2016年10月11日

流れを作ること

プロ野球を観ていると、解説者が「これはタイガースの流れですね」「巨人に流れが移りましたね」とか言う。
あの「流れ」というのが実は今までよく分からなかった。
でも最近なんとなく分かるような気がする。

野球における「流れ」は、理屈っぽく言うと、ヒットが出る確率、点が入る確率、そして味方のピッチャーが抑える確率など、こちらの打つ手の成功確率が高い状態のことではないか。

野球は失敗のスポーツであると言う。
一流のバッターでも7割は打ち損じ。
ピッチャーも突然ストライクが入らなくなったりする。
これが、ピッチャーが必ず狙ったところに狙った球種が行って、バッターはホームランを狙ったら必ずホームランが打てるようなゲームだと面白くない。

なかなか思い通りに操れないボールを出来るだけ思うところに投げて、打つ方も投げ損じを含めていろいろな想念を巡らせて狙い球を絞る。
で、時々想像通りのプレーが完成する。
その確率の高いプレーヤーが一流なのであろう。

ゲームにおける「流れ」は、その成功確率をいくらか底上げするものではないか。
それは「勢い」と言ってしまうとややアバウトに過ぎるとも思うのだが、しかしイメージとしては「勢い」 の感じがかなり近い。


まあ野球だけでなく、世の中だいたいのことが思い通りにコントロール出来ないようになっている。
人生も例外ではなかろう。
というか人生というのはおそろしく思う通りにいかない。

以前に書いた「受動意識仮説」によると、人の行動は無意識が支配していて、意識は後から行動をトレースして無意識に対してフィードバックするだけ。
夏休みの宿題が終わらないのもダイエットが失敗するのもそのせいだという。
とすれば人生が思い通りにいかないのも当然だ。

我々が自覚している脳みその中の自分自身である意識、これは自我と言ってよいが、この自我はもうひとつの自分である無意識が行動をドライブするのを横で見ているだけである。

我々が思うような人生を歩むために自我が出来ることは、プロ野球の勝利チームのごとくいい「流れ」を作ることではないか。
そういう想念がふと浮かんだ。

これは例えば企業経営でもそのままあてはまる。
というか企業経営こそ「流れ」を作る作業そのものであろう。
普通の企業は従業員を使い、不安定で気まぐれな顧客を相手に売上を作り、費用を削って利益を捻出する。

企業というのは不確定要素だらけの外部環境に働きかけて、従業員を使って、社長の立場からはかなり間接的に会社をドライブしている。
しかも社長自身も、無意識が支配する不安定な生身の人間である。
不安定なこと、この上ない。


このような中で社長が出来ることは、いい流れを作る、計画して実施する施策が以前よりは良く成功するような環境を整えること。
そういう風に見ることが出来る。

今更ながらそんなことを思った。
posted by ヤス at 11:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月10日

電通の若手社員の悲劇で思ったこと

東大卒の電通若手社員が自殺をしたという悲劇がニュースで流れている。
ついでにその社員の月間残業時間が105時間で、某大学教授が「その程度で自殺するのは情けない」とツイートして炎上するという事件もあったらしい。

その大学教授の肩を持つわけではないけれど、105時間の残業というのは命を絶つほどのレベルではないようにも思われる。
たぶんこの女性が自らの命を絶ったのは残業時間の長さが問題でなかったのだろう。
女性のSNS投稿によると、職場でかなりひどい扱いを受けていたらしい。
精神的に追い詰められた結果の悲劇であるようだ。

ブラック企業における過労死や自殺問題のニュースを聞くと、「そんなにひどい会社ならさっさと辞めれば良いのに」という疑問がどうしても浮かぶ。
そして実際問題としてブラック企業を撲滅するのにもっとも効果があるのは、やばいと感じた社員がどんどん辞めることだろう。
現実、通常ブラック企業では人の入れ替わりが激しく日常的に社員が辞めている状況がある。

それでもなお過労死とかが有るというのは、ブラック企業で働いている人の中に、職場での扱いや長労働時間が常軌を逸していても、なぜか辞めずにがんばってしまう人が一定程度いる、というところの問題だと思う。

過労死するまで働く人はなぜ辞めないのか、ということの理由は、ここで詳しく述べるほどに把握出来ていない。
理由は明確に断言出来ないけれど、そういうドツボの状況にハマってしまう人、というのはいると思う。

そういう人はおそらくある種の洗脳状態に陥っている。
自分が今辞めたら他の人に迷惑がかかる、上司に認められる一人前になるまではがんばろう、仕事はつらいが社会的に有意義だから続けないといけない、などなど、ドツボにハマった人は自分で自分を辞められない状況に追い込んでしまっているのではないか。

それは自己洗脳という側面もあるかもしれないし、たちの悪い会社であれば、意図的にそういう方向に追い込む「術」を駆使していることだってあるだろう。

だから今後過酷労働の問題を解決するためには、若い人が会社や職業に対する「正しい対峙の仕方」を身に付けることが大切だと思う。
少なくとも、「自分の命」と「会社の倒産」を天秤にかけた場合、これは絶対に「自分の命」を優先すべきだ。
それは社会ぐるみでそういう思想のベースを共有しないといけない。

同時に会社の方でも、というか社会全体で、もっと労働移動の流動化に対応しないといけない。
例えば今多くの会社では副業禁止が就業規則に謳われているけれど、今後は会社の方で副業を奨励するくらいになった方がいい。

副業禁止による懲戒処分を認める判例では、本業に影響が出るほど長時間副業する、協業関係にある副業、本業の信用を失墜させる内容の副業の場合などが副業禁止が有効な場合だという。
言い換えると、日本国民は憲法で職業選択の自由が保証されており、本来は職場をふたつみっつ掛け持ちしていてもかまわないはずだ。

会社の方でも、それくらいのバイタリティの有る要領の良い社員の方が貢献度が高くなるだろう。

そういうのが普通の時代が来れば、上記のような悲劇は無くなるではなかろうか、などと思った。
posted by ヤス at 15:05| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月09日

ストレスからの解放

毎日ではないが、たびたびジョギングをする。
ジョギングをする時は、今はランニング用のGPSウォッチをはめている。
GPSウォッチが無い時代はiPhoneのランニングアプリのナイキプラスとかを起動して走っていた。
さらにその前の時代には、ストップウォッチ付きの時計で区間ごとのタイムを測りながら走っていた。

で、ごく稀にではあるが、そういう計測機器類を身に付けずに走りに行くことがある。
そんな時なんというか、ややほんのりとではあるが開放感のようなものを感じて気持ちがよい。

走る時に計測機器を身に付けることにはそれなりの意味がある。
1kmごとのペースが分かったり、その時の心拍数が分かることによって、今の自分の状態がかなり明確に理解出来る。
ジョギングをサボっていると身体の走行性能が低下し、それが数字にはっきり表れる。
そしてトレーニングをぼちぼち重ねていると、だんだんおのれの性能が向上していくのが分かる。

やはり日々数字が良くなっていると、明日も走ろうかなという気分になる。
だから、トレーニングには計測機器があった方が便利で楽しい。

しかし、だ。

時に気まぐれで機器を外した時の開放感は一体何なのだろう。

似たような気持ちになる場面がもうひとつある。
これは内緒だが、街歩きをする時はたいてい、わたしのiPhoneではポケモンGOが密かに起動している。
平日の昼間の仕事の途中でも起動している。

仕事以外の時間はなおさらである。
当然、モンスターが出現すれば捕獲せねばならず、ポケストップではツール類をゲットせねばならない。
モンスターの捕獲やツールゲットを諦めるにしても、孵化装置や相棒ポケモンの走行距離が気になる。
こうなると歩いている間中ポケモンGOに行動を支配されている感じだ。

本来ゲームを楽しむはずのところが、ゲームに後頭部をせっつかれている感じになって軽いストレスである。

だから思い切ってポケモンを起動せずに歩いてみると、非常に清々しい。
モンスター捕獲や孵化装置の走行距離を気にせず、脳みそを別の思考に使える。


これと似た開放感が、計測機器無しのジョギング時にもある。
走行速度や心拍数の数字にとらわれることなく、しんどかったらスピードをゆるめ、気分が良ければ少しペースアップして、実にゆったりとした気分で走ることが出来る。

計測機器の示す数値はある種のストレスであって、そのストレスがあるせいで、走らなきゃ、という気分が生まれる。
だけれどもストレスはストレスなので、それなりの重さがある。

考えると、人という生き物はいろいろなストレスを原動力にして毎日生きている。
ノーストレスっていうのは無気力状態に限りなく近いような気もする。

でも時々、いつものストレスから解放されると思いがけず気持ちよい。

ストレスがあるからこそ、「ストレスからの解放」という気持ちよさが生まれる。

ということで、出来ればストレス無しでのんびり生きたいと思うが、まあそう考えるとある程度のストレスも必要なのかなと、思った。
posted by ヤス at 15:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月08日

謝罪と反省

最近、「謝罪」のニュースが多いと感じる。
まあ考えてみると、以前から謝罪会見とかのニュースはあった。
かつて山一証券の最後の社長は、号泣しながら謝っていた。

しかし最近は、芸能人の不倫や薬物犯罪や、少し前にはステルスマーケティング疑惑とかで謝るパターンが多い気がする。
実際に統計を取ったわけではないのだが、やっぱりネット社会の影響で、謝罪のニュースは増えているのではないか。

企業や著名人の謝罪は、一般には記者会見、そうでない場合はファックスなどの文書で示される。
謝罪において重要なのは、本人の「反省」を示すことだと思われる。
思うに「反省」というのは、本来自分自身の中で完結すべき所作であろう。
自分の犯した失敗について振り返り、失敗の原因やプロセスをきちんと分析して同じ失敗を繰り返さないようにしよう、と決意すること。
あるいは上手く行ったことでも、もっと別の方法を取ればさらに成功出来たのではないかと考えることも反省のうちかもしれない。

何はともあれ反省というのは、自身で自発的に行い、わざわざ大勢にアナウンスする必要はないものであるはずだ。
しかし、であればこそ、謝罪の場面で反省の意を示すことに効果が生じるのだろう。

「私は誰に強いられるでもなく自発的に「反省」した結果、ほんとうに反省いたしました」

という内なる感情を謝罪の場で漏らすことにより、謝罪を受けた人々は、

「この謝罪している人はどうやら反省しているようなので同じ失敗をする可能性は低いだろうから許してやろう」

という段取りになる。

実際多くの場合、ほんとうに反省している感じが読み取れる謝罪では、許してやろうという空気が自ずと出来るものだ。
部下が上司に謝る場合でも、店員がお客に謝るときでも、ほんとうらしい反省の空気を伝えることは、謝罪成功のキーポイントだと考える。

しかし時々、というかかなり多くの場合において、形式的な反省を伝える謝罪のパターンが見受けられる。
この場合の「反省」は自発的に行われた本来の反省ではなく、謝罪のために別途用意された「反省のようなもの」に過ぎない。

最近多いと感じるのが、芸能人の謝罪の場合に、本人は謝罪の意思はないが所属事務所の意向やスポンサーへの配慮から誤っておかねばならない、だから「反省してます」といちおう言うけれど何を反省しているのか分からないパターン。

これは謝罪せねばならない芸能人がやや可哀想である。
しかし理不尽ではあるが社会の仕組上、大人として謝らないといけないことはある。

だがこの場合、いったん謝ったら以降そのことについての恨み節は言わないのが真の大人の態度というものだろう。

そう言う態度を貫けるかどうか、そして今までどうだったかについて、わたしも今から反省しようかな、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月07日

火星旅行

イーロン・マスクが火星にコロニーをつくるという計画を先月メキシコで行われた国際宇宙会議で発表した。

そして火星までの旅を商業化して一人2000万円程度で行けるようにしたいという。
最初の有人火星旅行の目標は2025年と言っている。

地球から火星までは近い時で5400万km、遠い時で1億kmくらい。
火星までの旅は、どれくらい時間がかかるのだろう。
単純計算で、地球の重力圏からの脱出速度である「第二宇宙速度」=時速4万kmで割り算すると、1億kmの場合は2500時間、104日かかる計算だ。
ただし実際は、燃料節約のために楕円軌道でぐるっと回り込むコースで火星にアプローチするために8ヶ月くらいかかるコースがもっとも経済的らしい。

この場合2年2ヶ月ごとにめぐってくる地球と火星のちょうどよい位置関係のタイミングで出発するので、そのタイミングまでの待ち時間もある。
そんなこんなで経済性を加味しながら火星に旅立ち、再度地球に戻って来る場合を想定するとトータルで5〜6年くらいかかることになるのだろう。

こういう計算をしていると、1200〜1400年前の遣隋使・遣唐使が思い浮かぶ。
遣隋使の場合は西暦600年の第一回から614年の第5回までその平均スパンは3年半くらい。
遣唐使は630年から894年までの264年の間に約20回行われたと言われている。
だから平均スパンは14年弱になるが、途中20年とか30年以上も派遣が途切れることもあった。

いちおう往路の船は2〜3年後に帰路に就いているようだが、なんどか行きっぱなしで帰路の無い回もあったようだ。
特に7世紀以降は朝鮮半島情勢が悪化したために安全航路の半島経由が使えなくなり、荒れる東シナ海を渡っていかなければならず、決死の航海だった。

当時の航海に比べると、火星旅行はたぶんずいぶんと快適だろう。
波に揺られての船酔いも無かろうし、宇宙船の中は冷暖房完備で快適に違いない。
ただ、1億km離れた火星からは、ヒッチハイクや手作りヨットで帰るとかいう方法はもはや無い。
その隔絶した間隔というのは、何か人間の感性に影響しないもんなのだろうか。

がんばって後50年くらい生きたら、2000万円よりもう少しお手軽に火星に行けるかもしれない。
その時を目指して、がんばって長生きするために節制に努めようと思った。
posted by ヤス at 13:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月06日

映画「フューリー」をやっと観た

数日前にAmazonプライムでアメリカ映画の「フューリー」を観た。
ブラッド・ピット主演の、第二次大戦終末期、ヨーロッパ戦線の話だ。
2年前の作品で、有名な映画だから映画好きの人はもうあらかた観ているのかもしれないが、わたしとしてはやっと観た。

本物のティーガー1戦車が走り回り、機銃や戦車砲の発射シーンで曳光弾が飛び交い、ブラッド・ピットたちが、ドイツ軍から奪った短機関銃や突撃銃をぶっ放す描写が迫力満点。
戦闘シーンに限ってはなかなかよい。

しかし、ストーリーは非常に浅い。
あるいは状況設定のリアリティも、よくよく考えると説得力が薄い。
ドイツの降伏間近の状況で、アメリカ軍がドイツ軍の猛反撃で損害を出している、そこに支援の戦車を送るというのに戦車の数が絶望的に足りない。
実際の状況もそうだったのだろうかという疑念が拭いきれない。

いちばんの力技と思ったのは、最後のキャタピラが外れたシャーマン・ファイアフライ戦車とドイツ軍SS部隊の歩兵数百人との戦いである。
映画では壊れた戦車にこもったブラッド・ピットたちが奮戦して敵の大半をやっつけるわけであるが、実際の戦場で普通に戦ったら、歩兵は戦車の死角から近づいてパンツァーファウスト(携帯対戦車ロケット弾)で攻撃すれば数分でシャーマン戦車がやられる。

そこのところはリアリティを強引に曲げて、派手な戦闘シーンのエンターテイメントで乗り切ろうとしており、それはそれなりに成功している。
実際にはあり得ない戦闘内容ではあるが、観ていて手に汗握ってしまうのはハリウッドの力技の威力だと思った。

あと、セリフの中でたびたび聖書の一節を暗唱したり、仲間の死を悼んだり、つかの間の恋愛話が次の瞬間敵の砲爆撃で儚く散っていったり、ところどころに「ヒューマンな感じ」を散りばめている。


ハリウッドの映画は、邦画なんかと比べると桁違いの製作費が投じられる。
「フューリー」の場合はウィキペディアによると6800万ドルというから68億円くらいかけているらしい。
そして邦画の製作費は平均すると3〜4億円だという。
ハリウッド映画では製作費100億円以上もめずらしくなく、「スターウォーズ・フォースの覚醒」は200億円くらいだという。

邦画とくらべるとゼロの数が下手するとふたつ違う。
予算が潤沢なので戦争映画の戦闘シーンとかも、えげつないくらい徹底して作り込まれる。
本物と判別不能なCGを使ったり、「フューリー」のように本物の貴重なティーガー戦車が出て来る。

ただその反動でストーリーやリアリティは犠牲になって分かり易いエンターテイメントの方に大きく振れ勝ちになる。
そうなると結果的に映画が薄っぺらくなる。

そういう意味では同じブラッド・ピットの戦争映画では、タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」の方が吹っ切れていて断然面白いと思う。

ということで、映画の製作費がたくさんあるのも考えものだよなあ、と思った。
(「イングロリアス・バスターズ」の製作費は「フューリー」を上回る7000万ドルだったらしい)
posted by ヤス at 12:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月05日

長くやると見えてくる

YouTubeで先日行われたいわて国体の水泳競技を見ていた時に思った。

わたしは大昔、競泳をやっていて種目はいちおうバタフライだった。
だから、一流スイマーのバタフライの泳ぎがやや気になる。
マイケル・フェルプスとか、日本の瀬戸大也や坂井聖人の泳ぎを見ていると本当に気持ちいい。

バタフライの泳ぎのキモは、タイミングのいいキックにある、と思う。
バタフライのキックは腕を一回かく間に2回打つ。
昔のわたしのヘボ泳ぎでは、足先が水面から高く上がり過ぎて水しぶきだけ無駄に発生していたものだが、一流選手のキックは水中で無駄なく打っていて、足が上がる時と打ち下ろす時の両方でぐいっと前に進むのが見ていて分かる。

一流選手の泳ぎを見ながらスイスイ進んで気持ちいいなあと思っていて、少し昔の映画でモーツァルトを描いた「アマデウス」というのがあったけれど、あの映画でモーツァルトの凄さに驚く宮廷音楽家のサリエリのことを少し思い出した。

サリエリは才能的には凡人だったけれど、長く音楽家をやっていたのでモーツァルトの天才ぶりを肌身に沁みて感じることが出来た。

一流選手のバタフライのキック見たさにYouTubeを繰り返し繰り返し観ているのは、やや変態的な趣味である気がしないでもない。
何年間も水泳競技を経験した人とか、コーチとかで選手が泳いでいるのを観察し続けてきた人ならば、他人の泳ぎを見ていいキックだなあとか下手くそだなとか感じることが出来るだろう。
逆に競泳に興味のない人では、泳ぎの細かな部分まで感じ取れないに違いない。

よくオリンピックとかで解説の人が、「今日は○○選手、動きが重いですね」とか「今日はキレがありますね」とか言う場面が有るが、専門外のスポーツでそういう解説を聞いても、どこがどう重いのかキレがあるのか、分からないことが多い。

スポーツの世界では、それなりの期間に渡って選手の動きの観察を続けていると、細かい動きのニュアンスというのが感じ取れるようになる。
あるいはスポーツ以外でも、長くたくさん経験してきたことについては細かいところまで良く見えるようになる。
築地市場の仲卸の目利きはいいマグロを一発で見分けるのかもしれず、長く組織を率いてきた会社の上司は辞めそうな部下の態度に敏感に反応したりするかもしれない。
ベテラン芸能リポーターは離婚しそうな芸能人カップルが事前に「見え」たりするのではないか。

たとえプレイヤーとしてトップレベルまで上り詰めることが出来なかったとしても、長く経験してきた分野においては、それなりに細かい部分を「感じ取る」ことが出来て、そうなるとそれはそれでけっこう楽しめたりする。

だから元田舎のヘボスイマーでも、一流選手の泳ぎを見て他の大多数の人より深く楽しめて、それはそれで良かったのではないか、となんとなく思ったのだった。
posted by ヤス at 15:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月04日

日銀総括検証について

先月の日銀の総括的検証はものすごく分かりにくかった。
いろいろな解説記事を読んでみたものの、ぼんやりとしか理解が出来ない。
よく理解は出来ないのだが、日銀の金融政策は今後どちらの方に進むのかとりあえず現在までの個人的な理解を整理しておく。

まずそもそもの「異次元金融緩和」は、アベノミクスの3本の矢の1本目として2013年4月に開始した。
ひとことで言うと、2年で2%の物価上昇を目指す政策、だった。
そのために銀行保有の国債を年間80兆円買い上げて「マネタリーベース」を2倍に拡大、それによって名目金利を押し上げようとした。

この政策のもっとも重要なポイントは、「2年間」の区切りが切ってあることだったのではないか。
当初、金融緩和は年間80兆円という規模もさることながら、「速度」ということがさかんに喧伝されていた。
2年間を区切って一気呵成に大規模緩和してインフレに持っていく。
つまりデフレを脱却する。

そういうことだったと思う。

2年の区切りには重要な意味がある。
まず、国債を買い上げると言っても、80兆円規模で何年間も買い続けると買うべき国債が無くなる。
市場の国債が希少になって流動性が低下し、国債価格が異常に高騰する。
国債の高騰は「金利の低下」なので、ぐずぐずやっているとデフレ圧力に追いつかれる。
だから、2年間でガバっと買ってどーんとインフレにして店じまいする。

それが当初のシナリオだったはずだ。

しかし2%インフレは実現せず、2年ですぱっと店じまいしたかった金融緩和が止められなくなった。
本来なら日銀は「当初の目論見は外れこのままのペースでの大規模緩和は継続不可能であり路線変更は不可避」であると白状すべきだった。

しかし正直に白状すると苦労して歯止めをかけていた「円高」が再燃し、株価は下がり、政府は大きな批判の的として晒されることになる。
だから、量的緩和の「断念」を「質的・量的金融緩和」という奥歯に物のはさまったような表現で煙に巻こうとしているように見える。

質的・量的金融緩和というのは、「量的緩和の断念」と捉えるのが正解だと思う。
つまり金融緩和政策の失敗を暗に認めた、そういうことなんだと思うのである。


個人的には大規模緩和策は無理筋の策だったと思っている。
しかしではどうすれば良かったのか。
あるいは今後どうすれば良いのか。

政府や日銀は「何もしない」でおくべき、というのが正解のような気がする。
何もしないとたぶん為替は円高に振れる。
日経平均も下落する。
製造業の輸出企業は再び採算が悪化し、東芝に続いて日立や三菱も経営危機に陥るかもしれない。

おそらく大規模倒産がいくつも発生することになるだろう。
しかしそれこそが結局のところ「構造改革」の引き金になるのではないだろうか。

日本が戦後何十年もかけてコツコツと貯めてきた金融資産がまだ残っているうちに、少々痛いが根本的な治療を行った方がいい。
そう思うのである。
posted by ヤス at 12:20| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月03日

iPhone7がやっと来た

今日やっと、注文していたiPhone7が来た。
iPhone5Sから3年のブランクを超えて念願の機種変がかなった。

CPUもいっきに速くなり、カメラの性能もジャンプアップした。
巷では一部に拒絶反応のあったという、押したかどうかよくわからないホームボタンの感触も大丈夫そうだ。
寄る歳波で日ごとに眼のショボショボがひどくなる身にとって、やや大きめのディスプレイもありがたい。

しかし、全体として新しいiPhoneによる感動は薄い。
わたしにとって最初のiPhoneである3GSの衝撃や、画面が初めてRetinaディスプレイになった時の綺麗さとか、そういう分かり易い感動要素が無い。

旧機種からの分かり易い違いとしては、まあ触ってまだ1時間ほどだが、ホームボタンの感触とディスプレイが感圧型になったという「Multi-Touchディスプレイ」ぐらい。
細かい部分で後々、その高性能・高機能ぶりに驚くことがあるのかもしれないが、少なくとも普通のおじさんにとって、もはやiPhoneのモデルチェンジはそれほど大きなインパクトを感じるイベントではなくなっていると思った。

これはまあわたし個人の感想であるが、世の中の人はどう感じただろう。
一部のマニアにとっては細部の小さな進化もけっこう大きな驚き、ということがあるかもしれないが、技術知識が一般レベルの人々の度肝を抜くような進化は、今回あんまり無かったのではないか。
そういう意味ではiPhoneもずいぶん「普通の道具」になって世の中にすっかり馴染んだということなのだろう。

Appleとしては、進化のインパクトがだんだん薄れてきたiPhoneを今までのような調子で同じように売っていくのは相当厳しいだろうと思う。
実際最近は世界的にiPhoneの販売が鈍ってきている。
Appleが考えそうな今後の展開としては、Apple Payの機能を活かして簡単にピザが注文できてすぐ配達されるとか、新幹線や飛行機の予約が出来るとか、周辺システムを使った便利機能を付加していくことになるのだろう。

しかしそういうのはAndroidでも同じように出来そうな気がする。
Appleだけが出来る、世の中の商品サービスに対する予約・決済機能みたいなものは果たして出てくるのだろうか。



しかしiPhoneのモデルチェンジに限らず、人間歳を重ねると、だんだん新しい経験が減ってくるため、あるいは感受性が鈍ったことにより、新しくて素晴らしい体験をしても感動がやや薄い。
そう感じることが多くなった気がする。
人間生きている間は、大きいやつ・小さめのやつ取り混ぜながら時々適当に感動していないと人間らしさを保てない。

今思い出す最近の感動としては、少し前に食べたのだが、吉野家の「ねぎ塩豚丼」。
豚丼の上にネギが乗っていて、その上にオリーブオイルとレモン汁をかけて食べるのだが、そのレモンのさわやかな酸味とオリーブオイルの少し生臭い感じが絶妙でクセになる味だった。
たぶん夏季限定だったのだろう、最近は無くなっているようだ。

本当は、もっと高級な料理か、美術館の芸術作品などでオシャンティーな感動を味わってみたいのだが。


まあiPhoneもOSがバージョンアップして、まだまだ見つけていない隠れ機能があって、それを見つけた時に感動する、ということが今後あるかもしれない。
そういう瞬間があるのを少しだけ期待して、新型iPhoneをいじくっていこうと思った。
posted by ヤス at 15:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月02日

好物を最後に食べる謎

夜10時閉店のスーパーマーケットに9時過ぎに行くと、惣菜コーナーの平台に残ったおかずやご飯類がやや隙間がちに並んでいる。
そしてパッケージに「値引きシール」がたいてい3枚貼られている。
最初に「2割引」シールが貼られ、その上に「3割引」、最後に「半額」シールが重ねて貼られるのであろう。

値引きシールの貼られた惣菜を買っていると、普通の時間帯に正規の価格で売られている商品がとても高価に感じられる。

スーパー側の事情としては、総菜コーナーは最初から10%程度の値引き・廃棄ロスを織り込んで営業しているということがある。
値引きや廃棄の無い「売り切れ御免」型の売り方は「機会ロス」、つまりお客さんにとって欲しい商品が並んでいない売場だからダメ、という理屈があるらしい。
だからたいていのスーパーでは、閉店間際になってもいくらか売れ残りの商品が並んでおり、値引きシールが貼られて売られる。

問題は、値引きシール、中でも「半額」シールが貼られているおかずやご飯類は、なんだか買わないと損な気分が濃厚にあって、ついつい買い過ぎる傾向があることだ。
いや、たぶんこのスーパーマーケットは明日もいつもと変わりなく営業する。
そしておそらく、自分も明日は今日とほぼ変わることなく生きている。
そしてスーパーの惣菜コーナーのロス率は相変わらず10%前後で微妙に調整された商売をしているから、かなり高い確率で明日もいつも通りの値引き商品が並んでいるはずだ。

だから今日、助六寿司とアジフライに追加してかぼちゃコロッケを買わなくても、かぼちゃコロッケは明日以降に回しても良いはずだ。
夜中のスーパーでこのような自制心を効かせることは、少なくともわたしにとっては意外なほど難しい。
ただ最近は、いくらかコツを覚えたので以前よりは自制に成功することが増えている気がする。

スーパーで半額シールを貼った惣菜をつい買い過ぎる傾向は、これはやはり人類の生き物としての生存本能に基づいているのであろうか。
目の前の食料は速攻胃袋に収めておかないと、次はいつご馳走にありつけるか分からない。
そのような太古の昔、飢餓時代のDNA的な記憶が半額シールの惣菜を余計に買わせているような気がする。


ところで、わたしはいくつかのご馳走が目の前に並んでいる時、いちばんの好物は「最後に残す派」だ。
これは世の中的にも「最後に残す派」が多数派であるようだ。

考えてみると不思議である。
生存本能に従うなら、好物は最初に食べてしまう方が絶対に良い。
人間というのはたいていの場面において、基本的には本能に突き動かされて盲目的に行動するものだ。
でも好物を最後まで取っておくという人が多数派だという大きな謎がある。

これはその人の計画性が強い性格を示す証拠だ、という意見がある。
しかしわたしはずいぶんと幼少の頃からそうだった。
むしろ幼少の頃こそ「最後に食べる」傾向がひどく強かった記憶がある。
だからこの好物を「最後に食べる」心理も何か生き物的な本能に基づいているのに違いない、と睨んでいる。
ただ、丸二日ほど考えているのだがそれらしい適当な答えがどうしても見つからない。

ということで答えが見つかったらまた報告します。
おしまい。
posted by ヤス at 07:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月01日

あえて長谷川豊問題について考えてみる

フリーアナウンサーの長谷川豊氏のブログ炎上問題が先日来ニュースで流れている。
問題のブログアップが9月19日だったので、騒動としてはもうピークは過ぎたのかもしれない。
問題そのものについては非常に程度の低い内容だと思ったのだが、若干検証に値する論点もあるような気がしたのであらためて考えてみる。


問題の経緯を整理すると、長谷川氏が、

「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!」

というタイトルのブログをアップして、間もなく氏の目論見通り炎上が始まったらしい。
同ブログ記事を転載したニュースサイトBLOGOSでも記事削除の措置が取られ、記事掲載から4日後には全腎協が抗議文を公開、謝罪を要求するものの長谷川氏は謝罪については断固拒否するとした。

長谷川氏の記事の内容は、近年、保険医療費支出が膨張しており中でも透析治療が突出している。
そして約10人の医師に取材したところ「透析患者の大半」は暴飲暴食などの生活習慣による自業自得の人たちであり、そういう自業自得の患者に対して無制限に保険医療を適用していたらそのうち制度が破綻する、だから制度を解体しろ、という趣旨のものだ。

この記事の問題点と思われる部分は、「ではどうするのか」という具体的提案や、ざっくりとした代替案でも最後に出てくるのかと思っていたら、問題提起だけで終わっているところだろう。
記事の内容から推測すると長谷川氏は、現行の医療保険制度は「自己責任」を基本理念とするものに全面改正してゼロからやり直すべきだと考えているのだろう。


この炎上ニュースにいくらかの価値があるとすれば、それは「自己責任論」について検討するきっかけになりうる、という点かもしれないと思う。

つまるところ長谷川氏は「自己責任論者」なのだろう。

暴飲暴食で病気になって、それで勝手に死んでいく分には構わない。
しかし暴飲暴食で自業自得の末に透析患者になって年間500万円の医療費を持って行かれたら、きちんと正しく生活している俺たちが損をする。
そんなことは許されるべきでない。

という風に長谷川氏の思いを翻訳出来る。

わたしは、一般的な自己責任の考え方にはそれなりの合理性を認めるが、しかしあまりにも底の浅い自己責任論には疑問を抱かざるをえない。

適切な自己責任の考え方の基本は「自立」と「助け合い」だと思う。
社会を構成する個人は、それぞれ自立した人間、すなわち自分のことは自分で出来る人になるべきである。
しかし子供とか諸般の事情で自立出来ない人に対しては社会全体で助け合わないといけない。
それが自己責任社会の基本的なあり方だと思う。

さらに言うと、たぶん世の中の大人で100%完全に自立しているという人はいない。
仕事はバリバリ出来ても料理や洗濯は出来ないとか、その逆とか、その他にもさまざまな分野についてよくよく考えると、自立出来ていたり出来ていなかったりということがある。
だから社会を構成する人々はなんらか、お互い助け合わないといけない。

しかし長谷川氏的な思考パターンでは、自分がある分野で人の助けを必要としていることが見えていない、あるいは意図的に見ないようにして我田引水の理屈をコネている。
そうやって「自立している自分たち」の損害のことばかり気にしているように見える。




あと、長谷川氏の記事の中では全腎協の批判が、ブログのタイトルだけを読んでなされたもので、まず反論は自分の記事を全部読んでからやるべきだと書かれているが理屈が無茶苦茶だ。
全腎協の不快感はブログのタイトルに対して生じたものだから、全腎協はブログのタイトルに対して抗議するだけで十分足りる。
全文を読む必要性は無いのである。
それ以外にもネットとテレビでの人格は別とか、ネット上では死ねと言っても許されるとかいろいろ書いてある。
その辺の長谷川氏の論の立て方は理屈が破綻していてまったく論評に値しない。

しかしこのような自分勝手な論の立て方は、ネット空間では日常よく見られる。
やや望みは薄いかもしれないが、この問題を期にネット空間における諸問題に対する「議論の仕方の正常化」がテーマとして浮上すればよい、と切に願う。
posted by ヤス at 14:01| Comment(0) | 徒然なるままに