2016年09月30日

人類の存在意義について

AI=人工知能がもうすぐ人類の知能レベルを超えるという。
少し以前から「シンギュラリティ(技術的特異点)」という単語もよく耳にする。
AIが人知を超える時期については、2020年とか2045年とかその考え方や予測方法でいくらかの幅があるが、おおむね50年以内くらいという感じのようだ。

AIによって多くの職業が消滅すると言われており、弁護士やコンサルタントなど知的職業についても例外ではないという。
よく考えると、世の中の知的職業というものは論理的思考を土台にしているので、論理思考の権化であるところのAIにとっては朝飯前の仕事かもしれない。

では絵を描いたり小説を書いたりという創造的職業はどうかというと、小説を書くAIや「レンブラントの新作」を描くAIがいたりするそうだ。
その出来栄えは今のところ人類の足元にも及ばない、ということにしておくとしても、現在のAIの急激な進化を考えると10年後の人類のアドバンテージがどうかは、いささか心もとない。

だいたい人為により製造された機械が創作活動すること自体が、新たな現代芸術のテーマであるようにも思われる。

そのうちAIの政治家とかが出て来て選挙で当選し、世界は平和になっていく、そんなシュールでSFチックな未来がいつかやって来るのだろうか。
これはあくまで想像であるが、論理的に正確無比なAIが世の中の意思決定の多くを差配するようになったら、その時の世界は恐ろしくつまらないものになるような気がする。

AIの社会的意思決定参加の実例としては、現時点においてもすでに株式投資への活用で成果を上げているというし、近い将来には企業経営の意思決定に使えるシステムが開発中というニュースも流れていた。

あるいは個人レベルでも、今日の晩ご飯はカレーがいいかハンバーグにすべきか、就職先は公務員か銀行員かなど、さんざん迷ってAIにでも相談したい、という場面は多い。
近い将来に個人の意思決定に使えるシステムもきっと出現するだろう。

そうすると仮想的には、世の中の人類の意思決定の重要部分の大半をAIが出力する社会、というものが出現しうる。

仮にそうなった場合に、人間の存在価値はどうなるのか。
重要な「迷いごと」に対して、ほとんど自分では答えを出さない人間は、果たして人間と言えるのだろうか。
そういう疑問が生じる。

ここで人類の意思決定のある重大な特徴に言及せねばならない。
それは、人間はどうしようもなく不合理でいい加減で、ある意味不正直で、予測不能な存在である、ということだ。

経済活動についても、人間が真に必要なものをきっちり必要な数量だけ購入する論理的行動に徹していたら、現代の資本主義経済の繁栄は無かっただろう。
しょっちゅう無駄なものを買ったり、冷蔵庫を買いだめした食材でパンパンにして一部腐らせたり、ブランドマークが付いたハンドバックに物理的原価を遥かに超える代金を支払ったり、人工知能もビックリの意味不明が多いのが人類の意思決定の特徴であろう。

これらの意味不明な行動は、論理の世界に照らせば一種のエラーと言える。
人類の文化活動は、各個人の気ままな「エラー」の集積によって、時に思いがけない方向に傾く。
それは戦争であったり経済バブルであったり役所の公共工事談合事件であったりするのかもしれない。
だが人類のエラーの集積は、きっと良い成果もたくさん生み出しているに違いない。

そういう人類のいい加減で気ままなエラー行動すらも人工知能がきっちり再現するようになったら、その時は人類の存在が危機かもしれない、と思った。
posted by ヤス at 11:15| Comment(1) | 徒然なるままに