2017年02月09日

自我に対する考え方

これはたぶん以前にも書いていて繰り返しになること必至であるが、構わず書く。
ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールダ」を大昔に読んだ。
主人公のシッダールタは小説の冒頭から修行に励んでいる。
その修行は瞑想し断食して「忘我」を目指すものである。
シッダールタは瞑想や断食や時には他の動物に憑依したりして自分が自分であることの意識をなくすことに精を出す。
しかしいつでも、一時的に忘我に成功してもやがて必ず自分に戻ってくる。

よく考えると恐ろしい修行だ。
もし修行が成功して完全に忘我した場合、シッダールタはシッダールタではなくなってしまう。
両親に会っても、親友のゴーヴィンダに会っても「初めまして」とか言って、まるで記憶喪失状態の人になってしまうんじゃなかろうか。

たぶん小説で描かれていた忘我の修行はそういう意味ではなかったのだろう。
あまり上手に説明できないが、自分が自分であることのアイデンティティは保ったまま、肥大化した自我が元となって生じる欲望や煩悩から自由になることを目指した修行であったと思われる。

自分をしっかり持つという意味での自我の成長は、しかし他方で様々な不都合ももたらす。
自分を大切にすること、向上心を持って自分を磨く気持ちは他人との比較の意識や過剰な自尊心や嫉妬心と表裏一体のものである。
マズローの欲求五段階説の上の2段階に尊厳欲求と自己実現欲求というのがあって、この説自体には批判が多いが、その種類の欲求は確かにあるような気がする。
しかしこの欲求を肯定的に捉えるか否定的に見るかというのは、個人的にはかなりむずかしい判断である。

ヘッセの描いたシッダールタは、これを批判的に捉えていたものと思われる。
一部の思想家や哲学者の著作など読むと、自己実現欲求にかなり否定的な意見も目につく。
SNS全盛のこの世の中では、過剰な承認欲求を持て余すある種の人々が暴れまわって少しうるさくもある。

この間久しぶりに映画館に行って、片渕須直監督の「この世界の片隅で」を観て、能年玲奈が声を演じた「すずさん」の姿を見るにつけ、己を抑えて淡々と、しかし楽しそうに生きる生き方、というのに少なからず共感を感じた。

しかし人類における自我の肥大化はおそらく留まることを知らず、また人間が生来持つ社会性を考えると承認欲求の存在を一概に否定する気にもなれない。
「自己実現的」な欲求も、それが他人との比較に左右されないで純粋に自己完結するものなら、あっていいような気がする。

昔読んだ「シッダールタ」のヘルマン・ヘッセのメッセージは、あるいはもっと違う意味だったのかもしれない。
いろいろと考えが揺れる。
わたしも少し断食修行でもしてみようかな、と思ったりする今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに