2016年10月31日

シャッター音裏技消滅

iPhoneのカメラのシャッター音を消す裏技として少し有名になっていた「設定」の「アクセシビリティ」の「AssistivTouch」が、この間のOSアップデートで修正されたようだ。
結果、裏技のシャッター音消しが出来なくなった。

日本仕様iPhoneにだけ適用されているという音の消せないカメラについては、これまでも各方面でその謎の理由について取り上げられてきた。
多くの推測をまとめると、どうも盗撮防止が理由、というのが大方の見方であるらしい。

しかし考えてみると不思議な話である。
日本仕様だけシャッター音が消せないという事実は明白であり、かつこれまでもさんざん話題となっているにも関わらずそのちゃんとした理由が明らかになっていない。

盗撮防止を理由にシャッター音を残す決断をしたのはAppleの判断なのであろうか。
普通に考えるならたぶんそうではない。
おそらく当局の製品許認可の手続きを通じて何らかの「指導」が入ったのではないか。
まあ真相は分からない。
現実には、無料で「静音仕様」のカメラアプリが普通に出回っているので、この「シャッター音消せない仕様」には実際上の意味はほとんどないと思われる。

通信機器の許認可についてはよく知らないのだが、有名な「技適マーク」というのがあって、iPhoneも通信機器なので技適マークの適合審査を通過している。
またこれも話題になったiPhone背面に刻印された漢字の「総務省指定」はFeliCa搭載によるものであるという。

またiPhoneの「設定」の「一般」「情報」「法律に基づく情報」「認証」の中に、各国での販売が可能であることを示す認証が一覧掲載されている。
いちばん下にJapanの認証があるが、それぞれの認証の意味については残念ながらよく知らない。

よく知らないので想像してみるのだが、これらの認証はiPhoneの電気製品としての安全性の確保と通信機器として電波法への適合の認証ではないかと思う。

さて、もし日本仕様のiPhoneのシャッター音問題が日本国の当局の指導によるものだとすると、これらの認証の中にシャッター音を規制する根拠が存在する、ということになる。
さらにシャッター音を消せない理由が「盗撮防止」であるとすると、iPhoneを犯罪に使用することを規制するような認証がこの中にある、ということになる。

上記の推定では「もし」が2度も重なってぼんやり感が強すぎるきらいはあるのだが、はたしてスマホの製品認証において盗撮などの犯罪に使用されることを規制するようなものはあるのだろうか。

ネットで軽く調べたけれど、そういうのはちょっと見つからなかった。
もし、規制の根拠となるような認証が無いにも関わらず当局がシャッター音を消せない仕様を「指導」しているのであれば、これは出過ぎた越権行為と言わざるを得ないと思う。

あくまで個人的想像であるが、さて真相はどうなのだろう。
非常に気になる。


posted by ヤス at 11:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月30日

過剰さを求める

うちでコーヒーを淹れる時、お湯200ccに対して豆を8gと決めている。
タニタの量りで豆の重量を慎重に計測するのであるが、しかし濃いコーヒーが好きなわたしは、ついついサービスして8gのところを8.5gとか時に9gとかにしがちである。
これは味噌汁でも同様で、水200ccに味噌18gと決めているのについつい20gくらい入れてしまう。
味噌汁の場合は味噌が濃すぎると塩辛くなり過ぎてあまりよろしくない。
18gでも本来少し濃すぎると感じるので今後は15gにしようかとも思う。

しかし自分で決めたルールであるのにそれを守れないとは情けない。
こと食べものに関しては、食欲という本能の作用するジャンルであるので理性によるコントロールが難しいのかもしれない。
どうしても「過剰摂取」の方に流れてしまう。

そう言えば寿司屋で外国人に大量のわさび入りで提供したのが批判されたことがあったけれど、実際外国の人はおおむね寿司に規格外の量のわさびを要求するらしい。
そういうのを考えると日本人というのは、諸外国に比べると食べ物に対して抑制的な面が強いのかもしれないと思う。
そもそも日本食は味も薄めであり、何より辛味などの刺激が少ない。
寿司のわさびは全体としては薄味の世界に置かれたワンポイントなのであって、そのあたりの間隔が日本食ネイティブでない人々には理解出来ないのかもしれないと思う。

と、たった今そのように書いている本人が、オムレツにかけるケチャップの量やサラダへのドレッシング投入時において、どうしても過剰に走る癖がある。
食べ物に関して過剰に走らず抑制的であることは、どうにも難しいようなのである。


話は変わるが、世間的には終わったことであろうけれど、長谷川豊氏のブログによる透析患者等に対する一件であるが、長谷川氏は事件以降、テレビ番組内や自身のブログ上で何度か謝罪の言葉を発している。
発しているのだけれど、それがどうも全然肝心のことを謝罪していなくて、それどころか自身を攻撃してくる「長谷川ヘイト」への反撃に余念がないようである。
そのあたりの彼の反応の仕方がこちらの予想を遥かに超えていて、逆に興味深い。

この事件を振り返ると、結局のところ彼は医療保険制度がこのままではパンクするからたいへんだと言っているわけだが、その点にはわたしも同意する。
しかしではそのためにどうするかという具体的な提案は何も言っていない。
代わりに一部の透析患者がモンスターペイシェントになって医療行為の妨げになっているのを取り上げ、モンスターペイシェントをどうにかしろと言うのだがその方法にも言及していない。

考えてみると生活保護の不正受給と同じで、不正受給者は全体のごく少数であるので、これを懲らしめることにリソースを回してもリターンが合わない。
だから不正受給は後回しにして根本的な貧困対策に力を入れるのが正しい方法だ。
透析患者のモンスターペイシェントでも、彼らを懲らしめても何の得るところもなく、そんなことより国民全体の予防医療や保険制度のシステム設計の改善から手を付けるべきである。
(保険制度と生活保護は同じ相互扶助でも考え方が違うけれど)

モンスターペイシェント問題はセクハラや威力業務妨害など犯罪取締の問題だろう。
その観点からも長谷川豊氏の主張は相当に的が外れている。

長谷川氏が行うべき正しい謝罪の方法は、「自分はただブログのページビュー欲しさに何でもいいから過激なネタが欲しかった、際限のない過剰さを追い求めた」という自身の姿勢を認めて正すことではないかという気がする。
そして自身の利益=ブログのページビューのために過剰さを追い求め、全然関係のない透析医療の関係者の心情を踏み荒らしたことを謝るべきではないか、と思った。
posted by ヤス at 15:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2016年10月29日

脳のコンディションをがわるい

スポーツを少しやっていると、日頃の体調の変化にそれなりに敏感になる。
特にマラソンなどの体力系のスポーツでは、身体の重い感じとか筋肉の疲労具合、心肺機能の仕上がり具合などを走るたびに感じるものである。
そういう「感じ」は、おそらくスポーツをやっていないと感じられないもので、それなりに身体に負荷をかけているからこその感じである。
そしてGPSや心拍計などの計測機器を装着していると、走行速度やその時の心拍データなどが明確にデータとして出て、なんとなく感じていた身体のコンディションが可視化され、数字として明示される。


同様に、脳みそに負荷のかかる作業をやった時、脳みそのコンディションというものをなんとなく感じる。
今日はよく頭が回転するなとか、ぜんぜんアイデアが浮かばんとか、おそらくコンディションの良し悪しの存在を予感させる状況があって、そんな時、走るのと同じように計測機器を付けて脳みその状況を数値化出来ればよいのに、と思ったりする。

話が少し逸れるが、iPhoneに「数独」のパズルが入っていて、ひまつぶしに時々やる。
今ひまつぶしにやる、と書いたけれど、時々これをやっていてひまが全然無くなるほどやっていることもあるのは内緒の話だ。
今入っているアプリでは、パズル完成までのタイムが出る。
ふと、このパズル完成までのタイムが、脳のコンディションの目安になりはしないか、と思った。
脳の状態が良い時は、難易度を上げてもパズルがスイスイ解けるし、逆に難易度をいちばん下げても全然数字の置き場が見えなくてドツボにはまる、そういう時がある。
これって、たまたまパズルが難しいだけなのか、それとも脳のコンディションが良くて「数字が見えている」のか、どちらなのだろう。

スマホのゲームではなくても、仕事上で文章を書く時なんかでも、スイスイ書ける時と全然筆が進まないときがあったりする。
これは脳のコンディションが影響しているのだろうか。
そこが非常に気になる。

脳みそにもコンディションがあって、これを整えることで脳の負荷的に重い作業を素早くこなすことが出来れば非常に好都合である。

ひとつ思うのはやはり栄養状態である。
たまにネットの記事なんかで見たりするけれど、人間は空腹状態の時がいちばん集中力が発揮できる、というのがある。
太古の昔マンモスを狩っていた頃は確かにそうだったのかもしれないが、こと脳みその作業をメインにする時は少し違うように思う。

全体重に対して2%程度の重量の脳が、消費エネルギーでは全体の2割を消費するほど脳は大メシ喰らいなのでやはりそれなりに食事を摂っていないといけないだろう。

というわけで、脳のコンディションを計る機械が何か出ないかなあ、と思う今日この頃であったりするのでした。
posted by ヤス at 15:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月28日

Apple Pay

やっとApple Payが始まった。
遅ればせながらクレジットカードを登録してスタンバイしたのだが、まだ使ってはいない。
最近はマクドナルドもセブンイレブンも電子マネーに対応しており、数年前に比べても電子マネー対応の店が急速に増えているように感じる。

ところが手持ちのカードを2枚ほど登録したのだがいずれもQUICKPayのカードで、マクドもセブンもiDなのでどうも具合がよろしくない。
3枚目にやっとiD対応のカードが出て来た。

電子マネーに複数の種類があるのは良いとして、店によって対応状況に差があると店ごとにカードを選ぶ手間がかかるのでやや不便だ。(まだ使ってないけれど)
電子マネーごとに囲い込み戦略とかあるのかもしれない。
しかし使う方にとって不便なのは問題だ。
理想はiPhoneをかざした時に機械で自動的にQUICKpayとかiDを振り分けしてくれることだ。
せっかくの電子マネーが、支払いのたびに画面を触ってカードを選ぶのではあまりスマートではない。
(ひょっとしたら、もうそういうサービスはあるのだろうか。たぶん無いと思うが)

まあだんだんサービスがこなれて行って、黙っていてもそのうちそういう手間も不要になっているだろう。

しかし日本におけるスマホの最大派閥であるiPhoneが電子マネーに対応したことで、今後はお店の方の電子マネー対応が急速に進んでいくものと思われる。
スマホの中にカード情報も内臓出来ることにより、将来はスマホさえ持っていれば現金もカードも持ち歩かなくて済むようになるのだろう。
たぶんあのプラスチックカードもそのうち希望者にのみ発行、やがては全部電子化されるのではないだろうか。

カードの場合は原則的にあのカード番号さえあれば支払いが可能なのであって、そもそも物体としてのプラスチックカードは不要だったと言える。
だからカード情報のスマホへの一元化でカードが無くなるのは、本来の姿に落ち着くということではないか。

そういう意味では現金が電子マネー化するのも本来の姿に帰ることのような気がする。

昔歴史の授業かなんかで、最初の紙幣はモンゴル人の作った元王朝が最初だったと聞いた憶えがある。
確かマルコポーロがそれをヨーロッパに紹介したのではなかったっけ。
それはともかくも、現金というのは本来、一定の価値の財との交換を保証する「信用」がその実態である。
それは紙幣でもコインでも石貨でもビットコインでも、一定の希少性のあるモノまたは偽造の困難なモノであれば何でもよく、または暗号のような情報でもかまうまい。
インフレ時代のソ連邦では輸入タバコのマルボロが貨幣代わりに重宝されていたという。

現金が福沢諭吉の肖像画を刷ってある四角い紙から電子化されて、物体としての実態を失ったとしても「信用」を表す記号性は不変である。
というか現金は電子化されることによってその発明以来やっと本来のカタチを取り戻すと言えるのではないか。

だからたぶんもうあと10年くらいしたら、紙幣も硬貨もめったに見ない珍しい物になっているのではないか、と、そんな気がする。



posted by ヤス at 15:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月27日

認定の意味について

先日過労死事件のあった電通が、数年前から働きやすい会社として厚生労働省の「認定」を受けていたのがニュースで流れている。
関西支社が2014年に労基署から違法な時間外労働で是正勧告を受けていたにも関わらず、電通は2015年に厚労省の「次世代育成支援対策推進法」の3回目の認定を受けていたらしい。

ニュースを目にして、この手の国家による「認定」にはどれほどの意味があるのだろう、と少し思った。

厚労省に限らず、経産省などでも個別の企業に対してある認定を与え、認定のある企業に各種の支援策を用意するスキームはかなり一般的である。
だから巷にはいろいろな「認定企業」が存在する。
わたしも時々、仕事の関係で「認定企業」に関わることが少なからずある。

多くの認定は、というかたぶんほぼすべての認定は書類審査によって行われる。
上記の厚労省の認定だと、過去に重大な法令違反がなく従業員の子育て支援に関する行動計画を策定・提出することによって認定判断が行われるらしい。

このような各種の「認定」には、それなりに一定の効果があるのだろう。
今回の電通の認定では、認定企業に対する支援策として割増償却による税制優遇措置があるという。
つまりいくらか税金が安く出来る、実利上のメリットもあったわけだ。
電通が税制優遇措置を使ったどうかは知らない。
しかし経済的なメリットがあるので、営利企業としては認定に向けた動機づけが働く。
そして認定のためには労働問題を回避せねばならず、結果として認定企業の労働環境がいくらか改善に向かう、そういうメカニズムが想像される。

今回、関西支社が労基署の勧告を受けていたにも関わらず電通が上記の認定を受けられたのは、勧告に対する改善状況が報告済みだったため、「重大な法令違反」には当たらないという判断になったのだという。


しかしいくらなんでも厚労省はのんびりし過ぎではないか。
このまま放置すれば、次世代なんとか認定はどんな企業でも大丈夫な「ざる認定」だと認めることにならないか。

電通という会社は巨大企業でたくさんの部署でたくさんの人間が働いている。
だからそれなりに健全な企業運営がなされていたとしても、ある一定の割合で深刻な労働問題が発生しうるのだ、という一般論的な考え方も出来なくはない。
今回の関西支社の問題やこの間の東京本社の過労死自殺は巨大組織におけるレアケースだから問題なし、という考え方もあるのかもしれない。

しかし巨大企業でも、組織のすみずみまで問題が無いこと、また長期間にわたって問題がないからこそ「認定企業」のありがたみが生じる、というものだろう。

こういう問題は他のたくさんの「認定」にも言えるケースがあるのではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 12:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月26日

生きている感じの造形

美人顔の条件の一つには「左右対称」がある。
逆に言うと、普通の人間の顔は左右がかなり違っているということだ。
人間の顔をじっくり観察すると、目の大きさや傾きが違うとか、ほうれい線やエクボの出方、ホクロや口角の上がり具合など実にいろんなところが左右で違っている。

「人型ロボット」の業界で「不気味の谷」というのがあって、ロボットをだんだん人間に似せていくと、かなり人間っぽくなってきたある段階で、やっぱり何かが本物の人間と違う感じになって不気味になる。
その原因は、ひとつにはきっちり左右対称の造形とか、そこかしこのラインの綺麗さとかが、生きている人間と違う感じを強く発しているのがある。

生き物としての人間の造形は左右の形も違うし細かい部分の造形、例えば鼻の穴の形が妙だとか、耳のサイズが顔の大きさとバランスしていなくてちょっと大きいとか、不完全な造形が集合してなんとなくまとまった感じになっているので不思議だ。
もしこれをいちいち大きさのバランスやラインの綺麗さを人工的に修正していくと、たぶん非常に不自然な人間が出来上がる。
時々、身体全体を1億円かけて整形手術しました、とかいう人がいるけれど、整形を繰り返した人物に感じる不自然さもその辺にあるのだろう。


これに類する話は自動車デザインなんかにも共通である。
部分部分の形を完璧に整えて出来上がった自動車デザインは、たぶん非常につまらない、印象に残らないデザインになる。
良い自動車デザインには、微妙なアンバランスが適当に配合されているように思う。
横から見たときのウエストラインが期待通りに後ろに伸びていくのではなく、途中で突然向きが変わったり、全体のプロポーションが微妙に寸詰りになっていたりするデザインは見る人の心にさざ波を立てる。
そのような造形の不完全さは、生き物の持つ造形と共通の何かがあるのだろう。
自動車だけではなく、いろいろなプロダクトデザインやグラフィックデザインには、造形の作り込みの中で微妙な崩し、あるいはハズしを入れ込むことによって、デザインが「生きている感じ」になるような気がするのである。

話は少し変わるけれど、たまに都会の超お洒落なカフェとかに迷い込んだりした時、何か非常に落ち着かない違和感に包まれることがある。
それは超お洒落なカフェと田舎のオジさんとのマッチングがそもそも成立していないところに最大の原因があるわけであるが、もうひとつついでに言ってみると、そのカフェがあまりにお洒落過ぎる、というのもあるのではないか。
完璧に作り込まれたお洒落空間に、少し気張りすぎではないか、というお洒落なお客さんの取り合わせは、前述の話で言う有機的な「生き物の感じ」があまりないような気がする。

もうちょっとお洒落でないハズしの要素を空間に入れ込んでみたら田舎のオジさんとしても少し落ち着くのではないか、と数日前に思ったりしたのである。
だがまあ大きなお世話だろうからここで思うだけで以降は心に納めておく、そういうことにする。


posted by ヤス at 14:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月25日

見えない自分を見る

最近「メタ認知」なるものについてよく考えるようになった。
メタ認知とは、「認知を認知すること」である。
「メタ」はギリシャ語起源で「超」というような意味合いであるらしい。
だからメタ認知は「超・認知」と書き換えることが出来るのかもしれない。

一般に、人間が何かを認知している瞬間、その認知している自分を客観的に認識することはあまりない。
例えば自動車の運転は、初心者時代はすべてがおっかなびっくりびっくりで、ハンドルやブレーキ・アクセル操作などをいちいち意識して動作しないといけないので非常に疲れる。
運転に慣れてしまうと、やがてそれらの操作はだんだん無意識化していき、全然別のことを考えながらでもスムーズに運転出来るようになる。

または普通に美味しい食事を食べている時、特に脇でスマホをいじくったりしていれば、無意識で咀嚼し飲み込んで、よく味も分からないままだったりする。
これが2万円のコースのフランス料理とかだったら、ぐっと意識を料理に集中して、その味や食感を細大漏らさず味わって元を取ろうと努力するだろう。

テレビの番組でタレントの武井壮が、椅子に座ったりコップを手に持ったりする時に、無意識に動作しないで身体の細かい動きに集中して意識する、そうすることによって身体操作の機能が研ぎ澄まされる、というような話をしていた。

試しに普通に街を歩いている時、骨盤の動きや手の振り、重心が踵よりか爪先よりか、ハムストリングの力の入れ方など、身体の隅々に意識を巡らせることによって無意識に歩くのとは少し違った感じになる。
それは、ぎこちないと言えば多少ぎこちない感じだ。
でも、日頃あまり意識しない「歩き方」に意識を時々向けていると、無意識時の歩き方もだんだん洗練されて疲れないスムーズな歩き方が手に入るような気がしている。

結局のところ、日頃無意識にこなしてしまう数々の動作を多少意識的にコントロールするようにすることで、無駄や無理が省かれていくのではないか。
無意識に自動車を運転していたのをハンドルの握り方やアクセルの踏み方に集中してみる、吉野家の牛丼を食う時にも、玉ねぎの噛み応えやツユの塩加減に注意を向けてみる、そういうようなことで運転が上手くなったり食事の味に敏感になったりするだろう。

おそらくある分野のプロフェッショナルというのは、その分野に関して人一倍集中してメタ認知している人のことを言うのだろう。
一流の大工が木材にカンナがけする時とか、指先で感じる振動や木屑が削れる音の具合、あるいは削れた断面が発する微かな匂いなども敏感にキャッチして最高のカンナがけをしているのではないか。
というのは素人の勝手な想像であるが。

人間というのは自分のことはなかなか見えない。
というか、自分で見ることの出来る自分は内側から見える自分だけで、他人視点からの自分は自分では絶対に見えない。

そういう絶対的に見えない自分が存在することをメタ認知することも重要なことである、などと考えているうちに、なんだかよく分からなくなってきたので今日はここでおしまい。



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2016年10月24日

キャバクラで思うこと

わたしは過去に3回くらい、いわゆる「キャバクラ」というのに行ったことがある。
いや、4回だったかもしれない。
いちおう念のために言い添えておくと、いずれも一緒に飲んでいた知人に無理やり連行されたもであり、自ら喜び勇んで行ったものではない。

というのも、どうもキャバクラっていうところはわたしにとっては困った空間なのである。
自称、21歳とか22歳とかいう、ヘアースタイルを多少盛った女の子が横に座ってビールとか注いでくれる。
しかしそういう状況でその女の子に話す話題の持ち合わせが無い。
テレビが無いのでそっち方面の話でごまかすこともままならない。
じゃあと思い切ってスケベ話で盛り上げようかとするが、返ってくるのは微妙な感じの苦笑いばかり。
そのうちだんだん心が折れて来て、こっちも終始苦笑いの感じになって静かな時間が訪れる。
しばらくするといつの間にか別の子が隣に居たりするわけであるが、たぶんあの空間は、人見知りのわたしにとっては永遠の鬼門である。

よく考えると高いカネ払ってなんでこうまでこっちが気を遣わないといけないのかと疑問が浮かぶ。
しかしあたりを見回すと、どの客も熱心に年端もいかない女の子相手に嬉しそうに熱弁を振るっている。
この世界ではカネを払っている側が店のスタッフに対して全身全霊を傾けて気を遣うことに一定の経済合理性が成立している。

これは宝くじを買うことに似ている。
「ひょっとしたら当たるかも」という一縷の望みを得ることに、8千円だか1万円だかのコストは費やされる。
たいていの場合、それは己の下心に多少の刺激を与えるだけのことに終わるのであろうが、その利得と投入コストはいちおうバランスしているようである。


それで少し思ったのだが、こういうお客の方が店員に過度に気を遣うというのは、ほかのいろんなお店でももっとあっても良いのではないか。
最近は人手不足でどの店もたいへんなわけであるが、そんな中でたまに一部の横柄な客がいて、乱暴な言葉や態度を吐いたりする。
そんな時、対人経験も少ない若い店員とかだと大きなストレスを感じるだろう。
実際若い店員のストレスがかなり大きいというのを直接間接に聞いたりすることがあって、そういう時、一部の横柄な客に立腹を覚えることがある。

どうも日本の場合、お客と店員の関係性が必要以上に客優位に傾き過ぎなのではないか。
それはお客を大切にする商売の側の基本姿勢に一因があるのかもしれないが、それは非難されるべきではない、むしろ誇るべきものだろう。

やはりお客の側の、カネ払ってるんだからしっかり元を取らなきゃというビンボー根性というのか、自分たちお客は店員より偉いという、一部の層の思想に問題がある。

客と店員は対等で、お金とサービスをやりとりしてお互いそれを最大化しようとするのがよいサービス交換のあり方だろうと思う。

お客の方はいくらか店員に気を遣うことによってよりよいサービスが返って来るかもしれないのだから、そういう風潮がもっと根付くといいのではないか、と思ったりした。

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2016年10月23日

ボブ・ディランのノーベル賞について

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、その後連絡が取れないのがニュースになっている。
ついに選考委員の一人がスウェーデン公共放送のインタビューでディランの態度を批判したらしい。
しかしこの委員の批判のニュースには、多くの人がおやっ、と思ったのではないか。
ノーベル賞の選考委員は全部で18人いるというのも今回のニュースで初めて知ったのだが、この18人がボブ・ディランを選んだのは、別に本人に頼まれたからではなかろう。
ディランの意思とは関係なしに委員たちが勝手に選んだわけで、それを無視されて無礼だというのは、そっちの方が大人げない。

ボブ・ディランという人のことを実はあまりよく知らないのだが、巷のニュースでは反権威主義の人、というような情報が流れている。
そう言えば随分昔に、わたしもディランのアルバムCDを1枚だけ買った憶えがある。

あまり売れなかったアルバムらしいが、まあまあ気に入ってしばらくBGMにして聞いていた。
しかし歌詞は当然英語であり、日本語ネイティブのわたしとしてはその内容にまで踏み込んで考えたことはなかった。

さて、ウィキペディア等の情報を見るとボブ・ディランはノーベル賞以前に多数の賞を受けている。
グラミー賞やアカデミー賞、アメリカ大統領自由勲章にレジオンドヌール勲章などなどその数ざっと20個くらいである。
それらの賞をディランがどういう顔して受賞したのか、見ていないので分からないが、それらの賞を受けておいてノーベル賞だけ無視を決め込むというのもやや不可解な話である。

ノーベル賞はダイナマイトの特許益が原資なので、反戦の闘志としては受賞出来ないということなのだろうか。
でもその割には、世界各地で軍事活動を行なっているアメリカやフランスの勲章は大丈夫というのでは矛盾している気がする。


これは勝手な想像であるが、今回のノーベル賞無視騒動は、ディランなりの表現であり、思想の表明なのではないか。
彼は既存の権威を疑う人であり、世の常識に囚われないことを標榜する人なのであろうと思うわけであるが、そのような思想をわたしのような非英語圏の人間に届けるには英語の歌では限界がある。

その点ノーベル賞を無視して、世界の人々やノーベル賞主催者自身が囚われつつあった「ノーベル賞の権威を過度にありがたがる風潮」を破壊して見せることは、なんか、ディランらしい表現活動のような気がする。

ここでノーベル賞主催者が粋な返歌を返すことが出来ると、今回の騒動はたいへんいいお話としてまとまるんじゃないかと勝手に思うのだが、さて事の真相はどうなのだろう。

posted by ヤス at 08:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月22日

働く服装について

10月になるが暑いのでなかなか衣替え出来ない。
だからノーネクタイのワイシャツスタイルで仕事に臨んでいる。
少し前までなら、暑かろうが寒かろうがある時期が来たら問答無用で衣替えしてネクタイと上着を装着しなければ、という感じだった。

だがクールビズが普及してだいぶ慣れて来たからだろうか、だんだんノーネクタイの方が楽チンで普通のような気分が強くなっている。
そもそもホワイトカラーはスーツにネクタイ、というルールはいつの間に決まったのだろう。
よく考えたらこのお約束にはほとんど本質的な意味はないようにも思われる。
だから内緒の話であるが、わたしの場合、普段はたいていジャージにTシャツである。
客先に行く時だけ、お客さんをあまり驚かせないためにわざわざアイロンがけしたワイシャツを着て、気分によってはネクタイを締めて行く。

しかし最近は、Tシャツ姿がトレードマークのホリエモンとかいつも同じ黒のタートルネックを着ていたスティーブ・ジョブズとか、ラフな格好のビジネスマンの有名な例が増えているようだ。
特にIT系企業なんかは服装はかなり自由な感じになっている。
この調子で行くとあと数年後には、普通の銀行員とかもTシャツで出勤するようになるのではないか。
わたし自身も20数年前広告業界にいた時は、いつもヨレヨレのTシャツとかトレーナーで働いていた、という実績がある。
Tシャツはネクタイ姿より圧倒的に楽チンで、出張に行く時とかもシワを気にせずに済むので好都合だ。
機能性に絞って考えると、スーツにネクタイは、実はかなり分が悪い。

だいたい、人類が服を着るようになった最大のキッカケは、アフリカからユーラシア大陸に進出した時の、寒冷地適応のためである。
もともと人類はサバンナで裸がデフォルトだったのが、温帯や寒冷地で服を着るのがいつの間にかスタンダードになった。

服の機能は、最初は寒冷地適応のためだけに着ていたのからだんだん変化して、偉い人はキラキラの立派な服を着るとか、お医者さんは白衣、坊さんは衣に袈裟とか、権力や職業、所属を表す記号性を帯びるようになった。

これは孔雀が立派な羽根を広げたり、ライオンのオスがタテガミを生やしたりしているのと似ている。

動物における見た目の立派さは、たぶんそれを見せられた側が本能的に受け止めるので、性的誘引や外敵への威嚇に思いの外役に立つことだろう。

人間の見た目も本能に訴える点ではそれなりの威力があるような気がするが、まあライオンでも人類でも見た目の効果にはある種のハッタリが多分に含まれていことは間違いない。

最近ビジネスマンの服装が多少自由化しているのは、人類が少し賢くなって、ようやっとハッタリの虚飾に気づき始めた、ということなのかもしれない、と思ったりした。
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2016年10月21日

ヒゲ剃りについて

昨日、乾電池式の電気シェーバーを買った。
昼間、ちょっと無精ひげが気になって、ちょうど目の前に電気屋があって、何か予感めいたものが働いて電気屋のシェーバーコーナーに向かったのである。

そうしたら、500円くらいのから3万円以上までいろいろ並んでいる。

わたくしごとではあるが、わたしはひげそりでもう何年も電気シェーバーを使っていない。
朝、T字型のカミソリでひげを剃る。
どういうきっかけでそうなったかは忘れたが、もっと昔は電気で剃っていた記憶がある。

結局2400円くらいの、電池式で水洗いOKで重量120グラムのものを買うことにした。
値段が思いのほか安く、デザインと機能性が上手く作り込まれているのに少なからず感動したことが、購入を後押ししたのである。

と言うのは少し大げさだったかもしれない。

しかし今更ながらあえて言うが、電気シェーバーはなかなか便利である。
街中を歩きながらでもひげが剃れる。
すれ違う人から時々、変な視線を感じなくもないが、気にしなければなんということはない。

T字カミソリだと、顔に石鹸を付けたり剃り終わった後でまた水で洗い流したり、いろいろと面倒がある。
しかし電気シェーバーでは、スイッチを入れて剃って終わり。

しかも全ての動作が片手で完結するのもよい。
今では当たり前で特に感動することもない電気シェーバーであるが、おそらく最初に製品化した人はその便利さにおおいに満足したことだろう。

ネットで調べると、最初の電気シェーバーは1920年頃に退役軍人のシック氏が作ったらしい。
当時アラスカで鉱山堀をしていて、厳寒下ではカミソリでひげ剃りが困難だったのが開発のきっかけであったという。
なんでもマシンガンの装填機構をヒントに構造を考えたというから物騒な話だ。
やがて製品化がなされ1930年頃に販売が始まり、価格もこなれてよく売れたらしい。
この時の製品は現在の物とほぼ同じ構造で、当時すでに完成形に至っていた。
1930年代後半には続々と新規参入があり、その中にはシェーバーや、ヨーロッパのフィリップ、ジレットなどもいたという。
だから「電気シェーバー」の「シェーバー」は、固有名称であった。

長らく「電気ひげ剃り」を使っていなかったせいであまり関心が無かったが、電気屋の売り場には恐ろしいくらいたくさんの製品が並んでいる。
普通、大人の男子はみんなヒゲが伸びる。
だから電気式にせよカミソリにせよ、膨大な需要が生じていることは間違いない。

そんな当たり前のことに、今更ながら気付いたのであった。

ちなみに普通の男子ではヒゲは毎日0.4mm伸び、朝6時から10時の間がいちばん伸びるらしい。

まあどうでもいいような話ではあるが、そういうことである。
posted by ヤス at 11:18| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月20日

温暖化問題

10月なのに暑い。
今日の最高気温は27〜8度になるらしい。
気象庁のデータを見るとこの時期の平年気温はせいぜい21度程度である。
平年より最高気温が6〜7度も高いって、いくらなんでも暑過ぎないか。
ただし、ニュースによると北海道は強い寒気に覆われ、場所によっては雪が降るのだという。

日本列島は広い。

それにしてもこの暑さは「正常なバラツキの範囲」と言えるのかどうかなんだか心配だ。

少し調べてみると、世界の最近百年間の気温上昇はデータ的にかなり明確である。
1971年から2000年までの30年間の平均気温を平年値として過去の気温と比較すると、百年前の1910年頃は平年値より0.7度くらい低かったらしい。
さらに、日本のデータを見ると百年前は平年値比で1度以上低かったようである。

世界の気温はこの百年でかなり上昇し、日本の上昇ぶりはさらに大きい。

地球の気温はおよそ十万年くらいのスパンで氷河期と間氷期を繰り返し、だいたい5〜6度の幅で気温が上がったり下がったりするそうだ。
このサイクルでは百年あたりの気温変化はせいぜい0.006度くらいにしかならない。
この百年間の気温変化は、氷河期サイクルの百倍のスピードであって、地球の気象史上おそらく例のない事態であることは間違いないようである。

しかも気温上昇は1990年以降さらに加速しているという。
この調子だと次の百年間は直近百年の十倍のスピードで、つまり地球の過去の自然な気温変化からは千倍のスピードで気温上昇が進行すると予想されている。

で、過去の気温上昇の曲線と、二酸化炭素の排出量の増加曲線が一致している。
温暖化問題の二酸化炭素原因説はここから出ているのだろう。
温暖化と二酸化炭素は実は関係ないのでは、という説は根強くあるが、しかしこうも気温上昇が急激になっていると「疑わしきは罰する」ということにならざるを得まい。

しかし目に見えない二酸化炭素が相手だけに、対策が必要十分に進んでいるようにも感じられない。
まあ自動車の燃費なんかは昔よりかなりよくなっているようではあるが、今のままだとまだしばらく気温上昇は進行していくのだろう。

今、暑さのせいで野菜の高騰がたいへんだが、あと十年くらいしたら、野菜は冷房付きの部屋の中で作らないといけなくなっているかもしれない。

個人的にも、なるだけ少ない酸素で生きていけるよう修練して二酸化炭素排出量を減らそうかと思っている今日このごろである。

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2016年10月19日

ハロゥインについて

コンビニに行ってふと棚のヨコを見ると、クリスマスケーキの予約のポスターが貼ってある。
そしてその隣の方には、おせちのポスターもある。

クリスマスケーキのポスターはたぶん10月に入ってすぐくらいに貼られていたと思う。
まだハロウィンも終わっていないのに、ほんとうにせわしない。

日本におけるハロウィンは最近ようやっと人々に認知されるようになったとは言うものの、クリスマスなどと違って、おそらくコンビニなどにとってあまり売上につながらないのだろう。
コンビニの店内ではいちおう、オレンジ色のかぼちゃのお化けの人形をディスプレイしたヨコにお菓子類やグッズが並び、目一杯ハロウィンの感じを醸し出そうと努力はしている。

しかしいかんせん、こちとらハロウィンの日に、何かのイベントをとり行ったという子供時代の記憶が無い。
アメリカ辺りでは、子供が近所の家をまわってお菓子をおねだりするそうだが、少なくともわたしの近所にそういう子供が出没したということは、今に至るまで皆無である。

日本でも東京などの大都会では、いろんなお店がハロウィンの日に「仮装して来店したら何割引き」とかのイベントをやったりして、それで局所的に、ゾンビの仮装の若者が原宿周辺で地下鉄の車両を占拠する、ということもあるらしい。

このようにあまり身近な感じのしないハロウィンであるが、その経済効果はネットで少し調べたところ、1200億円以上になっているという。
バレンタインデーが1000億円くらいだということで、経済効果的にハロウィンはバレンタインデーをやや超えるイベントになったということになる。
しかも2010年には380億円だったそうで、この数年で急速に拡大しているそうだ。
ちなみにクリスマスは6700億円くらいでダントツに大きい。


しかし、である、
田舎のおじさんとしては、もうあと数日経って10月31日が来たからといって、決して何かがあるわけではないだろう。
いや、2月14日や12月24日も、特に何事もないのだけれど、たぶん10月31日はそれ以上に何事もないと思われる。
誰かがハロウィンを祝ってお菓子を分け合ったとか、仮装して街に繰り出したとかいうことも、すくなくともわたしの周辺ではあまり聞かない。

思うにハロウィンとは、都会の若者、中でもアニメオタクでコスプレが好きとか、これを楽しむ国民階層はかなり限られるのではないかという気がする。
まあセブンイレブンやお菓子メーカーが、なんとかもう一段ハロウィンを盛り上げようとさまざま画策しているのであろうが、なんだかかなり難しそうだ。

ただ、地方で従来開催されてきた「秋祭り」が、だんだん衰退して中止になるのも多いということなので、その代替のお祭りとして仮装パレードをメインにハロウィンを楽しむ、というようなことは今後増えるかもしれないとネットに出ていた。

しかしその場合もハロウィンはなにせ月末なので、地元の信用金庫とかは忙しくてあまり人手は出せないのではないか、と無駄に心配してみるのであった。
posted by ヤス at 14:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月18日

人類の定住生活について

人類の定住問題について考えている。
昨日は敬語というものが、定住化した人類をさらに固定化した江戸時代に出来上がったのではないかと想像した。

人類は定住、つまり決まった場所に長期に渡ってすみかを作って住む生き物である。
ベドウィンや中央アジアの遊牧民など、いくらか移動生活をしている人たちも居るには居る。
しかし人類の大半は決まった場所に住んでいる。

考古学的にはやはり農耕の始まった1万年前くらいから、定住の証拠が見つかっているらしい。
「定住」の住居跡と移動生活の痕跡の違いはどうかというと、ゴミや排泄物の処理に顕著に表れるという。
定住生活ではゴミや排泄物は専用の処理スペースが設けられて生活空間を清潔に保つ努力の跡が見られる。
一方古い移動生活の痕跡では、焚き火跡の周辺にゴミが散乱して汚れていたりする。
定住生活の以前には、どうせすぐに移動するので、食べかすなどはその辺にポイポイ捨てていたものらしい。

決まった場所に長く住むには、衛生管理は重要である。
日本でも、8世紀に藤原京から平城京への遷都が行われているが、理由のひとつとして排水設備のキャパシティーオーバーによる衛生状態の悪化が古文書の記録に残っているという。

この点、日本人は一般にきれい好きだと言われているけれど、これは世界中の国々と比べた時に、人々の生活拠点の固定化が相当に進んだ結果だったのではないかと、と思ったりする。
実際、20数年前に中国に旅行した時にびっくりしたのだが、汽車に乗った時、人々がスナック菓子代わりに食べているヒマワリの種の殻を食べる端から床にぺっぺと捨てていた。
2〜3時間もすると床中ヒマワリの種殻で埋め尽くされ、それを定期的に掃除のおばさんが大きなほうきで掃除していく。

中国は共産党政権化、人民の移動の自由を制限して来たはずであるが、わたしが見た人々の血脈には遊牧民の血が色濃く流れていたのだろうか。

余談はともかく。


1万年ほど前に、多くの人類が定住というライフスタイルを選択した結果、定住以前の人類とは別の種類の生き物のように、生活様式がいろいろ変わったものと想像する。
定住生活では、お隣さんは当分の間お隣さんでいる。
移動生活では、頻繁にお隣さんが入れ替わることだろうが、定住生活では四六時中顔を合わす。
中には相性の悪いお隣さんもいるだろう。
その場合でも、定住のライフスタイルではなかなか気軽にお隣さんをチェンジするというわけにはいかない。
ましてや移動制限の厳しい江戸時代においてはなおさらである。

そういう、気軽に移動出来ない中で気の合わないお隣さんと上手く付き合うためには、愛想笑いでごまかしたりしてお互い空気を読んでいないと気まずい。
日本社会の過度に空気を読む感じは、その辺に由来しているのではないか。

逆に言うと、引っ越し、転校、転職など「別の場所」への移動が最近は気軽に出来るわけであるから、必要以上に空気を読む努力は必要ないんじゃないかという気がする。

あるいはブラック企業の被害者の方々なんかは、会社を自由に移動出来ることの可能性が見えなくなってしまっているところに問題があるのではなかろうか。

我々人類は、そもそも類人猿の時代から何百万年もさすらいの移動生活を続けてきて、定住生活の経験はたかだか1万年かそこらなので、まだまだ定住生活初心者ということなのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 14:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月17日

敬語の不思議

敬語は難しい。
目下の人間は「ご苦労様」を上の人間に使ってはいけないらしい。
さらに厳密に言うと、一昔前までは「お疲れ様」も目上の人に使う言葉ではなかったという。
ねぎらいの言葉は目上から目下に、というのが基本だったので、「ご苦労様」「お疲れ様」はもっぱら目上の人間の占有物であったという。

しかしいつの頃からか日本社会も階層の平等化がいくらか進んで、目下の人間がわりかし気軽に目上の人をねぎらえるようになった。
ただ個人的には「ご苦労」と「お疲れ」の使い分けの根拠が今ひとつ分からない。
考えられるのは「お疲れ」の方がより口語的でくだけた表現なので目下の人間が使うにふさわしい、ということなのかもしれない。
ただそれだと逆に硬い表現の「ご苦労」の方がかしこまっていていいのではないか、という疑問も湧く。

あと、「了解しました」「承知しました」も同様である。
一般には「承知しました」の方が目下の人間が使うべき言葉とされる。
だからお店やさんなんかでは店員さんはほとんど「承知しました」を言うように教育されている。
間違って「了解しました」や「分かりました」と言っていると、マナーに厳しい会社では教育的指導が入ることだろう。
しかし「了解」と「承知」では意味の違いはかなり明確だと思う。
「了解」は、「理屈を理解する」ことであるのに対し、「承知」は「事情を知って承ること」になる。
つまり「了解」は理屈を理解した上で承るのに対し、「承知」は、理屈はどうあれ承る。

理不尽でも承る「承知」には、ちょっとだけ絶対服従の香りが付いている。
その意味で目下の人間が使うにふさわしい、と言えるだろう。


わたしの個人的な想像だが、今日に至る敬語システムの土台は、江戸時代に定式化されたものだろうと思う。
江戸時代というのは、その前の戦国乱世の反省に立ち、なるべく下剋上や国境侵犯が発生しない安定した社会秩序を目指す時代だっと思われる。
特にどこかの藩が勝手に隣の藩域を侵したりしないよう、徳川幕府は各藩に対する監視の目を光らせ、人々の移動の自由を制限し、結果、極限的な「定住社会」が実現した。
多くの人々は生まれた村や町で一生を終える。
役人の登用も実力より家系が重視されて実力主義による波乱が出来るだけ起きないようになる。
そのために幕府や各藩の組織にはアホな上司の割合が増加し、理不尽を感じる部下も増えたことだろう。

そのままでは部下は上司を小馬鹿にし、組織秩序が乱れる。
対策として、部下は上司を無条件に崇拝する、あるいは年長者は理屈抜きで偉い、という基本思想を定着させねばならない。
そのツールのひとつとして敬語は発達したのだろうと想像する。

考えてみると1867年の明治維新からまだ150年ほどしか経っていない。
250年以上かけて作りまれた江戸時代の社会思想のベースは、それが新しくなるにはもうあと100年くらい必要なのかもしれない。

あと100年経った時に日本の敬語がどう変化しているのか、想像するとかなり興味深い、と思った。
posted by ヤス at 11:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月16日

脳みそのエネルギー問題

人間の「思い込み」というのは思いのほか強い。
最近、ガンの診断をする人工知能の話題が流れていたけれど、人間の医者の場合、今までの経験や業界の常識が先入観となって、見つかるはずのガン細胞が見つからなかったりするのかもしれない。
その点人工知能には先入観というものがない。
人工知能のガン診断は10分くらいで出来るそうで、そのスピードも凄いと思うが本当の凄さは人間と違って先入観無しに「透明な心」で診断出来るところではないかと思う。

天文学の歴史でも、アリストテレス以来長らく「天動説」が信じられてきたわけで、地球が固定で太陽や他の惑星がその周りを回っているのが常識になっていた。
それが各種の天文観測データの客観的な分析から「地動説」の方が理屈に合うということがだんだん分かってきたにも関わらず、「地球が動くはずがない」先入観によって地動説は相当長いこと封印されてきた。
地動説の件で宗教裁判にかけられたガリレオは、しぶしぶ天動説に宗旨変えしてなお「それでも地球は動く」とつぶやいたそうだが、先入観がもたらす「暗黒面」は勢い余って人間ひとり火あぶりにしかねないほどの強さを持つようである。


人間がなんでこんなにも先入観が強いのかというと、ひとつ考えられるのは人間の脳みそはおそろしくエネルギーを消費するので、なるべく考える手間を省略して消費エネルギーを節約しようという生物学的な生存戦略、ということがある。
実際同じような体格のチンパンジーと人間とでは、人間の方が筋力レベルがかなり低いらしい。
それは筋力によるエネルギー消費を節約して脳みそに回す、それによって大容量の脳みそが維持出来る、ということらしい。

ここで何気に疑問に思うことがある。
人間の脳みそにある神経細胞はおよそ140億個あるとかいう。
で、そのうち実際に使われているのは3%程度だという。
なぜ大半使われていないにも関わらず、脳の神経細胞は140億個もあるのか。
もっと少ない方が省エネになるんじゃないか。

実際には使われていない細胞は本当に使われていないわけではなく、「静かに働いている」ようであるというのが最近分かってきたらしい。
だからこそ、人間の脳は大量のエネルギーを消費するということなのだろう。

逆に言うと、人間の「脳の限界」はエネルギー消費問題が最大のボトルネックになっている。

人工知能には先入観がない、というのは、人工知能は外部電源からエネルギーをいくらでも供給出来るので、先入観の方式を導入して省エネに励む必要がない。

ということは、人間も身体の外部から脳みそに直接「コンセント」を差し込んでエネルギーを供給してやれば、もっとがんがん脳みそが働くようになるのではないか。

考えてみると数万年前の原始時代に比べると人間の食生活は豊かになっているので、その分脳みその働きもだいぶん活性化しているに違いない。
あるいはそのうち脳みそに直接的にエネルギーを投与する新しいタイプの食品が登場して、それを食べると頭の働きがキレキレに良くなる、ということになるのかもしれない。

posted by ヤス at 14:16| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月15日

ネット通販について

Amazonのサイトを見ていると、「レコメンド」機能で「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というのが出てくる。
あるいは、なんとなく商品を閲覧した翌日に、昨日見た商品と関連商品の案内がメールで送られて来たりする。
で、Amazonの場合Kindleだと、ポチッと「1-Clickで今すぐ買う」ボタンを押すと数十秒後には買った本を読み始める事が出来る。
だからレコメンドで提案される本で、これはちょっと面白そうだというのがあると、ついついポチッと押してしまう。

大昔、まだネットでモノを買う以前の時代には無かった本の買い方だ。
本だけではなくて、家電製品なんかもこの7〜8年くらいで買い方がずいぶん変わった。


少しググってみると、ネット通販の市場規模が出ている。
経済産業省の調査によると、2015年のネット通販の市場規模は13兆8千億円とのこと。
前年の2014年が12兆8千億円なので前年比7.6%の伸び、5年前2010年が7兆8千億円なのでこの5年間で7割ほど伸びたらしい。
Amazonだけ取って見ても、2015年の日本国内における売上高は8,264百万ドル、日本円でおよそ1兆円弱の規模になっている。

ネット通販は、この成長ペースを維持すると2020年には20兆円を突破しそうだ。
日本の小売業全体の規模は140兆円くらいなので、4年後にネット通販が14%くらいになる計算だ。

わたし個人についてのネット通販比率はどうかと考えてみた。
書籍、PCソフトあるいはPC本体、カメラや家電製品、パンツなどの下着類などなど、このところいろんなものをネット通販で買っている。
一方でリアル店舗の買い物は、スーパーマーケットで食料品を買う以外にあまり買い物の記憶がない。

個人的なネット通販比率は少なくとも、金額ベースでざっと半分以上にはなっているのではないだろうか。

こんなネット通販であるがもちろん弱点もあると感じる。
特に感じるのは「配達」だ。
家まで配達してくれるのはいいのだが、配達予想時間にじっと待っていることのプレッシャーは予想外に大きい。
だから最近はもっぱら「コンビニ受取」を使う。

そう言えば数日前にAmazonが日本国内でコンビニ業に進出か、というニュースが流れていた。
その逆の話として、少し前からセブン&アイホールディングスは「オムニチャネル」でネット通販に力を入れ始めている。

ネット通販の品揃では今のところ圧倒的にAmazon有利と見える。
Amazonがコンビニ進出するとしたらどこかのチェーンを買収することになるのだろう。
もしそれが実現したら他の国内小売業にはかなり脅威だと思う。
逆にセブンの方は、圧倒的ナンバーワンのコンビニ網は大きな武器だが、イトーヨーカドーや百貨店などの巨大リアル店舗を展開していて、単純にネットに注力すると共食いになりかねない。

セブンとしては古い店舗資産と新しい売り方の折り合いを今後どうするのか興味深いところだ。
たぶん後10年もすれば小売の世界はまたさらに進化しているのだろう。
長く生きていると面白いものが見れそうなのでがんばって長生きしようと思った。
posted by ヤス at 16:27| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月14日

分からないスマホ実質0円規制

あいかわらず、総務省と携帯会社の間で「携帯ゼロ円販売是正」をめぐるいたちごっこが続いている。
この問題は、今ひとつ分かりにくい。

総務省としては携帯代金を安くするのが狙いだという。
携帯機種代金をゼロ円にする原資は、通信料金から出ていっている。
だから機種代金の過度の値引きを止めさせて、その分通信料金を引き下げさせようという話であると、いろんなニュースは伝えている。
そしてその「携帯機種代金の値引き」の多くの部分が、日本の場合はiPhoneによって吸い上げられている。

理屈をこねるならば、携帯会社が値引き原資を機種変更に投下するか通信費に投下するかは、客の側から見るとどっちでも負担額は同じになる。
ただ機種変更の期間を伸ばして、今まで2年で替えていたのを3年使うと話は変わってくるだろう。
現在の料金システムでは、携帯会社は客が機種代金の支払を終わってもう1年使い続けると、機種代金の値引きサービスが無くなるのでそっちの利益が増える。
値引きサービスを考えると、そろばん上は機種販売代金の利益は無い。

だからドコモなどの携帯会社は、今の料金システムを維持出来るのなら本当は携帯電話販売をやらない方が儲かるはずだと思う。
でも各社とも機種変更にはたいへん力を入れており、実質ゼロ円販売は無くならない。
それってなぜなのだろう。

ちょっと考えてみたが何かずばりとした理由が思い当たらない。

ひとつ思うのは、当初はiPhoneをソフトバンクが独占販売していて、それで他社から顧客をごっそり引き抜いたという時代があったわけだが、それに対抗するかたちでドコモとKDDIもiPhone販売に追随した。
最新機への機種変は、他社乗り換えの重要ポイントなので結果的に各社はこのポイントで手を緩めることが出来ないというのが考えられる。

なんだか冷戦時代の米ソの核兵器による均衡みたいな話だ。

実際問題、iPhoneの販売は世界中で停滞しつつあり日本だけが対前年比でプラスの販売実績になっているそうだ。
通信料金を原資とした携帯の値引き販売は、「最新ガジェット好き」という日本マーケットの特殊性が産んだものではないか、という疑問も湧く。

個人的な想像としては、日本の多くのスマホユーザーは、新しいiPhoneがかなり好きな気がする。
だから通信料金が安くなって、その代わりに機種変代金が高くなるのは世論的には逆風ではないか。
総務省の目論見通りに、トータルでのスマホ代金が安くなれば世論的にはうれしいだろうが。

だから本当は総務省としては、まどろっこしいことを言わずにスマホ代金は「○○円」以下にしろ、と「行政指導」すべきなのであろう。
あるいはiPhoneの販売優遇策を規制すべきかもしれない。

でも行政が私企業の販売施策に過度に介入するような指導は当然ながら出来ない。

だから機種代金の実質ゼロ円を槍玉に挙げて、「不透明な価格体系」を盾に指導するのが関の山なのだろう。

つまりこの行政指導は、国民世論の人気を取るためのただのポーズなのではないか。
というのが今のところのこの問題に関するわたしの結論、ということにしておく。
posted by ヤス at 16:17| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月13日

光回線乗り換えの補償

うちのインターネットはKDDIの光回線が入っているのだが、このほど懸案となっていたソフトバンク回線への切り替えをすることを決断した。

きっかけはiPhone7に機種変した時にショップの人に案内されたからである。
通信大手3社では、各家庭の固定回線・無線回線などの各種契約をすべて自社でまとめることに熱心だ。
すべてまとめることによって家族割などの優遇措置も拡大されるように契約内容を設計している。

だから機種変時とかNMP契約時とか、ショップで対応した時にいちいちそのお客さんの通信契約を洗い出して、他社のサービスを利用していたら自社に切り替えるよう誘導する。
対応するショップスタッフが必ずその声掛けをするお約束なのだ。
これはソフトバンクに限らず、各社そういう基本習性が出来上がっているようである。

しかし、我が家のKDDI光回線は契約から1年3ヶ月しか経過していない。
しかも1年継続を条件とするキャッシュバックキャンペーンを利用して、初年度の月額料金が確か実質500円未満になっていた。
その代わり、たぶん2年以内に解約すると違約金が発生するとかいうことになるのだと思う。

いや、2年縛りなのかどうか今もってよく把握出来ていないのだが、とにかくKDDIのサイトの現状での違約金額の表示を見ると、接続機器回収代金1万円と合わせて合計4万5千円を解約時に払わないといけないらしい。

しかしである。
ソフトバンク側は他社の光回線「乗っ取り」にあたり、発生する違約金・解約金を補償する軍資金として最大10万円まで出します、と言う。

ソフトバンクの光回線は月額6,156円らしいが、12ヶ月で計算しても73,872円のお客に最大10万円(今回の場合は4万5千円)を出して、なおかつ光回線と携帯代のセット値引き月額▲1,522円、年額にして▲18,264円も付けるつもりらしい。


話はやや変わる。
例えば巷の飲食店などが折込チラシを頒布する。
それで今まで利用したことのなかった新規客が店にやって来る。
折込チラシには、通常は既存客の方が多く反応するが、反応するお客の中には少数ながら新規客も混じっている。
これで新規客が来ないと折込チラシの意味がないが。

で、若干の推定も入ったりするが、経験によると折込チラシを10万円分打って純粋な新規客が何人来店するかというと、よっぽど上手くいって30〜40人、下手をすると10人来ない場合もままある。

つまり巷のお店における広告による新規客の獲得コストは、一人あたり普通で数千円、下手をすると1万円以上ということになる。

このような経験に基づいて述べるなら、上記のソフトバンクの施策で回線乗り換えに最大10万円出すことの妥当性はおおいに理解出来る。

さらに言うと、年額で携帯代などと合わせて10万円以上払うお客の獲得コストとしては、最大10万円の補償はかなり安い、と言えるのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 09:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年10月12日

フィリピンとドゥテルテ大統領について

フィリピンのドゥテルテ大統領が、麻薬犯罪者の超法規的処刑に続き、今度はフィリピン全土での禁煙を実施するという。
これは大統領選出馬時の公約でもあったそうだ。

ドゥテルテ大統領の国民の支持率は高い。
だから犯罪者を裁判にかけずに逮捕現場で射殺したり、自警団による私刑を容認したりなどの数々の暴挙についても、国民は今のところ圧倒的に支持しているらしい。
それだけ麻薬犯罪に対する国民の被害感情が激烈であったということもあるのだろう。

このようなドゥテルテに対し、法治国家のリーダーとしては失格だが民主主義の観点からは「有り」ではないか、のような評価も聞こえている。
この大統領は、他のいろいろな暴言の記録などからは、おそらく欧米的な近代国家の政治感覚、人権感覚というものは持ち合わせていないようにしか見えない。

しかしWikipedia情報によるとドゥテルテは、法律家の父親と学校教師の母親の間に生まれ、最初の職業として検察官を10年間勤めたそうである。
なおかつ祖父が中国系で政治的にも共産党と近く、したがって中国との政治的距離も比較的近いのではないかと想像される。



フィリピンは大航海時代にスペインの植民地になり、スペイン没落を機に一度は独立するがすぐにアメリカの施政下で植民地化されて第2次大戦を迎える。
日本がマッカーサーを追い落として1943年に形ばかりの独立をするが、再度アメリカ軍が上陸してその施政下に入り、戦後1946年に3度目の独立を果たした。
この間、共産系ゲリラが抗日活動をしたりしていたのがアメリカ施政下でかなり弾圧もされただろう。

また3度目の独立後も事実上のアメリカ傀儡のマルコス独裁政権が誕生したりして政治の腐敗が進み、その点に関する国民の不満も大きかったと思われる。

1986年のフィリピン民主化は、わたしくらいの年代の人間にはまだ記憶も新しい事件だが、そのころからアメリカとの関係が微妙になり、対ソ連・対中国の防波堤としての役割が徐々に薄れていったようだ。
そのようなある種の政治的な空白状態は、イスラム原理主義の過激派が入り込むスキを与えることになって混乱に拍車をかけたということもあった。

そういう複雑な経緯の中で、元法律家であるにも関わらず超法規的なドゥテルテ大統領が誕生したということである。

フィリピンという国は、第2次大戦来70年間は「アメリカ側」だったわけだが、華僑系のドゥテルテ大統領の誕生で「中国側」に重心が移りそうな気配も見える。
その一方で国民の多くが英語を喋り、アメリカ国内にはフィリピン系移民が340万人もいてアメリカとの血脈もかなり強くなっている。
そういう複雑さがある。

フィリピンの政治的立ち位置は日本の防衛戦略にも大きく影響するので、今後はもう少し注目していきたいと思った。
posted by ヤス at 12:11| Comment(0) | 徒然なるままに