2017年02月28日

努力の正体

しばしば、結果よりもプロセスが大事だというようなことが言われる。
企業で行われている人事考課でも、管理職になって役職が上がるほど結果責任が問われるが、新入社員などは仕事に対する誠実さとか報連相とか、結果よりは態度・姿勢に関する項目の評価ウェイトが高くなるのが一般的であろう。
これは、企業として目先の成果を優先するよりは、特に経験の少ない若手社員に対しては成果を上げるための「能力育成」を優先した方が将来の成果が大きくなり、結果としてその方が特になる、という経済合理性があるからだと考えられる。

元監督をやっていたプロ野球の解説者の話で、選手を評価するのに現在のプレー能力よりも努力のプロセスの適否を見極めて起用する、みたいなのを聞いたことがあるような気がする。
現時点において顕在化している打率とか防御率などのプレー能力で上から順番にレギュラーを選ぶのが一番シンプルで効率的だと思うのだけれど、それだと顕在化していない能力を秘めいている選手の掘り起こしができない。

コンビニのPOSレジが死に筋の発見は得意だが、今から売る商品の売れ行きについて予測するのが不得意なように、十分な能力発揮の場を与えられていない若い選手の発掘というのは、それなりに難しいのは理解できる。
そしてその発掘の方法として、その選手の努力のプロセスを見る、言い方を変えるとその選手の「努力の才能」を見極めるというのが有効なのだと思われる。

しかし思うのは、努力とは一体なんなのだろうということである。
数ある動物の中で、人間ほど努力の好きな生き物は多分いない。
普通の動物は、眠ければ寝るし喉が渇けば水場に行く。
腹が減ればメシを食う。
手近にメシがない場合、その場合にやっとメシを求めて「努力」するのかもしれない。
しかし十分なメシにありつければその努力はただちに停止されることだろう。

多くの動物にとっては、なるべく本能のままに怠惰に、努力少なく生きるのが正義であるように思われる。

しかし人間の場合、努力はしばしば自己目的化する。
一般に、努力は美しく、努力は尊いとされることが多い。

それは冒頭述べたように、企業とかプロスポーツの業界でも、努力の有無を評価する考え方が存在するからに違いない。
しかし本当のことを言えば、成果を生んでこそ、その努力は初めて意味を持つ。
少し突き詰めて考えると、努力というのは何か必要な成果を上げるために「仕方なく」やるものということだろう。

そういうことで、努力という概念の扱いは少々厄介であるなあと思う。

人間が「努力好き」なのは、自分は今努力していると自覚している瞬間、脳の中でドーパミンがドバドバ出てきて快感が得られることもあるのだろう。

その快感は、ある意味そこそこ大きな「成果」であると思えなくもない。

とりあえず成果と対になっていない努力は存在意義がなく、努力なしで成果が得られるのならそれが一番楽チンで、なおかつ「正しい」のだ、と思ったりしている今日この頃である。
posted by ヤス at 10:15| Comment(0) | 徒然なるままに