2016年11月30日

人間の限界

街の中をフラフラ歩いていて、たまに細い路地に迷い込んだるすることがある。
そういう時に、ふとこの道を通るのは初めてだなと思ったりする。
その細い道の数本隣の大通りはもう数えきれないくらい何度も往復しているはずであるが、少し奥に入るとそこにはまだまだ「未踏の地」がある。

たぶん自分が住んでいる場所の半径1kmくらいの範囲の中にも未踏の地はたくさんある。
考えてみると、すぐそこにあって、死ぬまでのうちに一度も通らずに終わる場所、というのが存外多い気がして少し驚く。

世の中には「無知の知」なんていう言葉もあるようだが、この世界には知っていることよりも知らないことの方が圧倒的に多い。
通ったことのある道、足を踏み入れたことのある場所よりも、通ったことも行ったこともない場所の方が圧倒的に多いのは言うまでも無い。
最近はGPS機器がいろいろ出ていて、スマホアプリなんかでも自分の通った軌跡を地図上に描画して見ることの出来るのがあるけれど、例えばその調子で死ぬまでの間、自分の軌跡を全部地図上に描画したらどんなことになるだろう。

わたしは最近はあまり県外に忙しく出掛けるようなこともなく、もう久しく海外旅行もしていない。
だからその軌跡は地元を中心に狭い地域に集中し、たまに細い線が何百キロか先の県外に伸びる、そういう地球規模で眺めれば非常にせせこましい軌跡を描くことになるだろう。

よく海外に出掛ける人の場合は、飛行機に乗って数千キロの線がたびたび海外に伸び、それは国内中心のドメスティックなわたしの描画とはまるで違う模様を描いているに違いない。

また、これまでに高度100km以上のいわゆる宇宙空間に行った人は、男性489人、女性60人の計549人になるそうだ。
さらに、アポロ計画では27人が月の周回軌道に達し、うち12人が月面の地を踏んだらしい。
そういう宇宙旅行者の軌跡は、地球上を移動するだけの人とはまたかなり違ったラインを描いていると思われる。

さて、自分の軌跡が長く遠くに伸びている人は、わたしのようなドメスティックな種類の人間とは、見聞の広さや体験の強さが明らかに違うだろう。
しかし一方で、一人の人間が一度に踏みしめることの出来る面積は、どんな人でも大差ないはずである。

したがって軌跡が遠く長く伸びている人でも、今までに踏みしめた地面の面積は、そうでない人と大差ないのだと思う。
さらに言えば、自分のすぐ身近には、死ぬまで一度も踏むことのない場所が残る。

スマホの画面に描画される赤い線を見ながら、人間の限界を感じたような気がした。
まあだからこそ、無理して月に行ったり火星を目指したりするのかもしれない、とも思った。
posted by ヤス at 10:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月29日

仕事の手際を良くしたい

さて、世の中にはいろいろと面倒臭いことが多い。
中でももっとも面倒臭いのは、お金を貰ってやる「仕事」である。
というのはお客さんの手前、あまり大きな声では言えないけれど、仕事というのは時に非常に辛くてくたびれることは動かしがたい事実である。

たいていの仕事は辛くてくたびれるので、これを片付けるのはなかなか面倒臭い。
面倒臭い、という先入観があるとなかなか最初の一歩に手を付けられず、ずるずると時間ばかりが過ぎて行くことになりがちである。
この事態に対する最終的な歯止めは締め切りの存在であることは言うまでもない。
しかし出来ることならなるべく「締め切り効果」のお世話になることなく、パッパッと手際よく仕事を片付けて余裕の週末を過ごしたい、そのように願い続けて早数十年の歳月が経過した。

本屋に行くと「やる気のスイッチ」とか「知的生産性の向上」などといったテーマの本が、だいたいいつの時代でも並んでいる。
特に最近はスマホとかでSNSに精を出したり、ネット社会の進化拡大に伴い、そちらの情報にアクセスし閲覧するための時間が生活のかなりの部分を占めるようになっていると思われる。
自ずとそれ以外の時間が削られ、あるいはネットアクセスが深夜にまで及んで寝不足になる、なんて言うこともあるのかもしれない。

今の時代、PCなどの電子機器が激烈に進化して、大昔みたいにそろばんや電卓で計算作業をするより、大幅に生産性がアップしているはずである。
プレゼン資料とか計画書とかちょっとした文書でも、おおむねプリンターから出てきたかっちりしたものになって、読みづらい手書きのペーパーを見ることも無くなって久しい。

しかし、依然として時間は足りない。
それはやはり、何と言っても面倒臭い仕事の取っ掛かりが遅く、締め切りまでの時間を無為に消費しているからであろう。

ある作家の知的生産性について述べた本には、毎回毎回締め切り間際に徹夜で仕上げるやり方でも、それを繰り返しているうちに知的生産能力にそれなりの負荷が掛かり、やがてそれが血肉となって能力が上がり、知らないうちに出来るようになっているのだ、だからそれで良いのだ、と書いていた。

なるほどそうかもしれない。
しかし毎回毎回それではかなり心臓に悪い。
やはり余裕を持って手際よく仕事をこなすようになりたい。

面倒臭い仕事になかなか手が付かないのは、ひとつには「面倒臭さの敷居」をまたぐに十分な精神のエネルギーが溜まっていないことがあると思う。
面倒臭い仕事を想像するだになんだかぐったりする。
だから最初の一歩を踏み出すのに躊躇する。

この躊躇を乗り越えるための良い方法としては、自分の脳が躊躇するスキを与えないくらいの素早さでまずとにかく始めてしまうことだろうと思う。
脳が考える時間が無いくらいに自然にスッと始めること。

最近この具体的な手法を考案し、少しづつ試しているところである。
この数十年間あまり改善のなかった仕事の手際が、これによって激烈にパワーアップするのかどうかまったく不安しかない。
しかし人生は死ぬまで修行である、そう思って精進しようと、とりあえず今のところ思っている。
posted by ヤス at 10:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2016年11月28日

スペースワールド

北九州のスペースワールドで魚5000匹を氷漬けにしたスケートリンクが話題になり、批判を受けている。
いろいろな受け止め方があるのだろうが、個人的にはちょっと趣味が悪いように感じる。
生きながらにして凍らせたわけではないというけれど、氷の下の魚は確実に死んでいる。
スケーターは言わば魚の死体の上を滑走することになる。
一部ジンベイザメなどの大きい魚は「絵」を埋め込んでいるらしいが。

わたしとしては、氷漬けになった魚の死体の上でスケートすることが、生命への冒涜であるとか、そういう大上段の批判をするつもりはない。
ただ、このアトラクションに少しの不気味感をどうしても感じてしまい、そんなことでは楽しいイベントとして成立しないのではないか、と心配になるのである。

結局、批判を受けてアトラクションはあえなく閉鎖になったらしい。

しかし、スペースワールドに対する同情の念もまた同時に感じる。
最近は大阪のUSJが復活著しいようだが、一部トップクラス以外の地方の弱小テーマパークはさぞかし経営が苦しかろうと思う。
そんな中でスペースワールドのニュースを聞いて、まだ潰れずに営業していたのかと逆に驚いた。
おそらく、魚の氷漬けに負けず劣らずの奇抜なアイデアをいろいろ駆使して、今日までなんとかかんとかやって来たのではないだろうか。

だから今回の批判に妙に萎縮せず、もっと面白いアイデアを出して頑張って欲しい、そう思う。

そう言えばスペースワールドにはたぶん20年以上も昔に一度行ったことがある。
文字通り宇宙がテーマの施設であるが、北九州の八幡製鉄ゆかりの地にシンボルのスペースシャトルの実物大模型やジェットコースターなどの諸施設が林立していた。
しかしその佇まいが、なぜか少し鉄錆の赤茶けた感じがするようで、当時はまだ開園間もない頃だったと思うが妙な哀愁を感じたのを憶えている。
調べてみると、スペースワールドは2005年に一度民事再生にかかっているらしい。

肝心のNASA・スペースシャトルも、2011年の打ち上げを最後に終了し、現在、世界の宇宙開発はビッグプロジェクトがあまり無いようだ。
アメリカは今後の宇宙開発は民間主導で行う意向のようで、したがってスペースシャトルや月に行ったサターンロケットとかの莫大な資金を要する「大物」は今後しばらく出て来そうにない。
スペースワールド的には苦しいところだろう。

ただイーロン・マスクが2022年に火星への大有人飛行プランをぶち上げている。
今後はマスクのスペースX社と提携して火星ネタで引っ張るのがいいのではないか。
(もう取り掛かっているかもしれないが)

ということで、せっかくここまで生き残って来たのだから、スペースワールドには引き続きアイデアを凝らして頑張って欲しい。
出来れば次回は、凍った魚ではなく、宇宙ネタで話題になることを期待しています。
posted by ヤス at 10:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月27日

もうすぐ12月、の感じがして来た

さて、早いもので11月がもう終わろうとしている。
10月の下旬に思ったのだが、当時、コンビニにはハロゥインコーナーばかりでなくクリスマスケーキやおせちの予約のポスターが既に貼られていた。
まだ暦の上では秋真っ盛りであるはずなのに、もうクリスマスお正月なの?と少し疑問を抱かざるを得なかった。

しかしハロゥインも終わって久しく、さらに最近急に冷え込んで冬の感じが濃くなって来た。
ということで、クリスマスならびに年末年始の各種イベントにとって、大きな障害は既に無い。

気の早い人たちはおそらくもう忘年会を開始しているに違いない。
いよいよ今年も年末感が盛り上がって来た。

12月というのは、多くの商売にとってもっとも売上の上がる月だろう。
冬のボーナスも出るし、最近はかなり減ったそうだがお歳暮のシーズンでもある。
逆にいわゆる「夏枯れ」で、7、8月辺りは小売サービス業の売上が一般的にはもっとも少ない。
この時期は公共工事もひと段落して建設会社なんかも心細くなる季節だと聞く。

このような季節変動が生じるのは、あるいは太古の昔からの流れで、収穫のサイクルが影響しているような気がしなくもない。
夏場は田んぼも実りの前だし、山の獣も「夏バテ」で痩せていて美味しくない。(と想像する)
しかし秋には作物が収穫されていよいよ食べることが可能になる。
また山の生き物も冬に向けて食い溜め期に入り、丸々と太って美味いだろう。

12月は、おそらくそうやって収穫した食料が豊富にあり、一方で野良仕事も冬の寒さでお休みなので、ひたすら貯蔵した食料を消費するだけの季節になる。
冬の時期は寒いので、文明以前の時代には生活するのが大変だったような感じがするけれど、実はあまり働かなくて良い割に食べ物が豊富な、一年でいちばん楽しみな季節だったのかもしれない。

まあ現代は食べ物は夏でも食べきれないくらい冷蔵庫に入っているし、そもそも食料生産に従事する第1次産業人口が先進国はどこもほんの数パーセントしかいない。
にも関わらず、経済の季節変動がわりかし明確に残っているというのは、これはなんなのだろう。
などと、寒くてしかも雨の降る、11月も終わりの日に思った。
posted by ヤス at 17:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月26日

ポケモンGOで思うこと

さて、今年の夏世界を騒がせ、そして日本もまたその騒動に巻き込んだポケモンGOもブームがだいぶ落ち着き、最近ではあまり大きなニュースが流れることも無くなった。
しかし今でもポケストップが集中する駅前の広場なんかには、それらしき人々がスマホ画面に集中して何やらやっている。
また、ニュースでは若者よりもむしろ中高年にポケモンGOのヘビープレーヤーが多いというのが流れていた。

ということで、ポケモンGOを続けている人は今でもコツコツと続けているらしい。
というか、かくいうわたしもボチボチ続けている。

それでポケモンGOをボチボチやっていて感じることがいくつかある。

ポケモンGOでは、モンスターボールを投じてモンスターを捕まえるわけであるが、しかし見事に命中したからといって必ず捕獲されるかというと、そうでもないことはご案内の通り。
特にCPの高いモンスターとかは、なかなか捕まらないことが多い。
なんかブルーベリーみたいな「ズリのみ」を投入したり、スーパーボールやハイパーボールをつぎ込んでも、捕まらない時は捕まらない。

ボールはどんどん減って、たまにボールにカーブを掛けてみたり色の輪っかの出るタイミングを見計らって投げたりするのだが、必ずしも上手くいかない。

そういう時、かなりメンタル的にへこむ。
そういうのが2〜3匹続くと、もうボールを投げる気力が萎える。

だが思うのである。

どうせボールはポケストップで、タダで貰えるのだ。
それにCPの高い大物でも、ノーマルのボールの一投であっさり捕まえられる時だってままある。
なにより、ボールを投げなければモンスターを捕まえられる可能性はないのだ。

だからまず、モンスターをクリックして無心でボールを投げることが重要だ。
変な欲を出すのではなく、かといって必ず捕まえてやるという気概を失うことなく、湖のように静かな心持ちでボールを投げることによってのみ、レベルアップの道は拓ける。


常々思うのであるが、人生において、チャレンジするというのはほとんど失敗することと同義であると感じる。
しかし失敗を恐れてチャレンジを避けていては、道は拓けない。

まことに、ポケモンGOは人生におけるチャレンジの重要性について、尊い教えを与えてくれるのである。
コンプリートまであと3年くらいかかるかもしれないが、諦めず継続して行こうと思う。
posted by ヤス at 16:23| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月25日

知の機能不全

どうもこのところ頭のめぐりが悪い。
いろいろと「考え事」をしてそれぞれ結論を出さないといけないのだが、なんだかあまり進まない。

これも老化のせいだろうか。
あるいは栄養バランスの悪い食事習慣のせいか、それとも睡眠時間が足りていないのだろうか。
などと少し心配してみるのだが、しかし考えてみると自分の脳ミソのレベルは、昔からこのくらいでずっと変わっていない気もする。

世の中には、触れば切れるほど鋭い頭脳の主もたくさんいるのだろう。
ああゆう鋭い脳ミソを一度でいいからこの頭上に戴いてみたいと思う。

しかし無い物ねだりをしてもしょうがなく、当面は有り物で間に合わせる他はない。
現代の世の中には、いわゆる頭脳労働というとやや格好良過ぎるが、「考え事をする仕事」に類する仕事がいくつかある。
人類というのは、その大きな脳ミソを活用していろいろと考えをめぐらせるところに、他の動物には無い特徴があるという。

だが前から思うのだが、人の頭の良さには、何か不完全な、間抜けな部分が多いのではないかという気がする。

まず、なまじ言葉を解し、人間同士複雑なやり取りをするためだろう。
そこにはしょっちゅう誤解が生じる。
おおむねコミュニケーションが成立したとして、言葉が人から人へ伝わる間に、伝言ゲーム的な微妙なズレがあることは免れない。
あるいは人の記憶はだいだいあいまいで、記憶間違いで結果としてウソを伝えることも頻繁にある。
だいたい何かを記憶する時には、主観によるバイアスで事実とは確実に違うカタチで情報が記憶細胞に格納されるのであって、そういう点でも人間の知能はあまり当てにならない。

がしかし、にも関わらず人類は複雑高度な現代社会を構築してこれを維持し、ロケットに乗って月にも行くことが出来る。
また、最近人工知能が囲碁の世界でも人間より強くなったというニュースがあったが、言い換えると最近まで囲碁界では人間の方がコンピューターより実力があったということにあらためて驚く。
やっぱり人間は、かなり頭がいいのか。

人間は、一個人ずつではいい加減であったり間抜けであったりするわけだが、にも関わらず人類がここまで破綻せずに進歩してこれたのは、たぶん、多くの人の「頭の良い部分」ばかりを集めて「集合知」に出来たから、ということなのだろう。

ところでこの10年か20年の間の時代は、ネット社会化などのコミュニケーション革命の時代であったと言うことが出来ると思う。
コミュニケーションのあり方がそれまでとは大きく変化した結果、集合知の集め方が、今までのノウハウでは少し上手くいかない部分が出て来たようにも思われる。

トランプ現象とか、世界各国で見られる保守化・右傾化の動きとかに、わたしはやや批判的、ということにしてあるのだが、そういう世界各地の危うい感じの原因は、ひとつには集合知の集め方のノウハウが少し追い付いていないからだろうか。

わたし個人の脳ミソにも問題があるが、人類全体の知恵のあり方も問題ありのようである。
ということで自分の脳ミソが機能不全であることは、ある面、人類に共通の普遍的問題だということにしようかと思う。
そういう良いアイデアが浮かんで来るくらいなので、自分の脳ミソもまだ捨てたものではない、と思った。
posted by ヤス at 16:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月24日

人はいつから定職に就くようになったか

最近しばらく、なかなか面白い本に出会わない。
仕方がないので昔読んで面白かった本を再び読むことにした。

とりあえず司馬遼太郎が良いだろう。
中でも「項羽と劉邦」が本の長さ的にも良かろうと思う。
しかし「項羽と劉邦」は紙の文庫本しか持っていない。
紙の本では何かと不便なのでKindleで買い直す、そういう次第になった。

それで今、「項羽と劉邦」の冒頭で始皇帝が死に、陳勝と呉広が乱を起こして項羽がおじさんの項梁と地方長官を殺して最初の拠点を得て、しかし劉邦は相変わらず田舎の小さな町でブラブラと遊び歩いているところである。
劉邦は、この頃(始皇帝が死んだ頃)ただの風来坊から公営宿舎の管理人という下っ端役人の地位を得ている。

項羽と劉邦の時代は、今から1800年くらい昔である。
若き日の劉邦は、この時代にあって定職に就かずフラフラと遊びまわり、たまによその町に出かけて窃盗稼ぎをしていくらかの現金収入を得ていたらしい。
逆に、考えてみるとこの時代すでに人々はみな定職に就き、フラフラ遊びまわるだけの劉邦をバカにしていたというのは、なんというか、不思議な感じがする。

人間というのは、放っておくとついつい定職に就いてしまうサガを持っているのだろうか。
という疑問がふつふつと湧き上がる。

人間はいったいいつの頃から定職に就くようになったのだろうか。
おそらく、それは貨幣経済の発達・普及と並行して進んだのだろう。
物々交換よりは貨幣を仲介した取引は便利である。
貨幣経済の便利さを享受するには貨幣を稼がないといけない。
だから働いて稼ぐ。

そういうことがいつの時代からか始まって、項羽と劉邦の時代には定着していたものと思われる。
少なくとも司馬遼太郎の本にはそう描写されている。


しかしまた改めて考えてみると、働くということはそんなに必要不可欠なことなのかな、という疑問も無くはない。
もともと我々は、かつては日がなのんびり暮らしていた猿の仲間であった。
腹が減ったらエサを探しに出かけ、眠くなったら昼寝をする、そういうライフスタイルがそもそものデフォルトであったはずだ。

それがいつからこんなに勤勉に働くようになったのだろう。

さらに言えば、ただガムシャラに働くだけでも不思議であるのに、働き方の手元が狂って会社が赤字になって倒産したり、働き過ぎが度を超して過労状態になって、それで命を落とす人が定期的に発生している。

わたしの希望的観測では、テクノロジーの進化によって今後人類はほとんど働かなくても大丈夫になるのではないか、そういう気がしている。

まあそうなると、命がけの勤勉さで漢王朝をつくりあげた劉邦のようなサクセスストーリーも生まれにくくなるのかもしれない。
そこら辺は悩ましいところである。
posted by ヤス at 10:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月23日

世間とエーテル

以前ネットで何かの番組を見ていて、「世間」という日本語を英訳するのに苦労する、というのを誰かが言っていた。
「世間」というのはいったい何者であるのか。
という疑問が、その時に多少とも脳内の一部を占めた。
脳内の一部を占めたのではあるが、そのうち他の雑事が脳内に入るとともにすっかり関心がなくなってそのままになっていた。

しかし、「世間とは何か」の疑問は、うっすらと脳内に滞在を続けていたらしい。

昨日ブルーバックスのことを書いていて、かつて物理学業界を席巻していた「エーテル」のことが頭をよぎった。
特にそれらしい理屈があったわけではないが、かつてのエーテル理論と「世間」というものが、何かどこかで結びついているような予感がしたのである。

とは言ってもわけが分からない。

かつて物理学業界を賑わした「エーテル」は、粒子であると同時に「波」でもある光が、この宇宙空間内を伝播するための必要不可欠の媒質である、と考えられていた。
「音波」というのは、空気中とか海の中ではよく伝わる。
よく伝わるからこそ音は聞こえる。
しかし宇宙空間には空気や水などの媒質が無いので音は聞こえない。
だから宇宙空間は無音の世界である。

おそらく音波伝播の理屈をなぞるように、光を伝播する媒質エーテルは考案されたものと想像する。
しかしいろいろと理論的に突き詰めていくうち、エーテルは極めて珍妙な特性を備えることが要求されることが分かってきた。
光というのは超高周波なので、これを伝播させるためにはエーテルは超高硬度の、かたーい物性でないといけない。
かつ、空気や水のような分子のツブツブではなく、空間を一様に満たす連続体である必要がある。
さらに、地球や太陽はこのエーテルで満たされた宇宙空間内で運動しているわけだが、これら天体の運動を観測した時に、エーテルの抵抗は微塵も観測されていない。
つまりエーテルの粘性や質量はゼロであることが推定される。

まあ難しい理屈はよく分からないのであるが、そういうことで数々の矛盾をはらんだ「エーテル」なる仮想の媒質は、結局のところ幻であったという結論に達したらしい。

広い宇宙空間には1立方センチあたり1個とかの割合で水素分子が漂っているというから、完全な「無空間」というわけでもない。
しかしその漂っている水素分子と、隣の水素分子との間の空間はまったくの無である、ということになる。

考えてみると不思議なことである。
まったく何の物質も存在しない「無」によって、この宇宙は満たされているのである。
昔の学者がエーテルの存在を半ば願望として想像したことが、少し理解できるような気がする。

ところで「世間」の話だ。
世間というのは元は仏教用語であるらしい。

その根源的な意味合いは難しくてよく分からないが、しかし世間一般でいうところの「世間」の意味は、そこに住むすべての人々の、人間関係の見えない糸の集合体であるようにも想像される。

その「世間」には、粘性とか剛性とかの物理的な実体は無いようであるが、しかしやっぱり「世間」はしっかりと存在している実感がある。
そういうことでエーテルと世間はやっぱり少し違うのかもしれない。
まあどうでもよいことではある。
posted by ヤス at 12:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月22日

計算順序問題

あれはわたしが高校生だった頃、今から30年以上も前の話。
「地理」のテストに出された問題のこと。
それはアルフレッド・ウェゲナーが初めて提唱し、その後プレートテクトニクス理論などの研究によって実証された説を問う問題であった。
まあ問題文の詳細は忘れたけれど。

わたしは自信満々に、

「大陸移動説」

と回答した。
そうしたらバツの答案が返ってきたので、わたしは地理を担当するその若い教師に抗議をした。

教師の返事は、
「授業では『大陸漂移説』と教えたはずである」
という予想外の衝撃的なものであった。

わたしは中学生の時以来、講談社のブルーバックスをいくつも愛読しており、当時、相対性理論や熱力学法則について、したり顔で友人と語り合っていたものである。
その興味の範囲の中には当然のことながら天文学や地球物理学も入っており、「大陸移動説」が外せないテーマであったことは言うまでもない。

ブルーバックスの一巻に「大陸は移動する」という本があって、わたしはその本に出て来る「アイソスタシー」や「プレートテクトニクス」などのカタカナ用語を憶えては、「ブルーバックス友だち」とわけも分からず語り合っていたはずである。

そんなわけであるから、地理のテストに出た冒頭の問題がよもや不正解になろうとは夢にも想像していなかった。


ところで今、ちまたでは小学校における算数の計算順序問題が話題となっている。

この問題に対する賛否のブログなどをいくつか読んだけれど、わたしとしてはこれはもう犯罪行為と言っても過言ではない暴挙である、という感想を得た。

この問題の背景には授業で教えたことこそが唯一の正解である、とする教師側の傲慢な思いが垣間見られる。

最近、「やや流行り」の言葉に「マウンティング」というのがある。
この計算順序の強要は、明らかに教師による生徒に対するマウンティングである。

教師側の計算順序に正否を設ける考え方の説明は、どれを読んでもわけが分からない。
これはおそらく、ある種の神学論争なのである。

教師側の説明の文章を読むと、

「神様は、世界を創造した初日の朝、靴下を右足からお履きになった。
しがって靴下は右足から履くのが唯一の正解である」

というたぐいの説明とほぼ同じレベルの論理構成としか思えない。

おそらく教師側はこの計算順序問題について、論理的には説明不可能だが教師だけがその真相を理解出来る、そういうことにしておきたいのである。
そうなると生徒側は、もう先生の教授に絶対服従するしか正解を得る手段がなくなる。
こうして教師による生徒への「マウンティングの構造」は完成する。

こういうのがはびこっているようでは、生徒の側はもう当分の間授業をボイコットして勝手にブルーバックスを読んで自習していた方が百倍ましなのではないか。
などと、大昔のことを思い出しながら少々立腹したのでした。
おしまい。
posted by ヤス at 12:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月21日

ペース配分

まだ少し暖かい日もあるが、それでもだんだん冬らしくなって来た。
いよいよマラソンのシーズンが到来した感じである。
最近は街なかでもランニングをしている人の姿をよく見かける。

10年くらい前だと街なかを走るのはなんとなく気恥ずかしくて、なるべく人目につかない夜中に走ることが多かった気がする。
しかし今は、たまに東京なんかに行くと思うのだが、朝方でも日中でも常に視界の中にランナーがいる感じで、ひょっとしたら日本は世界中でいちばん「街なかランナー比率」が高いのではないかと思うほどだ。(よその国を知らないけれど)

マラソンというのはフルの場合は40kmあまりの距離を走るわけであるが、だいたいの場合において、最初の10kmで体が温まって調子に乗って、20km過ぎたあたりで少しずつ疲れを感じてちょっとやばいなあと思い、30km過ぎで脚が止まって撃沈する、というパターンに陥いることが圧倒的に多い。

しかしごくまれに、そこそこ練習が出来ていて最後まで身体が動く場合がある。

そういう場合、ゴールまでもうあと7〜8kmくらい、しかしまだ身体が動くぞ、さあどこからラストスパートしようか、と作戦を練らなければならない。


まことに、フルマラソンにおけるラストスパートというのは難しい。

ここで「ラストスパート」というものについて少し一般化して考えてみたい。
ラストスパートを実施するためには幾つかの条件が必要である。
まず、ゴールラインがあらかじめ決まっていること。

ラストスパートというのはリソースの配分の妙である。
スタミナというリソースを42km余の距離の中に、どのように最適に配分するか、そして最後の方で残余のリソースを余すところなく使い切り、きっちりゼロになるところでゴールする。
というのが理想のラストスパートであろう。

しかしそのためには、あと何キロ走ればよいのかが分かっている必要がある。
大抵の場合はうまくいかないけれど、あと5kmとか3kmとか分かるからこそ、身体と相談しながら残るスタミナの放出加減を調節することが出来る。

逆に言うとゴールラインが決まっているとかなり無駄なくスタミナを使い切ることが出来る。
ゴールの決まっていないマラソン、10kmで終わるのかあと100kmあるのか分からない場合、このようなリソース配分は不可能である。

そういう意味で、マラソンと人生はかなり違う。
人生というのは明日終わるかもしれず、あと50年続くかもしれない。
だから人生においてはラストスパートというものは、少なくともマラソンのようなペース配分というのは難しい、そういうことになる。

最適なリソースの配分をおこなうためには、人生にもある種のゴールラインを決めること、そのために幾つかの区切りを自分で決めて、そこまではなんとかがんばる。
そういうことが必要なのかなあと思う。

まあマラソンと同じで、そのペース配分そのものが難しそうなことは自明であるが、なんとなくそんなことを思った。
posted by ヤス at 07:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月20日

世の中の調和について

かなり昔のことだがある人から、
「人は何のために生きていると思うか」
と訊かれたことがある。

その時わたしは、はて何と答えたものかと戸惑っていたがその人物の答は、
「人は幸せになるために生きている」
であった。

その人は、これまでいろいろ考えた末にそういう結論に達したらしい。
その時のわたしは、ただへえーと聞いていただけだったのであるが、はて、実際のところ人は何のために生きているのであろうか。
その人の言うように幸せになるために生きているのであろうか。

この手の問題には、絶対的な唯一の答えがない。
まず問題設定からして、「何のために」というのはどういう意味か明確でない。
人類全体としての視点から「何のため」を考えるのか、特定の個人として考えるのか、あるいは宇宙における生命の存在意義について論じるのか、その辺りを具体的に特定しないと答が出ない。
また、「幸せ」というのもくせ者で、何をもって幸せとするのかはかなり捉えどころがない。

いちおう何のために生きているのかについて真面目に考えてみると、突き詰めればたぶんそこに理由はない。
宇宙の存在も、宇宙における生命の存在も、すべては偶然である。たぶん。

人間がそこに理由を求めるのは、ひとつには宇宙の背後に神様、あるいは神聖な何か、の存在を想像しているからである。
神聖な何かが、ある意図を持って宇宙を創造し、その先に生命が生まれて人類も出来た。
この場合、何のために生きているのかを考えることは、宇宙を創造した神聖な何かがどのような意図を持っていたのかを考えることになる。

あるいは今生きている個人の立場から言えば、人は自分の存在に何か理由が欲しいと思っている。
それは生きている実感が欲しいのだと言い換えることが出来るかもしれない。

宇宙の存在の背後に何かの意図を想像するのも、そこから引き伸ばして自分自身にも宇宙的な存在意図があるとそう思いたいからなのだ、そんな風に想像することが出来る。


話を少しだけ変える。
人は何のために生きているのか、その答は幸せになるためというより、快楽を得るためである、と言った方がより分かりやすいと思う。
我々の行動は、その多くが脳内で分泌されるβエンドルフィンやドーパミンによって左右される。
いわゆる脳内麻薬。
それは人類の進化史の中で、より生存に有利な方向で脳内麻薬が出るようになっている。
それによって人類は多少の危険を冒しても食欲を満たし子孫を残し、社会を形成して今まで生き残ってきた。

だから何のために生きるのかと問われたら、快楽のため、気持ちよくなるために日々生きているのだ、というのがかなり適切であると思う。

問題は、社会に生きるみんなの快楽を最大化するためには、自分の快楽のために他人の快楽を必要以上に奪わなないこと、社会に生きる個々人の間にそういうある種の「調和」が必要である、そういうことではないかと思った。
posted by ヤス at 14:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月19日

トランプ氏と会談

17日にAPECの会合に行く途中に安倍首相はニューヨークに立ち寄り、トランプ次期大統領と非公式の会談を行ったのが大きなニュースになっている。
会談は予定の45分を大幅に超える1時間半に及び、お互いの信頼関係を確認して友好ムードのうちに終わったらしい。

一国の首相が就任前の大統領に会う、というのはきわめて異常な事態と言わざるを得ない。
なんでも安倍首相は、「大統領選はヒラリー・クリントン」と予想して外した外務省に激怒し、官邸主導で今回の会談を取り付けたという。

ネットのニュースでも他国の首脳に先んじてトランプ氏と会談した安倍首相の外交手腕を賞賛する意見が溢れているようだが、この賞賛ははたして適切なのか。

オバマ大統領の任期はあと2ヶ月残っている。
就任前の大統領との会談の意味するところとして、オバマ氏は大統領としては既に死んでいると言っているように聞こえる。


そもそもトランプ氏が大統領に当選したことの背景には、「グローバル化」があったと思われる。
グローバル化は、世界中にいる数十億の、経済的ピラミッドの最底辺の庶民を少しずつ豊かにしている、という点で望ましい動きである。
しかしその一方で、ピラミッドの上の方の国々で発展途上国と産業構造的に競合している人々の所得を奪うことになっている。

熱い水と冷たい水を混ぜると、ぬるま湯になる。
冷たい水の側にいる人々は、たとえぬるま湯でも少し暖かくなって快適になる。
しかし熱い水の底の方にいる人々は、下からやって来る冷たい水によってどんどん熱を奪われて厳しい状況に陥っている。
しかもピラミッドの最頂上部は熱移動に対するバリアがあって熱が冷めないようになっている。
それどころかヒートポンプ装置で下のぬるま湯層からカロリーを組み上げて、頂上部はますます温度が上がっている。

ピラミッド全体としては熱分布が均質化しているが、ピラミッドの上3分の1くらいの層では熱い部分はますます熱く、しかし温度の低い部分はだんだん冷えて来て温度格差が広がっている。

そういう状況の中で、ピラミッドの比較的上の中の下層部分、だんだん温度が下がっている層の支持を受けてトランプ次期大統領が誕生したのだ、と想像することが出来る。

トランプ氏やその支持者が今考えていることは、ピラミッドの上下方向の熱移動はもうしょうがないので、今度はピラミッドを縦に切って、同じ高さにあるヨコの層から水平方向に熱を奪って国内の平均温度を維持しよう、ということなのではないかと思われる。
その場合、日本はどうなるのか。
などと、少し心配しているふりを装ってみた。
おしまい。
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2016年11月18日

副業解禁の必要性

最近、副業解禁の動きが拡がりつつある。
とは言うものの、ある調査では回答企業の96%が就業規則で副業を禁止していたという。
副業解禁は日本ではまだ事実上始まっていない、とも言える。

日本の企業が正社員の副業を禁止する理由としては、「本業」に差し障りが出る、競業行為で会社に損失の恐れ、などがあるのだろう。
一方で最近いくつかの大企業で進み始めた副業解禁の理由はなんだろう。

ひとつには社員の視野を広げたい、というのがあるらしい。
終身雇用的に新人から定年退職の約40数年間をひとつの会社で過ごせば、それなりに価値観が固定化し視野が狭まる恐れがある。
他の仕事を経験することで新しい気付きやアイデアが生まれ、それが「本業」に活きる、ということはあり得るだろう。

また社員も「本業」以外の収入が入って経済的な豊かさが増し、生活満足度が高まることが考えられる。
それやこれやで会社としては社員のバイタリティも高まって職場が活性化し、結果として会社の業績にも好影響がある。
会社の側が副業を解禁し奨励までする理由としてはそんなことが想像される。

しかし一方で、いわゆるブラック企業では社員の副業を解禁すると、これまで上手くマインドコントロールして激務に駆り立てていた社員たちの視野が広がり、洗脳状態が解けて会社から去ってしまうというリスクが生じる。
だから社員に辞めて欲しくない会社で副業を解禁出来るのは、それなりにホワイトな職場環境を実現出来ている会社に限られる、そういうことになる。


会社や社員などの当事者にとっての副業解禁には以上のような特長が考えられるが、社会システム全体として考えた場合はどうだろう。

ある会社にフルタイムで働いている人が別の仕事をする、ということは、社会全体としては労働力の増加を意味する。
仮に、副業が増加する一方で世の中の「消費」が一定で増えない場合、副業は別の誰かの労働を奪うことになるだろう。
しかも、人々があえて副業に選ぶのは自分の得意な仕事、好きな仕事であるはずである。
しかも発注者の側にも明確な需要がないと副業の契約が成立しない。
明確な需要のあるところにその仕事が得意な人が応じるので、これはなんとなくルーチンでその仕事をやっている人より生産性が高いに違いない。

だから副業には他の正社員の仕事を奪う恐れがあるということになる。

そうならないために、副業が社会のGDPを拡大する方向に作用するためには、その仕事によって個人や企業の財布のヒモが新たに開くような、新しい価値を創造する種類のものである必要がある。

しかしそういう新しい仕事を考案するのはかなりハードルが高いだろう。
だから今後副業が解禁されていったとして、人々が副業に選ぶ仕事は今既にあるもので、これを生産性の高さを武器にして今既にやっている人から奪って来る、そういう構造にならざるを得ないのではないか。

ただそれは発注者側の会社の立場ではコストダウンや付加価値の増加になる。
それは最終的には日本の国際競争力にもつながり、グローバル化の中での生き残りのためには必要なことであると思われる。

ということで、副業解禁の動きは必ずしも楽しい話ばかりではないかもしれない、などと思ったけれど、やはり副業は解禁した方が絶対いいと思う。
posted by ヤス at 15:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月17日

トランプ大統領の影響について

アメリカ大統領選でトランプ氏が勝って、その後トランプ大統領が日本にどんな影響を与えるかいろいろな意見が出ている。
単純に日本にプラスだマイナスだという話もあるし、トランプが経済的にも安全保障の面でも日本にいろんな要求をしてきて、それによってかえって日本の自立が促されるという「劇薬効果論」的な話もある。

実際問題として日経平均は開票作業中にいったん急落したがその後反騰して、現在のところ反落しそうな感じもない。
これって日本の株価は、トランプ氏当選を歓迎しているということなのだろうか。

そのあたり、日本の受ける影響がプラスなのかマイナスなのかまことに分かりにくい。
本当のところどうなるのだろう。

日経平均について考えると、これは円安の影響が大きいように思う。
トランプ氏が大規模減税と大型公共投資を打ち出していて、アメリカの景気拡大見通しが広がっている。
景気の先行きが楽観的になったことでFRBの12月利上げ環境が整ったという予想が強まっているらしい。
アメリカが利上げすれば円相場は下がる方へ向かう。

というのが今の円安株高の要因だと思われる。

素直に考えるとトランプ氏当選と日本の株高は結びつかない。
トランプ氏は保護主義的な政策を掲げ、ブルーカラーの中に潜んでいた多くの隠れトランプ支持者の票を集めて当選したわけであり、今後トヨタを始めとする日本の自動車メーカーは特に大きなマイナスの影響を受けると予想出来る。

自動車産業のマイナスは、日本の株価にとって大きな下げ要因になる。
にもかかわらず日経平均が堅調なのは、もっぱら円安のおかげ、と考えるほかはない。
その辺がどうにも分かりにくい。

ただトランプ氏がアメリカの製造業、というかその従業員であるブルーカラー層に配慮した政策方針を取るとすれば、このままドル高円安を放置するようにも思えない。

だから今後まだまだ波乱があるような気がする。

世の中には、トランプ氏は大統領になったら意外とまともになる、そういう論調も根強いようだが、件の漏洩したゲスな録音テープの内容など見るとあまりまっとうな人物のように思えない。
確かに困難を乗り越えて事業を成功させたリアリストではあるのだろうが、その資質が地上最大の公共組織であるアメリカのトップにふさわしいかどうかはまた別だろう。
それは真面目なオバマ大統領と比べるといかにも目立つところだ。

まあ日本人としてはアメリカの選挙に投票も出来ないので、発生した現実に上手く対応し、利用するに如くはない、などと思った。
posted by ヤス at 11:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月16日

福岡駅前の陥没事故

福岡の駅前の道路の巨大な穴が空いたのが11月8日、それが昨日の15日午前5時に埋め戻しと再舗装の作業が終わった、というニュースが流れた。
この手の地面陥没事故は世界的にもかなり頻繁に起きているらしい。
しかし復旧にかかる時間に関しては、日本がダントツに早いようだ。
海外からも賞賛の声が上がっている。

今回の福岡の大穴は、地下鉄工事に伴う土砂の流出が原因だったという。
グーグルマップで福岡駅周辺の航空写真を確認してみると、福岡市が巨大な三角州に位置していること、そして福岡駅が三角州の下流側の真ん中あたりに位置しているのがよく分かる。

今回の事故現場の地盤は堆積土の軟弱地盤で、まあ後から考えると起こるべくして起きた事故であったようにも思われる。
一部には今回の事故はある程度予想出来たのではないかという報道もあるようだ。
事故が予測可能だったものかどうか簡単に断じることは出来ないけれど、しかし今後はこの手の堆積土地盤における地下工事には細心の注意が必要と言える。

今回は道路の異変に気付いて陥没前にあらかじめ現場が封鎖されていたようだが、上を車が走っている時に事故が起きたらと想像するとゾッとする。

ということで今回に関しては、陥没事故の発生と事故後の対応とは、微妙に評価を分けて考えるべきではないか、という気がする。
昼夜兼行で千台以上のミキサー車をスムーズに動かして、大穴を埋めた上に電線などのインフラも復旧した、その対応に当たった福岡市や工事会社は賞賛されて然るべきだろう。
しかし穴を開けたその責任もこれらの人たちにあるわけで、次のステップとして事故の発生原因の詳細と同様の陥没事故防止対策を是非とも提出して欲しいと思う。
というか今たぶん一生懸命作業を進めていると思うけれど。

地面に穴が開く原因については、人間による地下工事の影響以外にも地下水流による侵食とか地震の地割れや隕石のクレーターとかけっこういろいろある。
先日もニュージーランドで大地震があって、道路や地面がズタズタになっている映像が流れていたが、そういうのを見ると「不動産」と思っていたはずの「地面」は、ゆっくりではあるが割れたり削れたり陥没したりしてずっと動いているんだな、と思う。
だから地面というのは動かず、穴も開かないのが普通ではなくて、何かの原因ですぐに穴が空いたり地盤沈下したり削れて流れたりするものなんだ、と思った方が正解ではないか、と少し思った。
posted by ヤス at 16:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月15日

三十六計逃げるに如かず

世に「三十六計逃げるにしかず」という。
三十六計とは中国の兵法書「兵法三十六計」のことだと思われる。
この「兵法三十六計」は長い中国の戦乱の歴史を踏まえて、日本で言うところの江戸時代初期の頃に彼の地でまとめられたものであるらしい。

中国の兵法書で有名なのは「孫子」であったり「呉子」「六韜」などがあるが、「兵法三十六計」はそれらの由緒正しい兵法書からはかなりレベルが落ちるそうだ。

編者も不明で文章もあまり上手くなく、想像するに田舎の寺子屋教師が子供の勉強用に作ったのではないか、という感じがしなくもない。
あくまでも想像だが。
三十六計というのも戦術のカテゴリーを6つに分けて、それぞれを6段階にして述べたところから来たらしい。
三十六はいわばゴロが良かった、ということなのだろう。

と思っていたら、冒頭の「三十六計逃げるにしかず」の出典は、中国の南北朝時代・5〜6世紀頃の故事で「三十六策走(にぐ)るがこれ上計なり」という歴史上のセリフが元だということが分かった。
「兵法三十六計」よりだいぶ昔だ。

一般に「三十六計逃げるにしかず」というと、手詰まりになって妙案がない時はいったん諦めて後日の挽回に期するのがよい方法だよ、のような意味にとらえられている。
しかし歴史上のセリフでは「三十六策走(にぐ)るがこれ上計なり」と言ったらしく、敵を追う一方の将軍が逃げる相手を馬鹿にして発したものだという。

ちなみにこの時の「三十六策」の内容については不明であるそうだ。
ひょっとしたら三十六は「たくさんの作戦」くらいの意味のただゴロの良い数字であったのかもしれず、後の「兵法三十六計」もそんなノリで「三十六」を採用したような気がしなくもない。

それはともかく、「三十六策走(にぐ)るがこれ上計なり」と馬鹿にされた方の檀道済(たんどうせい)という将軍は、とにかく逃げることが得意であったらしい。
とりあえず敵が優勢と見るや正面衝突を避け、さまざまに偽装を凝らして巧みに逃げたそうだ。


日本の歴史では、若き日の徳川家康が武田信玄の上洛作戦で、吸い寄せられるように主戦場の三方ヶ原におびき寄せられて撃破され、家康本人は恐怖で脱糞しながら逃げた逸話が有名だ。
その名将信玄の息子の武田勝頼も、後に長篠の戦いで信長の野戦陣地にむざむざ飛び込んで大敗を喫している。

そういう歴史上の戦いを見るに、勝ち目の無い時に上手に戦闘を回避することは、きわどく戦うより明らかに賢い。
しかも、寡兵で上手く勝つには恐ろしく高度なスキルを要するが、逃げるだけならとりあえず逃げ足を鍛えていれば凡人でも大丈夫そうだ。

ただし逃げてばかりだと馬鹿にされてメンツも失う。
上手く逃げ続けるにはある種の強いメンタルが必要かもしれない。
自分が凡人だと自覚するなら、とりあえず逃げ足だけ鍛えて死なないように気をつけるのが上策である。
ひょんなことで「三十六計逃げるにしかず」を調べていて、そんなことを思った。
posted by ヤス at 16:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月14日

リアリティの範囲

この間知人と話をしていて聞いた話。
その知人はいつもの感じで先輩に電話して話していたそうだ。
それで何分か話をしていたら携帯電話の向こうの先輩から、

「今アメリカにいるから長電話したら電話代がかかるかもよ」

と言われて驚いた、という話だ。

こういうのは今時珍しくもないのだろうが、今や携帯電話でもメールでも、何千キロの海外でも国内と同じ感じでコミュニケーション出来る。
数十年前の時代には、テレビの海外生中継は通信衛生を経由するために大掛かりな設備が必要だったけれど、今ならインターネット回線とiPhoneを使ってごく個人的に生中継することだって出来なくはないだろう。

この十数年でまことに世界は小さくなったようである。

考えてみるとつい200〜300年前くらいまでは、自分の生まれた村から一歩も出ないで死んでいくような人だって少なくなかったと思われる。
そういう時代には、普通の庶民は身の回り半径2〜3kmのことだけ考えて暮らしていたのだろう。
たまに旅の坊さんとかがふらりと村を訪れて、遠い都の栄華の様子なんかを語ってくれたりするのが唯一の外部情報、というようなことだったのではないかと想像する。

我々現代人は、いちおう国政選挙といって、衆議院選挙や参議院選挙の投票をしたりしているが、このような国家レベルの「判断」を普通の庶民が出来るというのは、全国レベルの政治や経済の情報をみんなが日々受け取っているということが選挙の前提としてある。

だから庶民の多くが身の回りの狭い情報しかない江戸時代や室町時代なら国政選挙とかは出来ないということになる。

しかし一方で、普通の人間の思考範囲というのは、身近な出来事に対しては一生懸命考えるけれど、そのスケールが身近な範囲を大幅に超えるとあまり現実感がなく、何か他人事の感じが強くなる。
イギリス人がEU離脱に賛成したのも遠いEUより近くの自分の生活の方がはるかに重要に感じられたからだろう。
先のアメリカ大統領選も同じような構図があったと思われる。

普通の人間はある程度身近なことにしかリアリティを感じられず、10年先の未来のことより明日明後日の生活が大事である。

平凡な一個人が人口1億2千7百万人の日本国全体のことを考えたり、3億1千8百万人のアメリカ全体を考えるのは、何か無理があるように思えなくもない。
そういう意味では、民主主義の理想的な姿は道州制などの地方分権に分があるように思える。

だが、海外旅行はすっかり身近になり、インターネットを通じて20年前よりかなりミクロなコミュニケーションが出来るようになって、「一般庶民」の有り様もかなり進化はしている。

今、世界の民主主義は理想主義からだんだんポピュリズムの方に向かっているとか言われている。
それは人間のリアリティを感じる範囲が昔とさほど変わっていないことに原因があるように思うのだが、この先民主主義とか資本主義はどっちの方に向かうのだろうか。

というようなとりとめもないことを考えていたが、今から2〜3時間せっせと業務に精を出し、請求書を作って明日のおマンマを確保しなきゃ、と思った。
posted by ヤス at 17:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月13日

高齢者の自動車事故

先日、83歳の高齢女性が運転する自動車がブレーキとアクセルを踏み間違えて人を轢いてしまう事故があった。(アクセル踏み間違えの原因は今のところ推測らしい)
この種の事故が発生すると高齢者の自動車免許に対する何らかの制限や強制的な免許の取り上げなどの意見が上がり、一方で自動車がないと生活が不便になる自動車社会の利便性維持が対論として出て来る。
自分はまだ運転出来る、と思っている人から便利な移動手段を奪う権利制限の話と社会的な安全確保の話がぶつかり合って結局のところ対策が進んでいないように見える。

この問題で思うのは、免許に制限を課す対象が果たして高齢者だけでいいのか、という点である。

まず、アクセル踏み間違えなどの操作ミスに起因する事故発生が、年齢別にどのように分布しているのかデータをよく分析する必要があると思う。
50代60代でも若年性の痴呆症などもあるし、テンカンなどの病気の発作、違法合法を問わず薬物摂取の影響や過労状態での運転など、運転操作のミスはいろいろな年代で発生しうる。

高齢者の事故発生が他の年齢帯の何倍も大きいということであれば、まず高齢者への対策実施から考えるのも一手ではあるが、「操作ミス」という事故カテゴリーへの対策ということであれば自動車側の技術進化でかなり対応可能なような気もする。

とりあえず現在の状況で技術的には自動運転は完全に実用化の射程圏内にある。
あとは法整備や道路・信号機などインフラ側の対応が必要だが、その辺がクリア出来ても古い車両が自動運転車に大方代替されるまで10年間では難しいかもしれない。
結局のところ、それまでの間に何らかの対策が要る。

今、70歳以上の高齢者は免許更新期間が3年になっているが、これをある年齢から毎年にするとか、そういうことも考えられる。
しかし同じ80歳でもたぶん個人差がかなり大きい。
可能なら個別に運動機能や判断力の診断をして、年齢を問わずリスクのある人を抽出、更新期間の短縮や車両の安全装備の義務化などで重点的に対策する、というようなことが良いように思う。


もうひとつ気になることがあって、わたしの見たニュース記事には「83歳の女が運転する」という表現になっていて、この女性は事故を起こし過失を犯したのは事実であろうが、「83歳の女性」でなくて「83歳の女」というのはなんか表現がきついなあ、と感じた。

少し穿ち過ぎかもしれないが、こういう表現には若い人サイドが年寄りの運転はあぶねえよなあと思っている感じ、自分たちは大丈夫だが高齢者は運転すべきでない、という感じが強くする。
しかし人は誰もが歳をとり、また高齢者以外でもそれなりに事故は起きている。
「83歳の女」という表現にはなんだか記事執筆者の当事者意識の希薄さを感じる。

ということで、運転操作ミスの事故対策には高齢者対策ももちろん必要だが、年齢以外の要因についても合わせて考える必要があると思う、今日この頃である。
posted by ヤス at 13:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月12日

コーヒー市場拡大とドーナツ苦戦

土曜日の昼過ぎ、マクドナルドは家族連れを中心に賑わっている。
一年前ならがら空きだったのが、今来てみたら席の9割方が埋まっている。
IR資料を見ると最近数ヶ月の既存店売上もずっと110〜120%のペースで推移、順調に回復しておりけっこうなことである。

思い起こして見るとマクドの不振は疑惑の鶏肉や異物混入騒動もあったけれど、それと並んでコンビニコーヒーの台頭もあったのを思い出さねばならない。
セブンイレブンが過去の失敗を乗り越え、専用のマシンを導入してコンビニコーヒー市場に再チャレンジしたのが2013年1月だったらしい。
その前から店頭で淹れたてコーヒーを売っていたローソン、ファミマのコーヒー強化もあって、マクドのコーヒーは一挙に相対的な戦闘力が低下した。

もともと潜在市場規模の大きいコーヒーに注力して業績アップを図るという着眼は、マクドが先であったわけだが、2013年当時で上位3チェーン・3万6千店以上の規模を擁していたコンビニは、ビッグスケールの威力でマクドの先行者利得を簡単にひっくり返してしまった。

ところで全日本コーヒー協会という団体があってそこが日本のコーヒー需給の統計情報を発表している。
それによると、2015年の1年間のコーヒー消費量は461,892トンであるらしい。
さらに2016年の8月までの途中経過も出ていて、8ヶ月で313,677トン。
ちなみに2015年の同時期は304,039トンなので前年同期比3%の増加である。
2015年の消費量は10年前からは6.5%増、20年前からは30%を大幅に超える増加なのだという。

人口減少、なかでも若年人口の減少著しい日本でコーヒーの消費がここまで増えているのはかなり驚きである。
特に最近数年の伸びは著しいようなのである。

マクドの復活もこのコーヒー市場の堅調な伸びに助けられた側面があるのではないだろうか、そんな気がする。

ちなみに、コーヒー豆10g当たりの消費価格を200円として計算すると46万トンは9兆円超に相当する。
もう少し単価を低く見ても日本のコーヒー市場は5兆円以上あることは間違いない。
けっこうな巨大市場なのである


ところでコンビニコーヒーと言えば、コンビニドーナツについても触れなければなるまい。
だいぶ前にもここで書いたが、コーヒーと比べると日本のドーナツ市場は数千億円の規模でコーヒーよりかなり小さい。
また油と砂糖を多用した高カロリーのイメージは、高齢化や健康指向の流れにも逆行している。

たぶんドーナツ市場はこれからも拡大はあまり期待できないんじゃないか。
今、業界首位のミスタードーナツは営業赤字が続き、新規参入組のクリスピードーナツも店舗の大規模閉鎖に踏み切る、そういう状況らしい。

ミスタードーナツはそこそこの市場規模のなかで、これまでずっと大手企業の新規参入もなく比較的平穏に経営してきたものが、コンビニ勢の無理筋参入によって市場を蚕食され苦境に陥った。
やっぱり企業は常に戦闘モードで殺気立っていろいろチャレンジしていないと、いざ競合状況が変わった時に初動が遅れる、そういうことがあるのかもしれないと、ピークが終わってすっかり客の引いたマクドで思ったのであった。
posted by ヤス at 15:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年11月11日

背広の意味

世の中のビジネスマンは、仕事中たいてい背広を着てネクタイを締めている。
しかしなぜビジネスマンは背広にネクタイなのだろうか。

背広は、もともと19世紀にモーニングスーツの裾を短くしたものであるらしい。
そのモーニングスーツはもともと乗馬服であって、それを短くした背広は元々は部屋着やレジャー用の服であったという。
それが20世紀に入ってからアメリカでビジネスマンが着用し始めて、ビジネスマンと背広の関係が生まれたらしい。

さらに背広、というか「スーツ」はベストをセットにしたスリーピースが正統であり、ツーピースはあくまで簡略版であるという。

わたしはファッションとかにはまったく無頓着であり、また若かりし頃は広告業界の製作現場で働いていて、その時はジーパンにTシャツで紙屑にまみれていた。
それが営業の仕事とかもするようになって、そうなるとスーツを着ないといけない、ということになった。

しかし仕事の時のドレスコードがこのようにきっちり決まっているというのは、考えてみると不思議な事だ。
ビジネスマンが着用するスーツの持つ記号性には、はたしてどのような意味があるのだろうか。


純粋に機能性だけで考えるなら、個人的にはジャージにTシャツが動きやすくて快適で良い。
特に夏の暑い時はTシャツに短パンが絶対的に快適である。
そういう意味で小池百合子東京都知事が環境大臣時代に推進した「クールビズ」は画期的だった。
クールビズは画期的だったけれど、しかしもう一歩踏み込んだらさらに素晴らしかったと思う。

夏の間はもう服装自由。
あまり露出が多いと問題であろうが、Tシャツやポロシャツとかで仕事が出来ればもっと良かっただろうと思う。

しかし、クールビズは基本的にはスーツ姿から上着とネクタイを省略したものであり、「仕事の場にはスーツ」の文法は、かろうじて維持されている。

まあIT系の企業とか、ギョーカイ系の職業とか、従来からわりかし服装が自由なものもあったけれど、現状、多くのホワイトカラーは今もってスーツの着用を基本線に、ネクタイを締めたり外したり程度のバリエーションの幅の中に収まっている。


上着を着てネクタイを締めていると、この人は仕事中の人という気分が強くする。
スーツさえ着ていれば仕事中の空気を出せるのは、まあ考えようによっては便利かもしれない。

また、いつもはスーツの人が職場で私服姿で座っていると、この人は休みの日なのに出て来て仕事をしている感じ、がぱっと見で感じられて説明の必要がない。

国会議員の先生は、議場では服装規定で上着とネクタイの着用が決まっているそうだが、その格好で議場に居るとNHKの中継で映った時とかに、この人達は今仕事をしているのだなという無言の説明になって都合がよい。

そんなこんなで多くのビジネスマンがスーツを着るというお約束は、考えようによってはかなり便利なものかもしれない。
またそのお約束を最初に仕掛けた20世紀初頭のアメリカのビジネスマンは実はかなり偉大だったのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 17:09| Comment(0) | 徒然なるままに