2016年12月21日

感情の抑制について

人間は感情の動物である。
人間は他の動物とは群を抜いて大きく高機能な脳みそを持っており、その脳みそによって複雑な論理的思考が可能である。
論理的思考は、別に大学を出たインテリだけの特殊能力ではなく、小学生くらいの子供でもそこそこ複雑な論理的思考を行なっているものだ。

しかしながら、時に感情の圧力が、理屈もヘッタクレもすっ飛ばして人間を情動的行動に駆り立てる。

最近の某芸能人の薬物疑惑の例に限らず、日本では昔から「推定無罪の原則」というのはほとんど無視されてきている。
わたし自身もその種の疑惑が話題になっている時、こいつは絶対怪しいなあとか思って、知人との世間話の中で勝手に有罪前提にして話をすることがたびたびある。

しかし真実がどうなっているのかは、そもそも遠く離れた第三者にはほとんど見えないものだろう。
古くは松本サリン事件とか、ロス疑惑の保険金殺人事件とか、当初マスコミはほとんど決め打ちで疑惑の人物を有罪扱いにして報道を垂れ流し、しかし後で出た裁判の結果は報道陣の期待を裏切るものだった。

人間の脳ミソの特性として、悪い人間をガンガン糾弾して懲らしめていると、その時にある種の脳内物質が分泌されてとても気持ちが良くなる、ということがあるらしい。
そういう特性があるので、集団の中で少し非のありそうな人物を見つけると、ついつい隣近所の人にその非について愚痴やら非難やらを漏らしたくなる。
で、その非のありそうな人物を少々大声で非難して、その時に周辺の人々もそれに賛同するようだと、勢いを得てだんだん糾弾の調子がエスカレートするのだろう。

そして大きな声で糾弾しているその間中、その人の脳内では脳内物質がちょろちょろ出て、どんどん気持ち良くなっている。

マスメディアというのは、そういう人間のサガを意識しているのかどうかはよく知らないが、少なくとも大衆が非のありそうな人物を心置き無く非難してそれで気持ち良くなる、そのためのネタ提供をせっせと行なっているに過ぎない、そういう風にも見える。

有名人が薬物犯罪に手を染めるのはいけないことであるのは間違いないが、多くの人々が、事実が確定する前に声を極めてその有名人を有罪扱いしている姿も、見ようによっては一種の中毒症状であるように思えるのはなんだか皮肉である。

しかし元に帰ると、我々人間は、ほとんどがそれなりに理屈に則って思考する能力を持っているはずである。
だから、少し冷静さを取り戻しさえすれば、どんな人でもそれなりに穏やかにモノゴトの理屈に思いを巡らせることができるはずだろう。

歳のせいか最近何かとカッカしやすいような気がして、自戒を込めてそういうことを考えてみた。
posted by ヤス at 10:10| Comment(0) | 徒然なるままに