2016年12月31日

ギルトフリーというのがあるらしい

「ギルトフリー」という言葉があるそうな。
ギルトは英語で「罪悪感」のことだそうである。
最近はアメリカのスーパーなんかに「ギルトフリーのお菓子」コーナーがあったりするようで、要するに食べても罪悪感が無いのがいいらしい。

個人的には、ギルトフリーの感じは、どうにも受け入れられそうにない。
いや、そういうのが良いという考え方の存在は認める。
昔から医食同源なんてことも言う。
我々の身体はあくまでも口から入ってくる食糧によって成り立っている。
医学や栄養学も発達し、何が身体に良くて何が悪いかも明確になって来ている。

努めて合理的に考えれば、身体に良いものをなるべく選んで食べる生活スタイルに、非難されるべき落ち度は無い。

少し想像してみると、脂こってりや砂糖満載とかの食べ物は、昔からある程度あまり身体に良くないのを承知で食べていたのではないかという気がする。
少なくともわたしが幼少の時代には、甘い物ばかり食うなとか、カフェインが悪いからコーヒーを飲ませないとかいう話はあった。
時代が下るにつれて、炭水化物がダメとかトランス脂肪酸がどうとか、グルテンフリーとかだんだんダメなものが増えて来た。

そして我々は、少なくともわたし個人は、食べ過ぎは良くないとしりつつ、どら焼きや大福餅やイチゴのショートケーキやアイスクリームなどなどを食べて来た。
そこには、甘い物のもたらす「享楽」とのトレードオフで、いくらか自分の健康を削る背徳感があいまって、その快感がより増幅される作用があったのではないか。
と言うと、少し大袈裟だが。

とにかくも、我々は、美味いものがだいたい身体にはそんなに良くはないことを知っている。
しかし美味いものはとにかく食べたいので、それを承知で時々食べる。

必要なのは、身体への悪影響がそれなり以下になるように気を付けながら美味いものを食べることであると思う。
人生はなかなかに制御し難いものであるが、しかし不完全ながらも頑張って制御しつつ時々身体に良くない美味いものを食べる、だから美味いものはより美味く感じる、そういう面があると思う。

ギルトフリーなお菓子は、その目的として心置き無く甘い物を食べたいという欲求を満たそうとしている時点において、美味いものが身体に悪いという不条理と戦いながら最終的には健康状態を許容範囲に制御し切るという人生の醍醐味を放棄させるもののような気がする。

結論として、美味いものはあまり健康に良いとかえって面白くない。
すこし過ぎると毒になる、そういう危うさも含めての美味しさであるような気がしてならないのである。
posted by ヤス at 10:18| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月30日

寒い方がマラソン気分が高まる件

最近やっと冬らしく、寒くなって来たと感じる。
気象庁のサイトで過去データを確認し12月の平年気温を見ると、12月初旬は平均気温が8〜9度、下旬が5〜6度程度になっている。
それが今年の場合、12月に入ってから平均気温で10度以上の日が4日もある。
特に12月22日は最高気温が20度くらいまで上がってポカポカ陽気だった。
それがこの2、3日で急降下して最高気温で7〜8度、平均気温で4度くらいとぐっと冷え込んで来て冬らしくなって来た。

寒いよりは暖かい方が過ごしやすいのは確かであるが、しかし12月にあまり暖かいと不都合なこともある。
例えばマラソンである。
やっぱりマラソンはある程度寒い方がいい。
個人的な経験では、気温が0度近くまで下がって雪がガンガン降る中で走ったことがあったが、そういう状況でも頑張って走っている限りそんなに寒さは感じない。

どうも最近の数年を思い返すと、寒風に吹かれて肌が凍てつくような感じのシーズンが少ないような気がするのである。
温暖化の影響だろうか。

しかしとりあえず、最近冬らしくめっきり冷え込んで来たこともあってマラソン気分が否が応でも高まる。
気分が高まるのは天気のせいだけではない。
このところ何年も悩んでいた足底筋膜炎の気配が、今シーズンはすっかり無くなって非常に気分が良いのである。
最近、YouTubeでマラソンの故障対策の動画をたくさん見て、それをヒントに足首周りのストレッチを入念にするようになった。
そうしたら嘘のように足裏やアキレス腱周りの痛みが無くなったのだ。

わたしは大昔に水泳をしていた時も、足首が硬くてバタ足が進まなかった苦い思い出があるのだが、ここに至ってやっと自分の足首周りの柔軟性の無さを再確認したのだった。

故障の不安が解消したので最近は心置き無く練習が出来る。
2日前にも早朝の「3時間走」を敢行し、実際は2時間と42分しか走らなかったが、最後の3kmほどはヨレヨレになって練習を終えた。
脚の筋肉やら関節やら至るところがガタガタになったが、足裏周りは全然平気で一安心。

どうも今年の三が日はふたたびポカポカの暖かい天気になるようだが、やっぱりマラソンは寒風にブルブル震えながらスタートラインに立つのが醍醐味であることよ、と思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 07:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月29日

出生数100万人割れ

2016年の出生数が100万人を下回るそうだ。
まだ今年は3日ほど残っているが、厚生労働省の発表によると2016年の出生数は98万1千人の見込みで、1899年に統計を取り始めてから初の100万人割れとのこと。

出生数のピークは第一次ベビーブームの昭和24年に270万人であり、ちなみに第二次ベビーブームの昭和48年が209万人だったようだ。
今年の98万1千人はピークの36%の水準であり、なるほど日本の人口が減るのも仕方ないと感じる。

だがよく考えてみると、江戸時代の日本列島の人口は3千万人余りだったというし、過去70年の人口急増こそがある種の異常事態だったと言えるような気もする。

で、日本列島の超長期の人口推移を少し調べてみた。

まず今から8千年前の縄文時代早期には列島の人口はおよそ2万人で、人口の分布としては関東地方にほとんど集中していて、西日本は九州を除いてはほぼ無人の野であったようだ。
この後列島の気温が少し上昇して食糧環境に余裕が出て来て人口が急増し、同時に西日本にも住居の痕跡が見つかるようになって、列島全体で推定26万人くらいまで人口が増加する。
それが再び寒冷化で人口が急減し、その後稲作を中心に農耕技術が広まって人口拡大がしばらく続いたようだ。
縄文晩期に10万人を切っていたのが、卑弥呼の頃(西暦240年頃)にたぶん60万人とか70万人くらいになっていたのではないか。

今の人口1.3億人のだいたい200分の1、鳥取県か島根県の人口くらいが列島全体に散らばっていたことになる。
弥生時代以降の日本の人口は基本的に増加の一途である。
時代が下って聖徳太子の時代、西暦600年頃には400万人を超えるくらいになり、室町時代あたりに1千万人を超え、1600年の関ヶ原の頃に約1220万人となっている。

江戸時代に入って人口増加傾向に拍車がかかり100年余りの期間で人口が倍以上になって3000万人を超えている。
しかし江戸時代中期以降は江戸と大阪に人口が集中するようになり、都市化による非婚人口の増加、衛生状態の悪化などからその後しばらく人口増加は小休止したまま明治時代に入る。

近代に入り、医療の発達による死亡率低下などにより、100年ほどで4倍以上に増えて戦後間もなく1億人を超えるのは周知の通りである。

今後の人口は、ざっくり言って後100年で半分くらいになる、というのが大方の見方であるらしい。
出生率はあまり急激に変化しないので、30年先の人口はわりかし正確に分かり、西暦2050年頃にはだいたい2千万人以上減って1億人少々になると言う。

今の8割の水準である。

こうやって見てみると、日本の20世紀は人口爆発の時代だったことがあらためて分かる。
ある意味特異な時代だったのであり、これから100年間の人口構造の変化は、20世紀の人口急増でいろいろ出来た歪みの修正の時代、というような気がする。
posted by ヤス at 15:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月28日

Amazonの配達問題

今日のネットニュースで、Amazonの荷物が多すぎてクロネコヤマトのドライバーが悲鳴を上げているというのが流れていた。
少し前にもここで書いたが、わたしもAmazonをよく利用しかつ家を空けることが多いので、最近はコンビニ受け取りを使うことが多い。

少し前までは家に帰ると不在票がポストに入っていることがたびたびあり、多少の罪悪感すら覚えたものであったが、さすがに最近は不在者対策も徐々に進んできているのだろう。
配達日が近づいてくるとヤマトからメールが来て、受取先や配達日時の変更についてたずねるようになっている。
またAmazonからも配達状況の情報が発送作業完了から始まって配達完了まで何度か入ってくるようである。

そのような仕組みが出来上がっているので、最近の荷物は何日に届くのかがほぼ正確に分かるようになった。
だから時間指定しておいて配達日に待ち構えていれば確実に荷物を受け取ることが出来るはずだ。

しかし、である。
午前中の指定にしていると、ヤマトはいつも8時過ぎくらいの比較的早い時間に来ることが多いのだが、日によっては荷物が多いのか11時50分くらいになることがあったりする。
あるいはタイミング悪く朝風呂に入っている最中とかに来ているパターンもある。

家に居たのに荷物を受け取れなかった、という時の精神的ダメージは計り知れないくらい大きい。
そういう痛い目に何度かあったので、現在は断固としてコンビニ受け取りを利用するようにしている。
しかしニュースを読むと、コンビニ受け取りにもそれなりに問題が多いようである。
バックヤードが荷物で満杯になったり、荷物引き渡しが煩雑で、ただでも忙しいのがさらに拍車がかかったりするらしい。

特にまだこのサービスがコンビニ側でも十分に定着していないと見え、慣れないスタッフだと気の毒になるくらいあたふたと迷うことがある。

最近のわたしは、靴下やパンツ、ワイシャツや、毎月同じタイミングで届くAmazonの「定期おトク便」サービスを利用して食品関係なども調達している。
基本的に、日常的な生鮮食品以外の調達は全部Amazon化してもいいくらいに思っている。

しかし、前述のようなコンビニにおける荷物の受取問題があるので、こちらとしても精神的にプレッシャーを感じないわけにはいかない。
こちらとしては最後の切り札と思っていたのに、それがコンビニスタッフの犠牲を強いるものであるとすると、気持的にちょっと躊躇せざるを得ない。

解決策として考えられるのは、コンビニスタッフの手を介さずに荷物を受けわたすような仕組みを構築することであろう。
暗号キーの付いたコインロッカーみたいな荷物ポストをコンビニ店内に設置し、お客が暗号キーに入力して勝手に荷物を持って帰るようにすれば、少なくともこちら側の精神的プレッシャーはずいぶん軽減されるように思う。
ただし、そういうポストを置くスペース上の余地がコンビニ店内にあればの話だが。

それと、Amazonの配達の箱の大きさはなんとからんものかと思う。
5cm四方くらいの小さい商品でも、A4サイズくらいのでっかい段ボール箱で届く。
あの段ボール箱の処分が面倒くさくてたまらない。

まあいろいろ注文はあるが、わたしの生活にAmazonとコンビニは無くては生きていけないので、なんとかがんばってもらいたいと切に願う。
いつの日か無人ドローンが空を飛んで荷物を届けてくれる日が本当に来るのだろうか、少しだけ期待して待つことにする。
posted by ヤス at 15:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月27日

慣れについて

突然だが、今日は「慣れ」について考えてみる。

人間はいろんなことに対して慣れることが出来る。
わたしは20代の若かりし頃、広告産業の底辺に位置するデザイン製作会社で働いていた。
そこでは朝の9時から夜中の12時頃まで働くのが日常であり、わたしもまだ若くて元気だったのでそれはまあそんなものかと思っていた。
しかし、例えばそのデザイン会社の前に、勤務時間がきっちり9時ー5時の会社に勤めていたら果たしてその後の15時間労働に耐えられていたかと考えると、たぶんかなり難しかったような気がする。

長時間労働というのはある程度「リズム」を掴むと、けっこう慣れることが出来るものだ。
今考えても当時の職場に対する思い出は、そんなに悲惨な感じではない。
ひとつには、その職場の人間関係がかなり緩い感じだったのでその面の苦労があまりなく、精神的にはまあまあ楽だった、ということだと思う。

一方で、どうしても環境に慣れることが出来ないこともある。
特に仕事の環境ということで考えても、結局慣れることが出来なかったなという状況がいくつか思い出される。
慣れることが出来なかった原因は、やはりそれまでに経験し慣れて来た環境との違いの大きさだと思う。

話が少し飛ぶが、大昔に寒中水泳を2、3度やったことがある。
年が明けて新年の1月がおそらく寒中水泳のシーズンである。
わたしのやった寒中水泳は川や海でなくプールだった。
やったことのある人はわかると思うが、寒中水泳というのは不思議なほど寒くない。
1月の冬の盛りに、海パン一丁の裸体を寒風に晒すだけでもかなりのものだと思うのだが、精神的にちょっとしたお祭り状態になっていて、感覚が麻痺しているからなのか寒さを感じない。
さらに水中に入ると、水は冷たいというより痛い。
そしてひとしきり泳いだ後水から上がると、冷たい水が身体の周辺から無くなったことで、それだけで物凄く暖かい感じになる。

今考えてみると、あの寒中水泳の感覚は「慣れ」の対極にあるもののような気がする。
寒中水泳というのは、せいぜい10分くらいが限界の荒業だと思う。
あれを1時間も2時間も続けるのはたぶん無理だ。
つまり慣れることが出来ない。
もし寒中水泳に慣れることがあったら、茹でガエルの反対だけれど、水中で凍死しないといけない。

結局ある環境に慣れることが出来るのは、その環境ならまあ生きていけるなと、そのように身体なり精神の無意識領域なりが判断した結果なのかもしれないと思う。

だがあまり慣れた環境に居続けていると、その状況に過剰適応して問題のような気もする。
時々は寒中水泳的な、絶対に適応不能そうな状況に飛び込んでみることもたぶん必要なのである。

ひょっとしたら、絶対適応不能と思っていた環境に案外慣れることが出来たりして、それはそれでめっけもの、ということがあったりするかもしれないなどと思った。
posted by ヤス at 11:17| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月26日

マクロコンバーター

IMG_0435.JPG

わたしはいちおう写真愛好家を自称しているが、その割にあまり写真を撮らない。
ちょっと小旅行という時など、張り切ってカメラを3台ほどバッグに詰めて持ち出すが、結局1枚も撮らずに帰って来ることも稀ではない。
なんというか、写真撮影というのは、うまく撮れた時の喜びを想像しながらカメラを構えつつ被写体を探し、つい夢中になってシャッターを押してしまう、そういう衝動が付き物であろう。
しかし写真撮影は、構図を考えたりピントを合わせたり露出や光線の具合をいろいろ思案しながら撮らねばならず、それなりに疲れる。
そうなると、だんだん撮る喜びより疲労の予感に対する面倒臭さの方が勝って来て、シャッターを押す機会が遠のく。
このままではただのモノグサなおじさんに成り下がってしまいそうである。
やはりカシャカシャとアグレッシブに写真を撮る自分でありたいものだ。

その対策として真っ先に頭に浮かぶのは、やはり新型のカメラを調達することであろう。
しかしそのためには、それなりの財源がいる。
次善の策としては、手元のニコンかオリンパスに付ける交換レンズを新調することか。
しかし良さげなレンズは、ちょっとビックリするようないい値段である。

だから毒にも薬にもならない中途半端な選択ではあるが、オリンパスのミラーレス機に付ける用の「マクロコンバーター」を買ってみた。
大枚6136円を投入し、本日Amazonから到着した。(冒頭の写真がそれである)

昔、写真は寄って撮れ、と教わった憶えがある。
どんなものでも寄って撮るとそれっぽく写るものだ。
だからマクロコンバーターを新規調達した判断は、写真技巧的にも経済的にもなかなかナイスな判断だったんじゃなかろうかと期待が膨らんで来る。

試しに超グラコロを撮ってみた。
レンズはOLYMPUSの単焦点17mmf1.8である。
IMG_0430.JPG

過去にクローズアップレンズを何度か試したこともあるが、そのたびに感じるのは、思ったより寄れない、ということだ。
今回のコンバーターはただのクローズアップレンズよりかなりずっしりした感じで、1群2枚構成のかなりちゃんとした「レンズ」であるが、しかし思ったより寄れない点についてはクローズアップレンズと変わらない。

ちなみにコンバーター無しだとこんな感じ。
IMG_0431.JPG

画角は違うがあまり変わった感じがしない。

さらに、超グラコロの「クリーミーな感じ」を撮れるか挑戦。
IMG_0432.JPG

万策尽きたので、ナゲットのソースを撮ってみよう。
IMG_0433.JPG

ナゲットのソース「クリーミーチーズ」は最近出たようだがかなり気に入っている。
ちなみにカレーソースもあってそっちも捨てがたい。

やはりクローズアップレンズにせよ、マクロコンバーターにせよ、専用のマクロレンズのようにグッと寄って撮る、とはいかないことが改めて分かった。

そんなこんなで、人生は死ぬまでずっと勉強である、と自分に言い聞かせながらマクロコンバーターをそっとカバンの中に仕舞う今日この頃であった。
posted by ヤス at 15:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月25日

文章の書き方について

以前も書いた憶えがあるが、ここにこうして文章を書いているのは、ひとつには文章修行、ひとまとまりの作文を出来るだけ速く書くことの練習だと思っている。
それで、その内容はともかくとして、そこそこの速度で千文字程度の作文を書くことのコツのようなものがだんだん分かって来た。
それは、あまり考えずに書く、ということである。

文章というのは、あれこれ考えていると筆が止まる。
なんというのか、ほぼほぼ反射的に、指先が動くままに書いていると、とりあえず止まらずに書くことが出来るようなのである。

特に難しいと思うのが文章の終わり方である。
なにせ指の反射が勝手に作文しているので、文章のフィニッシュのイメージがないままにどんどん書き進んでいる。
結局、なかば強引に終了を宣告するスタイルで最後尻すぼみになるパターンに陥りがちなのは、まあ現段階では仕方がないと諦めている。

しかしあらためて思うのは、人間の言語能力の凄さについてである。
例えばごく普通のおばちゃんとかでも、少し調子が出て来ると何十分でも話し続けることが出来る。あれは1分あたりどれくらいの単語を使っているのか分からないが、最近の近所の出来事などの具象的事柄から、時に隣人の幸福度などの抽象概念に至るまで、相応にたくさんの語彙とかなり複雑な論理を駆使して、まくしたてることが出来る。

そういう時のおばちゃんは、あまり「意識」を動員していちいち話を頭の中で組み立てた後に口から発する、というのではなく、脳みそのどのあたりを動かしているのか知らないが、あまり考えなくてもほぼ反射的に口から言葉が出ているのだろう、と想像される。

自動車の運転に慣れると、ほぼ意識しなくても身体が動いてスムーズに出来るようになるのと同じく、人間は、幼い頃から延々と話をすることの訓練を積み重ねて、何十年も生きているとオートマチックに口から言葉が出て来るようになる。

文章の場合、話し言葉と違うのは、身振りや表情などの非言語的な意味の付加が無いぶん、そこのニュアンスを文章だけで伝達しないといけないことだ。
また、話し言葉では相手の顔色を伺いながら念押ししたり繰り返したり出来るが文章ではそれも出来ないので、なるべく主語述語の並びとかをちゃんとして、簡潔に正確に伝わるようになっていないといけない。

そういうことに気をつけながら、なおかつ、あまり意識を動員せずに指が動くままに文章を書くとそれなりに速く書ける、ということがなんとなく分かって来たのである。

ただ、指の動くままに文を書いていると、そこには思わぬ本音がポロリと出たり、自分でも意識していない本性のようなものが出るような気がする。

結局良い文章を書くには、そういう本性の部分を良い文章に相応しくなんとかする必要があるようであるが、それについては、今のところ良い方法を知らない。
やはり良い文章を書くのはなかなか難しいと言わざるを得ない。
posted by ヤス at 11:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月24日

人生をドライブするプレッシャーについて

さて、ストレスについてである。
ストレスについて書くのは、必ずしも現在のわたしがストレスで悩んでいる、ということではない。
むしろその逆である。
自分の人生には、少しストレスが足りないのではないか。
そういう思いすら無くはない。

人生において何か難しい事をやり遂げるには、ある程度のプレッシャーが必要なものである。
一般的には、家族を養う覚悟であったり、社内の出世競争であったり、いろいろあるだろう。
そういう世の中で仕事をしている人々が普通に感じているプレッシャーが、自分には少し足りないのではないか。
そういう疑念が、そんなに大きな悩みというわけでもないのだが、時々ふと脳裏をよぎることがある。

たまに組織人として働く知人の話を聞いたりする。
会社組織の中で仕事をするのは、なかなかに大変そうである。
まあわたしも、人並みに組織人の経験をしたことがあるので、その大変さの一端は理解できる。
上司からの理不尽な命令、思い通りにパフォーマンスを発揮しない部下。
しかも会社というのは、常に一定以上の利益を確保していないといけない仕組みになっている。
したがって、上司が理不尽でも部下が出来が悪くても、会社の中の誰かがそれなり以上の結果を出してせっせと穴埋めしないとやっていけない。

その穴埋めすべき「誰か」が自分なのではないか、というふうに責任を持ち始めると、なるほどこれはかなりのストレスになるに違いない。

これが一人しかいない「組織」の場合、親切な他の誰かが責任を一身に負ってくれるという特典もない代わりに、出来の悪い人の分の責任まで余計に負う苦労もない。

そうやって考えていくと、組織の中のストレスというのは、周辺の人の分まで余計に責任を負って、勝手に苦労の分量を増やしているだけじゃん、と思ったりしたら怒られるだろうか。


さて、冒頭でプレッシャーが必要だと述べた。
ここでいう必要なプレッシャーとは、言うまでもなく人の責任を親切に背負ってあげるという種類のものではない。
スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクや孫正義など、名だたる起業家が自らに課したであろう、そういうなにやら壮大なプレッシャーって、いったいどういうことなのか。
徒手空拳から巨大なビジネスを作り上げるための原動力がどういうところから湧き上がって来たのか。
そのあたりが、いくつか伝記や自叙伝を読んだりして、その時はなんとなく分かったような気になるのだが、最終的には理解不能の重大事項として残り続けている。

結局今に至るまで、数々の偉人たちの人生を強力にドライブして来た「プレッシャー」の正体が何なのかまったく分からないわけであるが、まあ普通に生きる小市民は、あまり壮大なことを考えずに目の前のお勤めをコツコツとこなしなさいよと、偉人の原動力が理解できないのはそういう御天道様のお導き、そういうことなのかもしれない。

ひとまずは、そのように理解してこの場を収めることにする。
posted by ヤス at 15:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月23日

ストレスの元について

現代社会はストレス社会である、という風にしばしば言われる。
本当だろうか。

現代社会が近代以前と比べて違っていると思われるのは、ひとつには、技術が極限的に進歩して複雑さもスピードも桁違いになっていることかもしれない。
交通手段にしても、江戸時代の頃まではほとんどの庶民が自分の脚だけを頼りにしていたのが、自動車や鉄道が出来、船はエンジンで推進し、ジェット旅客機が飛んで、その気になりさえすれば地球の裏側にも簡単に行ける。

しかし、単純に自分の脚で歩くのと飛行機に乗るのとでは、いろいろ違う。
ジェット旅客機を一人で手作りするのは、技術上もコスト的にもなかなか難しいので、そこは航空機産業やツーリスト会社などの社会システムに依存せざるを得ない。
パソコンにしても、超速くて正確な計算能力がおおよそ一月分の稼ぎの範囲で手に入るわけだが、これもその産業に関わる何万人という人々の働きのおかげである。

万事がその調子であって、現代社会で現代風の生活を謳歌するには、自分自身もその構成員として一定の役割を果たし、他の人々に「現代社会」の一部要素を提供するよう努めねばならない。

しかし一方で、現代社会の構成員はそれこそ何億人もいる。
日本国民だけでも1億3千万人くらいいるらしい。
だから、そのうちの一人がある日突然消えて居なくなっても、現代社会は昨日までと同様に正常運転し続けるだろう。
それは消えるのがアメリカ大統領でも、日本の総理大臣でもそうであろう。
アメリカ大統領が消えればいくらか大きなニュースになり若干の政治的混乱も生じると思われるが、しかしそれでも、人間の作り上げて来た現代社会がその瞬間に雲散霧消したりすることにはなるまい。

以上のようなことを考えた時、現代社会の小さな構成要素である一個人のわたしは、いったいどのような心構えで生きるべきなのであろうか。

例えば、わたし一人がある日を境に「引き篭もり」状態に入って社会の構成員としての役割を放棄したとして、それで現代社会が何ほどの影響を受けるということもない。
逆に、今から身を削って遮二無二に働いたとして駅前に銅像が建つほどの偉人になれるかというと、それも考えづらい。

結局のところ、人間は自分自身が現代社会で大過なく生きれられるよう、あるいは若干の扶養家族を養えるくらいの水準を目指して、社会における役割をなんとか見つけるまでのことだ。

そういう「役割」は、選り好みしなければたぶん世の中にいっぱい転がっている。
たくさん転がっているが、出来ることなら割のいい「役割」が欲しいと思うのが人情だ。
そういうことで現代社会にストレスのタネは尽きないなあと思った。
posted by ヤス at 11:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月22日

他力本願でない成長

このところ日経平均が急上昇している。
今月の初旬には1万8千円台だったのが、いつの間にか1万9千円台なかばに到達し、今日立ち読みした週刊誌には来年には4万円になる、と書いてあった。

実際にそこまで行くかどうかは分からない。
が、今月14日にアメリカFRBで利上げがあって今後もドル高が続く見通し濃厚のようである。
また、その以前に大統領選に勝利したトランプが減税と公共投資を掲げていて、アメリカ財政の赤字増加傾向が予測されているらしい。
その赤字予測から金利上昇が予想され、その影響でドル高円安がここまで進んだという解説が巷間伝えられている。
だから実際にトランプが大統領に就任して、減税と公共投資が予想通りに実現しないという「観測」が大勢を占めるようになると、ドル高局面が変化する可能性がある、ということである。


いずれにせよ、ドル高円安が進んで、それを受けて日本の株価は上昇を続けている。

株価は安いよりは高い方が良いのは当然だ。
しかしこの状況について、個人的には懸念を抱かざるをえない。

ひとつは、円安による株価上昇というのが企業努力の結果でなく他力本願によるものということである。

つい昨日くらいのニュースに、JDI=ジャパンディスプレイに産業革新機構から750億円追加支援するというのがあった。
JDIは日立・東芝・ソニーの液晶パネル事業を統合して出来た会社だそうだ。
このJDIでは支援資金を活用して新型ディスプレイの開発を加速させるらしい。
またJDIにとってもこのたびの円安はたいへんな追い風だろう。

しかし液晶パネル事業は巨額の投資が必要とされ、ここまで青息吐息のJDIに、個人的には明るい将来は無いと感じる。
ただ単純にいいものをコツコツつくるというだけが企業戦略であるように見えるJDIが、一時的にせよ円安で急場を凌ぐのは果たしていいことなのかどうか。


話を戻して円安の懸念のふたつ目。
今日本では経済格差の拡大とかが問題になっているが、今の時代円安という経済現象は、すべての国民にとって歓迎すべきこととは言えない。
輸出主体の製造業にとってはプラスであり、原料を輸入して国内で消費する産業にとってはマイナスである。
格差が生じるのは、ある現象でプラスになる人とマイナスになる人とが分かれる、マイナスの人からプラスの人に所得移転が生じているから、と言えると思う。
折しも原油価格もゆっくり上昇に向かっている。
輸入物価の上昇を受けて消費者物価が上がる公算が強いが、国内賃金がそれをカバーできるだけ上昇するか、というとかなり期待薄だろう。


ということで、今日本に必要なのは、円安とかの他力本願に頼ることなく経済を活性化させる「新しい何か」だと思う。
それが何かは分からないが、円安株高で政府やら日銀やら上場企業やらの偉い人々の危機感が薄れるとしたら、それはあまり良いことではないように思う。
posted by ヤス at 16:12| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月21日

感情の抑制について

人間は感情の動物である。
人間は他の動物とは群を抜いて大きく高機能な脳みそを持っており、その脳みそによって複雑な論理的思考が可能である。
論理的思考は、別に大学を出たインテリだけの特殊能力ではなく、小学生くらいの子供でもそこそこ複雑な論理的思考を行なっているものだ。

しかしながら、時に感情の圧力が、理屈もヘッタクレもすっ飛ばして人間を情動的行動に駆り立てる。

最近の某芸能人の薬物疑惑の例に限らず、日本では昔から「推定無罪の原則」というのはほとんど無視されてきている。
わたし自身もその種の疑惑が話題になっている時、こいつは絶対怪しいなあとか思って、知人との世間話の中で勝手に有罪前提にして話をすることがたびたびある。

しかし真実がどうなっているのかは、そもそも遠く離れた第三者にはほとんど見えないものだろう。
古くは松本サリン事件とか、ロス疑惑の保険金殺人事件とか、当初マスコミはほとんど決め打ちで疑惑の人物を有罪扱いにして報道を垂れ流し、しかし後で出た裁判の結果は報道陣の期待を裏切るものだった。

人間の脳ミソの特性として、悪い人間をガンガン糾弾して懲らしめていると、その時にある種の脳内物質が分泌されてとても気持ちが良くなる、ということがあるらしい。
そういう特性があるので、集団の中で少し非のありそうな人物を見つけると、ついつい隣近所の人にその非について愚痴やら非難やらを漏らしたくなる。
で、その非のありそうな人物を少々大声で非難して、その時に周辺の人々もそれに賛同するようだと、勢いを得てだんだん糾弾の調子がエスカレートするのだろう。

そして大きな声で糾弾しているその間中、その人の脳内では脳内物質がちょろちょろ出て、どんどん気持ち良くなっている。

マスメディアというのは、そういう人間のサガを意識しているのかどうかはよく知らないが、少なくとも大衆が非のありそうな人物を心置き無く非難してそれで気持ち良くなる、そのためのネタ提供をせっせと行なっているに過ぎない、そういう風にも見える。

有名人が薬物犯罪に手を染めるのはいけないことであるのは間違いないが、多くの人々が、事実が確定する前に声を極めてその有名人を有罪扱いしている姿も、見ようによっては一種の中毒症状であるように思えるのはなんだか皮肉である。

しかし元に帰ると、我々人間は、ほとんどがそれなりに理屈に則って思考する能力を持っているはずである。
だから、少し冷静さを取り戻しさえすれば、どんな人でもそれなりに穏やかにモノゴトの理屈に思いを巡らせることができるはずだろう。

歳のせいか最近何かとカッカしやすいような気がして、自戒を込めてそういうことを考えてみた。
posted by ヤス at 10:10| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月20日

喪失感について

子供の頃というのは、大人になった今と比べると何かと「喪失感」を感じやすかった記憶がある。
例えば小さい子が今まさにソフトクリームを食べようとしていて、手もとが狂ってポトリと落としたりすると、次の瞬間ワンワン泣き出して手がつけられなくなる、などというのはいかにもありそうな話だ。

私自身もソフトクリームだったか何だったか忘れたけれど、食べかけのものをポトリと落として、その時のやり場のない感情を制御出来ず、荒れ狂った憶えが一度ならずある。
食べ物に限らず、幼少の頃に親戚のガキにオモチャを壊されたり、あるいは自分で壊したりして失くしたこともたくさんあった。
そしてその度に破滅的な感情に襲われ、泣いたりわめいたりしていたと思う。

そう言えば最近は、本州の山の中でツキノワグマと遭遇して襲われる事故が多発しているが、熊という動物は、ハイカーのリュックサックとかを奪ったら最後、それの所有に異常な執着を示してリュックを取り返そうとするとかなり荒れ狂う、という話を聞いたことがある。

人間の子供の頃の「喪失感」には、熊の所有への執着と似たものがあるのかもしれない。

しかしそういう感情も、大人になるにつれてかなり減って来る。
あるいは中学生の時分には、何か物を失くしても、食べ物にありつき損なっても、むやみに荒れ狂うことは無くなった。
それは一通り喪失の体験を済ませて精神的な耐性が出来たということなのか、または何か喪失した場合の代替方法をすぐに思いついて建設的に立ち直る能力を会得した、ということなのか。

あるいは食べ物とかオモチャとかのいかにも単純で原初的な欲望よりも、お金や名声など、より複雑で根の深い欲望が優ってきて、原初的な欲望が相対的にどうでも良くなって来る、そういうことのような気もする。

いずれにしても、幼少時に何度も感じたあのなんとも言えぬ「喪失感」は、思い返すと少しノスタルジックで、懐かしい感じがするのである。

しかし、あの時の「喪失感」は多くの大人の中にもいくらか残っているようで、だからこそ「断捨離」が流行ったりして、なかなか「捨てられない」ことがある種の問題と認識されていることの証しだろう。

人間の「喪失感」に対する向き合い方は、幼少時はただ泣き喚いていたのが、次第に建設的に対処出来るようになって、最終的には所有本能に逆らって積極的に物を手放す境地にまで到達する、というのはいかにも人間臭くて面白い。

少し考えてみると、「喪失感」とは物理的なものの有無よりはモノを所有している「感じ」が無くなるのがやるせないのだと思う。
逆に言えば、「感じ」さえ満たされれば所有するモノの多寡はあまり関係ない、そういうことなのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 12:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月19日

築地の寿司屋

もうだいぶ前の話だが、10月の下旬に東京にふらふらと遊びに行った。
ひとつには、ひょっとしたら近日中に消えてなくなってしまうかもしれない築地市場を見ておこうと思ったのがある。
で、築地に行って、どこか適当な寿司屋に入ろうと思ったのだが、平日だというのに築地は朝からたいへんな人混みで、どの店も入り口付近に人が溜まっている。
大勢いるお客さんの大半はアジア系の外国人の方々のようである。
中に多少欧米人の方々も混じっている。

しかしとりあえず人が多く、行列の待ち時間がいったいどれくらいになるのか、田舎からやって来たオジサン的にはそれを考えただけで食欲が減退してくる。
寿司は諦めて吉野家で牛丼食ってお茶を濁しておくか、とも考えたが、フラフラ歩いているとたくさんある寿司屋は、全部が全部長蛇の列、というわけでもないのが分かってきた。

どうも人気店とそれ以外で極端に列の長さが違う。
10数分も歩きまわってやっとそういう初歩的な発見をして、それで列の出来ていない1軒を見つけて中を覗いてみた。
10席ほどのカウンターと奥にテーブル席が少しの小さい店内は半分ほど空いている。
覗いてすぐ首を引っ込め出ていくほどの勇気もなかったので、そのままカウンターに座る。
とたんにヨコからスッとお茶が出てきて、ほぼ同時に大将がペライチのメニューを見せながら、3つほどあるコースのどれにするか聞いてきた。

下は2千円台後半から上は3800円ほどの値付けである。
大将が一番上のコースを勧めるので、高いのか安いのかよく分からなかったが約3800円のやつにした。
柔らかく煮た大穴子が特に美味かったし、他のネタもわたしの貧しい舌には十分過ぎる出来であったと思う。

しかし今にして思うのは、他の長い行列が出来ている寿司屋がどんなものか、日を改めて見ておけば良かったなということだ。
いったいどんな要素が行列の長さを左右していたのか。
個人的な推測では、おそらく価格の高低が行列の最大の原因だろうと思う。
店頭に並ぶメニュー表などをざっと眺めた感じ、人気の店はどれも2千円台のコースをメインに出しているようだった。

わたしは田舎のオジサンなので、行列は苦手である。
おそらく慣れた人ならば、この列の長さならどれくらいの時間で目当ての品にありつけるのか、おおよその目安が肌感覚で分かるのだろう。
だから列に並ぶ苦役に耐えられる。

しかし普段列に並ばない人間は、行列を見ただけで軽い目まいがする。
築地の寿司屋について言えば、混雑緩和のことだけを考えれば、たぶん価格帯を客単価でもうあと千円ほど上げた方が良い、ということなのではないかと思う。

寿司の値段は高いよりは安い方が良いわけだが、しょっちゅう食べに行くところでもないので、行列に並ぶ精神的苦痛を考えると、多少高くても我慢できる気がする。

しかしまあ平日からあれだけ行列が出来ていれば、築地の各寿司屋はたいへんな客の入りであろう。
おそらく我々の常識からは異次元の売上を上げているに違いない。
だから寿司屋に関して言えば、豊洲へ移転するより築地のままの方がずっと儲かるのだろうなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月18日

偽ニュース対策

先日、Facebookが偽ニュース対策の実施について発表していたけれど、ネット上に出回るニュースの真偽を判断するのはものすごく難しいことだと思う。
というか、ニュースというのは完全な真実を伝えるものはない。
いくらか肝心な部分が漏れていたり、少し事実と違う部分があったり、意図的にミスリードする要素が紛れ込んでいたり、いろいろあるだろう。
昔から、人の噂話や風の便りとはそういうものである。
それを聞く人が受け止めて、いろいろと頭の中で想像をめぐらして事実はこうであったろうかと推測する。
それが昔ながらの、伝聞情報の受け止め方であったはずだ。

しかし何時の頃からか、新聞やテレビなどのマスメディアがある種の権威としてニュースの配信をやり始め、人々がそれを丸呑みする習慣が出来始めたのではないか。
ネット社会になって、その構造がやっと崩れるのかと思ったら、今度はあら手の「ニュース詐欺」が発生し始めたようである。
ネット上の情報空間では、人々は自分自身の思想信条に沿った情報集を行うことになり、思想信条の偏向がどんどん進んで世の中が過激化しやすいように思われる。

こういう時代には意図して自分の思想と反対側の情報を集めるように努力し、バランスを取るようにする必要があるのだろう。
それがまたなかなか難しいことではあるけれど。

いずれにせよ、Facebookでニュースの真偽をユーザーに示す試みが始まり他のサイトでも同様の動きが進むのだろうが、しかし根本的な原理として、こっちのニュースは偽物であっちは真実だと単純に白黒付けられないだろう。
だからこの動きは「いちおう努力してます」というパフォーマンスに留まる公算が強い気がする。

やはりニュースを受け止めるユーザーがいちいち半信半疑でニュースを読んで、その内容を自分の頭でしっかり咀嚼すること以外に、ことの解決方法はないと思う。


話が少し飛躍するが、ひとつの対策として「虚構新聞」とかの嘘ニュースサイトがもっといろんな種類出来て、どんどん嘘ニュースを流して世の中の人々が嘘に対する免疫を付けていく、というようなこともある意味有効なのではないか、という気すらしてくる。
ネット上の偽ニュース問題の本質は、人々が楽して真実を知りたいと思っているところにあるように思われる。
でもたぶん、楽して真実は手に入らない。
それどころか「本当の真実」は存在すらしていないかもしれない。
そういう非常に難解な哲学的命題であって、ネットでニュース配信をやるのもたいへんだなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 15:07| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月17日

自然な振る舞いについて

いろんな人間の振る舞いを見ていると、時々不自然でぎこちなくて気になることがある。
そしておそらく、自分自身も不自然でぎこちないことがたびたびあるのだろうと思うと、ちょっとあせる。

しかしなぜ人間の振る舞いは不自然になるのか、というのを考えてみた。
以前「受動意識仮説」について何度か書いた。
人間が行動する時はもっぱら無意識が行動を司っている。
そして0.3秒後に意識がそれを追認する、という説であった。

例えばのどが渇いて水を飲もうと台所に向かって一歩踏み出す時、無意識が勝手に脚を動かし、コップを取り、続いて蛇口をひねる。
意識は脚が動き出した0.3秒後に「よし脚を動かそう」と思い、コップを取ろう、蛇口をひねろう、というのもそれぞれの行動の0.3秒後に「意識」する。
そういうことだった。

ただし、意識と無意識の間にはおそらく絶え間ないフィードバックのやり取りが行われている。
水を飲みに行く場合であれば、蛇口から水が出る知識やその場所の認識を意識が持っていて、その知識を利用して無意識は身体をドライブしている。
このような意識と無意識の関係は、「自我意識」が特に発達した人類に特有の行動パターンなのだろうと思う。

そして、日常的な慣れた動作の場合は意識の介入がどんどん減ってくる。
あまり何も考えずに、つまり無意識が起こす行動を意識の方があまり「意識」しないというのは、人類以外の野生動物の行動パターンに近い。

それはある意味、「自然な動き」と呼ぶべきものだろう。
逆に言うと、あまり行動に際して意識が介入しすぎると動きがぎこちなくなる。


ネットニュースに、関西出身の某有名女優さんが、いつもは標準語でしゃべっているのにある時関西弁を使っていて、それがなんかぎこちなかった、というのがあった。
この女優さんはもうずっと標準語を使っているので、関西弁を話す時ある程度意識を強く介在させないと上手くしゃべれなくなってしまったのだろう、そういう気がする。

方言に限らず、人前で話をする時なんかでも、あまり頭のなかで難しいことを考えず、口先の動くに任せるみたいな方が、滑らかに話ができて聞いている方も聞きやすいような気がする。

タレントさんやお笑い芸人とかでも時々「天然」の人がいるけれど、天然の人というのはその言動に自我意識がほとんど介入しておらず、その分自然な感じがして見ている人にとって心地良い、そういうことがあるのかなあ、などと思った。
posted by ヤス at 16:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月16日

プレミアムフライデー批判

プレミアムフライデーが、順調に行けば来年2月24日に始まるらしい。
これは毎月最終の金曜日を午後3時終業にする「呼びかけ」を行うものであるそうだ。
目的は、多くの労働者が週末の仕事を早く切り上げることで、旅行に行ったり外食に出かけたりするのを促し、ひいては個人消費の活性化をねらうのだという。

ただし、世間の意見には賛同もあるが批判もある。
結局労働時間を短くした分、他の日が忙しくなるのではないか。
消費を活性化するには時間より賃上げを、などというものである。

この批判に対しプレミアムフライデーを推進している経産相と経団連は、これは強制ではないので各企業の内情に合わせて無理のない範囲で実施して欲しいとのこと。
消費には時間より金が必要という批判に対しては、経団連も賃上げに積極的に行動するつもりであるらしい。

わたしは、世の中の労働時間をある程度の強制力を持って短縮していく動きには、それなりに賛成である。
日本の多くの企業は、いまだに無用で不毛な仕事に時間を浪費し過ぎだと思う。
わずかのコストでシステム化出来る仕事でも、莫大な人件費をかけてせっせと紙と鉛筆でやっている会社がまだたくさんある。
あるいはメールやLINEで2〜3秒で済む要件確認を5分も10分も世間話を交えて長電話で処理するようなことも散見される。
あるいは、そもそも必要ない仕事を過去からの惰性で続けていることもたくさんあるに違いない。


企業というのは市場経済の中で、常に顧客の選択にさらされ競合に揉まれてがんばっている。
今の世の中少し気を抜くとすぐに赤字転落するだろう。
そういう意味では、業務内容の見直しを定期的に行って労働時間の短縮に励みコストを減らす努力が欠かせない。
ただし、同じコストを減らすのでも業務内容の見直しによるのではなく、もっぱらサービス残業など従業員に犠牲を強いる手法に走る会社が後を絶たない。

政府がやるべきなのは、従業員の犠牲によってコストを減らそうとする企業を厳しく取り締まることであろう。
それによって各企業が合理的な業務改善を行うように促すことが、まず必要だと思う。
プレミアムフライデーに類するような十把一絡げの時間短縮施策は、従業員に被害が及ぶ可能性が強く、その点であまり関心出来ない。

経産相とか経団連の偉い人とかは、頭も良くこれまでに各種の成果も上げた偉い人が多いと思うのだけれど、何かこう根本肝心のところで、合理的思考が出来ていない感じがする。

企業経営は、これを究極的に合理化すれば、競争にも勝てるし従業員を疲弊させず長持ちする会社になるのだと思う。
そういう合理的思考が出来ているかどうか、偉い人たちは少し考えた方がいいのではないか、と少し思った。
posted by ヤス at 10:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月15日

超グラコロ

さて、マクドナルドがあいかわらず好調を維持しているようだ。
日本マクドナルドのIRのページで四半期決算を確認してみる。

IMG_0429.PNG

前年同期は売上(連結)1,375億円が今期は1,653億円と約2割の大幅な増加。
利益に至っては前年同期は営業損益がマイナスの2百億円超が38億円の黒字に改善している。
この数字を見る限り、ひと頃の危機的状況からは脱したようである。

またフードビジネス研究所というところが集計している上場飲食企業の既存店売上推移を確認してみる。
今年7〜11月の数字を見るとマクドナルドは客単価、客数ともに前年同月から継続して改善している。
前の数字が悪過ぎたと言えばそれまでだが、もうそろそろどこかで落ち着くのではないか、と思って見ていたのでやや驚いている。

IMG_0428.PNG

特に客単価、客数が一貫して両方とも伸びているのは素晴らしい。
普通は客単価が上がると客数が減り、客数を増やすためには多少の客単価減少には眼をつぶるものだろう。

それが両方伸びているのは、最近の一連の商品政策の成功、店舗の清掃などの基本の見直しが背景にあるのではないかと想像する。

商品政策と言えば、12月14日から販売開始になった「超グラコロ」である。
今年は、テキサスバーガーやチーズカツやカルビマックなどの限定商品がかなり盛り上がったように見えた。
そして今年最後を飾る季節商品のグラコロが、頭に「超」を付け、満を持して登場した。

どうもこのグラコロには、潜在的なファンが多数いたらしい。
超グラコロの販売予告がアナウンスされたのは、今から1週間くらい前だったと思うが、その前からわたしの周辺において、今年はグラコロが出るのかどうか心配する声を聞いていた。

わたし自身も、グラコロが出るとすれば11月下旬からではないか、と密かに予測し、また期待していた。
しかしカルビマックなどがリリースされる一方でグラコロ発売の気配がまったくなく、やや気を揉んでいたところだった。

おそらく同様に気を揉んでいた人々が、思いのほか多かったのかもしれない。
そしてマクドナルドもそのような潜在的な需要状況をある程度把握していたのかもしれない。

「超」の付いたグラコロは、ほのかにバター風味の香りをまとって出て来た。
また豪華バージョンとしてデミチーズもラインナップ。

生粋のグラコロファンとしては、オリジナルのグラコロに下手に手を入れてせっかくのバランスを失ったら嫌だなあと思う。
今回の超グラコロは、コロッケソースとたまごソースの改良及びバンズに生クリームとバターを加えて風味を出したとのこと。
正直バターの香り以外は、従来品とあまり区別が付かない。
だがまあ、わたし的にはグラコロとしてのバランスはしっかり保たれていると感じたので今回の改良はオッケーということにしておく。

ただしデミチーズの方は、デミグラスソースの主張が強過ぎてグラコロ感がやや薄れる。
これはこれで好きな人がいるのかもしれないが、わたしはノーマル版で十分である。

ということで、ここまで予想以上の好調を維持しているマクドナルドが、来年以降どこまで業績を回復出来るのか、かなり期待が持てるような気がして来た。

また、カナダ人で日本マクドナルド社長のカサノバ氏に関し、これまでさんざん無愛想だのなんのと心の中で悪態をついていたが、今少し反省している、今日この頃である。
posted by ヤス at 12:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月14日

カジノと宝くじ

今、国会ではIR法案というかカジノ法案が話題になっていて、今日にも衆院で可決される見通しだという。
カジノ法案をめぐっては、経済効果に期待する意見とギャンブル依存症への心配が交錯して、賛否の判断がなかなか難しい。

ただひとつ言えるのは、カジノで確実に儲かるのは胴元であって、お客はほぼ100%損をするということである。
いや、お客が損をする、という表現は穏当ではないかもしれない。
お客はカジノに行ってつかのまのスリルを楽しむ。
そして楽しんだ分の料金を落としていく。
そして、ほぼ奇跡的な確率ではあるが、ほんの少数大金を稼ぐお客が出現する。

そもそもカジノの胴元の手数料の相場は、5%程度であるらしい。
一晩で100万円賭けて遊んだ人は、まあ順当にいって95万円くらい返ってきて、5万円がその楽しみに支払った料金ということになる。
かなり運の悪い人であれば100万円全部スったりするだろうし、運が良ければ何万円か掛け金が増えているのかもしれない。

しかし確率の理屈から、カジノに何度も通って遊んでいる人は、トータルの賭け金に対し手数料5%分だけお金が減る方向に収束するに違いない。
だからカジノに遊びに行く人は、手数料5%分に相当する余裕金を持っていて、これを「消費」することを承知しておくべきであろう。

まあ貧乏人の行くところではない、ということだと思う。

しかしこの日本にはカジノ以上に割の悪いギャンブルがすでに存在している。
言うまでもない、宝くじ。
宝くじの「寺銭」割合は、おおよそ50%くらいらしい。
ジャンボ宝くじの場合、1000万通りの番号がひとつのユニットになっていて、その中にぴったり1枚1等が入っている。
だから1等の当選確率は1000万分の1。
1枚300円の宝くじをワンユニット30億円分買うと、100%確実に1等前後賞及び2等以下のすべての当たりクジが「当たる」。
そして30億円の半分の15億円程度が必ず返って来る。
そして同時に15億円が必ず消えて無くなる。

宝くじを買うことによって、確かにワクワクやドキドキの精神的高揚が得られ、その快感に対価を払って良い人もたくさんいるに違いない。
しかし中には「本気で」当てに行っている人もいるのだろう。
そういう人は、胴元に虚しく半分抜かれて終わる。
非常に切ない話である。

ちなみにジャンボ宝くじの売上は、1回当たりおおよそ400億円ほどもある。
ロトシックスやナンバーズなど各種の宝くじを合計した売上は年間8千億円くらい。
全盛期は1兆円を超えていたらしい。
そして手数料や印刷経費を除いて売上の約40%が地方自治体の収入になるようだ。

宝くじのことを思うと、なんだか手数料5%のカジノが良心的に見えて来るなあと思った。
posted by ヤス at 10:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月13日

所有の幻想

アメリカのインディアン、というかネイティブ・アメリカンの世界観においては、自分たちが暮らす大地は、自分たちの子や孫からの借り物である、という思想があるそうだ。

近代社会では「所有」という概念がかなり重要な地位を占めているように思う。
中でも土地の所有とかいう、本来はなかなか所有しづらいようなものでも、測量して境界線を引いたり契約書の仕組みを作ったりして、それなりに所有の権利は盤石になっている。

しかし突き詰めて考えると、何かを所有しているという気分は、ある種の幻想に過ぎないのではないかと思う。

例えば空気について考えてみる。

空気というのはあっちからこっちに風が吹いたりしてとどまることを知らず、日本国内の領土・領海上の空気は日本の所有に帰する、とかいう風には決められない。
領空権とか言っても、それは一定領域の空間に及ぶものであって、その空間内に存在する酸素や窒素の分子に権利は及ばない。

まあ空気の缶詰とか酸素ボンベのような形でごくわずかの量を区切って所有することも出来なくはないが、我々が心置き無く呼吸の用に足すことが出来るほどの空気の固まりについては、たぶん所有の権利は存在しえない。
さらに水の分子について考えてみると、我々は蛇口から出て来る「水量」に対して水道料金を払い、コンビニに並んでいるペットボトルの水にお金を払う。
そういう水はゴクゴク飲み干したり、洗濯や洗い物に使ったりした後はジャーっと排水して無くなる。

水というのはペットボトルに入って冷蔵庫にある間は所有しているような感じであるが、飲み干して、やがて身体から出て行った瞬間に所有物で無くなる。

同様にして肉や野菜などの食料品も、お金を出して買って、口に入る瞬間までは所有している気分を味わえるが、口に入ったらもう後は出て行くに任せるしかない。
まあしばらく身体の構成物質として所有の余韻を楽しむことは出来るのかもしれないが。

また、家や自動車を所有していると言っても、カタチあるものはいつか朽ち果てる。
永遠の所有というのはあり得ず、すべての所有は限られた期間だけのものだ。
第一、モノの寿命より所有者の方が先に逝くかもしれず、そうやって考えると、所有しているというのは借りているのと本質として変わらないように思える。

ちょっと思ったことであるが、人間の醜悪な部分というのは、特に国家間の領土紛争とか個人間でも富や地位をめぐるドロドロとかいうのも、「所有」の幻想が引き起こしているような気がしてならない。

空気や水の例に限らず、すべてのモノやコトはこの世界をグルグルと巡っていて永遠に掴まえておくことは出来ない。
所有していると思っているものは、実は借りているだけなのではないか。
しかもその多くを未来の子や孫から借りていると思うことが出来たら、世の中のありようは少しは変わるのでは、とちょっと思った。
posted by ヤス at 14:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年12月12日

初めてに備える

戦争映画なんかで、要人暗殺や人質救出などの密命を受けた軍の特殊部隊が、あらかじめ作戦の舞台となる建物を内部構造まで再現したのを訓練基地に作り、そこで実際に建物への突入から作戦の完遂まで、何度もシミュレーションをする、という場面がある。

オサマ・ビン・ラディン暗殺作戦を描いた映画は何本かあるようだが、そのうちの一本でも、パキスタンに発見したビン・ラディンのアジトらしき建物を再現して、ネイビーシールズの隊員が何度も突入訓練を繰り返す。

この作戦はパキスタン政府に対しても秘密裡に企画され、しかも長年追って来たビン・ラディンを仕留める千載一遇のチャンスということで、絶対に失敗が許されない。

隊員たちはビン・ラディンのアジトを実際に見たことはもちろんなく、それどころか中の部屋の間取りやどの部屋に誰がいるとかは、おそらくまったく想像するしかなかったのではないかと思う。
そういうかなり不完全な情報に基づくシミュレーションであったけれど、訓練は粛々と繰り返され、作戦の細かい手順や発生しうる不足の事態などがいちいちあぶり出されていったものと推測される。


人間というのは、初めてのことに挑戦するとたいてい失敗する。
子供の頃初めて自転車に乗るとかいうのも、たいてい何度も転ぶ。
わたしは最初に就職して初めて仕事の電話を取った時、しどろもどろで非常に肝を冷やした記憶がある。
今は成功して上手くいっている起業家なんかでも、最初の頃はやる事なす事失敗したとか、会社を二つ三つ潰したとかいう人も数多い。

逆に初めてのチャレンジをいくつもこなしていると、「初めてにチャレンジする事」の要領を身体が覚えて、だんだん上手くいくようになったり、失敗した時のリカバリーのコツを会得して、失敗に対する免疫が付いたりするかもしれない。

今の時代は、百年二百年昔と比べても、「初めてやる」事がたいへん増えていると思う。
初めて自動車を運転するのは自動車の普及以前には無かったことだし、初めてパソコンを使うとか初めて電子マネーで買い物するとか、今後もどんどん新しい初めてが誕生すると思われる。

その調子で仕事のやり方にも「初めて」が定期的に現れるのだろうが、同じやるなら最初からなるべく上手くこなせた方がいいに決まっている。

そのためには、シールズの隊員がやったように、多少不完全でもシミュレーションを繰り返して、事前になるだけの準備をしておくことが必要であるなあ、と最近思ったりしたので、忘れないようにここに書き留めておく。
posted by ヤス at 14:14| Comment(0) | 徒然なるままに