2017年01月31日

最近のネット炎上誤爆など

最近はネット炎上のニュースを見ても、特別に驚くこともなくなった。
というか最近は炎上現象もステージがだんだん変わってきて、まとめサイトを覗いてみると明らかに炎上することそのものを目的とした「ネタ」が溢れている様に逆に驚く。

だから最近の炎上の定義付けは昔と少し違って、いわゆる炎上商法が、イメージしていたのとは違う「燃え方」をしてしまったケースこそが「真の炎上」という感じになっている気がする。
例えば以前の、長谷川豊氏の人工透析患者に対するブログ記事である。
この記事に関して長谷川氏は自分のブログに記事は炎上を目的として書いたと明示していた。
で、期待通り件の記事は炎上したわけだが本人の意図通りの燃え方をせず、バーチャルなネット世論の炎がいつの間にか彼の職場周辺である「テレビ業界」に延焼し、彼は仕事をあらかた失うこととなった。

その件に関して個人的に同情の余地を持たないが、しかし最近のネット炎上の怖さは、このようにバーチャル世界で燃えていたと思っていた炎がいつの間にかリアル世界に燃え移って実害が生じるところにある、そのように感じる。

しかも最近はそこに「フェイクニュース」や出所不明の謎情報などが絡み合って、例え事実ではないことに基づいた炎上でも、それがいったん変な燃え方をすると実害が生じうる。
というかこの間のアメリカ大統領選は、ヒラリー・クリントン候補を攻撃する積極的なフェイクニュース流通が少なからず選挙の行方に影響を与えた疑義がある、という点でちょっと見過ごせない問題になってしまった感があるのである。


ネット炎上の研究者である山口真一氏によると、まず炎上の定義は、

「ある人物や企業が発信した内容や行った行為について、ソーシャルメディアに批判的なコメントが殺到する現象。」

だそうである。
そして炎上コメントを書いたことがある人というのはネット利用者全体の0.5%程度に過ぎないらしい。

いちばんたちが悪いなあと思うのは、炎上コメントを書く人の動機が、その半分くらいは「正義」に基づいた行動というところだ。
要するに、どこかの企業や有名人の「悪行」を見て「こいつ絶対許せない」という強い感情を抱いて書き込みを行う。
そういう正義感に基づいた書き込みが半分以上あるらしい。

その炎上が事実に基づき、本当に悪いことをしている奴を懲らしめることにつながれば、まあ良いのであるが、往々にしてこれらの「正義」は、フェイクニュースや裏取りがされていないふんわりした噂話などにも過剰に反応する傾向があるようだ。
だから勢い「誤爆」のリスクが増え、実際に誤爆事故が後を絶たない。

現代の人類は、情報化や自我の増幅による個性化への変遷期にあって、その精神的な対応がまだ上手くいっていない進化途上にあるようである。
人類の情報処理能力はまだ相当に未熟であり、なかんずく自分という個人の情報処理能力はまだまだ、という謙虚さが、当分の間必要のような気がする今日この頃なのである。
posted by ヤス at 13:19| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月30日

マイナス金利政策、導入から一年

昨日は1月29日だったが、その日は日銀がマイナス金利を導入してから一年の区切りの日だったらしい。

マイナス金利政策というのは、どうも評判が非常に悪い。
その前の金融緩和政策、すなわち年間80兆円の国債買取政策は一定の評価を与える声がそれなりにある。
一方でマイナス金利に関してはプラスの評価の話をあまり聞かない。

マイナス金利は銀行の収益性を圧迫し、生命保険会社や年金基金などの資金運用にも大きく負の影響が生じている。
さらに行き先の無くなった資金が賃貸住宅融資にまわり、800万戸を超えてただでも余っている日本の住宅市場で、さらに新しい物件供給をするに至って将来の家賃暴落のリスクが日に日に高まっているという。

そういえば最近、「アベノミクス」そのものについての華々しいニュースをあまり聞かなくなった。
一年前の日銀のマイナス金利導入からさらに3ヶ月ほど前、2015年の9月下旬に自民党総裁選があって、再選した安倍首相が提唱したのが「アベノミクス2.0」だった。
確かGDP600兆円目標と子育て支援(出生率1.8)と社会保障改革(介護離職ゼロ)という内容だったと思うのだが、今この文章を書きながら内容を確認しようとネット検索したら首相官邸が出て来て、首相官邸のページをあれこれクリックしたがアベノミクス2.0の「新3本の矢」はどこにも載っていない。


旧3本の矢についても、

“このページは、過去の特集ページを保存しているものであり、掲載情報は、更新されておりませんので、ご注意ください。
現在の情報は、こちらをご覧ください。”

という赤字の但し書きが冒頭に書いてあって、そこに2015年以前のGDP成長率や失業率改善などのやや古い数値上の成果が載っている。
で、冒頭の「こちらをご覧ください」をクリックすると「3本の矢方式」にはもはやこだわっていないような書き方にガラリと変わっているようなのである。

首相官邸の新しいページには、「第三の矢としての成長戦略(日本再興戦略)」のみをピックアップして、この部分について集中的に記述されている。
そしてそこには金融緩和や公共投資の内容は全く見当たらず、「IoT、人工知能、ビッグデータなどの革新的技術」についての期待、これらを活用してGDPをどうにかして600兆円にしようという目論見が熱く語られているようである。(中身まではまだ読んでいないけれど)

さすがの安倍首相も、ここへ来て日銀の緩和策の効果の無さをやっと認識したのかもしれない。
首相官邸HPの「3本の矢」の扱い方を見て、インフレ目標2.0%の実現性の無さ、マイナス金利の副作用や必要以上の円安誘導(つまりインフレ指向)が返って消費を落ち込ませていることに首相官邸もやっと気付いたのではないか、という感想を持った。

ただ、都合が悪くなったから日銀の政策からは目を背けて、結果黒田総裁から梯子をはずすようなことになるのは黒田氏があまりに気の毒だと思う。
この辺でこれまでの金融緩和政策について総括(というか反省と路線変更)について、政府や日銀は言及すべきではないか、と思った。
posted by ヤス at 13:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月29日

手短に喋ること

ある時ふと思ったのだが、どうも自分の発言には少し余計な言葉が多いのではないか、何かにつけて言い訳がましい表現が混じってはいないか、と。
そうやって周りを見渡してみると、言わずもがなのことをわざわざ入れ込む方々が思いの外多いことが無性に気になるようになった
特に、こちらがお客さんの立場の時などは、相手側も最大限に気を遣って話しているのだろう、妙にバカ丁寧な言葉遣いで、もう少し簡潔手短な表現の方がスッキリしていいのになあと思う。

後、その人物のパーソナリティにもよるのだろうが、非常に真面目な方と話していると、懇切丁寧に噛んで含めるように様々な付帯情報をくっつけていただけることが多い。
特に多いのは、仕事の用事で予定をずらしてくださいという依頼の電話があった時で、こちらとしては先方の予定変更の理由については、あまり関心はない。
それでも先方としては申し訳ない気持ちが非常に強いのだろう、予定変更に至った理由を長々と説明していただけることがたまにある。

しかし、あらかじめ決まっている仕事の予定を変更せざるを得ないほどの理由がそこにある、というのは、言ってみれば双方暗黙のうちに了解済みの共有事項であろう。
だからそこの部分をわざわざ説明する必要は、個人的には全くないのじゃあないかなあと思うのである。

ただし、相手が予定変更を依頼するにあたって、その理由を長々と説明したくなる気持ちはまあ分からなくもない。
そういう強気のことを言っているわたし自身も、ともすれば何かお願い事をするときに、言わずもがなのことをあれこれくっつけて喋っていることがままある。

人間心理として、依頼ごとの際に感じる引け目を多少とも緩和するためには、何かもっともらしい理由があった方が、自分の気持ちの負担が少なくて済む。
しかし逆に考えてみると、あれこれ言わずもがなのことを付け加えてお願いをする人々というのは、相手のことを慮って付け加えているのではなく、自分の気持ちの負担を軽くするためにそうしている、ということになる。

相手のためではなく自分のためにしていることならば、こういう行動パターンは改めた方がいいんじゃないか。
というのが最近のわたしの結論である。
情報化時代が進み、現代社会に生きる人々は10年前と比べても必要な情報処理量が恐ろしく増加している。

だから情報伝達のために使用する情報量は、少し大胆過ぎるくらいに圧縮した方がいいと思うのだが、まあこれも自分の気持ちの強さ次第という面があるのでいつもそうできるとは限らないかもしれない。
posted by ヤス at 09:44| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年01月28日

人類の主体性の獲得

さて、突然だが今「主体性」というものについて少し考えている。
人類の歴史は、主体性獲得の歴史であるような気がする。
最初は、猿とさほど違わないくらいの自我しか持たなかった原初人類が、次第に各個体がいろんな知識を蓄え、自我に芽生え、さまざまに自己主張をし始めて、要するにみんながだんだん主体性を持ち始めた、そういう流れがあるような気がするのである。

魚のイワシの群れなんかでは、ある一匹の偶然の方向転換が群れの全体に即座に伝わって、みんながそっちの方向に一斉に向きを変える。
あれと同じで、社会的動物である人類もある程度群れに合わせる、ほとんど盲目的に付和雷同するという行動原理が根底にあるのではないか。
というかどちらかというと、よく分からないがとりあえず群れの変化に付いていく習性の方が、個体独自で行動を決めるのよりもより支配的な特性であると思う。

人類は、何らかの群れに属していないと一人では生きていけない。
これは太古の昔から現代に至るまで続く、間違いのない現実である。
だから群れから弾き出されないようにすることが、生きていくためにまず必要なことになる。
そのためには群れの動きを阻害しないこと、群れが右に曲がったら自分も右に付いていく。
そうしないと群れが乱れる。

人類はその調子で何万年も生きてきて、つい数百年前までは、一部の読書階級や支配者階級以外には明確な自我が薄かったものと想像する。
でも現代の一般庶民は、少なくとも日本のような先進国では、みんな字も読めるしテレビだって観ているし、選挙にも行く。
彼らは中世の農奴に比べると、よほどたくさん自分の頭で考えることができる。
人権の意識もあり、ある程度のロジカルシンキングもちゃんとできる。

ところが、今の世の中にはフェイクニュースが溢れ、自分の信じたいニュースに飛びつく人が後を絶たない。
どのフェイクニュースに飛びつくのかは、これは多分その人が所属している「群れ」の種類によって決まる。
そして色々過激なニュースが飛び交って、あちこちで群れ同士の分断が生じて、軋轢が生じている。

こういう現象は、わたしのイメージでは各個人の「主体性の不完全」が原因で起きていると思う。

人類の主体性獲得の歴史はまだまだ途上にあると思うが、及ばずながらも自分の脳みそで考えることが、今必要であるなあと思っている。
posted by ヤス at 13:33| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年01月27日

MacBook12インチのキーボード

さて、少々しつこいがMacBook12インチについてである。
MacBook12インチは、ネットなんかで調べてみるといろいろと毀誉褒貶がある。

CPUパワーがしょぼい、消費電力が極端に低いからファンレス設計で静かなのは良いのだが、そのために重労働して熱がこもると極端にスピードダウンする、などがあるらしい。
そしてもうひとつ、キーボードが扁平でストロークがほとんど無いのでものすごく打ちにくいというのがある。

わたしもこの件については少し心配していた。
で、実際この極端にストロークの短い扁平キーボードは、打ってみると全然普通に打てる。
日頃からiPadのソフトウェアキーボードばっかり打っていて、あの打鍵感のかけらもないタイピングで修行していたせいで、MacBookのキーボードに対する違和感は全く感じなかった。

やれやれ、まずは一安心。

それ以上に、Macの場合タッチパッドが恐ろしく使いやすいのに感動している。
Windows機の場合、個人的にはマウスがないと操作性がものすごく落ちるのだが、Macを操作しているとマウスが欲しいと思わない。
むしろマウスでは出来ない操作がたくさんあって、それらがいちいち便利である。
(あの、二本指や三本指を使うやつです)

それと、MacBook12インチはインターフェース類が大胆に省略されていて、USB-Cひとつで充電ポートから周辺機器までに全部対応するという設計になっている。
巷では、USB-Cポートに接続して充電や周辺機器接続を同時に出来るようにする拡張アダプターが売られているが、おそらくMacBook12インチの設計思想は、そういう無粋なものは繋げないで、本体だけをさっと開いて仕事が終わったらぱたっと仕舞う、そういうスタイルを想定しているに違いないと思う。

このマシンは、たぶん使い方としてはタブレット的なものを想定しているのだろう。
ファンレス設計で、バッテリーもまあまあ持って、しかし拡張性はほとんど無い。
これはあまり拡張しないで本体だけで使ってくださいよ、ということなのだと思う。
で、何か拡張したい場合は無線で繋ぐ、ファイルのやり取りはUSBメモリでは無くクラウドを使う。

そうやって割り切って使うのが精神衛生的にもよろしいように思われる。

しかし一方でフォルダー管理のやり方はWindowsとだいぶ違っていてその辺の戸惑いは大きい。
それと、MSWordの環境設定がさっきからうまく出来なくて非常にイライラしている。

まあそれらの諸問題も、やがて時間が解決することであろう。
ひとまず、MacBook12インチのキーボードはとても快適だというレポートでした。
posted by ヤス at 09:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月26日

MacBook12インチ

DSC_0008.JPG

DSC_0003.JPG

さて、私ごとではありますが、昨日あるものがクロネコヤマトから届いた。

それはアップルのMacBook12インチ、いわゆるノートパソコンである。
このところ寝不足の上にやや風邪気味であったが、注文したそれは容赦無くやってきた。

思えばマックを使うのは10年以上ぶりになる。
わたしが最初に買ったパソコンは、マックのPowerBook150というやつだった。
確か1994年の購入である。
そのノートパソコンは、平面サイズ的には今目の前にあるMacBookと大して変わらないが、厚みが4倍以上の5.7p、重さは2倍以上の2.5kgもあったらしい。

目の前のMacBookは、いい値段がする割にCPUが非力と評判らしいのだが、かつてのPB150はモトローラ製68030/33MHzを搭載し、メインメモリは8MB、ハードディスクは120MBである。
MacBookのCPUは一応クロック1.3GHz、メモリは8GB。
ギガはメガの千倍だったと思うので、1.3GHzは33MHzの約40倍である。
メモリ容量は千倍、ディスクは4千倍以上。

実際にはCPUの集積が馬鹿みたいに進んでいて、クロック周波数以上のスピードアップを果たしていることは間違いない。
わたし的にはPB150の後、Performa6210という安いデスクトップ機を確か1996年に買ったのを最後にマックを卒業して以降マイクロソフトの軍門に下った。
当時はギル・アメリオとかいう人相の悪いCEOがアップルのトップをやっていて四苦八苦していたのを思い出す。
当時倒産間近と言われていたアップルが、今は時価総額世界一を争う企業として君臨しようとは、まったく想像できたなかったと感慨深い。


さて、MacBook12インチである。
このモデルは初代が2015年に出て、それまでのMacBook Airよりさらに薄くて軽くなったのが売りだったようだ。
しかし当初から高い割にパワーがないという評判が立ち、また本体に付いているコネクタ類がUSB-C一つとイヤフォンジャック一つ、穴が二つしか空いていない。
USB-C一本で電源も周辺機器も全部まかなおうというのはなかなかたいした根性だと思うが、これらも評判の上がらない大きな要因のようだ。

アップルはこのマシンによほど穴を開けたくなかったのだろう。

で、非力なCPUであるが消費電力がわずか4.5Wしかなく、これはAirあたりのモバイルCPUでも15Wくらいなので、恐ろしく少食のCPUと言える。
しかし今こうしてワードの文書を書いている限りにおいては、まったくなんの痛痒もない。
何よりも23年前のPB150に比べると、圧倒的に軽くてハードディスクが壊れる心配がなくて、グリグリのボールじゃない快適なトラックパッドがあって、その意味では天国のような使い心地だと思う。
まあ当たり前の話だが。

ひとまずこれで、いつでもスタバに行ってこいつをパカっと開けることができる。
ほんとうに今まで生きてきた良かったと思った。
posted by ヤス at 09:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月25日

トランプのアクセルとブレーキ

トランプ大統領が就任してそろそろ一週間になる。
この間、発足当初の支持率が発表になっていたけれど、支持が45%、不支持も45%で、この数字は歴代でも最低レベルらしい。

最近の大統領で悪かったのがレーガンとブッシュ(ジュニアの方かな)だったらしいが、どちらも50%は超えていた。
まあ日本の歴代総理に比べるとそれほど悪いようにも見えないが、国民直選の大統領の場合、支持率の数字はたぶんけっこう重いのである。
しかもアメリカの各地で反トランプデモも勃発している。

こうなると心配になるのが、対外的な当たりが強くなり過ぎて各国との軋轢がひどくなることだ。
すでにメキシコ国境の「壁」を巡って一悶着起きているらしいが、台湾問題などで中国とも揉めているようだし、安保負担や経済問題、特にメキシコで作ってアメリカに入れるというビジネスモデルに関して、トランプ大統領は企業の国籍を問わずヒステリックな感じで反応している。

トランプ大統領は、これまでの大統領のような幅広い支持を取り付けたタイプではなくて、白人ブルーカラーをコアにしてかなり狭い層から熱烈な支持を得て当選したようである。

支持層が狭いので、権力を維持するにはコアな支持層に特化した政策の方向性を打ち出していく必要があるようだ。
だから実現性とか経済合理性はひとまず横に置いておいて、製造拠点の国内回帰で雇用を創出するというのをことさらに主張する羽目になる。
またFRBは昨年から利上げの方向をずっとにらんでいて、世界中もアメリカは利上げに向かうと信じているが、製造業の国内回帰を標榜するトランプ大統領の政策の方向では、利下げしてドル安誘導にならないと整合しない。

そういう、アクセルとブレーキを同時に踏むような政策が、いろんな分野で目白押しである。
大幅減税と同時に大型公共投資を匂わせたり、国際紛争不介入かと思ったら軍事予算の増額を言い出して、ひょっとしたら中東にも再度積極介入するつもりなのかもしれない。
いろんなことがその調子で、したがって今後アメリカがどっちの方に転ぶのかまことに分かりにくい状況になっている。

たぶんトランプは、大統領に当選すること、当選後は大統領で居続けることだけが目的なのではなかろうか。

トランプの政策は遠からず破綻するようにも見え、アメリカ国民が賢明であれば4年後には落ちていなくなるような気もする。
実際どうなるか分からないが、それまでの間はアクロバティックな政権運営を海の向こうから眺めていることにするしかないかな。
posted by ヤス at 12:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月24日

バタフライの教訓

わたしは昔、今から30年前とかだが、学生時代に競泳をやっていて三流スイマーだったというのは何度か書いた。
種目はバタフライである。
バタフライは傍目には派手で格好良く映るかもしれない。
わたしも一流スイマーのスイスイ進むバタフライは格好良いと思う。
しかし三流スイマーにおける種目選択の事情というのがあって、一般にバタフライは選手層が薄く出場者が少ない。
バタフライ以外では400m個人メドレーなんかもそうである。
特に女子の場合はその傾向が顕著で、2バタ(=200mバタフライ)や4個メ(400m個人メドレー)は、地方の小さい大会では出場者が3人とか4人とか、あるいは1人という場合だってある。

出場がゼロなら話は却って簡単だが、1人の場合は、その1人のためだけに予選兼決勝のレースプログラムを実施しないといけない。
このレースでは、失格にならない限り彼女の優勝は確実である。

そういうことが2バタや4個メでは起こりうる。
男子ではさすがにもうちょっと多く出るわけだが、自由形や平泳ぎの選手の多さに比べるとその少なさは歴然である。
だから、少し練習するだけで6位入賞の可能性なども出て来る。
したがって、三流スイマーだがバタフライで一応200m泳げる人は、層の厚い自由形や平泳ぎには入れてもらえず、バタフライに回されることになる。

わたしの場合もかねてから一貫して平泳ぎを希望していたのだが、それだと学校別の出場選手枠(いわゆるレギュラー枠だな)には入れそうになく、バタフライを続けざるをえなかったのだ。
面白いのは、当然ながら各学校にそういう自分では望まないバタフライ選手が1人や2人はいて、それらの選手たちにはある種の連帯感があったことだ。
ひとにぎりの一流バタフライ選手を尻目に、我々はいつもプールサイドに自然に集まり、200mバタフライで最後のターンをした時、遥か50m先のゴールタッチ板を見て気を失いかけた話とかをして盛り上がったものである。

バタフライという泳法は、見た目の印象通り非常に体力を消耗する。
少し無駄な動きが多いのである。
わたしが中学生の時に初めて50mをバタフライで泳いだ時、最後腕が上がらなくなって溺れかけた。
しかしレースは100mと200mの2種類しかない。
あの無駄な動きの泳ぎで200mを競争しないといけないから過酷だ。
わたしは他の三流バタフライヤーと同じように、2バタのラストで溺れかけながら命からがらゴールし審判員の温情で失格は免れるというレースを数回経験した。

だが苦しい2バタを泳いでいたおかげで、100mバタフライは不思議なほど短く感じられ、200mの後にある100mのレースはいつも本当に楽しみになった。

自分なりの極限状態を経験しておくと、それよりマシな苦境がなんだか楽しくなる。
それがわたしがバタフライを泳いで学んだ教訓である。

それともう一つ、バタフライを泳いでいて良かったと思うのは、時々昔は水泳選手で種目はバタフライだったと言うと、水泳をよく知らない人はなんだか尊敬の眼差しで見てくれる(ような気がする)ことがある。
やはり若い時の苦労は買ってでもするものだ、と苦労の足りないおじさんは思った。
posted by ヤス at 16:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月23日

ユニフォームの効用

昨日、仕事をしている人のスイッチのことを考えていて、その続きである。
職業によっては、制服=ユニフォームがあるものがある。
軍人、警官、お店のユニフォームや工場の作業服などがパッと頭に浮かぶ。
ついでに言うと小学校や中学・高校の生徒が着る制服もある。

その制服の効用も、それを着ることによって心にある種のスイッチを入れるための装置であると思われる。
学校の制服の場合、場合によっては制服が無くて私服で通うパターンも多い。
わたしの場合、小学校五年生まで制服で通っていたのだが、六年生になって私服の学校に転向したことがあった。
その時に、制服だったのが私服で通学するようになって何を感じたか、もうはるか昔のことなので憶えていないが、着ていく服を毎朝吟味しないといけない心理的負担は、わたしの場合かなり面倒臭い事態だったのではないかという気がする。

制服には、それを着て職場に立つことによって「仕事のスイッチ」を入れる効果がある。
その場合のスイッチオンの内容には、喋り方がテキパキしたりお辞儀の仕方がキレ味良くなったりする効果とともに、その職業に対する心構えや思想を頭の中に明確にすることがあると思う。
あるいは職業に臨む姿勢に加えてその組織の一員としての帰属意識、忠誠心などというのも制服を着ることの意味に含まれるのだろう。

そんなことを考えていると、軍人の制服というのは数ある制服の中でも究極的な制服のような気がする。
兵隊の制服を着ることの意味は、敵兵を殺したり自分が敵兵に殺されたりする戦場に自ら進んで放り込まれることを意味しており、それによって敵味方がきっちり識別され、敵を欺くのにわざと敵の軍服を着て撹乱したりすると国際法的に問答無用に殺されても文句が言えない。

軍服の効用は、殺したり殺されたりという人間性の許容範囲を大きく超えるような精神的犠牲を兵士に強いるほど、かなり強力だ。
しかしその他の平和的な制服にも、軍服ほどではないにしろ、心の在りようをある一定方向に「前倣え」させる機能があると思われる。
小学校の制服でも、その制服を着ていれば、外から見てその子がどこの学校の生徒かよく分かるし、着ている本人にも、制服を着ていることによるある種の緊張が発生するものと思われる。

そういう意味では、今まで制服の小学生だった子供が私服で学校に通うようになることは、ちょっとしたステルス機能の獲得である。
そこではたぶん、少しだけかもしれないが気持ち的に自由な気分が発生したはずであるが、はてどうだったろう。

制服と似た機能を果たすものとして、肩書きとか、またカタチはあまり無いが「どこそこ会社の社員である」という強い帰属意識などがある。
制服の場合、それを脱いでしまえばとりあえずカタチ状はその人はただの個人に戻ることが出来るが、肩書きとか帰属意識はその人のアイデンティティと一体化して、なかな脱ぐことが難しいのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 08:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月22日

仕事のスイッチ

時々、スーツのままで電器屋さんの店内をウロウロしていると、店員と間違われて声を掛けられることがある。
そのような状況ではなぜか必要以上に慌ててしまう。
こちらは紛れもない「お客さん」としてウロウロしているわけで、だから「店員」として声を掛けられるための心構えはその時は全く無い。
そこに声を掛けられて一種の不意打ち状態になって、慌てるのかもしれない。

そういうことが年に一度くらいの頻度で発生するので、わざとポケットに手を突っ込んで横柄な感じを醸しながら歩き回ったりするのであるが、しかしその手の声掛けは忘れた頃に突然やって来るので、やっぱり驚くことになる。

しかし電器屋さんの店員に限らず、接客業はたいへんだと思う。
お客さんにもいろいろいて、意味不明のことを聞いてきたり大声で怒鳴ったりするクレーマーとかにも、店員は臨機応変に対処しないといけない。
だから場合によってはかなりストレスが溜まるのではないかと心配になったりする。

まあ店員さんにもいろいろレベルの差があって、この間も電器屋の電子レンジコーナーで最近の製品のスペックやお値段をしばらく凝視していたら男性の店員が声を掛けてきた。
いつもなら面倒臭いのでそういう声掛けがあったらそそくさとその場を離脱するのだが、その時はちょっと最近の電子レンジのアレコレについていくつか質問してみた。
そうしたらその店員は質問に対して実に的確にスラスラと説明してくれて、それがあまりに見事だったので思わず電子レンジを買いそうになった。

その時にちょっと思ったのだが、そういうちゃんとした店員は、なんというかスイッチが入っている感じがものすごくある。
接客業は人相手であり、人を相手に説明したり購入を勧めたり時に謝罪したりという仕事は、心のどこかにあるスイッチをオンにして気持ちをピシッとしていないとなかなか務まるものではない。
そう言えば駅地下のモール街なんかを歩いていても、そういうところにあるお洒落な洋服屋やバッグ屋の店員のお姉さんとかは、メイクもバチバチに決めていかにもスイッチの入っている感じがするなあといつも感じる。
そういうスイッチの入っている状態の店員のお姉さんは、たぶんスイッチが入っていない日常の姿とはずいぶんと違うんだろうと勝手に想像する。

あとテレビに出るタレントとか政治家なんかも、きっとそういうスイッチの強力なやつが付いているんだろうと思う。
トランプ大統領にもそのスイッチがどこかに付いているに違いない。

それらの人々を観察していると、仕事が出来るようになるためにはスイッチのオンオフが自在になることが重要なのがよく分かる。
しかしスイッチの構造はどうなっていて、上手くオンオフするにはどうすればいいのだろう。
そのことをもう少し掘り下げねば、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:46| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月21日

謙虚と自信

この間、何かのネット記事で自己評価と能力の関係、みたいなのをチラ見した。
一般によく努力して能力が高い人というのは、みな自己評価が厳しめだという。
逆に、自己評価の甘い人、実力以上に自分は出来るやつだと思い込んでいるような人は、努力も甘くなって能力も低くなる。

まあ考えてみれば当たり前の話に思える。
それに、大きな声では言えないが、わたし自身は当然のことながら自己評価はわりかしちゃんとしてると思いますよ、と思っていたりする。
しかし、自分自身のその自己評価は果たして適正か。
そう考えると確かに少し焦る感じがしないでもない。

第一、客観的な適正評価がどの程度かというのが、なかなか明確でない。
自分の仕事の出来具合や人間関係の力量、あるいは精神的なタフさとか他人に親切かどうかなど、そういうあいまいな領域における評価は、客観化とか数値化でスパッと明確になりにくい。

明確になりにくい評価領域では、どうせ自分のレベルは誰にも分からないのであるから、自分の希望的観測に沿った水準に自己評価が高止まりするのはまあしょうがない気がする。

そういうあいまいな領域においてもなお、自身の強み弱みを正確に把握しようと努め、不足する部分を補おうと努力出来る人が、結果能力的に秀でて来るものであるらしい。


「謙虚」という概念が、特にアジア儒教圏にはわりかし深く根ざしている。
いつでも偉そうにしない、へりくだって丁寧を心がける、目下の人にも敬意を保って接するなどの基本姿勢は、意地悪く考えると「出る杭」が生じるのをなるべく防いで為政者のまつりごとを容易にする効果もあったろうが、それとは別に人間形成のひとつの教訓としてそれなりの効用があったものと考えられる。

しかし、この世を生きていくにはもうひとつ重要な資質が要る。
「自信」である。
何かにチャレンジしようという人は、「絶対上手くいく」「たぶん上手くいくかな」「ひょっとして上手くいくかも」など、必要最小限であってもいくらかの自信がないと前には進まないものだろう。

真に優れたチャレンジャーというのは、日頃は謙虚に自分を磨きつつ、いざチャレンジの際はそれなりの成算、自信を抱いているに違いない。

そのような謙虚と自信の両立は、考えてみるだに容易ではないように見える。

話は変わるが市民マラソンの大会では、たいていのランナーが最初の数キロ走ったところで「今日は調子がいいなあ」と感じてそのままオーバーペースになる。
こういうのをランナーズハイならぬ「セカンドウィンド」というらしい。
しかしマラソンで自身の限界に挑むのであれば、やはり最初から飛ばして行かないといけない。
「ベストラン」はたぶん無謀と紙一重である。

そんなことを考えていると、世の中がチャレンジャブルになるためには、謙虚よりも自信過剰が少し勝るぐらいの方がいいと感じる。
どうせ精神状態のバランスが狂って傾くのなら、謙虚側より自信側に傾くぐらいでなきゃあいかん。
と、思ったりした。
posted by ヤス at 15:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月20日

人類のM気質

日本時間では明日21日になるが、いよいよアメリカのトランプ大統領が正式に就任する。
また今年はヨーロッパも選挙の年で、最近相次いでいるテロ事件を受けて勢いを増している右派勢力の動向が気になるところである。
日本ではちょっと報道が収束しているが、シリア情勢やISの動きもまだまだ不穏なようだ。
一説によると、ロシアの無差別爆撃に追われたISの一部が中央アジアに逃げ込んでいるという情報もある。
そうなるとロシアや中国の国内が対ISの戦場となる可能性もあるのではないか。

あいかわらず世界はきな臭い話題にこと欠かない。
しかし一方で日本は今のところ平和である。
だからのんびりと、こうしてブログも書いていられる。

ひとつの仮説だが、人類はもう後100年ほどで滅亡する、という学者がいるそうだ。
100年で滅亡しないにしても、もう人類はそろそろ衰退期に入っているという説もある。
果たして人類は間もなく滅亡するのかどうか。

人類が他の生き物と異なるところはいろいろあるが、ひとつの大きな特色として、自らに進んで負荷をかける性質があるのではないか、と最近思っている。
普通の生き物たちは、よほどのことがない限り普段はダラダラと楽をしている。
シマウマがライオンに追いかけられた時とか、逆に腹が減って眼が血走っているライオンとかは死に物狂いで疾走するだろう。
しかし人間の場合、別に腹が減ったり誰かに追いかけられていなくても、「趣味」と称して家の周りをせっせとジョギングしたりする。

寒い冬の朝なんかにジョギングするのは、こたつに入って丸くなっているよりかなりしんどいことであるが、最近は毎朝白い息を吐きながら走る、自ら進んで負荷をかける人が多いようである。
人類には「進歩癖」とでもいうような性質が備わっているようで、学校の成績がよくなるとかピアノが上手くなるとかいうことでも、ある種の喜びを感じたりするものである。

しかし何かが上達するとか身体能力が改善されるとかいうことのためには、日頃それなりに「負荷」を掛けてしんどい思いをする必要がある。
そしてそういうことをする生き物というのは、たぶん人類くらいのものだろうと思う。
どうも人類にはその手の「M気質」が備わっているのではないかと思えてならない。

だが人類はこの「M気質」のお陰で、通常の生物進化では百万年はかかるような「変化」を百年とか十年とか、場合によっては2〜3週間程度のトレーニングで手に入れることが出来る。
しかもそれは数世代にわたる生物種としての進化というより、個体レベルの変化であって、そういう意味では人類は、他の生き物に比べると「個の独立」ということが非常に強いのは間違いない。


人類の滅亡というと地球上の全人類が一人残らず消えて無くなる感じだが、たぶんそうなっても要領のよい誰かがどこかで生き残っているのだろう。

個人的には、例え人類があらかた滅亡しても、なんとか長生きしたいものだなあと今のところ思っている。
そういう妄想のようなことを考えていると、毎朝のジョギングにも自然力が入る今日この頃である。
posted by ヤス at 12:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月19日

プロダクトライフサイクル

最近のパソコンとかデジカメとかの電子機器の買い時というのはなかなか判断が難しい。
特にパソコンは、毎年毎年粛々とCPU性能がアップデートされるのがお約束になっており、一年の間中、各メーカーからひっきりなしに新型パソコンが発売されている。

しかしビジネス文書作成や表計算などがパソコン用途のメインである限り、あまりパソコンスペックの心配をする必要もない。
もう何年も前から3万円とか4万円とかの格安PCが出ていて、あるいはタブレットで8千円や9千円とかいうのでもパソコンとしての用が足りたりする。

このようなパソコンの十分過ぎるスペック、最低価格ラインの低下などを見るにつけ、パソコンはいわゆるプロダクトライフサイクル(PLC)的に右肩下がりの領域に入っているように感じる。
CPUの微細加工技術の進化に支えられていた「ムーアの法則」も、もうすぐ終わるのではないかという話もある。
ということでパソコンはすっかり日常普及品のひとつとして世の中に収まり、そういう意味ではどのタイミングでどんな値段のパソコンを買おうがたいして問題はない、という時代になったのかもしれない。

冒頭に書いたのとやや矛盾する結論であるが。


ところでデジカメというのも、スマホカメラとの競合に晒されるようになって各メーカーとも苦戦が続いている。
デジカメの場合、たぶん10年かもうちょっと前くらいまでは、撮像素子が日進月歩で高性能化しており、フィルムカメラより利便性も優れていることが認知されて市場が急拡大した時期があった。
しかし素子の性能向上が一段落すると、もう後はレンズの切れ味がどうとか色再現やらボケ味がどうとかマニアックな内容でしか進化を語ることが出来なくなってきて、要は少々型遅れのカメラを買っても全然幸福度が下がらないという時代になった。


そういう意味では自動車なんかはもうずいぶんと昔から、例え10年落ちの中古車を買っても実用上は何の問題もない。
ここ数年ハイブリッドカーが普及期に入って、新しいクルマがいいなあという気分が多少盛り上がったような気もするが、一方で10年落ち中古で十分という状況も併存している。

しかし自動車の世界でも、今後ネットワーク化や自動運転化が進み、本質的な意味での自動車の電子機器化、電子自動車化が一気に進行する時代がたぶんもうすぐ来る。
そうなると自動車は新しい方が断然いい、という時代が10年か20年くらい続くのかもしれない。
しかしやがてPLC曲線が右肩下がりのところに入れば、そういう「電子自動車」も普及品になって、型遅れでも全然困らないということになるのだろう。

ポイントは、経済的な意味ではPLCの右肩上がりの局面の方がいいような気がするが、人々の幸福度という意味では、むしろPLCの下がり目、かつて革新的だったモノが普及品として手軽に入手出来る方がいいような気がする、ということなんじゃないかと、なんとなく思ったりした。
posted by ヤス at 11:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月18日

無の境地

長く生きていると、それなりにいろいろな試行錯誤をするものである。
何かを計画して時々上手くいったり上手くいかなかったり、というかだいたい上手くいかないことが多いわけだが。
で、結局のところいちばん難しいのは、自分を動機づけること、自分自身のやる気を起こさせてそれを維持することだなあと感じる。

しかし「やる気」というのはいったい何者であろうか。
我ながらやる気があるな、と思う瞬間が時々あったりする。
例えば客先で打ち合わせをして「それじゃあその件は帰って書類にまとめてまた提案させていただきます」とかなんとか言って、その時はどういう風にまとめようかとあれこれ頭の中で想像を巡らせながら帰路に着く。
その瞬間は、やる気がみなぎって早くパソコンの前に座って作業を始めなきゃ、と思っていたりする。

しかし帰っていざパソコンのスイッチを入れた瞬間に、すーっと熱が冷めたように脳みそがフリーズして来て、作業を始めるのがなんだか億劫になることが多い。
あれは不思議な感覚だ。

結局のところ、客先からの帰り道に頭の中でいろいろ考えているのは、脳みそにとっての暇つぶしのようなもので、それほど負荷が掛かっているわけではない。
これは、マラソンを走っている自分をただ頭の中で想像するのは、少し脈が上がってドキドキしはするけれど本当にはしんどくないっていうのと同じようなものだと思う。
実際にマラソンを走ると、特に最後の方はゼーゼーと疲労困憊してなぜこんなのに参加したのだろうかと後悔する。

パソコンの作業というのも、マラソンとは少々種類が違うがいろいろと考えないといけないので結構しんどい。
書類の完成イメージはどんななのか、そこに至る手順をどうするか、内容作成のための材料は何が必要でどうやって入手するか、それなりに複雑な思考を重ねる必要があって、パソコンの前に座った瞬間にその複雑な工程が眼前にそびえているのが見えるような気がする。
恐ろしく面倒臭い作業の数々が、急に具体的になって頭の上からのしかかってくるわけで、さっきまでの「やる気」はどこへ行ったか、気持ちが萎えて作業に入るのがためらわれる。

長く生きていると、その類の、まるでシーシュポスの神話のような永遠ループが何度も繰り返される。
まるで進歩がないのではないか。
しかし、少しの希望がなくもない。

このような具体的な作業が具体化してのしかかって来た瞬間に気持ちが萎える、という症状は、「無の境地」を導入することによってある程度対策出来るのではないか、ということを最近思う。
とにかく面倒臭いことをあれこれイメージしないままに作業になだれ込んでしまうに如くはないないのである。
やる気満々の状態からパソコンの最初のキーボードを打つところまで、脳内を無にしてシームレスに自分自身でも気が付かないくらい、いつの間にか移行する、というのがこの手の面倒臭がりには効果的である、ということにようやっと最近気が付いた。

考えてもしょうがないことで脳内を占有すべきではない。
いやはやまったく、生きるって難しい。
posted by ヤス at 09:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月17日

24時間営業終了

近所のファミレスのガストが、2月1日から24時間営業を止めるらしい。
近頃は深夜の集客も芳しくなく、またその時間帯のスタッフ確保もたいへんなのだろう。
すでにロイヤルホストなんかはあらかた24時間営業を取り下げているし、マクドナルドも地方の店舗から徐々に24時間ではなくなっている。

これも時代の流れなのだろうが、何か寂しい感じがしなくもない。
しかし、深夜に限らず飲食店・小売店のスタッフ不足は深刻のようだ。
若い学生バイトや働き盛りの主婦層などは、それなりの時給を出さないとなかなか来なくなっている。
こういう状況は、労働集約産業である飲食業界にとってはかなり深刻と思われる。

折しも、現在日本政府は働き方改革と称して、同一労働同一賃金や生産性の向上による時間外労働の削減などを推し進めている。
働き方改革は9つの改革項目を掲げていて、そこには労働市場の流動化やテレワークなど柔軟な労働スタイル、女性や高齢者の活用に仕事と介護の両立、外国人活用なども含まれている。
これらの施策は、それなりに的を射ているものもあるがそうでないものもある。

まず「同一労働同一賃金」であるが、巷間言われているように、どうもこれは筋が良くない。
政府が理想とする「同一賃金」は、賃金水準の低い方を高い方に合わせたいのだろうが、昨今の実質賃金減少傾向はグローバル化が原因なので、日本国内のことだけを考えてせっせと経団連にハッパをかけているだけではどうにもならない。

一方で、生産性の向上はグローバル化の如何を問わず、というかグローバル化がどんどん進行しているからこそ進めていかないといけない項目だと思う。
労働市場流動化や働き方スタイルの多様化も、労働需給の最適化を推し進めて結果日本全体の生産性を改善するという観点から、いろいろやっていかないといけない。

で、少しばかり懸念材料として想像されるのが、特に接客業におけるハイタッチなサービスの提供というのがある。
日本のサービス産業における接客のレベルというのは、世界的に見てもたいへん高いように思うのだが、最近の労働力不足の中で従来通りの接客を維持するには相応の追加コストが掛かるようになっている、ということは忘れがちなのではないか。

これからの小売や飲食業は、セルフレジやスマホからの注文・決済システムの導入など大胆な自動化を進めていかないと立ちいかないところに来ている気がする。
その時に多くの経営者は、従来通りの人の手による心地よい接客を提供したいと思うかもしれないが、そのためにはコストが必要でその分売価を上げないといけないというのを忘れたらだめだと思う。
売価を上げられないとたぶんその会社はどんどんブラック化せざるを得ないだろう。
(というか、すでにブラック化している気がしなくもない)

ファミレスの24時間営業終了の流れにそんなことを思った。
posted by ヤス at 11:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年01月16日

意識高い系など

英語で「ワナビー」という言い回しがあるらしい、というのを遅ればせながら2、3日前に知った。
「want to be」=「ワナビー」で、元はネイティブアメリカンの習俗を真似る人たちを揶揄する言葉だったそうな。
ネイティブアメリカンを真似てはいるが本質が伴っていないのをバカにした表現らしい。

また、よく知らないが「スパイスガールズ」の1996年のヒット曲にも「ワナビー」という女性を励ますようなのがあったらしい。
少なくともスパイスガールズのワナビーはポジティブな意味合いのようなので、ワナビーがネガティブな意味を帯びるようになったのはその後のことかもしれない、などと想像してみる。

日本語でも最近は「意識高い系」というのがある。
しかしこの表現も、元々は就職に向けて勉強したり社会活動をする優秀な学生を意味していたという。
それがいつの間にか、SNSで華麗な人脈や空疎な名言をひけらかす痛い人を指すようになったようである。
英語の「ワナビー」と「意識高い系」の共通点は中身を伴っていないことである。

ここで中身がピーマンだと言って意識高い系についてバッサリ斬って捨てるのは比較的簡単だろう。

人間は、出来れば自分の中のダークサイドや欠陥には目をつぶっていたいものだろう。
しかし残念ながら、どんな人にもひとつやふたつ、人より劣っていたり、あるいはやや風変わりに思えたりする「欠陥」のようなものが存在するものである。
そういう自分の中の見たくない真実について、出来ればあんまり自覚したくもないのであるが、しかし何せ自分自身のことなので薄々は自分でも気がついている。

そういう、自分の「欠陥」に対する無自覚的な自覚は、時に人を卑屈にしたり、その反作用で自己を過剰に演出したりすることがあるのだろう。
「意識高い系」や英語における「ワナビー」はそういうものだと思う。

そもそも、何も「欠陥」の無い人間というのはいない。
また「欠陥」と見えるものは、本当は人間の個性をつくる重要な要素で、食べ物でも多少のエグ味や苦味があるからこその味覚があるのと同じようなものだと思う。

人間というのは不思議な生き物で、他の生き物と比べても社会的な承認欲求がかなり強く出来ているらしい。
それは人間の社会性がいかに強力かということを示しているように思われる。
そういう意味では我々は、程度の差こそあれみんな「意識高い系」なのかもしれないと思う。

重要なのは、単に「ワナビー」と心の中で念仏を唱えるだけでなく、具体的な行動を起こして中身が伴うようにすることなのだろうけれど、しかし本当に中身が伴うようにするのも、それはそれでなかなか難しいことだと思った。
posted by ヤス at 10:16| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月15日

センター試験

世間では、昨日今日とセンター試験なるものが実施されていたらしい。
(正式名称は「大学入学者選抜大学センター試験」だという)
同様のものは我々の時代にもあったが、その当時は共通一次試験と言っていた。
あいにく昨日今日と時間によってはけっこう激しく雪が降る荒れ模様の天気であったが、試験は無事に終了したのであろうか。

大学受験というものに最近はめっきり縁遠くなっているせいであろう、昨日ニュースでセンター試験というのを見た時に、この試験がいったいどういうものだったか思い出すのに数秒間を要した。

ちょっとググってみると、大もとの共通一次試験がスタートしたのは1979年からであり、それが1989年で終わって1990年からは現在のセンター試験になったらしい。
ということなので、センター試験としては今年で28年目、共通一次時代から通算すると39年目、ということになる。
けっこう連綿と続いているのである。

センター試験の意義というのは、大学によって散見される奇門・難問の類の入学試験に対する問題意識から、より基本的な学力を測る試験が必要ということで創設された、という話を時々聞く。
しかし実際には、というか少なくとも我々の時代には、共通一次試験の自己採点の点数によって二次試験を受ける先がだいたい決まるというようなことになっていたと思う。
いわゆる「輪切り方式」というやつで、あらかじめ大学が難易度別にランク付けされており、共通一次試験は大学入試の前さばき作業的な感じで存在していたように記憶している。
今は入試の方式もずいぶんと変わっているようなので、全部が昔と一緒ではないようである。
また大学も独立採算的な運営になっており、生徒数の分母も減っている状況では従来通りのやり方を維持していたのではジリ貧になるという危機感も強いようだ。

しかしとは言いながらも、諸外国、特にアメリカ辺りと比べると日本の入試はペーパーテスにかなり偏向していて問題だ、みたいな報道もよく目にする。

考えてみると大学と学生の関係というのは、かなり独特で面白い。
会社における従業員の場合、従業員は給料をもらって働くので、同じ金額でよく働く人、あるいは会社を儲けさせるのが得意な人が「良い従業員」である。

大学にとって「良い学生」とはなんだろう。
短期的にはきちんと学費を納めてくれさえすればそれで良い、ということかもしれない。
長期的には大学に残って研究者になり、学会に轟くような業績を残す、あるいは大学卒業後実業界などで有名になって、出身大学の名前もついでに宣伝してもらえたりする人物が良い学生と思われる。

大学としては必要な「売上」を維持するためにとりあえず学生の量を確保せねばならず、さらにその中のごく少数でも良いので有名になってもらって大学の宣伝をしてもらわないといけない。

最近はAO入試というのがあるそうで、アドミッションズ・オフィス入試(What?)の略らしいが、内申書等と面接・小論文などで合否を決めるやり方らしい。
AO入試の学生はどんどん増えて、最近では全体の1割近くもいるらしいので、一定の成果は出ているのかもしれない。
卒業後、名を成すタイプの人物が学生時代そして入学当初どういう特性の人物だったのか、その辺りの統計データとかを研究すると案外面白そうな気がするが。

ということで、まあ受験生のみなさんはインフルエンザなどに十分気を付けてがんばって欲しい、と、いちおうエールを送っておく。
posted by ヤス at 16:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月14日

恐竜が残したもの

最近のニュースで、恐竜はどうも羽毛フサフサだったらしい証拠が見つかった、というのがあった。
琥珀に封じ込めらた恐竜の身体の一部が、生きていた頃と同様の状態で出土しそこに鳥のような羽毛が生えていたのがそのまま残っていたらしい。
そのニュースを見て以来、街を歩いていて鳩やカラスを見かけると、彼らが恐竜に見えて仕方ない。
わたしが子供の頃は、恐竜はどちらかというとトカゲやワニのおっきい奴のイメージで、まぎれもない爬虫類として強く認識していたものだ。
しかし研究が進むにつれて、恐竜はどんどん「鳥」の方にイメージが寄って来ているようで、昔は恐竜のうちのひとつの種が進化し形態を変化して鳥になったと思っていたのが、今では羽毛フサフサの恐竜の中の比較的フサフサの割合が突出した奴が、ちょっと羽ばたいてみたら案外上手く飛べた、くらいの感じに変わって来ている。

恐竜というのは、よく知られているように生きている間はずっと成長し続けていたらしい。
そういうこともあって、多くの恐竜がどんどん巨大化する方向で進化していった。
大きくなるとエネルギー効率が良くなるし、捕食者に食べられる可能性も少なくなるなど、生物の生き残り戦略の上でメリットが多い。
だから恐竜は大きくなった。
しかし大きくなるためにはいくらかのブレークスルーも必要で、そのひとつが自分の体重をどう支えるかということだろう。

大きな体重を効率的に支えるために、恐竜の骨は太く頑丈に出来ているが、同時に骨の中に気嚢と呼ばれる細かい穴が空いていて、太さの割に軽い構造になっていたらしい。
恐竜は大型化した結果、身体の構造をそのサイズの割に軽くするように進化していったものと思われる。
これはあまり学術的に確かな情報ではなく個人的な勝手な想像であるが、恐竜が始祖鳥になり、やがて本格的な飛翔が出来る鳥に進化していったのには、恐竜が大型化の過程で獲得した軽量構造が大いに役に立ったと思う。

恐竜はどんどん大型化して、やがて6600万年前に隕石衝突が原因とも言われる大規模な気候変動にその大型化した身体が対応出来ず絶滅したと言われる。
大型化は結局滅亡へのきっかけになったようであるが、しかしそこで獲得した軽量構造の特性が鳥に受け継がれて役に立ったようでやれやれなのである。

さて、今人類もかなり急激な進化の過程にあって、人類の場合は肉体的な進化ではなくて脳機能によって創造されたソフトウエア的な進化である。
それは人間そのものが変化するのではなく、自動車やパソコンを作ったり、いろいろと便利な「外部装置」を付加して行くことによって肉体は変わらないのにその生活様式は劇的に変化している、というタイプの進化である。

で、ある一部の人によると、人類はそう遠くない将来に絶滅するのではないかという話もあるらしい。
人類が近々絶滅するのかどうかは分からないけれど、かつて地球上を覆い尽くすほどに繁栄し、大型化して行った恐竜たちが、その進化の成果の一部を鳥に引き継いだみたいなことは、人類の場合にも起こるのかなあ、とふと思ったりする。
その場合、鳥に当たる生物種はどんな奴らで、恐竜から鳥に引き継がれた軽量構造に当たる「機能」は何になるのか、ちょっと興味があるなあ、などと思った。
posted by ヤス at 16:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月13日

夜型生活の魅力

個人的には、なんだかあんまり正月気分を満喫することもなく、「新年の感じ」が終わろうとしている。
日本の場合、3月末が年度終わりということになっているので、いつまでもお屠蘇気分を引こずれないように一年のスケジュールが出来ているようである。
また、個人事業主のみなさん方は来月から確定申告が始まる。
そんなこんなでこの時期は気持ち的にも慌ただしい感じが強い。

わたしの場合も、御多分に洩れず確定申告をやらないといけない。
申告のために会計ソフトに数字を打ち込んで決算書を作ったりする作業は、いざ取り掛かってしまえばどうということもないことなのだが、実際に手を付けるまでのメンタル的なハードルは意外に高い。
例年、「締め切り効果」の力を借りてわりかしギリギリ目で申告関連の作業をやっていたのだが、昨晩、何のきっかけがあってそうなったかは不明だが、突然決算書を作りたい欲求に襲われておもむろに作業を始めたのである。
少し溜まっていた入力作業を全部済ませ、現預金残の確認や入力間違いなどを一通りチェックして、もっともらしい数字になっているかどうか、パソコンディスプレイを少し遠目から眺めて吟味し、まあこれで良かろうという感じを確認して無事に決算書は出来上がった。

これで来月になって受付が始まったらすぐにでも申告を済ませられる体制が整った。
何というか、少し夜更かしして眠い感じはやや否めないが、それにも増して清々しい気分である。

で、昨日の晩の12時頃、街がひっそりと静まりかえった中で作業をしていて思ったのだが、深夜の事務作業というのは意外にはかどる。
このところジジイに相応しく、大抵は12時前に就寝するようになっていたのだが、静かな夜中に作業をするのは、それなりに効率的ではないかと再認識した。

ちょっと前から、出来るビジネスマンは早朝からバリバリ仕事をするとか、ウォール街辺りでも朝の6時頃からみんな始動しているとか、早朝仕事最強論が優勢なような気がする。

その一方で、広告業界の一部や作家の先生、芸能人などその手のクリエイティブな方々は夜型が多い。
わたしも昔広告業界にいて、仕事の電話がひとしきり止む夜の9時過ぎくらいからがエンジン全開の時間帯、みたいな時期を過ごした経験がある。

人間は視覚情報に頼る割合が極端に高いところから類推して、おそらくは昼行性の生物である。
だから人間は生き物本来の特性としては、昼間の明るい時間帯の方がいろいろ活性化して都合が良いように思われる。

その人類が、ある一部の人々においては夜中の方が仕事がはかどることがあり得る。
生き物としては本来昼行性の人間が、夜中の方が脳が活性化する、というのは何か生き物の枠組みを飛び越えたハイパーな進化の感じが個人的にはする。

それに夜中の時間は朝に比べてその進み方が少しゆっくりな感じがするのが、なんとなく心地が良い。
ということで、魅惑の夜型生活に少し心惹かれる今日この頃なのであった。

posted by ヤス at 16:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年01月12日

斬新さと普遍性の両立

一流のマーケッターというのは人並外れた感性を持っているだけではなく、どちらかというと「平凡な感性」を失っていないところにポイントがある、みたいな話を聞いたことがある。
たくさん売れるヒット商品を開発するには、既成概念を打ち破る斬新なアイデアを創造できることが必要であるが、同時にそれが普通の人々の心にヒットするかどうか、その判断がつかないといけない。
そのためには、ただ発想がぶっ飛んでいるだけでなく、開発者が市井に生きる普通の人々の気持ちを持ち合わせている必要がある。

この手の話で必ず例に出てくるスティーブ・ジョブズは、たぶん上記のタイプが当てはまるその典型例のような人物だったような気がする。
考えてみると、ジョブズは技術畑の人ではなく、そのために必要以上に技術オタクの深みにはまることなく「普通の人々に響く新しい概念」をひねり出すことができたのだと思う。

またジョブズの(というかアップルの)生み出したプロダクトには、既成概念の立場からは少々不安になるような少し飛んだ新しさが必ず入っていたように思う。
少々遡るならマッキントッシュのパソコンが出た時にマウスがワンボタンになっていたり、ボンダイブルーのiMacからはフロッピードライブやレガシーポートの類が、当時はまだ普通に使われていたにも関わらず一切省略されていたりした。

また初めてiPhoneが出た時には、物理ボタンはホームボタンひとつで後は全てタッチパネルで操作する、とかいうのは操作系がシンプル過ぎて使う前にはかなり不安になる感じがしたのを覚えている。
ジョブズのプロダクトはだいたいその調子で、最初に見た時は新し過ぎて気持ちが付いて行けず少し不安になるのだけれど、使ってみたらまったく不安が払拭されて少なからず感動する、という具合にできていた。

こういう「斬新さと大衆受けの両立」という側面が、これまでのアップルのマーケティングパワーの源泉であったと思う。
しかしこのような商品開発は、合議制の、開発者個人の顔が見えない体制からはたぶん出て来ようがない。

例えば自動車の世界でも、日産GTーRやマツダロードスターは開発者の名前がかなり知られていて、開発者のエゴがクルマの性格にも見え隠れしているようで面白いと思う。
個人のエゴを反映したクルマというのは、普通ならあるはずの機能を平気で削ぎ落としたり、予定調和を少なからず無視したところに魅力が宿るのだろう。
予定調和を無視した新しさに最初は少し不安を覚えるけれど、実際乗ってみるとしっくり来て納得できる、という普遍性も合わせ持っているとまずまず売れるのだと思う。

消費市場が成熟したと言われて久しいが、モノが溢れるマーケットで人々の琴線に訴えるには、そういう個人のエゴと普遍性が両立した商品開発が必要なのだろう、と思った。
posted by ヤス at 13:36| Comment(0) | 徒然なるままに