2016年11月02日

写真趣味のレベルアップ

これまでにも何度か書いているが、わたしはカメラが好きである。
いや、好きであったと言うべきかもしれない。
どうも最近はカメラのシャッターを切る気がしない。
これって、加齢による生きる意欲の低下なのではないか、などという余計な心配が頭をよぎる。

あれは1991年の冬だったと記憶している。
最初の一眼レフを買ったところからわたしのカメラ趣味は始まった。
もちろんフィルムカメラである。

最初の頃はシャッターを切るのが非常に面白かった。
フィルムカメラはデジタルと違ってランニングコストが掛かるのが玉に瑕だ。
リバーサルフィルムが36枚撮りで800円ほど、現像代もやはり1本800円くらいしたのではないかと思う。
単純計算で1枚あたりのコストが40円くらいになる。

調子に乗って36枚撮りを3本も使うと、もうウン千円が飛んでいく。
しかし最初の頃のカメラ体験が面白く感じたのには、撮影にコストが掛かって、したがって一枚一枚身を切る思いで慎重にシャッターを切っていたのが効いていたのかもしれないと今にして思う。


そういえば先日広島・呉の大和ミュージアムに行ったら、日本海軍における写真記録の歴史が展示してあった。
その時あらためて思ったが、19世紀頃、黎明期の写真技術はそれまでの精密スケッチに代わる画期的な情報記録術であったわけで、とりあえず絵を描くよりも正確に素早く画像記録が残せる、というのが当初の写真の価値だったのだ。

構図がどうとか色味がどうとか、四隅の解像度やタル収差などはどうでもよかった。
目の前の風景がいとも簡単に「生き写し」に出来ることに人々は驚いたことだろう。

思えばわたしの初期の写真趣味も、写真黎明期の人々の驚きと似たような感じだったかもしれない。
千円も2千円も費用をかけてシャッターを切り、露光したフィルムを現像屋に持ち込んで一晩待って、その上で出来上がりを見る場合、現在のデジタルで瞬時に撮影結果を確認するのとはだいぶイベントとしての重厚さに差がある。

フィルムカメラには、そういう人を余計に喜ばせるプロセスがあったわけで、逆に言うとその分撮影結果に対する自己評価は甘めにならざるをえない。
現代のデジタルカメラは、撮影から結果の確認に至るコストと時間がフィルムに比べるとほぼゼロなので、撮影者の喜びはもっぱら写真の出来栄えに左右されることになる。

また、フィルム代も現像代も不要のデジタルカメラでは人々のシャッターを切る回数も、たぶん二桁くらいかそれ以上に増えているに違いない。
あるいはほぼすべてのスマホに標準装備されたカメラ機能のおかげで、撮影装置たる「カメラ」の普及率もかつてとは比べ物にならないほど拡大している。

このように現代の「写真趣味」は、30年前と比べるとかなりレベルアップしていることが容易に想像される。
実際最近の普通の市民が撮る写真画像の出来栄えは、30年前のそれと比べるとその平均値がぐんと上がっているような気がする。
わたしの撮影意欲が今ひとつ盛り上がらないのは、周囲の撮影水準の進化に相対的に取り残されていることが大きいのかもしれない、などということを少し思った。

現像の手間とコストが掛からない現代の写真技術は、純粋にきれいな写真を撮ることに集中できるという点で、本来あるべき姿にやっと到達したのかもしれない。
posted by ヤス at 15:37| Comment(0) | 徒然なるままに