2017年02月02日

社会的動物としての人類

人間というのは考えれば考えるほど不思議な生き物だと思う。

今、とある建物の中にいて、ガラス窓の向こうに国道が走っていてその道の上を右から左から自動車がひっきりなしに行き交っている。
あの自動車を作ったのはたぶん人間である。

道を行き交う自動車はいろんなメーカーのものがあって、中には外車も混じっている。
だからいろんな地域に生きているたくさんの人間が寄ってたかってあの自動車の一台一台を作ったのだろうと推測できる。

しかし同じ人間が現実に自動車を作るのであるから、ちょっとお前も2〜3週間のうちに一台作っておいてくれよ、と誰かに頼まれたとしても、わたしには自動車は作れない。
それどころか、例えば自動車のエンジン設計のエキスパートとかいう人がいて、その人にちょっと自動車を一台お願い、と言ったところでその人も一人では自動車は作れない。

言うまでもないが自動車は何万点もの部品が組み合わさって出来上がっており、エンジンやシャシーやタイヤや電子機器などなどが、またそれぞれたくさんの人が寄ってたかって製造されたのを集めてきて作るものである。
それこそ原材料の鉄鉱石を掘り出したりするようなところから辿って行ったら、自動車一台完成するのにいったい何十万人が関わっているのか気が遠くなるような気がする。

自動車はほんの一例であるが、人類は一人一人は非力であっても何十万人何百万人の知力労働力を効率的に集合させることで、従来の馬車や人力車などよりはるかに高速で快適な乗り物を実現した。

人間が社会的動物であることの所以である。
これはたぶん、人間は自動車を作るために社会的動物になったのではなく、社会的動物であった結果自動車のようなすごいものができてしまった、という表現の方が正しいような気がする。

まあいずれにせよ、人間は何人かで寄り添っていないと生きていけないというのは確かなようだ。
その「社会」の最低人数が、十人なのか百人なのか、はたまた千人なのかはよく知らない。
しかし一方で、人類は何万人、何百万人分の知力労働力を魔法のように組み合わせて、自動車だって作れるし超細かいCPUチップも作れる、ロケットを作って月にだって行ける。
そういう大人数の力をぎゅっと凝縮するための組織工学的な技術もいつの間にか手中にしている。

そういう意味で、人類はまったく偉大で非の打ち所がない。
非の打ち所がないはずなのだが、しかしそうでもないのかもしれない。
そういうことを道を行き交う自動車の群れを見ながら考えた。
posted by ヤス at 10:41| Comment(2) | 徒然なるままに