2016年11月20日

世の中の調和について

かなり昔のことだがある人から、
「人は何のために生きていると思うか」
と訊かれたことがある。

その時わたしは、はて何と答えたものかと戸惑っていたがその人物の答は、
「人は幸せになるために生きている」
であった。

その人は、これまでいろいろ考えた末にそういう結論に達したらしい。
その時のわたしは、ただへえーと聞いていただけだったのであるが、はて、実際のところ人は何のために生きているのであろうか。
その人の言うように幸せになるために生きているのであろうか。

この手の問題には、絶対的な唯一の答えがない。
まず問題設定からして、「何のために」というのはどういう意味か明確でない。
人類全体としての視点から「何のため」を考えるのか、特定の個人として考えるのか、あるいは宇宙における生命の存在意義について論じるのか、その辺りを具体的に特定しないと答が出ない。
また、「幸せ」というのもくせ者で、何をもって幸せとするのかはかなり捉えどころがない。

いちおう何のために生きているのかについて真面目に考えてみると、突き詰めればたぶんそこに理由はない。
宇宙の存在も、宇宙における生命の存在も、すべては偶然である。たぶん。

人間がそこに理由を求めるのは、ひとつには宇宙の背後に神様、あるいは神聖な何か、の存在を想像しているからである。
神聖な何かが、ある意図を持って宇宙を創造し、その先に生命が生まれて人類も出来た。
この場合、何のために生きているのかを考えることは、宇宙を創造した神聖な何かがどのような意図を持っていたのかを考えることになる。

あるいは今生きている個人の立場から言えば、人は自分の存在に何か理由が欲しいと思っている。
それは生きている実感が欲しいのだと言い換えることが出来るかもしれない。

宇宙の存在の背後に何かの意図を想像するのも、そこから引き伸ばして自分自身にも宇宙的な存在意図があるとそう思いたいからなのだ、そんな風に想像することが出来る。


話を少しだけ変える。
人は何のために生きているのか、その答は幸せになるためというより、快楽を得るためである、と言った方がより分かりやすいと思う。
我々の行動は、その多くが脳内で分泌されるβエンドルフィンやドーパミンによって左右される。
いわゆる脳内麻薬。
それは人類の進化史の中で、より生存に有利な方向で脳内麻薬が出るようになっている。
それによって人類は多少の危険を冒しても食欲を満たし子孫を残し、社会を形成して今まで生き残ってきた。

だから何のために生きるのかと問われたら、快楽のため、気持ちよくなるために日々生きているのだ、というのがかなり適切であると思う。

問題は、社会に生きるみんなの快楽を最大化するためには、自分の快楽のために他人の快楽を必要以上に奪わなないこと、社会に生きる個々人の間にそういうある種の「調和」が必要である、そういうことではないかと思った。
posted by ヤス at 14:30| Comment(0) | 徒然なるままに