2016年12月20日

喪失感について

子供の頃というのは、大人になった今と比べると何かと「喪失感」を感じやすかった記憶がある。
例えば小さい子が今まさにソフトクリームを食べようとしていて、手もとが狂ってポトリと落としたりすると、次の瞬間ワンワン泣き出して手がつけられなくなる、などというのはいかにもありそうな話だ。

私自身もソフトクリームだったか何だったか忘れたけれど、食べかけのものをポトリと落として、その時のやり場のない感情を制御出来ず、荒れ狂った憶えが一度ならずある。
食べ物に限らず、幼少の頃に親戚のガキにオモチャを壊されたり、あるいは自分で壊したりして失くしたこともたくさんあった。
そしてその度に破滅的な感情に襲われ、泣いたりわめいたりしていたと思う。

そう言えば最近は、本州の山の中でツキノワグマと遭遇して襲われる事故が多発しているが、熊という動物は、ハイカーのリュックサックとかを奪ったら最後、それの所有に異常な執着を示してリュックを取り返そうとするとかなり荒れ狂う、という話を聞いたことがある。

人間の子供の頃の「喪失感」には、熊の所有への執着と似たものがあるのかもしれない。

しかしそういう感情も、大人になるにつれてかなり減って来る。
あるいは中学生の時分には、何か物を失くしても、食べ物にありつき損なっても、むやみに荒れ狂うことは無くなった。
それは一通り喪失の体験を済ませて精神的な耐性が出来たということなのか、または何か喪失した場合の代替方法をすぐに思いついて建設的に立ち直る能力を会得した、ということなのか。

あるいは食べ物とかオモチャとかのいかにも単純で原初的な欲望よりも、お金や名声など、より複雑で根の深い欲望が優ってきて、原初的な欲望が相対的にどうでも良くなって来る、そういうことのような気もする。

いずれにしても、幼少時に何度も感じたあのなんとも言えぬ「喪失感」は、思い返すと少しノスタルジックで、懐かしい感じがするのである。

しかし、あの時の「喪失感」は多くの大人の中にもいくらか残っているようで、だからこそ「断捨離」が流行ったりして、なかなか「捨てられない」ことがある種の問題と認識されていることの証しだろう。

人間の「喪失感」に対する向き合い方は、幼少時はただ泣き喚いていたのが、次第に建設的に対処出来るようになって、最終的には所有本能に逆らって積極的に物を手放す境地にまで到達する、というのはいかにも人間臭くて面白い。

少し考えてみると、「喪失感」とは物理的なものの有無よりはモノを所有している「感じ」が無くなるのがやるせないのだと思う。
逆に言えば、「感じ」さえ満たされれば所有するモノの多寡はあまり関係ない、そういうことなのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 12:31| Comment(0) | 徒然なるままに