2016年12月08日

喧嘩の無意味について

「金持ち喧嘩せず」と言う。

まったく、喧嘩をするというのは合理的な紛争解決手段とは言えない。
喧嘩の勝敗にとっては、客観的にどちらがより正しいかということは関係ない。
喧嘩の強い方が勝つ。

仮に、世の中の紛争は最終的に喧嘩で決着を着けましょうということになると、公正さや事前の約束ごとは意味がなくなり、喧嘩の強さがすべてになる。
だから近代社会の決まりごととして、喧嘩による紛争解決は事実上の禁じ手になっているものと思われる。

ただ実際には、世の中喧嘩が絶えない。
喧嘩というのは、取っ組み合いもあるし罵り合いや果てしない口論であったり、場合によっては嫌がらせや村八分的な状況へ追い込むことなどもあるかもしれない。
それによって一方の相手が参りましたと降参したところでひとまず勝敗が決着し、喧嘩は終わる。
しかし喧嘩の決着は、後々に禍根を残す。
勝者はそれによって溜飲を下げ、非常に気分が良いが、負けた方はこの恨み晴らさずにおくか、ということになって次の喧嘩の火種になる。

したがって、喧嘩はひとつ発生するとそのひとつで終わることなく、復讐戦が続いて発生し、新たな喧嘩と合わせて連鎖反応的に発生数が増加することが予想される。

喧嘩の蔓延は社会から合理精神を奪い、「腕ずく」による問題解決の体質はすなわち「知的劣化」を意味すると思う。

人類は今までせっかく知能の発達を武器にここまでの繁栄を築き上げてきたのに、社会に喧嘩が蔓延することで、人類史的に退化、劣化することとなれば、それは由々しき事態と言える。

世界中で戦争や武力紛争が無くならなかったり、街なかで銃器の乱射事件があったり、アメリカの大統領選がただの罵り合いになったりするのは、考えるのが面倒くさくなって喧嘩に奔った、知的劣化現象である。

そういう大きな話以外にも、日頃の仕事の中や対人関係などでも、譲歩しあい、建設的な妥協点を見つけること、それにより喧嘩の勝ち負けをつくらず「敗者の怨恨」をつくらないように努力することはちゃんとした大人として非常に大事なことであるな、と何十年も生きてきたオジサンは今更ながら思ったのでした。
posted by ヤス at 13:12| Comment(0) | 徒然なるままに