2016年09月28日

書類・本を捨てないといけない

今朝、1時間ほどかけて書類の整理をした。
まあそれは整理というよりはほぼ廃棄だったのだが。
書類というのはけっこうかさばるし、束になるとものすごい重さだ。
だから収納しておくのも廃棄するのも大変だ。

しかも書類は毎日少しづつ自動的に増加する。
郵便物や仕事の資料などが、何かあるたびに舞い込んでくる。
だから廃棄作業をしばらく怠っていると紙の束があっという間に増える。
そして毎日増加する紙の束のうちのほとんどすべては不要な紙の束である。
不要な紙の束は必要な書類と混じり合ってノイズとなり、必要な情報の検索、取り出しを大きく阻害する。

だからせっせと不要な紙の束を廃棄していかねばならない。
これはかなり不毛な作業だ。
そもそもこれらの紙の束は、どこかの誰かがいつもより多目に残業して編集作成したのかもしれず、がんばって作成した原稿をパソコンからプリントアウトして、それを高性能のコピー機で何部も複写したのかもしれない。
だがそうやって莫大な労力を投入して生産された書類は、いったいどれくらい真剣に閲覧され、有用な情報源として活用されただろうか。


この「紙の束」の問題について仕事先で雑談になったことがあった。
そこでの結論は、書類はパソコンやタブレットの画面よりは紙に印刷したものの方がだんぜん読みやすい、というものであった。
確かに、紙の束はパラパラとめくったり重要箇所に赤マルを付けたり角の端を折り曲げたりと、ハンドリングが軽快な一面がある。
iPadでは紙と同等の軽快な閲覧はなかなか難しい。
ただし電子デバイスによる閲覧では、全文検索が出来たり莫大な量の書類の束が数百グラムの機械に収納出来るなど、紙にはないメリットも多い。

逆に、紙の最大の欠点はその収納整理の煩雑さである。
紙の束は、かなり律儀に整理して収納しておかないと後から必要なものを取り出すことが絶望的に不可能になる。
だからもっとも正しい紙の束の収納方法は、「収納せず即廃棄する」ということに違いない。


昔、井上靖の「敦煌」という小説を読んだことがある。
中国の唐王朝が滅亡後に出来た北宋の時代、科挙の受験に失敗した主人公がシルクロードの国の西夏に流れ着いて傭兵になり、やがて大量に保管されていた貴重な仏典を戦火から守るために「莫高窟」の中に隠し終わったところで物語も終わる。
今から千年も昔の時代における「文書」の価値は、現代におけるコピー書類の山とは比較にならないくらい貴重だっただろうと思った。


おそらく現代において、おそろしく収納整理、廃棄作業に多大の労力が必要にも関わらず、いまだに紙の書類が繁栄している理由は、紙の書類や文書というものが貴重であった太古の昔の原体験を今日においても人類が忘れていないからなのであろうと思う。

その証拠に、ホチキス留の書類ならともかく、きちんと製本された書類は廃棄に際して多少の心理的抵抗がある。
さらに、印刷機で印刷された書類というのはさらに廃棄のハードルが一段上がるし、ちゃんと出版されている書籍の場合は捨てる時に罪悪感さえ感じる。
これらの心理的抵抗は、紙の書類がまだ貴重だった当時の名残ではないか。

だから書類や印刷物や書籍をなんのためらいもなく廃棄出来るハートの持ち主は、未来的な精神構造の持ち主なのではないかと思う。
そしてわたしも、出来ることならそのような人になりたい、と思った。

posted by ヤス at 14:27| Comment(1) | 徒然なるままに