2017年02月08日

現代人と自我

「自我」というものについてたびたび考える。
近現代の人類史は、自我の解放、目覚めの歴史であったと考える。

基本的人権とか、男女平等とか、人種差別の否定とか、そういう近代的な概念は、すべての人間は自我を持ちうる、というかすでに持っていることを前提に存在するのだろう。
近代以前には、言葉の通じない異民族に対してはバルバロイや夷狄などと名付けて、彼らの持っているであろう自我を想像しないということがあった。
バルバロイや夷狄は「人」ではない、という感覚は、古代社会ではおそらくごく普通のものであったと思われる。

それがいつの時代からか、人種や文化の違いを乗り越えてすべての人間が実は同じ「人」であったことが発見される。
それは一つには人類の見聞が広まって、言葉や文化は違うけれどそれぞれの民族には天地創造の神話があり、宗教もお祭りもあることが分かった。
異民族の人々も、毎日お天気の心配をしたりして普通に生きているという、共通の生活感覚を持っているらしいことが共有できるようになった。

そうやって地球上のすべての人々はそれぞれ自我を持っている、人間らしい感覚を持っていて、むやみやたらと虐げたりすることに罪悪感を感じるようになったというのが近現代社会のベースにあるのだと思う。

しかし他方、最近の傾向として社会の分断という新しい問題が持ち上がっている。
アメリカとメキシコの国境に壁を作るというのは、分断の可視化としては相当に分かりやすい例だと思うけれど、この場合アメリカ人もメキシコ人もお互い同じような人間であることを十分に理解しており、お互いの自我を尊重しうる状況にある中での分断、というのがこの問題の難しいところだ。

この場合アメリカ人は、メキシコ人を道理の通じない野蛮人と思っているのではなく、相手を自我を持った普通の人間と理解した上で、自分たちの利益を奪いにくる悪いやつ、と思っているようである。
これは自我と自我のぶつかり合いであって、その意味で現代的な現象であるように感じる。

近代人は、中でも人口的に社会の大部分を占める一般庶民階層は、昔に比べるとかなり自我の自由というものを手に入れたのだと思う。
かつての農奴や産業革命時の工場労働者などと違って、現代の一般庶民は格差問題なんかもあるがそれでもかなり自由な身分だ。
現代の庶民は、数百年前に比べれば自分というもののあり方について考える機会も増えたことだろう。
マズローの欲求五段階説にある自己実現の感覚も強くなったことだろう。
しかしその自我の覚醒が、現代社会を分断する新たな火種になったとしたら皮肉である。
現代人は自分の持っている自我の感覚をどのように扱っていけばいいのか、考えるとなかなか難しい。
長くなったので今日はとりあえずおしまい。
posted by ヤス at 15:58| Comment(0) | 徒然なるままに