2016年12月13日

所有の幻想

アメリカのインディアン、というかネイティブ・アメリカンの世界観においては、自分たちが暮らす大地は、自分たちの子や孫からの借り物である、という思想があるそうだ。

近代社会では「所有」という概念がかなり重要な地位を占めているように思う。
中でも土地の所有とかいう、本来はなかなか所有しづらいようなものでも、測量して境界線を引いたり契約書の仕組みを作ったりして、それなりに所有の権利は盤石になっている。

しかし突き詰めて考えると、何かを所有しているという気分は、ある種の幻想に過ぎないのではないかと思う。

例えば空気について考えてみる。

空気というのはあっちからこっちに風が吹いたりしてとどまることを知らず、日本国内の領土・領海上の空気は日本の所有に帰する、とかいう風には決められない。
領空権とか言っても、それは一定領域の空間に及ぶものであって、その空間内に存在する酸素や窒素の分子に権利は及ばない。

まあ空気の缶詰とか酸素ボンベのような形でごくわずかの量を区切って所有することも出来なくはないが、我々が心置き無く呼吸の用に足すことが出来るほどの空気の固まりについては、たぶん所有の権利は存在しえない。
さらに水の分子について考えてみると、我々は蛇口から出て来る「水量」に対して水道料金を払い、コンビニに並んでいるペットボトルの水にお金を払う。
そういう水はゴクゴク飲み干したり、洗濯や洗い物に使ったりした後はジャーっと排水して無くなる。

水というのはペットボトルに入って冷蔵庫にある間は所有しているような感じであるが、飲み干して、やがて身体から出て行った瞬間に所有物で無くなる。

同様にして肉や野菜などの食料品も、お金を出して買って、口に入る瞬間までは所有している気分を味わえるが、口に入ったらもう後は出て行くに任せるしかない。
まあしばらく身体の構成物質として所有の余韻を楽しむことは出来るのかもしれないが。

また、家や自動車を所有していると言っても、カタチあるものはいつか朽ち果てる。
永遠の所有というのはあり得ず、すべての所有は限られた期間だけのものだ。
第一、モノの寿命より所有者の方が先に逝くかもしれず、そうやって考えると、所有しているというのは借りているのと本質として変わらないように思える。

ちょっと思ったことであるが、人間の醜悪な部分というのは、特に国家間の領土紛争とか個人間でも富や地位をめぐるドロドロとかいうのも、「所有」の幻想が引き起こしているような気がしてならない。

空気や水の例に限らず、すべてのモノやコトはこの世界をグルグルと巡っていて永遠に掴まえておくことは出来ない。
所有していると思っているものは、実は借りているだけなのではないか。
しかもその多くを未来の子や孫から借りていると思うことが出来たら、世の中のありようは少しは変わるのでは、とちょっと思った。
posted by ヤス at 14:50| Comment(0) | 徒然なるままに