とか本丸とかいうやつ)があったりする。

だいたい石垣のない土の城は、年代的には少し古く戦国時代中期以前のものが多いのだろう。
土の城はだいたい草木が鬱蒼と茂っていて、残存の構造物もほとんどないので「現役時代」の全体像がイメージしにくい。
そういうことが出来るようになればお城マニアとしては一人前なのだろうが、わたしの場合はまだまだその域には遠い。

城といういうのは、現在一般的なイメージである石垣と天守閣のパターンが確立するのは信長の安土城以降くらいで、それより前の城は敷地の円周に空堀を掘り、それで出た土砂を積んで曲輪を作ってその上に木の柵を立てて、天守閣は無いが遠くを見通せる望楼のような簡単な塔を建てたりしていたものらしい。

それは城というよりは前線にしつらえた「砦」と言うべきものかもしれない。
そういえば大昔九州に遊びに行った時に佐賀県の吉野ヶ里遺跡に行ったことがあるが、吉野ヶ里遺跡の基本構造はほとんどその土の城と変わらないように思う。
周辺に掘があって、いくつかの望楼が建っていたと思われる柱の跡が残っていたりするようだ。

吉野ヶ里遺跡は、集落が形成され始めたのは紀元前の縄文時代かららしいが、本格的な「砦」になったのは3世紀頃、ほぼ卑弥呼の時代くらいだと言う。
吉野ヶ里は背後は里山があって南に遠浅の海があり、そこから食料が得られて住みやすい土地だったのだろう。

古代吉野ヶ里の人口は一説によると5千人以上だったらしい。
それらの人々は、この豊かな土地を侵入者から守るため、掘りをめぐらし望楼を建てて警戒を厳重にしたものと想像する。

基本的に城とか砦の機能というのは、侵入者に対する効率的な防衛を最大の目的とすると考えられる。
そしてそういう大小の砦が、黎明期の日本列島にはいくつもあったのだろう。
それらの砦はひとつの共同体として、お互い知り合い同士、ある種の精神的紐帯で繋がっていたのだろうか。

ちょっと思ったのは、列島各地に存在した大小の砦が厳重に侵入者を排除しようとしている姿は、生物学における免疫機能のようであるなあということである。
これはあくまで個人的な想像であるが、砦を中心とする集落は免疫機能において自己と非自己を峻別し非自己をシャットアウトするように、よそ者を排撃していたのではないか。

そういう免疫機能的な性質が、人間の作る社会にはあるような気がすると、今少し考えているところである。
posted by ヤス at 16:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月13日

動物の群れについて

多くの動物は、「群れ」を形成する。
動物の群れというと、空を真っ黒にするくらいの大群を成すヒヨドリや、あたかも一匹の大魚のように振る舞うイワシの群れなどが思い出される。
あるいはバッファローやサルなどの高等哺乳類も群れを作るものが多い。

生き物が群れをなすというのはある意味では当たり前である。
多くの生き物は有性生殖、メスとオスがセットにならないと子供を作れない。
子孫を残すためには少なくとも雌雄で2匹の群れを必要がある。

生物学的には、群れの機能として魚類では水中での有害物質に対する耐性が上がったり、陸上動物でも集団を作ることで代謝効率が上がり、少ない食料で生き延びる効果があったりするらしい。
猿の群れなどでは、肉食獣が近づいて来たりすると外縁に居る個体が叫び声を上げて全体に危険を知らせる。
また群れを作っていた方が雌雄のペアリングが容易に出来て、かつ弱い子供を育てるのにも群れ全体で安全を確保すると都合が良い。

さらにオオカミやライオンなどの肉食獣の立場で言えば、狩りをするのに集団でやった方が良い。

ということで、たいていの動物は群れを作ることが大きな生存戦略になっている。

それは人類の場合も同じだろう。
黎明期の人類も、群れを作ることでライオンから身を守り、大きなマンモスを狩っていたのだろう。

しかし人類の場合に他の動物とやや違うことがあるように思われる。
それは人類における「群れ」と「群れ」との争いごと。
他の動物でもテリトリーをめぐっての群れ同士の小競り合いはあるのだろうけれど、人類のように殺戮を伴うものはあまり無い。

アフリカでは1万年以上前の遺跡で、武器で殺された痕のある数十体の遺体が埋葬された墓地跡が出土しているらしい。
少なくともその頃から人類は殺戮を伴う「戦争」をしていたようだ。

人類の戦争体質というのは、いったいどこがどうなって生じたのか不思議なものであるが、この戦争体質が人類集団の有り様に与えた影響はかなり大きいと思われる。

人類はライオンから身を守るだけではなくて、隣の村からやってくる同類の襲撃者からの防衛も考えないといけなくなった。
襲撃者から身を守るには、こちらの村の人数が出来るだけ多いに越したことはない。
そうやって、数百人規模の村だった社会集団が数千、数万の町になり、集落の周りに濠を掘ったり城壁をめぐらしたりするようになった。

そういうものが国の始まりなのだろうと思う。
posted by ヤス at 16:02| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月12日

国家の起源を考える

国家について、ちょっと考えている。

「国」というものは、いつ頃出来上がったものだろう。

かつて中学校か高校くらいに習ったのかもしれない。

日本における国家の成立は、歴史学的には、7世紀とか3世紀とか考え方によって諸説があるらしい。

人類史の最初の頃、おそらく3万年とか5万年とかの昔には、人間の社会はせいぜい百人2百人規模のものだったのではないかと想像する。
チンパンジーの群れは通常最大100頭ほどだという。
数万年前の人類は、道具の製作や言葉の使用などにより、文化的にはチンパンジーよりかなり高度化していたと思うのであるが、物理的な生活スタイルは、多分ある段階まではチンパンジーと大差なかったのではないか。

それがいつの時点か、群れの規模、というか社会の規模を大規模化させるような革命的な出来事があって、そこを境に百、2百人単位の社会があっという間に数万人以上に肥大化したのではないか、という仮説を勝手に考えている。

今から3千年以上昔の古代ギリシャのポリスであるアテネは、人口が30万人くらいもいたらしい。
おそらく今から1万年くらい昔に、地球上のあちこちで大規模な「社会」が出来たようである。


わたしの勝手な仮説によると、その革命的な出来事は人間同士の個体識別の成立、平たく言うとお互いに名前をつけて呼び合う、ということではないかと思っている。
人類の間では、太古の昔から身近な親や兄弟についてはそれなりに識別していたのかもしれないという気はする。
しかし伯父さんや伯母さん、いとこや孫くらいに血縁が離れていくと、もはや誰だかよく分からなくなっていたのではないか。

それがある時点で各人に名前をつけて呼ぶようになり、どこそこの家の太郎とか花子とかという識別が始まったのではないか。
それによって、当該人物の家系上の位置付けがより明確になり、社会構造の複雑化が容易になったではないか、という気がする。

そして同時に、以前は少し頭のいい猿が相変わらず群れていただけだったのが、各個人に多少の自我が芽生え始めたのではないか。
そういう気がする。
あくまでも個人的な妄想であるが。

そのあたりの社会と個人の関係性が、国家の何たるかを考えるのにやや重要な気がするのであるが、まあただの気のせいかもしれない。
posted by ヤス at 15:59| Comment(0) | 徒然なるままに