2016年12月02日

儀式としてのオリンピック

2020年東京オリンピックの会場整備問題にまつわるニュースがいろいろ流れている。
報道では予算が約2兆円になったとか、2兆円ではまだ高すぎるのでさらに削るべき、とかの議論があるようだ。

最近のオリンピックではロンドンでも北京でも、結局総額で2兆円前後の資金が投入されている、という話もある。
はたしてどの程度か適正規模なのかは、なかなか見当がつかない。

オリンピックにこれだけ巨額の資金が必要なのは、ひとつにはオリンピックが世界最高・最大のスポーツイベントである、ということがあるのだろう。
世界最高・最大なので、その競技会場も周辺環境も最高レベルを確保しないと格好がつかない。
その理屈で最高レベルの競技会場を実施種目分整備していけば、自ずと巨大な金額になるのは自明であろう。

考えてみると、スポーツイベント、スポーツ大会というのはいろんな意味で「儀式」としての性格が強い。
オリンピックでは世界中から集まった選手の中から一番強いやつ、一番速いやつをコンペティションし、優勝者を決める。
そして優勝者の栄誉を讃える。
コンペティションの正統性を保証し勝者の価値を最大化するためには、そのイベントにしかるべき格式と権威を与えねばならない。

だからオリンピック以外でも、たいていのスポーツ大会には開会式・閉会式があり、優勝者・入賞者を表彰する式典がある。
また勝者の証となる金・銀・銅メダルが与えられ、田舎の小さいスポーツ大会であってもそれらしい表彰状が作成・授与される。
ただ単に競技力を測定して選手間で比較するだけなら、単なる記録会になってしまうのである。

このようにスポーツ大会というものには、大なり小なりの儀式的形式が要る。
ましてそれがオリンピックになれば、競技会場の儀式的形式として、「世界最高」にふさわしい規模と壮麗さが要求され、その結果莫大な予算が消費されることは致仕方がないように思われる。

逆に言えば、最高規模の祭典儀式を行うところにオリンピック開催の意義もあると思われる。
そういう意味ではひところ提唱されたコンパクト五輪のコンセプトは、それが予算規模の縮小を意味するとすれば、本来の意義からは少し矛盾しているようにも思える。

考えてみると、昔やっていた古代オリンピックは、開催の地はギリシャはエーリス地方のオリュンピアに決まっていたらしい。
古代オリンピックは開催地固定方式だったわけだが、近代オリンピックもいっそ固定にした方がいいのではないかと思ってしまう。

まあ会場をどこにするかで揉めるだろうけれど、古式にならってギリシャの地に、世界各国からお金を3〜4兆円くらい出してつくれば、それはそれは立派な祭典が出来るのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに