2017年02月11日

暇つぶしの人生論

人間は何のために生きているのか、という疑問が時々脳裏をよぎる。

しかしこの問題に関しては個人的には結論が出ている。
その結論は「人間が生きていることには本来何の意味もない」ということだ。
この結論は個人的なものなので、他の人が何らかの意味を見出すことを否定するものではない、というのはもちろんである。

わたしが人生に本来意味がないと考えるのは、その方が随分と精神的に楽チンだということを発見したからに過ぎない。
下手に生きることに意味があったりすると、その「意味」に沿って生きることが必要になり随分窮屈そうだ。

昔、某中小企業の社長のオジさんが、その人の会社の入社面接で「人生の意味は何だと思うか」と質問するのだ、とおっしゃっていた。

そのオジさんによると、答えは「人は幸せになるために生きている」のだという。
その会社がその質問をどの程度まで重要視していたのかはよく知らない。
またこういう突拍子も無い質問に対して、もし面接に来た若者が落ち着き払って自分の考えを述べ始めたとしたら、それはそれで面白そうである。

しかし個人的には、人は幸せになるために生きている、っていう感じじゃないよなあと思っていたのを思い出す。

本論に戻して、人生が幸福を追求するためにあるのか、他の何かのためにあるのかは、基本自由だし、立証困難な壮大なテーマである。
そこは色々な考えがあって良いと思う。

わたしはある時から、人生には本質的な意味はないと思うことにした。
まず、宇宙の存在に何らかの意思は働いているのかという問題がある。
もしも天地創造した神様がいて、神様が何かの思いを持って宇宙を作ったとしたら、宇宙には何かの意味があるということになるのかもしれない。
そこから繋がって創造物の一つである人間存在にも、意味性が生じる可能性がある。

つまり神様がいると思うか思わないかで人生の意味の「有無」が決定する可能性がある。
しかし一方で、わたしのイメージする神様は善悪の判断をせず、宇宙の成長をただ何もせずに見ているだけ。
ノアの箱舟の大洪水を起こすような神様は、神様の世界でもかなり「人間かぶれ」してしまっているのではないかと思えてしょうがないのである。

人生に本来的な意味がないことは、つまり人間はどのように生きようが基本自由だという意味なのだと思う。
この自由というのが曲者で、人間があまりに自由過ぎる境遇に陥るとかえって戸惑い、時に恐怖を感じたりする、というのはわたしにも理解できる。

でも、やっぱり本来自由なんだからしょうがない。

さて、ここからどういう風に結論して文章を終えるかひとしきり考えたがうまく行きそうにないので今日はここで終わる。
暇だと、ろくなことが頭に浮かばなくて困る。
posted by ヤス at 16:44| Comment(0) | 徒然なるままに