2016年12月23日

ストレスの元について

現代社会はストレス社会である、という風にしばしば言われる。
本当だろうか。

現代社会が近代以前と比べて違っていると思われるのは、ひとつには、技術が極限的に進歩して複雑さもスピードも桁違いになっていることかもしれない。
交通手段にしても、江戸時代の頃まではほとんどの庶民が自分の脚だけを頼りにしていたのが、自動車や鉄道が出来、船はエンジンで推進し、ジェット旅客機が飛んで、その気になりさえすれば地球の裏側にも簡単に行ける。

しかし、単純に自分の脚で歩くのと飛行機に乗るのとでは、いろいろ違う。
ジェット旅客機を一人で手作りするのは、技術上もコスト的にもなかなか難しいので、そこは航空機産業やツーリスト会社などの社会システムに依存せざるを得ない。
パソコンにしても、超速くて正確な計算能力がおおよそ一月分の稼ぎの範囲で手に入るわけだが、これもその産業に関わる何万人という人々の働きのおかげである。

万事がその調子であって、現代社会で現代風の生活を謳歌するには、自分自身もその構成員として一定の役割を果たし、他の人々に「現代社会」の一部要素を提供するよう努めねばならない。

しかし一方で、現代社会の構成員はそれこそ何億人もいる。
日本国民だけでも1億3千万人くらいいるらしい。
だから、そのうちの一人がある日突然消えて居なくなっても、現代社会は昨日までと同様に正常運転し続けるだろう。
それは消えるのがアメリカ大統領でも、日本の総理大臣でもそうであろう。
アメリカ大統領が消えればいくらか大きなニュースになり若干の政治的混乱も生じると思われるが、しかしそれでも、人間の作り上げて来た現代社会がその瞬間に雲散霧消したりすることにはなるまい。

以上のようなことを考えた時、現代社会の小さな構成要素である一個人のわたしは、いったいどのような心構えで生きるべきなのであろうか。

例えば、わたし一人がある日を境に「引き篭もり」状態に入って社会の構成員としての役割を放棄したとして、それで現代社会が何ほどの影響を受けるということもない。
逆に、今から身を削って遮二無二に働いたとして駅前に銅像が建つほどの偉人になれるかというと、それも考えづらい。

結局のところ、人間は自分自身が現代社会で大過なく生きれられるよう、あるいは若干の扶養家族を養えるくらいの水準を目指して、社会における役割をなんとか見つけるまでのことだ。

そういう「役割」は、選り好みしなければたぶん世の中にいっぱい転がっている。
たくさん転がっているが、出来ることなら割のいい「役割」が欲しいと思うのが人情だ。
そういうことで現代社会にストレスのタネは尽きないなあと思った。
posted by ヤス at 11:31| Comment(0) | 徒然なるままに