2017年02月28日

努力の正体

しばしば、結果よりもプロセスが大事だというようなことが言われる。
企業で行われている人事考課でも、管理職になって役職が上がるほど結果責任が問われるが、新入社員などは仕事に対する誠実さとか報連相とか、結果よりは態度・姿勢に関する項目の評価ウェイトが高くなるのが一般的であろう。
これは、企業として目先の成果を優先するよりは、特に経験の少ない若手社員に対しては成果を上げるための「能力育成」を優先した方が将来の成果が大きくなり、結果としてその方が特になる、という経済合理性があるからだと考えられる。

元監督をやっていたプロ野球の解説者の話で、選手を評価するのに現在のプレー能力よりも努力のプロセスの適否を見極めて起用する、みたいなのを聞いたことがあるような気がする。
現時点において顕在化している打率とか防御率などのプレー能力で上から順番にレギュラーを選ぶのが一番シンプルで効率的だと思うのだけれど、それだと顕在化していない能力を秘めいている選手の掘り起こしができない。

コンビニのPOSレジが死に筋の発見は得意だが、今から売る商品の売れ行きについて予測するのが不得意なように、十分な能力発揮の場を与えられていない若い選手の発掘というのは、それなりに難しいのは理解できる。
そしてその発掘の方法として、その選手の努力のプロセスを見る、言い方を変えるとその選手の「努力の才能」を見極めるというのが有効なのだと思われる。

しかし思うのは、努力とは一体なんなのだろうということである。
数ある動物の中で、人間ほど努力の好きな生き物は多分いない。
普通の動物は、眠ければ寝るし喉が渇けば水場に行く。
腹が減ればメシを食う。
手近にメシがない場合、その場合にやっとメシを求めて「努力」するのかもしれない。
しかし十分なメシにありつければその努力はただちに停止されることだろう。

多くの動物にとっては、なるべく本能のままに怠惰に、努力少なく生きるのが正義であるように思われる。

しかし人間の場合、努力はしばしば自己目的化する。
一般に、努力は美しく、努力は尊いとされることが多い。

それは冒頭述べたように、企業とかプロスポーツの業界でも、努力の有無を評価する考え方が存在するからに違いない。
しかし本当のことを言えば、成果を生んでこそ、その努力は初めて意味を持つ。
少し突き詰めて考えると、努力というのは何か必要な成果を上げるために「仕方なく」やるものということだろう。

そういうことで、努力という概念の扱いは少々厄介であるなあと思う。

人間が「努力好き」なのは、自分は今努力していると自覚している瞬間、脳の中でドーパミンがドバドバ出てきて快感が得られることもあるのだろう。

その快感は、ある意味そこそこ大きな「成果」であると思えなくもない。

とりあえず成果と対になっていない努力は存在意義がなく、努力なしで成果が得られるのならそれが一番楽チンで、なおかつ「正しい」のだ、と思ったりしている今日この頃である。
posted by ヤス at 10:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月27日

ヤマト荷受け量パンク寸前

どうもクロネコヤマトの荷受け量が、ネット通販の増加でパンク寸前、大変な状況らしい。
ニュースでは主たる原因はアマゾンの荷受け量の増加だと書いている。
アマゾンの配送は以前は佐川急便もやっていたが佐川は採算悪化でアマゾンからは撤退した。
わたしのところでも少し前まではアマゾンで注文したら佐川のお兄ちゃんが届けてくれていたが、最近はもっぱらヤマト運輸が来る。
宅配便っていうのは、荷物を受け取り損なって不在通知がポストに入っていたりすると、再配達でまたタイミングを合わせるのも面倒くさいので配送センターに取りに行こうかと思うことが多い。

しかし佐川の配送センターは、ヤマトのように街中に小さいのが点々とあるのではなく、でっかいセンターがどんと一箇所に構えていて、そこに取りに行くことになる。
最寄りの配送センターはうちから10kmくらい離れていて車でもまあまあかかる。
しかもセンターがでかいので荷物もたくさんあるらしく、窓口に行って荷物が出て来るまでにものすごく待たされた。

かつてはそういうことがよくあった。

しかしヤマトに変わって荷物の引き取り先はぐんと近くなったし、コンビニ受け取りやきめ細かな荷物追跡などサービスの利便性はかなり向上して喜んでいたのである。

しかし、アマゾンの物流量の増加は留まることとを知らずヤマトのキャパシティはどんどん限界に近づいていいっているらしい。
この場合の解決策としてはヤマトがアマゾンと交渉して運賃を値上げするということが考えられる。
そうすればヤマト側では配送スタッフに払う賃金を増やすことができ、賃金が増えれば配送スタッフへの応募もいくらか増えるだろう。
そうすればヤマトの配達キャパシティはいくらか拡大して物流量の拡大を吸収することができる。

しかしことはそう簡単ではないらしい。
まずちょっとやそっとの賃金上昇ではスタッフの増員が難しいというのがあると推測される。
今は近年稀に見る人手不足時代であって、3K職種の宅配スタッフへの応募はそんなに簡単に増えないと思われる。

アマゾンだってそんな大幅な運賃値上げ交渉に、簡単に応じることはなかろう。

多分この問題の行方としては、アマゾンなどのネット通販業者は物流業者に頼らない独自の配送手段を構築する、ということで決着するのではないかと個人的には想像したりする。

一つの方法としてはアマゾンがコンビニ各社と直接交渉してコンビニを荷物の受け渡し場所として大々的に活用することが考えられる。
ただそうなると今度はコンビニスタッフが荷物の受け渡し作業の増加で地獄を見ることになるのは間違いない。

もう一つ考えられるのは、アマゾンが独自の受け渡し用の「コインロッカー」的な施設を街の中に設置することではないか。
コインロッカーはスマホを使って施錠解除できるような仕組みになっていれば、お客は好きな時間に荷物を引き取りに行ける。

まあ最終的には配送ドローンが荷物1個単位でオンデマンドで配達してくれるようになると一番便利だと思うが。

ヤマトとアマゾンの今後の対応に少し注目しようかと思っている。
posted by ヤス at 10:42| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年02月26日

そうじゃ吉備路マラソン終了

今日は「そうじゃ吉備路マラソン」があって、わたしもフルマラソンを走ってきた。
とりあえず他に書くことも思いつかないので、これについて書く。
(書くことを思いつかないのはいつものことだが)

まず、今日は天気が良かった。
このところ出る大会ことごとく雨模様だったので、久しぶりにお日様を見ながら走ることができた。
冬の雨の日っていうのは基本的にそんなに冷え込まないので、雨のマラソンはちゃんと走っている限りにおいてはそれほど寒くない。
少なくとも個人的にはそう思う。
それよりは気分に対する影響が大きく、なんかいつもより悲壮な感じが増す。
それに大会スタッフの人とかは寒くて大変だろう。
だから今日は天気が良くて気分も良かった。

今日のそうじゃ吉備路マラソンのトピックスは、何と言っても川内優輝選手である。
今回はフルではなくハーフへの出場だ。
ダントツで勝つのかなと思ったら、もっとすごい人がいて、倉敷高校のムァゥラ選手。
高校駅伝の優勝メンバーで今月はじめの丸亀ハーフも1時間0分台の鬼のような記録で3位に入っていたらしい。
高速コースの丸亀と違って起伏のある吉備路は手こずったか、貼り出してあった記録速報をチラ見したら1時間2分台だった。
ちなみに川内優輝選手は4分台。

ムァゥラ選手はケニア出身でまだ19歳らしいが、この調子だと東京オリンピックの頃にはフルマラソンで2時間切るんじゃないか。
とにかく規格外過ぎて驚く。
日本のマラソンは、こういう規格外のケニアやエチオピアの選手とどう戦うのか、陸連の人も今頃悩んでいるだろう。

あと、何かと話題の青山学院からも秋山選手が来ていてハーフ3位に入っていたが記録は今ひとつだったようだ。

マラソンを走り終えたあと、会場に出店していた屋台の列をウロウロしていたら、青学の秋山選手らしき人物が、女性やちびっこに囲まれてせっせとサインをしていた。
プロ選手でもないのに色々メディアなんかに取り上げられたばっかりに、大変だなあと思っていたら、その向こうで川内選手が串焼きの肉を頬張りながら、大勢のファンと次々記念撮影をしていた。
こちらは秋山選手と違って老若男女、幅広い人たちに囲まれていたが、川内選手は嫌な顔ひとつせずにこやかに応じていた。

有名選手は完走後に屋台で食べ物食べるのもなかなか大変なのである。
ちなみに川内選手は、肉の串焼きのあとは日生カキオコの屋台に進出してお好み焼きを注文していた。

ということで今日のそうじゃ吉備路マラソン、なかなか楽しい大会でした。
posted by ヤス at 16:19| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年02月25日

雑誌ニュートン民事再生

科学雑誌の「ニュートン」が存亡の危機にあるらしい。
近年の販売不振に加えて、元社長の出資法違反による逮捕があってりして、ついに民事再生を申し立てた。
ただし、再生手続きをしながら雑誌ニュートンの出版は継続するのだという。

雑誌ニュートンは創刊から35年、日本の科学雑誌の顔としてこれまで頑張ってきた。
たぶん、そうだと思う。
この雑誌が創刊するとき、わたしは高校一年生くらいだったようだが、当時鳴り物入りで広告が打たれて、編集長の元東大教授の竹内均氏もNHKの番組とかに出てけっこう有名だったので、そのインパクトはかなり大きかったように記憶している。

しかし時代の流れであろうか、2011年に17億円あった売上高が2016年には12億円に減少したという。

で、ニュートンの発行部数を調べてみたら、一般社団法人日本雑誌協会というところのサイトにたどり着いて、それによると2015年10月から2016年9月の一年間の発行部数は、115,417部。

ざっと見渡すと、一番多いのは週刊ファミ通300,000部、続いてVジャンプ258,333部。

他に20万部超えは見当たらない。
概してアニメ/ゲーム系が強く文芸誌は部数が少ない。
ニュートンの11万部は中の上くらいで健闘しているように見える。

ただウィキペディア情報ではニュートンは創刊時公称40万部だったそうで、現状はもちろんそれに比べるべくもない。

ニュートンという雑誌は、日本版のナショナルジオグラフィックを目指したということで、図版も多いし最近は独自編集の電子版もあって、その辺りの制作コストが収益を圧迫していたのかもしれない。

また30年前はまだ高度成長時代の余韻が充分残っていて、ニュートンが取り上げるような科学技術は、明るい未来を切り開くイメージとともにあった。
しかし最近は、少なくとも日本においては明るい未来がイメージしにくい時代である。
それに伴って人々の科学技術への興味も薄らいでいるような気がする。
個人的にも、10代20代の頃みたいに科学技術に興味を持ってニュートンの一冊でも買ってみようかという感じが今はない。
これは時代のせいというより歳のせいかもしれないが。

今後雑誌ニュートンが復権するには、電子版の充実とか時代にあった企画内容とかもあるのだろうが、もう一つ、世の中において「科学技術が明るい未来を切り開きそうな感じ」が必要だと思う。

北極や南極の氷が溶けたとか原発燃料の処理や廃炉問題、人工知能はひよっとして人類の敵じゃないかとか、最近のサイエンスのテーマは一頃より一層暗くなった気がする。
一方で最近の宇宙開発に関する話題、火星移住計画などは人類の活動域を広げるやや明るい話題ではある。

ニュートンなどの科学雑誌は、社会的課題となるようなテーマにも注力しつつ、科学が明るい未来を切り開く道筋を示していくことが、今後必要なことなんじゃないかと思った。
posted by ヤス at 15:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月24日

長時間労働は改善するのか

今日は2月24日金曜日だ。
例の「プレミアムフライデー」が今日から始まる。
毎月月末の金曜日に仕事を15時で切り上げるのがプレミアムフライデー。

わたしは以前からこの施策には批判的な感想を抱いていた。
そして今でもこの企画はそう長くは続くまいと踏んでいる。
しかし一つ思い直したのだが、たまにこういう奇策をやってみることはそれなりに意味があるかもしれないと、方々に出ている関連報道を見ながらそう思ったりしている。

わたしは20代の若かりし頃広告業界にいて、ちょうどバブルが崩壊した直後くらいだったがそれでもまだまだ仕事が忙しくて毎日事務所に缶詰になって働いていた。
朝9時の出勤からだいたい夜中の12時くらいまでは定番コースで、下手をすると午後11時半くらいに客との打ち合わせが入ったりして、あるいは締め切りが眼前に迫った仕事を抱えていてニワトリが鳴くくらいの時間まで延長戦を戦うこともしばしばだった。

しかしそういう中にあって、たまあに、多分年に1回か2回くらい、社長命令で「今日は早く帰れ」ということがあって、夕方の5時くらい、まだ日が明るいうちに帰るという奇跡を体験することがあった。
その時の、会社を後に家路に着く時の足が宙に浮くようなフワフワした感じは、今でもなんとなく覚えている。

また、ちょうどその頃に中小企業における「週休二日制」の義務化が始まって、途中から隔週で土曜日が休みになるという事件もあった。
それを境目にして隔週ではあるものの、「連休」というのが頻繁に発生するようになった。
当時のわたしにとってはこれもかなり画期的な出来事であって、それ以降連休を有効活用していかに遊ぶかと考える余裕も生まれたような気がする。

日常的に長時間労働をしている労働者に対して、強制的に早く帰るように促すことは、それがたとえ月に一回とかのことでも、労働者にとってはそれなりに新鮮な気分が味わえるだろう。
またそれが一つのきっかけになって労働者が自主的に仕事を効率化するようになり、自分の意思で余暇の時間を創造するために頑張るようになるのかもしれない。

政府なり産業団体なりがプレミアムフライデーのような奇手を企画して、労働者の意識変化に働きかけることは、だから少しくらいは意味があるのかもしれない。

しかし一方で飲食業とか時間効率化の困難な業界は、特に資金力のない中小企業などはこういう施策からは置いてけぼりをくらうことは必然で、その辺を考えないと公平性を欠いた話になる。

そもそも現代においては、コンピューターが安く高性能になりネットも発達して、少なくともホワイトカラーの仕事環境は飛躍的に高効率化している。
だから昔に比べたら、全産業的な労働時間は半分以下になってもおかしくないと思う。
それがそれほど短縮できないのは、意識の中身が企業も消費者も変わっていないからで、飲食・小売業における対人サービスのあり方なんかがそうである。

その辺をラディカルに改革して、レジの自動化とか接客のロボット化とかやらないと、ことは解決しないと思う。
そもそも下手な店員が接客するくらいなら、ペッパー君が相手の方がよほど精神的に望ましい、と思えることが今でもしばしばあるのである。

そういう根源的な意識変化ができるのはいつのことだろう、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 10:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月23日

地球型惑星発見

39光年先の恒星系に、地球と同じくらいのサイズの惑星が7つ発見されたという。
7つの惑星は地球のサイズの0.7〜1.1倍くらいで、そのうち3つは液体の水が存在しうる「ハビタブル惑星」なんだそうな。
液体の水がもしあったら大気もあるのだろう。
地球と同じく岩石でできた惑星であればその地表の風景は地球とほとんど同じなのかもしれない。

さて問題は、これらの惑星に果たして生命は存在するのかである。
少し前に話題になった「パンスピルミア仮説」というのがあって、生命の起源は宇宙にあるという考え方が現在有力になっている。

「DNAの元」が宇宙空間を漂っていて、それが彗星にくっついて地球の近くを通った時に地表に降ってきて、太古の昔にそうやって降ってきたDNAの元が地球生物の始まりだったそうな。
その考え方に従うならば、宇宙の方々にDNAの元が漂っているので今回発見された惑星にもそれが降って、それが何十億年かかけて進化して、今頃少し変わった生物になって生きているのかもしれない。

肝心なのは、その生物が知性を持っているか、人類のように論理的思考を行って高度な科学技術を獲得しているかどうかである。

昔、電波望遠鏡を使って「地球外知的生命体」が地球に向けて何か電波信号を発信しているのではないか、というのを探索する計画がいくつかあったように思う。

少し調べてみると、1960年に「オズマ計画」というのがあって地球に近い2つの恒星に狙いを定めて30日間観測されたが空振りだったそうだ。
1971年にはNASAが地球上にある1000基の電波望遠鏡を連携する「サイクロプス計画」を計画したが予算不足で頓挫したらしい。

今回発見された生命存在の可能性のありそうな惑星は39光年先なので、どうせなら大出力の電波発信機を作ってその惑星に向けて色々な電波を送信してみたらどうか。
運が良ければ80年後くらいには「返信」が返ってくるのだろう。


ちなみに、宇宙船に乗って39光年先に行く場合どれくらい時間がかかるのか調べてみた。
これまでに地球からの相対速度で一番速かったのは1977年に打ち上げられたボイジャー1号で、おおよそ時速6万kmで飛行しているらしい。
時速6万kmは秒速でいうと16km/sになり、一方で光の速度は秒速30万kmである。
ボイジャーの速度は光の速さの18750分の1なので、目標の惑星までは73万年かかる計算になる。

今後ボイジャーの速度より千倍速い宇宙船が完成したとしても39光年先への到達には7百年かかる。

そういうことで、宇宙は広い。
人類が広い宇宙を堪能にするには、人類の個体としての寿命が1万歳くらいにならないと難しそうだ。
posted by ヤス at 13:35| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年02月22日

今度の日曜日は吉備路マラソン

今度の日曜日、2月26日に2017そうじゃ吉備路マラソンが開催される。
この大会名は「そうじゃ吉備路マラソン」であって「総社きびじマラソン」ではない。
ということに今改めて気づいた。

さて、その「そうじゃ吉備路マラソン」にはわたしもエントリーしている。
種目はフルマラソンである。
さっきなんとなく大会要項を見ていたのだが、この吉備路マラソンには種目がたくさんある。
フルとハーフ、そして10kmと5km、小中学生のみの3km、さらにファミリー対象の1.5kmと800m。
ちなみにエントリー料金は上記の順番で5200円、4200円、3200円、2600円、1100円、500円、500円である。

さらに定員は3000人、4000人、3500人、3000人、2000人、3000人、2000人。
ちょっとゲスだが定員とエントリー料金を掛け算して足してみると単純計算で5千6百10万円になる。
昨年の大会では20059人が参加しておりほぼ定員いっぱいなので今年も多分これくらいのエントリー料金は集まっているのだろう。
(フルやハーフなど過半の種目で定員オーバーしている)

さらにゲスだが、総社市役所のウェブサイトで予算編成について検索してみたら平成28年度の予算でそうじゃ吉備路マラソンに2千405万円が組まれているようである。
上記のエントリー料収入と合わせておよそ8千万円。
吉備路マラソンは例年11月に開催される「岡山マラソン」と違って、大半のどかな田舎の道路を走るけれど、それでもこれだけのお金がかかるのである。

その岡山マラソンの方は、エントリー料が1万円もするのでわたしは出たことがないのだけれど、フルの定員が1万5千人なので掛け算して1億5千万円。
同じく岡山市役所のサイトを見ると28年度の予算組みでマラソンんに96百万円組まれている。
こっちはエントリー料収入と合わせてざっと2.5億円。
予算規模も格段に大きい。

それでやっぱり気になって、東京マラソンの予算組みを検索してみた。
そうしたら、東京マラソンは「東京マラソン財団」という基本財産8億円の財団法人が運営しているらしい。
東京マラソン財団の予算・収支はちゃんと公表されていて、それを見ると経常収益で32億円分の事業を行なっているようだ。
多分マラソン以外に色々なイベントなどをやっているのだろう。
だからマラソン大会単体でどれくらいお金がかかっているのかは、ちょっとすぐには読み解けなかった。


まあしかし、最近はこういうマラソン大会が日本全国で数え切れないくらい開催されていてかなりの参加者を集めており、その経済効果はかなりのボリュームになるだろう。
わたしも年間にいくつか出るのでそれなりに貢献していることになる。

そんなこんなで、わたしもかなりのオジサンになったので、今度の日曜日は心臓が止まらない程度に、適度に頑張ろうと思っている。
posted by ヤス at 10:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年02月21日

東芝のガス損失1兆円の行方

またまた東芝の話だが、今度はアメリカ・テキサス州の液化天然ガスの売買契約を巡って、最大1兆円にのぼる恐れのある損失発生のリスクが判明したらしい。

ニュースの内容は、東芝がアメリカの天然ガスプラント運営会社との間で20年間にわたる天然ガスの「液化加工契約」を締結したものの、その後のガス市場価格の急速な低下により販売のめどが立たなくなり、契約から3年経過した現時点で売買契約を獲得できていないというもの。
契約を締結した当初は、日本におけるガスの価格が今の倍くらいで、はるばるアメリカの天然ガスを液化してLNGタンカーで日本まで運んでも十分に採算が取れていた、ということらしい。
しかし最近エネルギー価格の低下でガス価格も半分になり、今のままではわざわざアメリカ製のガスを高い値段で買う理由はどこにもない。

東芝が結んだ契約では、年間220万トンのLNGを購入することになっている。
この220万トンは市場価格でいくらになるのだろう。

ガスの値段は業界的には「BTU」という単位を使うらしい。
BTUはエネルギーの単位でおおよそ1055ジュール、252calだそうである。
なんだかものすごく分かりにくいのだが、エネルギー関連の商品は石炭とか石油とかガスとか色々な形状のものがあって、それらの分量を統一的に表現するために単位エネルギーあたりの価格表示を使う、ということなのだろう。

で、LNGは液体なので契約するときとかは分量表示に「トン」という重量単位を使う。
タンカーに積む時にその方が便利だから、ということなのかな。
とりあえずLNGはトン表示だが、ガスの価格はBTUを使うので面倒な換算作業が必要になる。
日本における直近の天然ガス価格は、百万BTUあたり大体9ドルくらい。
ちなみにヨーロッパでは5ドルほど、アメリカではざっと2.5ドルくらいのようだ。
(けっこう違うな)

1トンのLNGは大体52百万BTUに相当するそうだ。
したがって東芝が契約した年間購入量のLNG220万トンは10億ドル強、現在の円ドルレートで1100億円強になる。
これが20年間分だと約2兆円ということになる。

ニュースで言っていたい最大1兆円の損失というのは、実質2兆円分のガスを半値で叩き売った場合の損失、という意味になる。

問題はここからで、東芝ではこの損失を免れるために世界最大の天然ガス調達会社であるところのJERAと提携してなるべく損失少なくガスを売りさばこうとしているようだ。
JERAは東電と中電が合弁で設立した燃料調達会社。

もしこの提携が「うまく行った」場合、東芝の被った損失の多くが総括原価方式で東電と中電管内の一般消費者が払う電気代に転嫁されることになる。

げに、恐ろしい話である。
posted by ヤス at 15:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月20日

ドバイの有人ドローン

1週間ほど前のニュースで、中東のドバイで有人の自動操縦ドローンが今年の7月にも営業運行を行う予定、というのがあった。

画像を見ると真ん中に人が乗るコクピットがあるクアッドコプターの形をした比較的小型のドローンである。
この機体自体は中国製のEHang184というもので、先月この機体の開発完了を紹介するニュースが流れていた。
開発したのはEhangという中国の会社で、元々は人が乗らない小型のドローンを製造販売している会社らしい。

で、有人の方のEHang184であるが、こちら値段は20〜30万ドルで上空500mまで上昇でき、最高時速は160kmだが運行速度は100km、機体重量は200kgで搭載重量は100kgだそうである。
モーターの出力は106kwでプロペラを含む全長・全幅3.9m、全高は1.4m。

出力の106kwは馬力でいうと144PSである。
ドバイの営業運行のニュースでは時速100kmで30分程度飛行可能ということなので、50kmくらいの移動に使えるということらしい。

ちなみに機内はエアコンも装備していて暑いドバイでも大丈夫ということのようだ。


このニュースを見て、いよいよそういう時代になったかと感慨深かった。
しかし同時に、いくらなんでも今年の夏に営業開始というのは早過ぎないかという意見も多いようだ。
これがもし日本であれば、法規制の準備や安全性の確認、運行実証実験などなどで5年や6年の準備期間が必要になるだろう。

ドバイというのはアラブ首長国連邦の構成国の一つでドバイ首長国というのが正式名称らしい。
要するに王様が政治を仕切っている専制君主国家である。
だから王様が「ドローンの営業を始める」と言えば始まるのかもしれない。
しかしこれに乗るお客さんはある意味命がけだ。

あと気になるのはこのドローンの飛行高度が何メートルくらいになるのかということ。
機体性能上は500mまで上がれるということだが、個人的には高度10mくらいの低いところをそろそろ飛んだ方が安心な気がする。
しかし一方であまりに低いとビルなどの障害物と干渉して飛びにくい。

一部で話題になったEHang社の「疑惑の」プレゼン動画では、ビルの林立する都市上空を飛んでいてそれを見ると2〜300mくらいの高度を飛ぶ感じなのかもしれない。

まあいずれにせよ、電動ヘリコプターで地上の渋滞を眼下に眺めながら悠然と目的地に飛べれば気分がいいのは間違い。
しかも現時点で既にひと飛び50kmも移動できるというのだから実用上は十分。

後はもうただ、ちゃんと落ちずに飛ぶのかどうか。
ドバイで予定通り今年の7月に飛ぶ日がまちどおしい。
(多分無理な気がしてしょうがないが)
posted by ヤス at 16:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月19日

経済成長と未来の社会

このところ暇に明かして「経済成長」について考えている。

経済成長は万病に効く。
日本国政府が抱える一千兆円の借金返済の目処も立つ。
国内のGDP規模が拡大することは既存の産業の生き残りにも大いに役立つ。

しかし今、この経済成長の行方に大きな疑問符が付くようになった。
ことの始まりはIT化、コンピューターやネットワーク技術の革新である。

本来は、IT技術はこの世界に新たな付加価値をもたらす経済成長の原動力であったはずだ。
しかし今起きている現象では、IT化によって企業間の取引プロセスが「効率化」され、要するに企業と消費者の間にあって間接的なサービスを提供する企業群がだんだん要らなくなってきた、ということがある。

典型例は小売や卸売の業界だろう。
これは当初は、川下の小売業界のM&Aによる巨大化、というのがあって徐々に「中抜き」が進行して行った。
そこにIT化による物流情報管理の効率化が急速に進んで物流業務にかかるコストがどんどん低下した。
物流コストが低下すれば、これまでそれで食っていた物流企業には存亡の危機だろう。
今はかろうじてトラックの運転とか荷物の上げ下ろしとか、ITだけでは効率化しきれないリアルな業務が残っているわけだが、これも自動運転とか無人ドローンの活用とかいう話が出てきて今後の展望が危ぶまれる。

もう一つ、今マイナス金利で危機が囁かれている金融機関であるが、これも将来本当に業界ごと消滅するような気がする。
現在の銀行というのは、「間接金融」という言葉が示す通り市中の余りガネを集めてきて資金が要る会社や人に貸して利ザヤを稼いでいる。

しかしFinTechとかクラウドファンディングとかがだんだん出てきて、さらに最終兵器のブロックチェーン技術が将来活用されれば、理屈としては間接金融は要らなくなる。

ついでに言うと会計士とか弁護士とかコンサルタントとか言う世の中的に知的とされる業務も人工知能の活用によってそのうち消える。
だから銀行がコンサルティングバンキングとかいくら声を張り上げても、来たるべき未来にはもうそう言う業務領域は残っていない気がする。

そうやって今まで企業と消費者の間、あるいは企業と企業の間に存在して間接的なサービスを提供していた各種の産業は、あと何十年か先には綺麗になくなっているだろう。
さらにさらに言うと、「政府」や「国家」という組織体も、ブロックチェーン技術のある未来では不要になる。
民主的意思決定は国会議員の先生方の「間接民主主義」よりも、人工知能とブロックチェーン技術を使ったものの方がはるかに透明で信頼できるものになるだろう。

そうやって考えると行政や政府組織は究極の「間接的組織」であると思われる。

こうしてあらゆる間接的産業は消滅し、その分のGDPが減少して既存の貨幣経済は崩壊する。
しかし地球上の人類はより平穏でのんびり暮らせるようになる。

そういう悪い夢を見たような気がした。
posted by ヤス at 14:34| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月18日

経済成長を考える

いっとき、断捨離という言葉をよく聞いた。
家に溜まった要らないものをパッと捨てるのは、いざやってみると結構難しかったりする。
世の中の論評をみると断捨離が流行った背景には、今の若い人が郊外に一戸建てを保有することを最終目的とするライフスタイルから、都心にワンルーム的なスタイルに移行している、そういう流れがあるのだという。
あえて狭い部屋でも都心に住みたいというのは、仲間と飲みに行ったりするのが便利だとか職場との往復時間が節約できるとかいうことがあるのだろう。
これは20世紀的なパラダイムにおける「しあわせ」が、今日かなり変化していることを表しているように思える。

かつての日本国民は貧乏で、特に田舎から上京したような人々は田舎にある実家のような一戸建てを都心周辺に所有すること、両親が田舎で実現していた財産状態を都心において再現することが一つの目標となったのだろう。
実際には、所得上の制約から電車で一時間とかの場所に、一戸建てまたはマンションを購入するというのが現実的な目標になったものと思われる。

高度成長期には、そういう人々がマイホームを手に入れ、自動車を買い家電製品を買い、子供を塾にやったりして活発な消費活動を行うようになり、それが経済成長の原動力となっていた。
高度成長期の人々が何を思っていたかというと、テレビで見る「奥様は魔女」のようなライフスタイルをいつか手に入れたい、それを手に入れて幸せになりたい、ということだったはずである。

実際に貧乏だった日本人が豊かなになりたいと思う時のモチベーションというのはかなり大きかったに違いない。
そして現在のようにそれなりに豊かになった日本人が、この先さらに豊かになりたいと思う気持ちは、40年前の何分の一か(もしくはほとんどゼロ)に縮小しているのは確かである。

これは日本ばかりでなく先進国が陥っている潜在成長率低下の構造である。

だからこの先、日本政府が目標としているGDP600兆円を達成するには、国民に対して「こうすればさらに豊かに幸せになれますよ」という絵を見せる必要がある。
そしてその絵がよほど日本人のモチベーションを掻き立てるものであれば、おそらく日本経済は再び経済成長に向けて動き出す。
(もうひとつ人口減少の問題があるが)

問題はそういう絵が今のところなかなか出てこないということだ。
かつてのように借家住まいの人が一戸建てを持ち、車のない人が車を買い、カローラを買っていた人がマークIIに行ってクラウンに買い換えるみたいな現象がGDP増加の実質だったわけだ。
それが今は持ち家はいらない、それより都心に住んで仲間と遊ぶのに便利な方がいいというようなライフスタイルに人々は幸せを見出している。

一般民衆が想定し実践ている「持たない」けれど便利で幸せなライフスタイルの絵を、日本政府が別の絵で多消費型の経済成長につながる方向に書き換えるのは至難の技のように思える。

まあ産業界の立場に立つならば、日本経済縮小のリスクには少々目をつぶっても、現在の人々が幸せを感じる仲間との関係性やシェア型ライフスタイルに向けたサービスを提供していくところにビジネスチャンスはあるということになる。

本当いうと、わたしはおじさんなので多消費型で分かりやすく経済成長する方が感覚的にはしっくりくるのだが、今の世の中その方向を模索するのはなかなか至難のようである。
posted by ヤス at 10:00| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月17日

リーンなライフスタイル

ちょっと大阪の心斎橋の商店街を通ることがあったのだが、平日の夕方だというのにものすごい人数でごった返していて、商店街のアーケードに立ち並ぶお店も心なしか景気良さげに見えた。
ただ行き交う人々というのがもうほとんど日本語を喋っていない人、おそらく中国の方や韓国の方や東南アジアの方々であったようで、今更であるが少し驚いた。

一つの仮想実験として、行き交う人々のうちそういう外国から来た方々を一瞬透明にして視界から消したことを想像した場合、多分通りの賑わいはかなり閑散としたものになると思われる。
目分量ではあるが、人通りの7割以上が外国人であったような気がする。

まあ白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫が良い猫ということで、外国の方々が買い物してお金を落としてくれれば大阪の商売人としてはまず御の字であろう。
実際倉敷の美観地区あたりでも外国人観光客の増加でお店の売上が対前年で2割増とか3割増とか、かなり上がっているところもあるそうで、日本経済にとって干天の慈雨と言える。

ただ外国人客の動向は、円相場によってかなり影響されるだろう。
わたし個人の考えとしては円高で実質賃金が上昇することが日本経済にとって真に望ましいと考えている。
相場としては対ドルで90円を切るくらいでないといけない。
ただし円高傾向になれば当然アジアからの観光客流入も減る。

外国人客減少による売上減少分を日本人の実質賃金上昇による分がカバーできれば問題はないが、そう上手くいくようにも思われない。
一つの希望的観測としては、アジア諸国はそれでも今後しばらくは経済成長を継続し購買力も年々上昇することが予想されるので、その購買力上昇分だけ円相場が並走して高くなるような状況が実現すれば良いのかもしれない。

まあそういう状況は、まずありえないと思うけれど。

しかしこれからの日本は、一体どういう方向に向いていけばいいのだろう。
総理大臣でも日銀総裁でもないわたしが考えたところで何の意味もないわけだが、しかし誰かが考えないといけない課題ではある。

日本に生きる一般庶民は、実質所得が目減りして国として窮乏化していく状況を横目で見ながら、その状況にうまく適応し個人として何とか生き延びることを考えるしかないのだろうか。

一つ思うのは、今までの経済思想の延長線上に日本の未来はないということだ。
現代社会の本質的傾向は、グローバル化による賃金水準平準化、つまり日本においては賃金水準の低下、そして情報技術革命による経済活動の「中間コストの消滅」だと思う。
したがって20世紀的な発想では経済の縮小状況、いわゆるデフレからの脱却はできない。
個人としての一つの生き残り方法は、例えば月15万円くらいの生活費でそこそこ豊かに平穏に暮らすライフスタイルを確立することだろう。

そのためにはもちろん自動車も持たず、洋服や持ち物も最小限にして食事も基本自炊。
みんながそうなるともちろん製品メーカーや洋服屋や飲食店は商売あがったりになる。
でも世界的な歴史の潮流を考えると、日本のような国はそういう「リーン」なライフスタイルに行き着くしかないのかもしれないと思う。

まああまり寂しいことばかり考えてもしょうがない。
明日はもうちょっと楽しいことを考えることにする。
posted by ヤス at 10:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月16日

産業政策の是非

東芝の今期3月末決算での債務超過が確実になった。
これによって東芝は東証一部から二部に降格になることが決定的らしい。
ただし東芝の場合、問題は買収した企業の巨額の含み損であるので、昨年のシャープの場合と違って直ちに資金繰りが行き詰まることはないのだろう。

で、念のために東芝のIRのサイトで確認してみた。
2016年3月期の現預金は9697億円ある。
四半期決算の資料で今期第二四半期(2016年9月期)を見てみると、5245億円。
かなり減っていることは減っている。
3月期末までのキャッシュの出入りの動向はよくわからないけれど、昨年までに各種の構造改革を実施済みで営業利益自体はそこそこ出る予想らしい。

ということで、かなり微妙な状況ではあるが、直ちに資金繰り難からの経営破綻という可能性は薄そうに見える。
ただし、そういうなまじ余裕のある状況が経営陣のタガを緩ませ、抜本的な対策に踏み込むことを躊躇させるのではないかという感じを個人的には懸念する。

東芝がこうなってしまった原因はいろいろあるのだろうが、巷間言われているように原発への過度な傾斜が問題の中心であることは間違いなさそうだ。
1979年のスリーマイル島原子力発電所の事故の後、アメリカの原子力産業は原発新設が完全にストップして、アメリカの産業界における脱原発の動きが始まった。

日本の産業界はこの動きを引き継いで官民手を携えて原子力に傾いていくわけだが、不思議なのは2011年3月の福島第一原発事故の後も多くの批判にさらされながらその方針を維持し続けていたことである。
現在の状況はどうだろう。
そろそろ経産省も方針転換を決意しただろうか。

原発に限らず、今の時代の日本に必要なのは「大方針の転換」、カタカナで言う所の「パラダイムシフト」であると思う。

詰まるところ、人間は変化する環境に合わせて自分の方を変えていくしかない生き物であると思われる。
人間の作る社会環境というのは、それは確かに人間が作っているものであることは間違い無いのだろうが、それはあまりに巨大で複雑であるために人間の意思では自由にならない。
そういうことを20世紀の100年をかけて人類は学んだはずであるのだが、日本の産業界や行政組織はそのことに目をつぶっているように見える。

あまり考えたくは無いが、これからも東芝以外に環境変化への対応を誤った企業が次々に経営危機に陥ることが危惧される。

ひとまず今後はあの「産業政策」というのは即刻やめた方がいい。
などと思った。
posted by ヤス at 09:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年02月15日

ニコンショックの続き

さて、一昨日のニコンの高級コンパクトカメラの発売中止の続き。
昨日は株価の反応が無いと書いたのだが、これは発表が一昨日の市場が閉じた後だったためのようで昨日のニコン株は約15%の下落を記録した。
今日のところは、相場は落ち着いている。

またその後ニコン関連の追加ニュースはほとんど流れていないようで、「ニコンショック」は一部のマニアだけのものだった感じもする。
しかし一昨日のニュースを耳にして、わたしとしては、いままでぼんやりとしていた不安がいよいよ具体的なカタチを見せ始めた感じがした。

カメラというのは、何十年も前には「ライカ一台家一軒」と言ったとか言わないとかいう話があるくらいの高級品だった。
戦後間もない頃は、家一軒とまではいかないまでもクルマ一台くらいの感じはあったのではないか。
それがどんどんコモディティ化して、やがて「写ルンです」が出て来て女子高生でもバシバシ写真を撮るようになった。
さらにデジカメ時代になって、フィルムカメラを凌駕する画質性能と便利さ・気軽さが2〜3万円で買える時代になり、さらにスマホカメラの時代が来て「撮影行為」はコミュニケーションツールの一部に取り込まれた。

数十年前カメラは家宝扱いで、必要な時にそっと防湿庫から取り出して恐ろしいくらいの念を込めてパシャリ、パシャリと撮るものだった。
現在でもその延長線上の製品として数万円から数十万円のレンズ交換カメラが存在する。
しかしわたしも含めて、もはや日常的な写真撮影はスマホで十分なのは言うまでもない。

これからの時代には、従来的な「作品づくりのためのカメラ」はまた数十年前並のマニアック製品に帰っていくに違いない。
そういう時代には現在のドイツのライカ社のように、ひたすらマニア向けの超高級品を売る会社だけが残るようになるのだろう。

CIPA(一般社団法人カメラ映像機器工業会)のデータによると、レンズ交換カメラの日本における市場規模は、ピークが2008年の2兆5千億円でその後2015年は1兆3千億円まで縮小しているそうだ。
要するにほとんど半分になっている。
ニコンが儲からなくなるはずである。

こういう話はカメラだけではなく、今後10年内に自動運転本格化が想像される自動車業界でも同じだろう。
2030年頃には自動運転車が圧倒的多数派になって、人間が運転するのは特別な免許を持ったごく一部のマニアだけの時代が来るのだと思う。
そうなったらトヨタもホンダもフォルクスワーゲンも、製品の大幅なコンセプトチェンジが必要になるだろう。
それはガソリン車から電気自動車への変化とはまた別次元のものであって、おそらく変化に追随出来な多くのメーカーが消滅する。

そして現在のように「ファントゥドライブ」を売りにする自動車製品としてはポルシェやフェラーリなどの特殊メーカーのみが残る。

今回のニコンのニュースは、そういう未来を予感させる衝撃的なものだったと思った。
posted by ヤス at 13:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年02月14日

ニコンの苦境

昨日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
カメラメーカーのニコンが当初2016年6月発売の予定で開発中だった高級コンパクトデジタルカメラ「ニコンDL」シリーズの発売中止を決定したのである。
DLシリーズは、今カメラ業界で流行りの大型1インチセンサーを搭載し、ナノクリスタルコートなど贅沢なレンズ技術を活用、なおかつ35mm換算18-50mm広角ズーム、24-85mm標準ズーム、24-500mm高倍率ズームの3機種でラインナップを構成する意欲作であった。

ちょうど一年前の2016年2月にDLシリーズの新発売はアナウンスされ、その後2度の発売延期発表を経ての今回の発売中止。
中止理由は採算のめどが立たなくなったことという。
この間、価格コムとかアマゾンの販売サイトには「予約受付中」の表示とともにずっと掲載されており、もちろん価格も付いていた。
というか今朝の段階でも販売サイトには価格付きで掲載されたままで、一番安い標準版が7万2千円程度、広角版が9万4千円、高倍率ズーム版が10万円超。
きっと予約客の中には前金を払った人もいることだろう。

さらにニコンのサイトにDLの製品情報は今でも載ったままである。
ページの上の方に「発売中止」と、取って付けたように4文字だけ追加されていて、よほど急な決定だったのだろう、事態の混乱ぶりを表している。

時を同じくして経済ニュースではニコンの希望退職者募集が報じられ、千人の予定が1143人も応募があったという。
その割には昨日の段階ではニコンの株価は目立った値動きはなかったようである。
市場もその程度の苦境は織り込み済みということなのかもしれない。

さてニコンはこの先どうなるのだろうか、非常に心配だ。
以前にも書いたが、ニコンは1990年代に半導体露光装置、いわゆるステッパーの製造に進出して、当時は日の丸半導体メーカーの隆盛もあって同業界で世界シェアの過半を握った。
しかし韓国や中国、台湾の半導体産業が成長してくるに従って、従来の品質最重要視のコンセプトからスループット重視、量産性重視への転換に乗り遅れてオランダの新興企業にあっという間にシェアを奪われた。

ニコンの財務は、自己資本比率も50%以上、5400億円あり、東芝などと違ってまだまだ経営危機には遠い。
その東芝とか「先輩」のオリンパスみたいに巨額粉飾でも発覚しない限り全然安泰の状況ではある。
今回の前代未聞の発売中止決定も聖域なき経営改革の揺るぎない決意の表れと捉えれば、好感できない話でもないのかもしれない。

これはわたしの勝手な予想だが、おそらく今後のニコンは、現在ラインナップしている1〜3万円クラスの中途半端なコンパクトデジタルカメラの製品ラインも早晩整理することだろう。
あと不振が噂されている1インチセンサーレンズ交換カメラ「ニコン1」シリーズも整理対象とする気がする。
そして経営資源を相対的に市場強者の一眼レフに集中することだろう。
またステッパー事業も比較的好調の液晶用露光装置に集中するのかもしれない。
しかし一眼レフ市場は急速に縮小しており液晶市場も先が読めないので、早急に「次の柱」を用意する必要がある。

カメラ事業に関して言えば、今後必要なのは主力機のミラーレス化だと個人的には思う。
ニコンカメラの象徴であるところのガラスプリズムファインダーを捨て去ることができるかどうかが、生き残りの鍵であるように思うのだが、さて一体どうなるのだろう。
posted by ヤス at 09:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年02月13日

地球の一部としての身体

人間の体は、40兆個か60兆個か知らないが、しかし大体それくらいの単位の細胞で出来上がっているらしい。
その細胞が、毎日ちょっとずつ入れ替わっている。
皮膚細胞は早く入れ替わって、心臓の筋肉細胞や脳の神経細胞は入れ替わりがないともいう。
しかし細胞がリサイクルしない部位でも代謝活動は行われているので、その中身は確実に入れ替わっているはずである。

そういう話を以前に生物学者の福岡伸一氏の本で読んだ。
で、福岡氏の本によると、人間は数年もすると体の材料がすっかり入れ替わって物質的にはほとんど別人になっているという話があって、妙に感動したのだった。

我々は普通、毎日ご飯を食べる。
ご飯を通じてタンパク質とかカルシウムとかその他の体の材料になる栄養素を定期的に補給して、それで体の細胞を少しづつ作り変えている。
代謝を維持するために人間は、1日平均して約60グラムのタンパク質を摂取する必要があるという。
単純に考えて、摂取した60グラムのタンパク質がそのまま細胞に置き換わったと仮定すると、体重62キログラムのわたしは1033日で全部入れ替わる計算になる。
まあわたしの体は半分以上水分で出来ていたりして、タンパク質の占める重量はもっと少ないのでそういう単純な計算は少し違うのかもしれない。

しかし水分も含めて口から入っていくる材料で体の各部分を逐一補修しながらわたしが生きていることはおそらく事実である。
わたしが食べているものはお米や牛肉やほうれん草とか色々だけれど、そういうものはさらに他の材料を取り込んで成長し、収穫され料理されてわたしの口に放り込まれる。
そういうお米や牛肉やほうれん草は、大地から栄養素を吸収し空気中の窒素や二酸化炭素を取り込んだりして成長するわけである。

人間は、そういう食べ物のサイクルを通じて相当程度自然環境に接続している、という感じがする。
もちろん人間だけでなく、「牛肉」もそうだろうけれど。

そういうサイクルをイメージすると、毎日ご飯を食べて、残りカスを排泄して、を繰り返す我々は自然環境の物質サイクルの一部であるという感じが強くする。
というか我々人間は、文明の力で自然環境を大きく改変することができるようになっているけれど、しかしその身体が依然として地球上の物質サイクルの一部であることに変わりはない。

だから我々は物質的には間違いなく地球の一部、というか宇宙の一部である。
それがエントロピー法則の微妙な乱れから、ある時タンパク質の塊が出来上がって、そのタンパク質の塊がその口に地球上の物質を放り込み、残りカスを排泄するようになった。

最近ご飯を食べたり残りカスを「排泄」したりする時に、そういうイメージが脳内をよぎる。
生き物の不思議である。
posted by ヤス at 10:34| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月12日

ウェスタンスタイル

昨日の朝、ちんたらジョギングしていたら、河川敷のランニングコースの上に野良犬が2匹で、仲良く散歩していた。
野良犬だから飼い主はいない。
犬2匹のみである。
いかにも野良犬然としたボサボサに汚れた毛並みが少し物悲しい感じがしないでもない。
しかし、本人(本犬か)たちはいたってとのんびりと、トコトコその辺を歩き回っている。

と、その瞬間、1匹の犬が草むらに向けて片足を上げた。
かなり短く「小」の方をシャっと出して上げていた片足を下ろした。
と、その片足が降りた瞬間に、続いてもう1匹が今度は微妙にへっぴり腰の感じで尻を地面に突き出した。
その1匹は2〜3秒間ぶるぶるっと尻を振動させて、「大」の方を済ませた。

犬のその瞬間は、なぜか人間のその瞬間のようにも見えた。
人間の場合、「小」をするときに片足を上げたりはしない。
しかし「大」に関しては、「小」の方がそのスタイルがかなりかけ離れている分、相対的に似ているように思えてくる。

しかもそれは洋式便器に座るウェスタンスタイルではなく、和式便所におけるアジアンスタイルであろう。

ここで少し脳内の情報伝達の電気信号が少し乱れたのか、やや違うことが頭に浮かんだ。

なぜ欧米の便器は座るスタイルで、日本の便器はしゃがむスタイルなのだろうかということである。

このことをジョギングしながら、脳に届く酸素が少し薄い状況で考えてみた。

まず、これは欧米と日本の日常の生活様式、つまり椅子を使うかどうかというのが大きいのではないかと思った。
欧米人の生活には椅子があり、伝統的な日本の生活様式に椅子はない。
ではなぜ欧米に椅子があって、日本にはないのか。

考えてみると不思議である。

走りながら考えて到達した一応の結論は、欧米の生活スタイルは基本寒冷地仕様であり、日本の生活スタイルは南方起源なのではないかということだ。
寒冷地の生活において、おそらく地面はとても冷たい。
一方で南方では地面は十分に暖かい。
だから南方生活では、休憩の際には地べたにゴロゴロ寝ころんでも快適である。
一方、特に冬季の欧米生活では冷たい地面に寝ころぶことなどできない。
むしろなるべく冷たい地面から一定の距離を取らないとくつろげない。
そういう状況で「椅子」は生まれたのではないか。
そのように想像した。

そして椅子のある生活様式が、ウェスタンスタイルの洋式便器を生み出したに違いない。

そういうことを少し酸素の薄い状態で考えたのだが、果たして真相はどうなのだろう。
そしてあの2匹の野良犬の行方が少し気になるなあ、とも思った。
posted by ヤス at 11:02| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月11日

暇つぶしの人生論

人間は何のために生きているのか、という疑問が時々脳裏をよぎる。

しかしこの問題に関しては個人的には結論が出ている。
その結論は「人間が生きていることには本来何の意味もない」ということだ。
この結論は個人的なものなので、他の人が何らかの意味を見出すことを否定するものではない、というのはもちろんである。

わたしが人生に本来意味がないと考えるのは、その方が随分と精神的に楽チンだということを発見したからに過ぎない。
下手に生きることに意味があったりすると、その「意味」に沿って生きることが必要になり随分窮屈そうだ。

昔、某中小企業の社長のオジさんが、その人の会社の入社面接で「人生の意味は何だと思うか」と質問するのだ、とおっしゃっていた。

そのオジさんによると、答えは「人は幸せになるために生きている」のだという。
その会社がその質問をどの程度まで重要視していたのかはよく知らない。
またこういう突拍子も無い質問に対して、もし面接に来た若者が落ち着き払って自分の考えを述べ始めたとしたら、それはそれで面白そうである。

しかし個人的には、人は幸せになるために生きている、っていう感じじゃないよなあと思っていたのを思い出す。

本論に戻して、人生が幸福を追求するためにあるのか、他の何かのためにあるのかは、基本自由だし、立証困難な壮大なテーマである。
そこは色々な考えがあって良いと思う。

わたしはある時から、人生には本質的な意味はないと思うことにした。
まず、宇宙の存在に何らかの意思は働いているのかという問題がある。
もしも天地創造した神様がいて、神様が何かの思いを持って宇宙を作ったとしたら、宇宙には何かの意味があるということになるのかもしれない。
そこから繋がって創造物の一つである人間存在にも、意味性が生じる可能性がある。

つまり神様がいると思うか思わないかで人生の意味の「有無」が決定する可能性がある。
しかし一方で、わたしのイメージする神様は善悪の判断をせず、宇宙の成長をただ何もせずに見ているだけ。
ノアの箱舟の大洪水を起こすような神様は、神様の世界でもかなり「人間かぶれ」してしまっているのではないかと思えてしょうがないのである。

人生に本来的な意味がないことは、つまり人間はどのように生きようが基本自由だという意味なのだと思う。
この自由というのが曲者で、人間があまりに自由過ぎる境遇に陥るとかえって戸惑い、時に恐怖を感じたりする、というのはわたしにも理解できる。

でも、やっぱり本来自由なんだからしょうがない。

さて、ここからどういう風に結論して文章を終えるかひとしきり考えたがうまく行きそうにないので今日はここで終わる。
暇だと、ろくなことが頭に浮かばなくて困る。
posted by ヤス at 16:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月10日

Amazon Go

いっとき世の中を賑わせていたビットコインをはじめとした「仮想通貨」関連のニュースであるが、最近またいろいろと話題になっている感じがする。
ことのきっかけは、三菱UFJ銀行が昨年発表した独自の仮想通貨=「MUFGコイン」発行の計画らしい。

あるいは、Amazonが実験している「Amazon Go」。
Amazon Goはレジのないコンビニ店舗で現在Amazonの本社の社員用売店などで実験段階だという。
現時点のAmazon Goでは、店に入るときにスマホ画面にバーコードを表示して個人認証する必要があるが、そのあとは店から好きな商品を取ってそのまま店を出るだけで、レジの手間がない。

ある解説記事によると、小売業のレジの人件費コストは売上比で2.8%を占めるという。
小売業の場合、多くの企業が売上利益率は1〜2%程度のギリギリの戦いをしている。
セブンイレブンを擁するセブンアンドアイホールディングスの直近決算では売上高対純利益率は1.33%である。

したがって、売上比で2.8%ものコストが削減されることはほとんど革命的な出来事と言って良いだろう。
ただし、Amazon Goでは棚を常時カメラで撮影し、その情報をAIがモニターするという複雑高度なシステムが必要になり、そのぶんのコストがかかる。

Amazon Goでは顧客が棚から商品を取ったらその顧客の「カート」に商品が入り、店を出るときにWiFiを仕込んだゲートを通過して決済が完了する。
理論在庫だけでなく実際の棚の様子もAIが管理しているので、レジスタッフのみならず在庫管理の手間もいらない。
もちろん発注もAIがやる。

これはもう全くのパラダイムシフトである。
現在流通業界で最高の経営効率を誇るセブンイレブンの牙城を破りうる最強の技術に思える。

で、このAmazon Goの決済システムであるが、これが将来的には既存のクレジットカードや電子マネーから仮想通貨を使ったものに移行していくということらしい。
ブロックチェーンの技術を使った仮想通貨を決済システムのバックグラウンドに「噛ませる」ことによって、既存のクレジット会社や金融機関の手数料も大幅に節約できる。

おそらく技術的には必要なものは現時点で全て出揃っていて、あとは実験店舗を通じて様々な現実問題をクリアするだけである。

あと2〜3年、おそらく東京オリンピックの頃には日本のコンビニもかなりの程度Amazon Go的な自動店舗になっているのではないか。
そうなったらセブンオーナーのバイト不足の悩みも解消するだろう。
さらに勢い余ってコンビニFCチェーンシステムそのものの屋台骨を揺るがす地殻変動を起こすような気さえするのである。

げに、技術の進歩は恐ろしいと思った。
posted by ヤス at 11:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年02月09日

自我に対する考え方

これはたぶん以前にも書いていて繰り返しになること必至であるが、構わず書く。
ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールダ」を大昔に読んだ。
主人公のシッダールタは小説の冒頭から修行に励んでいる。
その修行は瞑想し断食して「忘我」を目指すものである。
シッダールタは瞑想や断食や時には他の動物に憑依したりして自分が自分であることの意識をなくすことに精を出す。
しかしいつでも、一時的に忘我に成功してもやがて必ず自分に戻ってくる。

よく考えると恐ろしい修行だ。
もし修行が成功して完全に忘我した場合、シッダールタはシッダールタではなくなってしまう。
両親に会っても、親友のゴーヴィンダに会っても「初めまして」とか言って、まるで記憶喪失状態の人になってしまうんじゃなかろうか。

たぶん小説で描かれていた忘我の修行はそういう意味ではなかったのだろう。
あまり上手に説明できないが、自分が自分であることのアイデンティティは保ったまま、肥大化した自我が元となって生じる欲望や煩悩から自由になることを目指した修行であったと思われる。

自分をしっかり持つという意味での自我の成長は、しかし他方で様々な不都合ももたらす。
自分を大切にすること、向上心を持って自分を磨く気持ちは他人との比較の意識や過剰な自尊心や嫉妬心と表裏一体のものである。
マズローの欲求五段階説の上の2段階に尊厳欲求と自己実現欲求というのがあって、この説自体には批判が多いが、その種類の欲求は確かにあるような気がする。
しかしこの欲求を肯定的に捉えるか否定的に見るかというのは、個人的にはかなりむずかしい判断である。

ヘッセの描いたシッダールタは、これを批判的に捉えていたものと思われる。
一部の思想家や哲学者の著作など読むと、自己実現欲求にかなり否定的な意見も目につく。
SNS全盛のこの世の中では、過剰な承認欲求を持て余すある種の人々が暴れまわって少しうるさくもある。

この間久しぶりに映画館に行って、片渕須直監督の「この世界の片隅で」を観て、能年玲奈が声を演じた「すずさん」の姿を見るにつけ、己を抑えて淡々と、しかし楽しそうに生きる生き方、というのに少なからず共感を感じた。

しかし人類における自我の肥大化はおそらく留まることを知らず、また人間が生来持つ社会性を考えると承認欲求の存在を一概に否定する気にもなれない。
「自己実現的」な欲求も、それが他人との比較に左右されないで純粋に自己完結するものなら、あっていいような気がする。

昔読んだ「シッダールタ」のヘルマン・ヘッセのメッセージは、あるいはもっと違う意味だったのかもしれない。
いろいろと考えが揺れる。
わたしも少し断食修行でもしてみようかな、と思ったりする今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに