2017年01月28日

人類の主体性の獲得

さて、突然だが今「主体性」というものについて少し考えている。
人類の歴史は、主体性獲得の歴史であるような気がする。
最初は、猿とさほど違わないくらいの自我しか持たなかった原初人類が、次第に各個体がいろんな知識を蓄え、自我に芽生え、さまざまに自己主張をし始めて、要するにみんながだんだん主体性を持ち始めた、そういう流れがあるような気がするのである。

魚のイワシの群れなんかでは、ある一匹の偶然の方向転換が群れの全体に即座に伝わって、みんながそっちの方向に一斉に向きを変える。
あれと同じで、社会的動物である人類もある程度群れに合わせる、ほとんど盲目的に付和雷同するという行動原理が根底にあるのではないか。
というかどちらかというと、よく分からないがとりあえず群れの変化に付いていく習性の方が、個体独自で行動を決めるのよりもより支配的な特性であると思う。

人類は、何らかの群れに属していないと一人では生きていけない。
これは太古の昔から現代に至るまで続く、間違いのない現実である。
だから群れから弾き出されないようにすることが、生きていくためにまず必要なことになる。
そのためには群れの動きを阻害しないこと、群れが右に曲がったら自分も右に付いていく。
そうしないと群れが乱れる。

人類はその調子で何万年も生きてきて、つい数百年前までは、一部の読書階級や支配者階級以外には明確な自我が薄かったものと想像する。
でも現代の一般庶民は、少なくとも日本のような先進国では、みんな字も読めるしテレビだって観ているし、選挙にも行く。
彼らは中世の農奴に比べると、よほどたくさん自分の頭で考えることができる。
人権の意識もあり、ある程度のロジカルシンキングもちゃんとできる。

ところが、今の世の中にはフェイクニュースが溢れ、自分の信じたいニュースに飛びつく人が後を絶たない。
どのフェイクニュースに飛びつくのかは、これは多分その人が所属している「群れ」の種類によって決まる。
そして色々過激なニュースが飛び交って、あちこちで群れ同士の分断が生じて、軋轢が生じている。

こういう現象は、わたしのイメージでは各個人の「主体性の不完全」が原因で起きていると思う。

人類の主体性獲得の歴史はまだまだ途上にあると思うが、及ばずながらも自分の脳みそで考えることが、今必要であるなあと思っている。
posted by ヤス at 13:33| Comment(1) | 徒然なるままに