2017年01月11日

MRJ5度目の納期延長?

昨年の年末に三菱航空機が鋭意開発中の小型ジェット旅客機「MRJ」が5度目の納期延長になる見通し、というニュースが流れた。
現代のジェット旅客機は機体もエンジンも電子機器類も一昔前から比べると桁違いに複雑高度になっており、その開発はどんどん難しくなっているようである。
開発遅延と言えば2011年に初納入されたボーイング787も、今では普通に飛んでいるようだが、こちらも度重なる設計変更などで初飛行が大幅に遅れ、試験飛行中にもたびたび事故が発生、また商業飛行開始直後もバッテリートラブルで煙が出たり、とにかくトラブルが絶えなかった印象がある。

三菱は本格的なジェット旅客機開発が初めてで、日本の航空史上でも以前のYS-11から50年ぶりということで、開発難航はある程度想定されていた。
そういう開発経験の問題に加えて、航空技術の方も機体材料にCFRPと呼ばれる炭素繊維強化プラスチィックを使ったり、昔から比べて操縦系統が大幅に電子化されていたり、ちょうど技術的な世代替わりの時期、というハードルがあるように思われる。

まあそういう技術的転換点だからこそ後発の三菱が航空マーケットに打って出よう、ということになったのだろう。
それは敢えて技術的困難にチャレンジすることも意味していたわけで、そのチャレンジの姿勢は評価出来るんじゃないか。

MRJの開発に関しては当初は機体のほとんどをCFRPで作って軽量・高強度を実現する目論見であったようだが、実際設計を進めてみたら、MRJのサイズでは主翼は従来のアルミ合金の方が有利ということが分かって途中で変更したりしたらしい。
おそらくそういう試行錯誤が至ることろで発生して、開発陣は四苦八苦で昨年の初飛行にまでこぎ着けたのだろう。


三菱では今後開発費を積み増ししてでも実用化を急ぐ、としているが、それはそれで採算ラインのハードルが上がり、また5度目の納期遅延となればセールス上も痛手になって利益が出なくなるリスクがどんどん大きくなる。
チャレンジの姿勢は高く評価出来るのだが、それと実際に事業ベースに乗るかどうかはまた別の話である。
たぶん将来MRJに続く2機目が開発されるようならその時はもっと上手くいくと思うが、果たしてその2機目があるかどうか、ちょっと微妙な感じだ。

それと後20年もすれば、旅客機の世界も無人ドローンみたいに完全自動運転になるような気がする。

小型ジェット旅客機は今後マーケットが急拡大するらしいが、日本の航空機産業はそういうメジャーなマーケットを目指すより、自動運転のパーソナルな超小型飛行機とか、少し路線をずらして行った方がいいような気もするのであるが、とりあえずMRJにはいろんな意味でなんとか踏ん張ってもらいたいと思う。
posted by ヤス at 12:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月10日

天皇譲位問題

昨年の大きなニュースだった天皇陛下の譲位問題であるが、今朝見た報道によると、平成31年の元日に譲位を実現して元号を新しくする方向で検討されているらしい。
譲位の法的枠組みは、かねてから報道されている一代限り特措法で対応するということだ。

この問題については国民の9割ほどが天皇陛下の御意志を尊重すべきと考えているらしいが、一方で譲位は問題が多く摂政で対応すべきという一派もいる。
わたし自身も関連報道を目にするたびにしばしば考えてみるのだが、どうするのがベストかは正直まったく分からない。

ひとつ思うのは、現在の天皇には退位の自由が無いということで、つまり職業選択権が無いのはかなり問題だという点だ。
また、天皇やその御一家が気軽に引っ越ししたりするわけにも行かないし、それらの点で基本的人権が相当程度制限されていると言える。

日本はいちおう近代国家の枠組みとしてすべての国民に基本的人権を保証することを憲法でも謳っているが、しかし天皇陛下やその御一家に関しては「例外」ということになる。
基本的人権を尊重することを基本原則とする国の枠組みの中に明確な例外を設けて、その人物の自由を著しく制限することは果たして許されることなのかなと疑問に思わなくもない。

近代以前の王様というのは、やはり国の中で人権の取扱いは他の人民と明確に別扱いになっていたわけで、それは今日の天皇とは逆に絶対的権能を持った支配者として唯一の人、ということだった。
しかし人権や平等を謳う近代国家思想の下で「君主制」を擬似的に存続させようとすると、かえってその「疑似的な君主」の人権を抑圧する結果になってしまうのである。

そういう点を考えると、今の世の中で天皇のしくみを残していくことにはかなり矛盾があって、その矛盾を解消するのは難しそうだ。

わたしの個人的なイメージでは、近代国家の枠組みの中で天皇の位を今後も永続していくのならば、それは今までにないカジュアルな天皇像というのを実現しないと無理な気がする。
そのためには女性・女系がダメとかは言っていられない。
あるいはもっとラディカルに、血統を固守するという考え方そのものも見直した方がいいとさえ思う。

例えばチベットのダライ・ラマみたいに、血統に依らずランダムに選んだ人物に一定期間象徴君主の務めをやってもらうというのが、現代の象徴君主制としては比較的良いような気がするのだが。

まああんまりいい加減なことを言っているといろいろ怒られそうなので、今回はここでおしまいにしておくが、いずれにしても男系の継承者が枯渇しつつある現状では、天皇のあり方については今後もいろいろと問題が出てくるような気がする。
posted by ヤス at 11:02| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月09日

ゾンビ映画

最近は映画館に行かない。
元々近視がひどい上に、最近はジジイになったせいか目がしょぼしょぼして暗い映画館でスクリーンを凝視し続けるのが少しつらい。
だから映画は、自宅のパソコンディスプレイで見ることになる。

しかも今はHuluやNetflixやAmazonプライムビデオなど、月額定額制の配信サービスが充実してツタヤにDVDをわざわざ借りに行く必要もない。
そしてわたしの場合はAmazonのプライムビデオで映画を時々観る。
プライムビデオではアメリカのテレビドラマなんかも楽しめて、暇つぶしのためには便利なことこの上ない。

ところで、そうやって映画やテレビドラマなんかをちらちら観ていてひとつ思ったのである。
なんだかやたらと「ゾンビ」ものが多いなあと。

数あるゾンビもののドラマや映画には鉄板のお約束がいくつかあると思われる。

最初は一人の「感染者」から始まって、やがて爆発的にみんなゾンビ化して行くこと。
さらに「感染」のスタイルは決まっていて、感染者のゾンビに噛まれると数秒後または数時間後に噛まれた人もゾンビになること。
ゾンビ退治の方法として有効なのは鉄砲で頭を撃ち抜くこと、あるいは弓矢やナギナタ状の武器で撃ち抜くのでも良い。
などといったことであろう。

思い返すと個人的には、昔観て明確に憶えている最初のゾンビ映画は、その名も「ゾンビ」というB級(もしくはC級)のやつで、テレビのロードショーで観た。
この映画はゾンビに囲まれて逃げ惑う主人公たちが最終的にでっかいスーパーマーケットにたどり着き、売り場にある物資を確保して籠城するが、やがて別にたどり着いた「ならず者」達と小競り合いになってそのスーパーを追われて行く、というようなストーリーだった。

調べて観るとこの映画は1978年頃に公開になったイタリア映画らしい。
監督はジョージ・A・ロメロというその筋では有名なアメリカ人で、映画の舞台もアメリカらしいのだが、YouTubeでちらっとワンシーン観てみたら役者達はどうもイタリア語で喋っている。
マカロニウエスタンなどと同じように、予算上の都合があったのかもしれない。

ゾンビ映画というジャンルでは、このマカロニ・ゾンビ映画が最初なのかなと思っていたのだが、ウィキペディア等を見ていたらどうもそうでもないようだ。
なんでも映画黎明期の1930年代にはいくつかゾンビものが登場していたらしい。
邦題「恐怖城」、原題「White Zombie」というのがあって、ドラキュラ役で名高いベラ・ルゴシという俳優が出ている。
もっとも特殊メイクなど無い時代のことなので、ゾンビの登場シーンはかなり控えめのようであるが。

死者が蘇ってウロウロ歩き回ったらおっかない、というのはどうも古今東西で普遍的なようで、「zombie」のルーツはブードゥーの呪術あたりに起源があるらしいが、それにしても映画黎明期から今日に至るまで、廃れることなく新作が作り続けられているゾンビ映画という一大ジャンルは、もしかしたら不死身なのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月08日

働くことについて

最近、人工知能に仕事を奪われるとか、近い将来消えて無くなる仕事はこれだ、とかいう話が流れているのをよく目にする。
現代社会では、人間はなんらかの職業に就くことが必要である。
しかし素朴な疑問として、ほんとうに人間はどうしても働かないといけないものなのかと時々思ったりする。

人間が働かないといけない理由のひとつとして、人間が社会的動物である、ということがあるのかもしれない。
人間は、たぶん太古の昔から社会を作って生きてきた。
その社会は、最初は猿の群れに毛が生えた程度のものだったかもしれないが、やがてだんだん複雑・高度に発達してきて、さまざまな知識を創造し蓄積し、科学技術の発達を促して他の生き物には出来ないことを実現してきた。

そういう知識や技術の中には、より機能的な社会組織のあり方のような内容もあって、民主主義とか国民国家とか資本主義経済とかのシステムも生み出されて来た。
で、そういうシステムの中に貨幣経済の仕組みもあって、貨幣を仲介にした経済がなにかと効率的で便利だという話になったのだろう。

だから現代社会に参画するためには、人々はある程度の貨幣を持っていないといけない。
国家を維持するために国民には納税の義務があり、税金は年貢米でなく貨幣で収める。
少なくとも税金を収めるために貨幣を稼がなければならず、そのためには仕事をして貨幣による所得を得る必要がある。

国家は、外部からの侵入者を防ぐことや国内の治安維持、困っている国民を助けたりすることや教育サービスを広く施すことなどで、高度で快適な現代社会を保つために必要とされている。
もしここで、国民の大半が貨幣経済に飽いて自給自足の生活を始めたりすると、たぶん今の日本という社会システムはガラガラと崩壊する。

だから人々がそれぞれ職業に就いて貨幣を稼いでいるのは、直接的には稼いだ貨幣でいろんな商品やサービスを購入し、自分自身がより良い生活をするのが目的だが、間接的には貨幣経済の社会を維持することで現代の社会システムを支えている、ということが言えると思う。
でもみんな、普段は社会システムを支えるために貨幣を稼いでいるという意識はあまりないのではないかとも思う。

貨幣の本質というのはたぶん「信用」だと思うが、ということは、現代の社会がなんとかカタチを保っているのは、人々が貨幣を仲介にして信用を上手くやりとりしているからなのだろう。
そうやって考えていると、やっぱり人間は働けるうちはがんばって働かないといけないのかなあ、思ったりした。
posted by ヤス at 11:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月07日

成長と拡大

トヨタ自動車のメキシコ工場の増産計画を受けてトランプ次期大統領がこれに注文を付け、トヨタ株が一時急落するというニュースがあった。
関連報道によると、どうもトランプは「増産計画」を「工場新設計画」と勘違いしたらしいとか、トヨタは当該の計画によって米国内の雇用はむしろ増加すると表明したり、いろいろたいへんらしい。

トランプとしては、勘違いであろうが何であろうが、あらゆる企業の活動に対して時々今回のような牽制球を投げておくことで、その行動をそれなりにコントロール出来ればそれでよいのだろう。
今回のトヨタへの牽制球には、アメリカ国内への投資は歓迎するが隣接する国の工場で作ってアメリカに輸出するというやり方は原則としてNGというメッセージが強くにじんでいる。
ましてや不法移民を大量に送り込むメキシコでの増産がオッケーなわけがない。

トランプは、たぶん少なくとも4年は大統領をすると思われるので、向こう4年間はこれまで全世界を席捲して来た「グローバル化」が、少し一服するのかもしれない。
人口増加が著しく、先進国に比べて経済成長率の高い国々に多国籍企業が投資を行うことで「グローバル化」はこれまで進んで来たのだと思うが、その流れが部分的に停滞することになるのかもしれない。

それでもやはり、企業サイドとしては成長率の高い新興国への投資を止めるわけにはいかないのだろう。
より「率」の良い案件に投資しようとするのは企業というものの本能だからしようがないのである。

しかしここでふと疑問に思うのは、世界中の国々が一通り成長して現在の先進国並みに成長率が鈍化したら、「率」に敏感な巨大企業群はいったいどうすればいいのだろうか。
あんまり正式なデータに当たっているわけではないが、たぶんあと50年くらいしたら今最後の「フロンティア」として残っているアフリカ、とりわけサハラ以南の大陸南部の国々もそれなりに豊かになっているような気がする。

50年が100年先になるのかもしれないが、しかしそう遠くない未来に、世界中の国がそれなりに豊かになって成長が止まるだろう。
そうなれば世界中から移民を集めて成長を続けていたアメリカも停滞期に入るのではなかろうか。
その辺りが、資本主義の抱える根本的問題であることはまず間違いない。
その問題に対する回答は、イーロン・マスクが火星を目指すみたいに宇宙を目指すのか、それとも別の何かなのか。

少し思うのは、これまでの20世紀的な意味での成長は、もっぱら「拡大」を意味していたような気がする、ということである。
現代は、人口も経済活動の規模も近代以前と比べたら飛躍的に「拡大」したけれど、それ以上に、病気で死ななくなったり気軽に海外旅行できたり、質的な変化が大きい。

これからの方向としては、数字上の拡大にあまりとらわれ過ぎない形の「成長」を定義することが必要なのは、たぶん間違いない、そう思うのである。
posted by ヤス at 13:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月06日

成長のステージについて

今さら思い出すのもアレだが、去年はリオオリンピックがあった。
オリンピックの中身はあんまり観た記憶が無いのだが、個人的に昔水泳をやっていたので、水泳競技だけはYouTubeでしっかりチェックした。
今回の日本の競泳チームは金メダルも獲ったし全体にまず満足のいく結果だったと思う。
中でも注目したのは女子では池江璃花子、男子では絶対エースの萩野公介だった。

この二人を観ていて、スポーツ選手の成長のステージというものについて少し感想を持った。

池江選手はまだ16歳で若くて伸び盛り、対する萩野選手は22歳で前年に怪我で休んだこともあり、全盛期の状態に復活すればとりあえず御の字、の状況だったと思う。
池江選手は、たいへんなプレッシャーもあっただろうと思うがそれを感じさせない快泳で日本新記録を連発した。
身体も選考会時に比べても一回り大きくなった感じで、外国人に負けないパワフルな泳ぎを見せてくれたと思う。
萩野選手は400m個人メドレーはベストタイムで金メダルだったが、200m自由形、200m個人メドレーは9割くらいの出来に見えて、悪くはないが最高の泳ぎとも言えない感じで、まあそれでも世界に伍して戦うその姿は非常に頼もしかった。
思い返すと萩野選手も4年前のロンドンは高校生で、大幅に自己ベストでメダルを獲った状況は今回の池江選手に重なる。

萩野選手はまだまだ若いけれど競技者としてはほぼ世界のトップに立つ位置におり、その成長曲線は数年前までは右肩上がりに急上昇していたのが、今はそんなに簡単に記録が出ないところに来ている。
たぶん池江選手も、もう数年で練習を積み上げてもなかなか記録が出ない状況に入っていくものと思う。

スポーツにおける競技力は、練習を重ねて力を付ければ付けるほど、だんだん記録が上がりにくくなる。
そうなると、水泳の場合では泳ぎの部分以外にターンの技術を向上するとか、水中姿勢をちょっと見直すとか微に入り細に入りの試行錯誤で100分の1秒単位でタイム短縮をやる感じにどうしてもなるのだろう。

問題は、そういうステージに入った時に選手の方がどれくらいモチベーションを維持出来るかということだと思う。
面白いように記録が伸びている時期には、練習していても楽しいからますます記録が伸びる好循環を保てるが、いったん伸びが止まると精神的にトンネルに入って記録も返って交代していく選手も少なくないと思う。
かつて池江選手のポジションいた女子選手は平泳ぎ・個人メドレーの渡部香生子だと思うが、渡部選手は今ちょっとしたトンネルに入ってもがいているように見える。

やや飛ぶが、企業の成長も日本国のGDPも成長ステージが止まった時からが真の勝負だと思うのである。
(GDPの方については「成長」の再定義が必要だと思うが)
ということで渡部香生子にはもう一発奮起して欲しいなあ、と思う。
posted by ヤス at 11:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月05日

売上か利益か

企業経営の考え方にはいろんな切り口があるが、その中のひとつに「売上重視」と「利益重視」のどっちで行くか、というのがあると思う。
よく知られた例で言えば、それまで売上重視の拡大主義で突っ走ってきた元小売業界最大手のダイエーに対し、イトーヨーカドーは利益重視の路線を取り、現在ではイオンと並んで業界盟主の座を維持している。

企業経営というのは、基本的には投資に対する利益を出来るだけたくさん獲得したいというのが本来の目的であろう。
そういう意味では、利益重視はある意味当たり前のことを言っているのに過ぎない、という風に見えなくもない。
そこで敢えて売上重視ということを言う経営者が多いのにはきっと理由がある。

少ない売上の中でたくさんの利益を生み出すことは、同額の利益を沢山の売上から生み出すより難易度が高いに違いない。
そのためには、独占とか参入障壁とか独自の技術とか、鍵になる「何か」が必要である。
あるいはもう少し地道に、トヨタ生産方式的なリーンな在庫管理・生産管理とか極限的なコストカットとか、とにかくより精緻にがんばっていろいろコントロールしていかないと無駄なコストで利益が減少してしまう。

わたしの勝手な観測によると、多くの中小零細企業の経営者はたいてい売上重視の人が多い。
売上に対してはわりかしハッキリとした目標を立てている人が多いが、利益に対しては必要な経費を払って借入の返済をして、それで最終的にキャッシュが不足にならなければそれでいい、というような感じだと思う。
非上場・同族企業の中小企業では、必要以上に利益を出しても税金を取られるだけでいいことがないということになるので、あまりガツガツと利益を追いかける、ということにはならないのはまあ当然なのだろう。

しかし最近は日本の人口も減少に転じ、何より若い人の数が減ってマーケットが縮小気味である。
あるいはこのところの消費低迷でそもそも赤字が続いている会社も多い。

そんな情勢の中では限られた売上の中から効率よく利益を確保したい、という考え方が日増しに強くなっているのではないかと推測する。
もしそういうマインドが強くなっているとしたら、いろんなコストを今まで以上に削ることが多くの会社で行われるようになる。
でも考えてみると、ある会社のコスト削減は「そのコスト」の販売元である会社の売上減少につながる。
あるいはコスト削減でいの一番に削減対象になるのは従業員の人件費だろう。
より多くの会社が売上重視から利益重視にシフトすると、社会全体では縮小均衡に陥ってますます利益を出すのが難しい状況になっていく。
これがいわゆるデフレという状況だろう。

売上重視の経営方針は少し大雑把なやり方のようなイメージが個人的にしていたのであるが、上記のような意味で、社会全体の循環ということを考えるとそんなに悪いものではないと思える。
今問題になっている資本の一部への集中とか格差問題とかを考えると、売上偏重主義もまあまあありないんじゃないか、そんなことを考えたりした。
posted by ヤス at 11:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月04日

補助装置としての意識

少し前から「意識」と「無意識」について時々考えている。
最近の結論としては、「意識」は「無意識」の補助装置であり、「無意識」が元々の主体で人類進化の過程で「意識」なるものがだんだん出来上がってきたのだろうと勝手に思っている。

しかし「意識」というのは、その萌芽のようなものは犬とか猫とかの高等哺乳類にももちろんあるに違いない。
さらにチンパンジーなどの霊長類においては、かなり人間的な意識に近い思考を行っているんじゃなかろうか、などと推測する。

わたしの勝手な理解によると、「意識」というのは大脳新皮質、人間の脳みその大部分を占める進化的には新しく出来た部分が担当している。
「無意識」の方は、しばしば爬虫類脳などと言われたりする脳幹や哺乳類脳の大脳辺縁系などが担当しているのではないか。
その辺は専門の書籍に当たって調べた方がいいのかもしれないが、とりあえず先に進む。

脳みそというのは、例えてみればタマネギのような層構造になっていて、進化的に古くからある部位の上に、だんだん新しい部位が積み重なって出来上がっている。
「意識」という補助装置も、いつの頃からか「無意識」の上に形成されて来てだんだん発達してきたものだろう。

昆虫なんかの動きを見ていると、その行動パターンがあらかじめプログラミングされたものに基づく反射によって決定されているように見える。
それが、生物がいろいろ進化して鳥類やさらに哺乳類になると、恐怖や愛着などの感情が芽生えてきて、単純な反射的行動を補足するようになったのだと思う。

シマウマがライオンにお尻をかじられて、すんでのところで脱出したとしたら、そのエピソードを恐怖の感情とともに記憶して、次回からはライオン的なものに対する警戒を強めて生存確率を高める。
そういう進化的なメカニズムがあったに違いない。

その延長線上に、「意識」というものを位置づけることが出来ると思う。
「意識」というのは、生きているうちの体験をいろんな感情とともに記憶する「情動」の機能を一歩進めて、言語的な抽象思考、論理思考を行うところに大きな特徴がある、ということにしておく。


人間の場合、明日の朝までにやらないといけない仕事があって、そのためには徹夜しないといけない場合、中にはサボる奴もいるだろうが、いくらかの人々は真面目にやる。
しかし哺乳類的には、眠たければ眠り、腹が減れば食うのが正解だ。
その方が疲労せず、生存確率が高まる。

仕事で徹夜するような生真面目な行動パターンは人間ならではで、ある意味「意識」というもののなせる技だと思う。

その辺りのことをぼんやり考えていたのだが、やや字数が過ぎたのでひとまず今日はおしまい。
posted by ヤス at 10:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月03日

現代の自我がぶつかり合いについて

少し前のニュースで、大リーグの恒例行事の新人に対する「仮装儀式」を規制するというのが流れていた。
なんでも大リーグ機構が選手会と合意した新労使協定で「選手へのいじめ」を禁止する条項が含まれているとのこと。
恒例の仮装儀式で女性蔑視や国籍差別などを連想させるものは禁止になるらしい。

今までもこの仮装儀式はメディアにたびたび流れていて、松井やマエケンとかの画像も何度か見たがそれなりに喜んでやっていたようである。
しかし、中にはあまり嬉しくない新人選手もいたのかもしれない。
ちょっと調べたらイチロー選手は新人時代にフーターズの格好をさせられたらしい。
しかしその画像が出回らないように対策をしたそうで、そのせいなのか単にやや昔だからなのか、イチローの仮装画像は見つからなかった。

ひょっとしたら、イチローは仮装がよほど嫌だったのかもしれない。

まあ世の中的には、こんな面白い行事を規制するのは残念ということになると思うが、嫌だと思う選手が一人でもいるとしたら、現在の「人権感覚」からして規制は仕方ないのかもしれない。

また、女装が女性蔑視になる可能性の問題であるが、これはいかついメジャーリーガーが女装をするのが面白いのであって、女性をバカにしていないことは明白であろう。
ただ、それを見てバカにされたと感じる女性も一定数いるのだろう。
現代においては、そういう層への配慮もやはり避けては通れないようである。

また女装以外に、国籍や人種差別につながりかねない仮装というのもあり得るわけで、ただの脳天気なジョークとして行われていたと思われるイベントも、メディアに乗って大量に流布される以上ある程度の配慮は不可欠な世の中なのである。


現代人というものの特徴のひとつとして、自我の芽生えというのがある。
千年も二千年も昔の時代には、明確な自我意識というのはごく一部の支配者階級・読書階級などにしか無かったと想像する。
だからそこには自我のぶつかり合い、というのも少なかったと思う。
それが現代は昔より生きることに余裕があって、そのため多くの人々の中に自我意識が強く存在するようになった。
それは昔のように一握りの人々の自我の価値観に染められた世界とは違う、個々人の多様な価値観の溢れる社会を実現させた。
それは非常に良いことだと思うが、同時におびただしい数の自我のぶつかり合い、自己主張のせめぎ合いの時代になったということでもあると思う。

結論から言うと、世の中の何億・何十億もの自我を同時にすべて満足させるのはたぶん無理だ。
だから人権意識的な配慮はするけれど、でも新しい問題について相変わらずいろんなクレームが絶え間なく湧き出てくる、そういう状況はしばらく変わらない。

結局どんなにきつく規制してもすべての問題を無くすことは出来ないだろう。
これからの世の中は自我と自我のぶつかり合いが適度にある世界、上手な自我のぶつかり合い方を模索する世界を目指すようになるのではないかと思う。

だから大リーグの新人仮装行事でも、あとお笑いの世界なんかでもそうだけれど、適度に世の中に配慮しつつ新しい毒の吐き方を見つける方向でがんばって欲しい。
世の中にはそういう毒がある程度ないとつまらないし、いつでもいろんなところから適度にクレームが出ているくらいが健全な世の中、ということなのではないか、と思うのである。
posted by ヤス at 08:10| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月02日

夢破れたその後について

人生を制御するのはなかなか難しい。
そして、時々となりの芝生は青く見える。

上記のふたつを合体させると、「自分の人生」だけが上手くいっていない、そういう疎外感的な感情に繋がるのかもしれない。
しかしそれなりに長く生きているとだんだん分かって来るものである。
身の回りでこの人は上手くやっているな、という人でも、実は恐ろしく苦労して、七転八倒して今の時点にたどり着いていたりする。

昨年はアメリカで大統領選挙があった。
大方の予想を裏切って、ヒラリー・クリントンは選挙に破れた。
ヒラリーがどういう人物であるのか、世間で報道されているようなこと以上の情報をわたしは持たない。
しかし、世界中の政治家の中でおそらく最も高いところにあると思われる目標としてのアメリカ大統領を目指し、選挙直前には当選確実と言われもうほとんど手が掛かったかと思ったところでの大逆転、その精神的ダメージは凡人の想像の域を超えている。

しかし選挙後のヒラリーのスピーチを伝え聞くに、その淡々とした敗戦の弁、あるいは自分に変わる誰かが「ガラスの天井」を破ることへの期待など、非常に立派だと思った。
まあ多分に政治家的演出も入っているとは思われるが、しかし莫大な選挙資金を投入し、何千万という支持者の期待を背負っていたことを想像すると、敗戦直後に大衆の面前に正気で表れて気丈な演説を予定通りこなせる精神力は、やはり大したものだと思わざるを得ない。

ヒラリー・クリントンの例はやや極端に過ぎたかもしれないが、やはり勝負は下駄を履くまでわからないと思う。
少なくともわたしの中ではヒラリーの好感度はかなり上がった。
彼女は既にまあまあの高齢だけれど、今回世間的な好感度を上げたことは、今後また新しい展開をする上で非常に有利に働くだろう。

チャレンジの大きさは人によってかなり違うだろうが、しかしチャレンジが必ずしも上手くいくものでないことは世界人類でみな共通であると思う。
たぶんチャレンジは往々にして上手く行かないことが多い。
上手く行き難いからこそのチャレンジでもある。

大事なのは、どちらかと言えば多く訪れる上手く行かない時、その後の処し方なのであろう。
それは平時には簡単に思えるが、その渦中ではきっと難しいだろう。
と、なんとなくそんなことを思った。
posted by ヤス at 09:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月01日

正月気分

さて、西暦2017年になった。
地球が、2016年の正月から一年かけて太陽の周りをぐるっと一周した。
世の中では、昨日の晩NHKの紅白を観たり格闘技を観たり、新年目指して初詣に繰り出したり、年末年始の気分が横溢しているに違いない。

しかしテレビも観ず、1月1日の昼間から某ハンバーガー店に座っていると、どうも正月の雰囲気は希薄である。
わずかに、ハンバーガー店が休日の昼間だというのに妙に空いているので、今日は何か変わった日だったかな、と時折不安になるくらいである。

昼前に少し車を運転していたら、おそらく初詣に向かうのであろう、渋滞する車列の群れに不覚にも飲み込まれた。
飲み込まれた数分後にUターンして無事脱出することが出来たけれど、あの渋滞っぷりでは目的地に到着するのに1時間では足りないだろう。
しかし人々は初詣に向かう。
まあ年に一度の恒例行事である。
2〜3時間の我慢くらいは許容範囲なのだろう。

しかし多くの人々に、たぶん日本全国では数百万人か、いや軽く1千万人以上かもしれない、そんな多くの人々が数時間の渋滞の我慢を乗り越えて初詣に向かうほどに、正月のスペシャルイベント感は強力なのであろう。

このような年中行事が、人々を動員するパワーはほんとうに凄い。
毎年のことなので、ひどい渋滞が発生するのは最初から分かっているのだから、少し日をズラすとか、あまり人出のない近所のマイナーな神社に行くとかすればいいのにと思う。
実際、そういう人も多いだろう。
しかし、それでもなお正月の内にメジャーなところへ初詣に行かないと気が済まない、という人が後を絶たないのもまた間違いない。

人類がロケットで月の地面を踏んで既に48年、コンピューターの囲碁・将棋の実力が人間をいよいよ引き離そうかという現代の世の中で、正月に初詣しないと気が済まない人々が多数に上るというのは、やや不思議に思える。
しかしそれこそが社会的習俗の力であり、人間というものの特性をよく表しているのかもしれない。

それに「年末年始」があるおかげで、年越し蕎麦やおせちが売れる。
初詣客を迎える神社仏閣も、その周辺の駐車場も一世一代の稼ぎ時だ。
正月以外にも年に何度か「ハレ」の時があることによって、消費者の財布の紐がいっせいに緩むというのは疑いようがない「ハレ」のメリットである。

そして散財する方の消費者の立場に立つなら、年に数回、精神のリフレッシュに非日常の空気を味わう「ハレ」の日が必要ということなのだろう。
しかし正月早々レジに立つ某ハンバーガー店の従業員には、しばらくハレの日はお預けである。
20年も昔なら、正月は2日3日までたいていの店は休みで、しんと静まり返った街の感じが正月気分を否が応でも演出していたものである。
ということで、正月も店を開けて商売に精を出すのもいいが、それによって肝心の正月気分が削がれるとしたら少し皮肉だな、などと正月早々どうでもいいことを思った。
posted by ヤス at 14:45| Comment(2) | 徒然なるままに