2016年10月23日

ボブ・ディランのノーベル賞について

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、その後連絡が取れないのがニュースになっている。
ついに選考委員の一人がスウェーデン公共放送のインタビューでディランの態度を批判したらしい。
しかしこの委員の批判のニュースには、多くの人がおやっ、と思ったのではないか。
ノーベル賞の選考委員は全部で18人いるというのも今回のニュースで初めて知ったのだが、この18人がボブ・ディランを選んだのは、別に本人に頼まれたからではなかろう。
ディランの意思とは関係なしに委員たちが勝手に選んだわけで、それを無視されて無礼だというのは、そっちの方が大人げない。

ボブ・ディランという人のことを実はあまりよく知らないのだが、巷のニュースでは反権威主義の人、というような情報が流れている。
そう言えば随分昔に、わたしもディランのアルバムCDを1枚だけ買った憶えがある。

あまり売れなかったアルバムらしいが、まあまあ気に入ってしばらくBGMにして聞いていた。
しかし歌詞は当然英語であり、日本語ネイティブのわたしとしてはその内容にまで踏み込んで考えたことはなかった。

さて、ウィキペディア等の情報を見るとボブ・ディランはノーベル賞以前に多数の賞を受けている。
グラミー賞やアカデミー賞、アメリカ大統領自由勲章にレジオンドヌール勲章などなどその数ざっと20個くらいである。
それらの賞をディランがどういう顔して受賞したのか、見ていないので分からないが、それらの賞を受けておいてノーベル賞だけ無視を決め込むというのもやや不可解な話である。

ノーベル賞はダイナマイトの特許益が原資なので、反戦の闘志としては受賞出来ないということなのだろうか。
でもその割には、世界各地で軍事活動を行なっているアメリカやフランスの勲章は大丈夫というのでは矛盾している気がする。


これは勝手な想像であるが、今回のノーベル賞無視騒動は、ディランなりの表現であり、思想の表明なのではないか。
彼は既存の権威を疑う人であり、世の常識に囚われないことを標榜する人なのであろうと思うわけであるが、そのような思想をわたしのような非英語圏の人間に届けるには英語の歌では限界がある。

その点ノーベル賞を無視して、世界の人々やノーベル賞主催者自身が囚われつつあった「ノーベル賞の権威を過度にありがたがる風潮」を破壊して見せることは、なんか、ディランらしい表現活動のような気がする。

ここでノーベル賞主催者が粋な返歌を返すことが出来ると、今回の騒動はたいへんいいお話としてまとまるんじゃないかと勝手に思うのだが、さて事の真相はどうなのだろう。

posted by ヤス at 08:47| Comment(0) | 徒然なるままに