2016年09月30日

人類の存在意義について

AI=人工知能がもうすぐ人類の知能レベルを超えるという。
少し以前から「シンギュラリティ(技術的特異点)」という単語もよく耳にする。
AIが人知を超える時期については、2020年とか2045年とかその考え方や予測方法でいくらかの幅があるが、おおむね50年以内くらいという感じのようだ。

AIによって多くの職業が消滅すると言われており、弁護士やコンサルタントなど知的職業についても例外ではないという。
よく考えると、世の中の知的職業というものは論理的思考を土台にしているので、論理思考の権化であるところのAIにとっては朝飯前の仕事かもしれない。

では絵を描いたり小説を書いたりという創造的職業はどうかというと、小説を書くAIや「レンブラントの新作」を描くAIがいたりするそうだ。
その出来栄えは今のところ人類の足元にも及ばない、ということにしておくとしても、現在のAIの急激な進化を考えると10年後の人類のアドバンテージがどうかは、いささか心もとない。

だいたい人為により製造された機械が創作活動すること自体が、新たな現代芸術のテーマであるようにも思われる。

そのうちAIの政治家とかが出て来て選挙で当選し、世界は平和になっていく、そんなシュールでSFチックな未来がいつかやって来るのだろうか。
これはあくまで想像であるが、論理的に正確無比なAIが世の中の意思決定の多くを差配するようになったら、その時の世界は恐ろしくつまらないものになるような気がする。

AIの社会的意思決定参加の実例としては、現時点においてもすでに株式投資への活用で成果を上げているというし、近い将来には企業経営の意思決定に使えるシステムが開発中というニュースも流れていた。

あるいは個人レベルでも、今日の晩ご飯はカレーがいいかハンバーグにすべきか、就職先は公務員か銀行員かなど、さんざん迷ってAIにでも相談したい、という場面は多い。
近い将来に個人の意思決定に使えるシステムもきっと出現するだろう。

そうすると仮想的には、世の中の人類の意思決定の重要部分の大半をAIが出力する社会、というものが出現しうる。

仮にそうなった場合に、人間の存在価値はどうなるのか。
重要な「迷いごと」に対して、ほとんど自分では答えを出さない人間は、果たして人間と言えるのだろうか。
そういう疑問が生じる。

ここで人類の意思決定のある重大な特徴に言及せねばならない。
それは、人間はどうしようもなく不合理でいい加減で、ある意味不正直で、予測不能な存在である、ということだ。

経済活動についても、人間が真に必要なものをきっちり必要な数量だけ購入する論理的行動に徹していたら、現代の資本主義経済の繁栄は無かっただろう。
しょっちゅう無駄なものを買ったり、冷蔵庫を買いだめした食材でパンパンにして一部腐らせたり、ブランドマークが付いたハンドバックに物理的原価を遥かに超える代金を支払ったり、人工知能もビックリの意味不明が多いのが人類の意思決定の特徴であろう。

これらの意味不明な行動は、論理の世界に照らせば一種のエラーと言える。
人類の文化活動は、各個人の気ままな「エラー」の集積によって、時に思いがけない方向に傾く。
それは戦争であったり経済バブルであったり役所の公共工事談合事件であったりするのかもしれない。
だが人類のエラーの集積は、きっと良い成果もたくさん生み出しているに違いない。

そういう人類のいい加減で気ままなエラー行動すらも人工知能がきっちり再現するようになったら、その時は人類の存在が危機かもしれない、と思った。
posted by ヤス at 11:15| Comment(1) | 徒然なるままに

2016年09月29日

がんばってはいけない

時々マラソンを走る。
最近は、「走る」と言うほどには激走出来なくなった。
思い返すと最初のフルマラソンは13年前、2003年2月の「吉備路マラソン」だった。
そこから脚を痛めたりしての長期休養なども挟みつつ、なんとかちんたら走り続けている。

マラソンというのは大変苦しい。
特に最後の方は青息吐息になる。
特に最近は齢を重ねて人間が無精になっている。
いきおい、練習もいい加減なので42km余の中の20kmを過ぎたあたりでもう9割くらいの燃料を使い果たしている。

この状況を打破するには、適切な練習を重ねるしかない。
適切な練習とは、今よりもたくさん走り、かつ質的にもより追い込んだものにすべきであることは言うまでもない。
つまり今の練習より苦しい練習をしないといけない。

しかし苦しい練習は嫌だ。
本番のフルマラソンだけでも十分苦しいのに、その前にさらに苦しい練習を重ねるのはあまりに苦し過ぎる。
なんとか苦しくない練習で今より速く走れるようにならないものか。

そういうことを考える。
だいたい、苦しい練習というのは何年も続けることが出来るものではない。
オリンピックに出るようなトップアスリートが活躍出来るのは、ここで引退、という絶対的な期限が存在することが事前に分かっているからで、塗炭の苦しみもいつか終わると思えばこそ激しい練習に耐えることが出来る。

そういうものではないだろうか。

ごく普通の一般ピープルが、マラソンでもなんんでも何かを長く続けるつもりならば、それはなるべく苦しくない方がいいと思う。
まあ、時々苦しいくらいはいいのかもしれない。
マラソンでも、大会に出て42km余を走るのはまあまあつらい。
だが同時にマラソン大会独特のお祭りの高揚感があり、それでテンションが上がる分で実際に走る苦しさが相殺される。

その、ややマゾヒスティックな快楽がマラソンを続けることの動機になっている。

しかし日々の練習はあまり苦しくしてはいけない。
苦しい練習は、着手のハードルが上がる。
練習にとりかかるのが億劫になる。
短パンはいてタンクトップ着て気合を入れていても、いざ家のドアを開けて外に出て走り出す時に、なんとも言えないためらいが生じる。
練習を継続するには、このためらいが十分に小さくなる程度の精神的な負荷に抑えていないと、「三日坊主」ということが生じる。
一方で、あまり三日坊主の発生にこだわり過ぎるのもよくない。
継続がたびたび途切れても、ふつふつと湧き上がる意欲によってあまり間をおかずに練習再開出来ればそれで十分だろう。

おそらく、苦しくない練習の継続で現状よりも実力向上するには、苦しくはないけれどいくらかのトレーニング効果のある練習負荷のポイントを探り出すことである。
そのポイントで練習を重ねていると、負荷のポイント自体がだんだんレベルアップしていく。
そうやって苦しくない練習のレベルが上がっていくと、フルマラソン本番で今よりいくらか激走出来るようになるかもしれない。

というのはまあ考えてみると当たり前のことだ。
ポイントは、練習は苦しくない方が絶対に良く、人生はあまりがんばり過ぎない方が良い気がする、ということだ。
そのように思った。
posted by ヤス at 11:21| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月28日

書類・本を捨てないといけない

今朝、1時間ほどかけて書類の整理をした。
まあそれは整理というよりはほぼ廃棄だったのだが。
書類というのはけっこうかさばるし、束になるとものすごい重さだ。
だから収納しておくのも廃棄するのも大変だ。

しかも書類は毎日少しづつ自動的に増加する。
郵便物や仕事の資料などが、何かあるたびに舞い込んでくる。
だから廃棄作業をしばらく怠っていると紙の束があっという間に増える。
そして毎日増加する紙の束のうちのほとんどすべては不要な紙の束である。
不要な紙の束は必要な書類と混じり合ってノイズとなり、必要な情報の検索、取り出しを大きく阻害する。

だからせっせと不要な紙の束を廃棄していかねばならない。
これはかなり不毛な作業だ。
そもそもこれらの紙の束は、どこかの誰かがいつもより多目に残業して編集作成したのかもしれず、がんばって作成した原稿をパソコンからプリントアウトして、それを高性能のコピー機で何部も複写したのかもしれない。
だがそうやって莫大な労力を投入して生産された書類は、いったいどれくらい真剣に閲覧され、有用な情報源として活用されただろうか。


この「紙の束」の問題について仕事先で雑談になったことがあった。
そこでの結論は、書類はパソコンやタブレットの画面よりは紙に印刷したものの方がだんぜん読みやすい、というものであった。
確かに、紙の束はパラパラとめくったり重要箇所に赤マルを付けたり角の端を折り曲げたりと、ハンドリングが軽快な一面がある。
iPadでは紙と同等の軽快な閲覧はなかなか難しい。
ただし電子デバイスによる閲覧では、全文検索が出来たり莫大な量の書類の束が数百グラムの機械に収納出来るなど、紙にはないメリットも多い。

逆に、紙の最大の欠点はその収納整理の煩雑さである。
紙の束は、かなり律儀に整理して収納しておかないと後から必要なものを取り出すことが絶望的に不可能になる。
だからもっとも正しい紙の束の収納方法は、「収納せず即廃棄する」ということに違いない。


昔、井上靖の「敦煌」という小説を読んだことがある。
中国の唐王朝が滅亡後に出来た北宋の時代、科挙の受験に失敗した主人公がシルクロードの国の西夏に流れ着いて傭兵になり、やがて大量に保管されていた貴重な仏典を戦火から守るために「莫高窟」の中に隠し終わったところで物語も終わる。
今から千年も昔の時代における「文書」の価値は、現代におけるコピー書類の山とは比較にならないくらい貴重だっただろうと思った。


おそらく現代において、おそろしく収納整理、廃棄作業に多大の労力が必要にも関わらず、いまだに紙の書類が繁栄している理由は、紙の書類や文書というものが貴重であった太古の昔の原体験を今日においても人類が忘れていないからなのであろうと思う。

その証拠に、ホチキス留の書類ならともかく、きちんと製本された書類は廃棄に際して多少の心理的抵抗がある。
さらに、印刷機で印刷された書類というのはさらに廃棄のハードルが一段上がるし、ちゃんと出版されている書籍の場合は捨てる時に罪悪感さえ感じる。
これらの心理的抵抗は、紙の書類がまだ貴重だった当時の名残ではないか。

だから書類や印刷物や書籍をなんのためらいもなく廃棄出来るハートの持ち主は、未来的な精神構造の持ち主なのではないかと思う。
そしてわたしも、出来ることならそのような人になりたい、と思った。

posted by ヤス at 14:27| Comment(1) | 徒然なるままに

2016年09月27日

北朝鮮の脅威について

北朝鮮の核開発が加速している。
北朝鮮が最初の地下核実験を行ったのは2006年10月、ちょうど今から10年前のことであったらしい。

小泉元首相の最初の訪朝から4年後のことだ。
その後、2009年、2013年と地下核実験が続き、今年1月に4回目、今月9月に5回目が行われた。
報道によると北朝鮮の核兵器技術は相当進歩しており、核弾頭の小型化も実現しつつあり、弾道ミサイルへの搭載も実用化直前のようだ。
北朝鮮のミサイルには射程が1500〜2000kmのノドン、同2000kmのテポドン1号、13000kmのテポドン2号などがある。
13000kmの射程が実用域に達すればニューヨークにも届くことになる。

ミサイルの着弾精度についても、つい数年前まではまともに飛ばない、命中誤差が数十キロ以上あるなどと言われていたが、最近の報道では半径1kmくらいの精度に、劇的に改善しているという。
核弾頭を搭載しない通常炸薬弾頭であっても、目標が日本ならかなり正確に着弾させることが可能であり、実際に都会の真ん中に落ちてきたら恐ろしいことになるだろう。


北朝鮮といえば政府高官の相次ぐ粛清がニュースになったりして、いよいよ独裁政権の体制が揺らいできてその引き締めに躍起になっているのだろうと思っていた。
また度重なる飢饉などで国民の多くが食うや食わずの状態であり、核開発どころの状況ではないという推測もよく聞かれた。
しかし、敵ながらあっぱれというのか、国情が厳しい中確実に核弾頭およびミサイル開発は進められていたようで、特に北朝鮮から至近の距離にある韓国・日本は防衛上極めて重大な危機に晒されることになった。

北朝鮮が国情窮乏の中でなぜここまで兵器開発を進めることができたかというと、最大の原動力は北朝鮮国内にある世界有数のウラン鉱山であろう。
これは推測であるが、北朝鮮はおそらくこの豊富なウラン資源を背景にパキスタンから核技術の導入を行っているのではないか。

またミサイル技術の急速な進歩については、旧ソ連の技術者をスカウトしているという憶測があったりする。
アメリカ陣営への牽制措置として、裏で中国・ロシアがミサイル技術を供与しているとも「密かに」言われているようだ。

さらに言うと北朝鮮は潜水艦発射弾道ミサイル=SLBMの開発とそれ用の原子力潜水艦の開発も進めているという。
ミサイルの水中発射実験も行なっていてこれもいずれ実用レベルに達するだろう。
原潜のSLBMは米・露・中・英・仏、そしてインドが運用中だが、北朝鮮が実用化することはアメリカには許容し難いだろう。
SLBM実用化には中露の協力が不可欠だろう。
日本としては、今後の北朝鮮問題は中露に政治的なパイプをどれくらい築けるかが鍵、ということになるのではないか。

北朝鮮の兵器開発の現状を見ると大変なリスクを感じるわけであるが、反面、北朝鮮という国の兵器開発に向けた目的への合理的行動を垣間見て、意外な驚きがあったとも言える。
結論としては、彼の国が今後も最低限の政治的合理性を保つことを願うばかりである。
posted by ヤス at 13:05| Comment(1) | 徒然なるままに

2016年09月26日

今後の中小企業施策について

最近また「労働生産性の向上」の必要性についてのニュースをよく目にする気がする。
政府の「一億総活躍」の関係の施策で、「働き方改革」なるものが前に進んでいることもあるのだろう。

先日、経済産業省の次年度の政策方針について聞く機会があったのだが、経産省の施策も労働生産性の向上が中心課題となっているようである。
「中小企業等経営強化法」という法律が今年夏に施行され、この法律では中小企業ならびにそれらのハブとなる地域の中堅企業に対して、労働生産性の向上をテーマに各種の支援が行われるらしい。

そして国内主要産業分野のそれぞれについて、担当省庁が「事業分野別指針」というのを作っておおよその方向を指し示し、国内の中小企業(等)は指針に基づいて各種の生産性向上対策を行う。

生産性向上対策は、主には機械設備の導入やIT化などの設備投資のことを指す考えであるらしい。
だから支援策も設備投資減税や融資関係のメニューが用意されているようだ。


事業分野別指針の中身は、製造業では従業員の多能工化や改善活動の推進、原価管理や工程管理、知財戦略、営業活動の改善など。
小売卸業は店舗別損益管理など管理の強化、IT化、顧客のニーズ情報活用、人材育成など。
外食・中食産業は営業活動、コスト管理、経営管理、人材、IT化のメニューが並んでいる。

これらの指針は本屋に行けばすでに経営コーナーにいくらでも並んでいるような普通の項目ばかりだ。
下手をすると高校の社会科の教科書にも載っているのではないかというようなレベルであり、このような指針づくりに各省庁の労働力が割かれたことにまず驚く。
各省庁こそが自分たちの労働投入をもっと吟味して生産性向上を考えた方がいいのではないか、と思ってしまった。

さらに言うと経産省の説明は上記の項目がほとんどすべてで重要なものが入っていない気がする。
それは国際競争力の視点である。
内容の一部に中国との労働コスト格差縮小についての観察や円安による外国人観光客の増加が入っているのを見つけたが、それ以外には国際的な問題について言及されていない。

経産省は外国人観光客誘致と国内製造業保護の観点から円安が望ましいと考えているらしいが、仮に今1ドル100円の円相場が80円になったら、国際的な日本の労働生産性指標は20%上昇する。
輸入コストも下がって実質賃金上昇に寄与し、国内消費にプラスの影響があるだろう。

しかし施策方針は、現状の産業構造のまま年率2%とかの漸進的改善のみを目指しているようである。
そもそも日本の労働生産性低下は、国際比較でアメリカとかドイツとかより低いのをなんとかしなきゃという話だと思うのだが、具体的施策がそもそもの問題意識とまったく無関係に策定されているのはどういうことなのか。

と、この先が少し心配になったわけであるが、まあ前向きに捉えるならば、世の中の中小企業は今までの業務を普通にがんばるだけで各種の支援策を受けられる可能性が高まったということらしいので、今後出て来るだろう支援策に注目することにする。
posted by ヤス at 14:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月25日

禅問答


ちょっと前に若い人の自殺が多いというニュースが流れていた。
中学生や高校生で自殺願望があったり、実際に実行に至る人がいるのは痛ましい限りである。

自殺問題は今までは、だいたい中高年の男性に多いという認識だったのだが、若い人と中高年ではその動機や原因はやはりかなり違うのだろうか。

そもそも、なぜ「生きていたくない」と思うのか。
禅問答のようでもあるが、これは「生きたい」という欲求と裏腹の思いであるような気がする。

多くの人間は、「殺すぞ」と脅されたら「殺されるのはいやだ」と思う、と思う。
わたしも個人的にはなるべくなら生きていたい。
しかしなぜ人は「生きたい」と思うのだろう。

人に限らず、ライオンに襲われたインパラなんかでも、首根っこに噛みつかれても必死で抵抗する。
水牛やシマウマでも抵抗するだろう。
そして運良くそのうちの何パーセントかは間一髪の危機を脱出するのだろう。

やっぱり抵抗はしてみるもんである。

こういうライオンに襲われる草食動物たちがはっきりと「死にたくない」と考えたかどうかは知らない。
でも彼らはおそらくいつでも、本能的に抵抗して「生」への執着を示す。
具体的にそう思ったかどうかはともかく、やっぱり死にたくないのであろう。

では動物たちはなぜ死にたくないのだろう。

これはよくよく考えるとちょっと不思議な気がする。
例えば成獣になって、子育ても終えてある程度生き物としての「義務」を終えたら、もういつ死んでも良さそうなもんである。
それでも彼らは、生きている限り死にたくない。

最近になって考え至った結論であるが、生き物が死にたくないその理由は、たぶん今生きているからではないかと思う。
生きている生き物は、基本的には死にたくないと思いながら生きている。

世の中の人々が、がんばって毎日生活し続けている原動力も、この世にたまたま生を受けたことが最大にして唯一の理由である。
たぶん。

生き物というのは、バクテリアやミジンコしか居なかった何億年も昔から、幾つもの生物種が絶滅し、ほんのわずかの種類だけ結果として生き残ってきた。
別に生き残りたいとか絶滅したいとかいう意思などなく、結果として生き残っている生き物が今生きている。

だから生きていることには、本質的には意味は無い。
意味が無いというよりは、壮大なニュートラルと言うべきかもしれない。

野生動物と違って日常「死」が遠い現代の人間社会では、生きている実感も感じにくいかもしれない。
若くて「死」が遠い中高生なら、生きている実感がますます感じにくいということがあるのだろうか。

まあ、何回か死にかけると、その時に生きていることの意味が理解出来るのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 12:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月24日

豊洲市場移転、次の課題

築地市場移転問題は次々といろいろな事実が明るみに出ている。
盛り土や地下ピットについての話や石原元知事が騙されたと釈明したり一点謝罪したり、工事見積の不自然な膨張や談合疑惑など、これでもかというくらいいろんな話題を提供してひとしきり盛り上がったけれど、さすがにもうそろそろネタが出尽くして落ち着くのかもしれない。

築地から豊洲への移転については、かなりのケチが付いてしまったわけだけれど、報道をざっと見る限り豊洲の土壌汚染の対策は十分で安全性に問題はないように思われる。
ただ施設の設計が杜撰で仲卸の作業場が狭かったり通路のカーブがきつい、トラックの積み降ろしの作業性が致命的に悪い、などの問題は現実にあるようだ。

とりあえず手元にある情報を総合すると、豊洲新市場は安全性については今進行中の調査で問題なしの結論が出る公算が大きく、建物も出来てしまっており築地の老朽化も待ったなしの問題なので遠からず移転が実施されるような気がする。
ただし設計のまずさによる一部改築工事が必要になりそうで、そのためにさらに追加で税金が投入されることになるのではないか。
その場合は設計した日建設計含むゼネコングループか、設計にゴーサインを出した都の担当部署の責任問題、損害賠償請求とかいう話になる可能性もあるのではないか。

豊洲への移転が実現したとしても、新市場工事に絡む疑惑と合わせてこのあたりの問題が尾を引くのではないかと思う。

それよりももっと根本的な問題がある。
今回大いに毀損した豊洲市場のブランドイメージをどう回復していくか、そっちの方が市場関係者や一般消費者にとっても大切だろう。

そもそも豊洲への市場移転に当たっての最重要課題は、築地市場が1935年の開業以来築き上げてきた知名度やブランド価値を上手に豊洲に引き継いでいくことではなかったか。

東京都の統計データで管内卸売市場の取扱高を確認出来る。
平成14年1年間の築地の水産物の取扱高は63万7千トン、5360億円。
昨年の平成15年は43万6千トン、4401億円である。
11年間で取扱量が68%に、金額が82%に減っている。
築地市場の取扱量ピークは1990年頃であったらしいが、現在の取扱高は量も金額も26〜7年前のピーク時の半分ほどだ。

だから今豊洲が狭いと言っているけれど、そのうちもっと取扱量が減ってちょうど良い広さになるというのは笑えないブラックジョークである。


どこかの報道で豊洲市場の名称を「新・築地市場」にした方がいい、という意見が関係者で出ていると言っていたけれど、冗談で終わらないかもしれない。
豊洲新市場は、おそらく遠からず移転が実現して営業を始めることになると思うが、都がやるべき次の仕事はおそらく豊洲のブランドイメージ復活になる。

そこでまた意味不明な「ゆるキャラ」とかを作って、そこのデザイン選考過程にまた不透明な取引があったりすると、さらに笑えなくなり豊洲市場の致命傷になりかねない。
というようなことを想像しつつ、今後もこの問題を見守ろうかと思う。
posted by ヤス at 10:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月23日

概念化の効用

「名付けることは知ることである」とアリストテレスだったかソクラテスだかが言った。
(他の偉人が言ったかもしれない)

例えば犬に「イヌ」という名前を付けたのは、犬が家畜化されて狩猟の伴として役に立つようになったことが影響しているに違いない。
犬は狼とは別の生き物になったのであり、かつ人間の仲間として一定の役割を担うようになった。
だからうちの飼い犬が隣の家族に捕まって鍋で煮られないように注意しないといけない。
そのためにはこの生き物はうちの「イヌ」であると、きちんと識別出来たほうがよい。
そうやって、狼とよく似てはいるけれど人間に従順で役に立つ生き物のとしての「イヌ」の概念化が進んだものと思われる。

よく聞く話で、ベドウィンなど砂漠の遊牧民の間では同じラクダでも妊娠したラクダ、子どものラクダとかいろんな状況のラクダごとに専用の名前があるという。
日本でも、五月雨、驟雨、春時雨、菜種梅雨、夕立、氷雨・・・と同じ雨でも無数の呼び名がある。
これは生活上関心の高い事象等に対してより細かい概念化が進み、その結果として細かい名前付けが行われたということだろう。


この間、USJのマーケティング担当の人で森岡毅氏という方が書いた本のことを書いた。
その中に「エボークトセット(Evoked set)」という用語が出て来た。
(Evokedは世間では「イボークト」とも読まれるようだ)
Evokeはクルマの名前ではなくて「想起する」という意味であるらしい。
そしてエボークトセットとは、今から昼メシを食いに行くとして、はてマクドと吉野家とココイチと、どれに行くかなあ、などと思う時に頭に浮かぶ候補の先のリストのことである。
たいてい昼メシに行く時に頭に浮かぶ候補先は、せいぜい3つか4つ、多い人でも6つか7つくらいではないか。
いっきに10も15も出て来る人はなかなかいるまい。

これはお店の側から考えると、消費者のエボークトセットの3つか4つの中にちゃんと入っているかどうかによって今日のお昼の売上がかなり左右されるということになる。
だからランチの営業をしている飲食店は、周辺の見込み客のそれぞれのエボークトセットの中にどれだけ入り込むかが勝負の分かれ目になる。

そのためにはまず一度とにかく来店して体験してもらうこと、あるいは口コミや各種の広報活動を通じて基本的な知名度を上げる、良い評判を広めるなどなどの活動が必要になる。
またはSNSやDMなどで忘れられないようにすること、適当な間隔で割引クーポンを出したり月に一度のサービスを実施して定期的に我が店のことを消費者の脳裏に想起させることなども重要かもしれない。

こういう活動は今さらわざわざ言われなくても、飲食店に限らずスーパーマーケットや美容院や洋服屋や歯医者さんなどでもせっせと実際に行われている。
しかし、エボークトセットの概念をきちんとイメージして販促や広告活動をするかどうかで、その焦点の定まり様にかなりの差が出るのではないか、と思うのである。

販促や広告活動というのは、霧の中、視界のほとんど効かない中で手探りで売上を捕まえるようなもどかしさがあり、それだけに「あてずっぽ」になりがちだ。
そのように手探りの世界においては、ある抽象的なことがらにちゃんと名前をつけて認識すること=概念化によって、手探りのもどかしさが少し緩和されて実務上も精神衛生上も効用があるのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 12:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月22日

意識はご主人様ではない

以前「受動意識仮説」について書いた時、意識の正体について考えた。
多くの動物は基本、無意識的に、つまり何も考えずに行動する。
美味しそうな物が有ればとりあえずかぶりつく。
しかし時々、かぶりついたら毒があってお腹を壊したりする。
ある程度脳が発達した動物では、そういう失敗の状況を記憶して次に似た状況に出くわした時に思い出してお腹を壊さないように気をつける。

このように過去の失敗を記憶して将来のリスクに備えるフィードバックシステムとして「記憶力」が発達し、だんだん複雑な記憶が出来るようになって、これが人類における意識の「素」になった。
そういうことだった。

意識というのは「自我」といってもよいのだろう。
自分が自分であるという感覚、いろんな欲望や恐怖や快楽をはっきり自覚出来る主体が自我である。
最近は若い世代の自殺問題がニュースになっていたが、自我が無ければ自殺も無かっただろうにと思われる。
でも自我が芽生えたせいで我々はいろんなことに疑問を持つようになった。
数学なるものが考案されて人類は純粋論理の世界を知ることになり、科学技術も発達して地表を38万キロジャンプし月の地面を踏むことまで実現した。
すべては無意識行動がやらかした失敗行動を記憶しフィードバックする記憶の仕組みが素である。

そして今なお人類はまず無意識的に行動し、ゼロコンマ何秒か遅れてその行動を意識がトレースするという順番で動いているという。
我々は、自分の行動を意識によって完璧にコントロールしていると思い込んでいるが、本当は無意識による行動を意識は後からただなぞるだけである。

意識に出来ることは、この先右に曲がってしばらく歩くとセブンイレブンがあってかなり美味しい「ワッフルコーンミルクバニラアイス」があるぞ、と無意識に一生懸命フィードバックすることくらいだ。
結果、無意識がその気になってくれれば、めでたくセブンに到着してアイスクリームにありつける。
まったく、我々人類の意識と無意識の関係は、飼い犬と飼い主の関係のようでもある。
飼い主はなだめたりすかしたり怒ったりエサで釣ったりしながら飼い犬を教育する。
飼い犬は、ご機嫌な時には期待に応えてくれるが多くの場合に気まぐれに行動し、飼い主に叱られる。

この例えの場合、飼い主が意識であり飼い犬は無意識であるけれど、注意が必要なのは人類における意識と無意識では無意識の方が本来的なメインの脳内システムであり、意識は無意識をサポートするサブシステムに過ぎないことだ。
飼い主は、自分がご主人様だと勘違いしているが、ほんとうは犬の方がご主人であり行動の決定権は犬の方にある。

今この瞬間、いろいろと生意気なことを考えている「意識」は、何を考えているか得体の知れない「無意識」がほんとうはご主人様だと知らねばならない。
それは飼い主でなく飼い犬の方がご主人様なのだと思い直すくらい錯綜した感じの、難しい意識の転換であるなあと思った。
posted by ヤス at 11:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月21日

通勤者の表情について

朝、ちんたらジョギングをしていると時間帯によって通勤者の群れに出くわすことがある。
今朝も8時前後の時間だったと思うが、いくつかの群れとすれ違った。
県庁の近所を走っていると徒歩や自転車の通勤者が県庁に向かっている。
定時より少し早いのではないか、とも思われる。
県庁周辺以外でも、街の中心部に向けて主に自転車に乗った通勤者が小さな群れを形成している。

今朝の天気はあいにくの曇り空でどんよりとしていた。
その曇り空のせいでもあるまいが、すれ違う通勤者の方々の表情が一様に厳しい顔、もしくはやや不機嫌そうな顔をしている気がしたのである。

人間というのは誰かと話をしている時とか、にこやかな表情をすることがままある。
お笑いのテレビ番組を観ている時、面白い漫画を読んでいる時なども思わずニヤけたりする。

しかし、目の前に人がいて話をしているわけでもない無為の瞬間において、人間というのはかなりの無表情になって、それがやや不機嫌に見えるのかもしれない。
ただ目的地に向かって歩いている時、自転車のペダルを漕いでいる時、あの通勤者の脳みその中ではどんな想像が巡らされているのであろうか。
そんなことがふと気になった。

ちんたらとジョギングしているおじさんの場合、走っている最中にはいろいろなことが脳裏を駆け巡る。
少し空腹を感じた場合はこのあと朝マックしようかなとか、たまには真面目に仕事の用事を思い出して今週が終わるまでにあの仕事を片付けなきゃな、とかいろいろ浮かぶ。
だから県庁に向かう通勤者の方々もペダルを漕ぎながらきっといろいろ思っているのに違いない。
ただその時に思わず頰が緩むような想像というのは、どうもあまり無いらしい。
どちらかというと眉間に皺のよるような厳しい想像の方が多いのだろうか。
あるいは、あまり何も考えていない人間の無表情は、何か厳しい想像をしている風に見えるものなのだろうか。

以前、鈴木宗男事件に連座して逮捕された元外務省のラスプーチン・佐藤優氏が何かで書いていたが、メディアのカメラに撮影されている時はなるべく無表情を心がけていたそうである。
この場合の無表情は不機嫌でもなくニヤけているのでもない、一切の感情を殺したニュートラルな「無」表情である。
メディアに笑っている顔を撮られたら「不遜に高笑い」とかタイトルが付き、不機嫌を撮られたら「怒り心頭」とか言われる。
だからタイトルの付きようのない無表情。

そうやって考えてみると人間の表情というのは、何か楽しい時はにこやかであるけれど、それ以外の大半の時間は無表情でそれがどちらかというと不機嫌そうに見える、そしてまったくのニュートラルな無表情の瞬間は案外少ない、そういう風になっているのではないかと思った。

人間の表情が、外から見てどちらかというと不機嫌そうに見える瞬間が多いと仮定すると、不機嫌な表情の形がだんだん固着してきて、何十年も経つと物凄く不機嫌そうなおじさんが出来上がる、そういうことかもしれない。
そして箸が転んでも面白い女子高生とかはいつもゲラゲラ笑っているので、それが固着して楽しそうな感じになる。
これは一歩間違うといかにもアホっぽい感じになる危険もあるわけだが、しかし不機嫌そうな顔よりはよっぽどましだ。

ということで、たまにはおのれの表情にも気を付けないといけないな、と思ったのでした。
posted by ヤス at 15:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月20日

飲食店のオーダーシステム

ときどき、マクドナルドに行く。
そんなに頻繁ではないが、オーダーミスが発生することがある。
だいたい、ホットコーヒーを頼むとコーラが出て来るパターンがいちばん多い。
おそらくドリンクの注文はコーラがいちばん多いのだろう。
だからコーヒーの「コ」の字が耳に入った瞬間にスタッフの脳の中で勝手に「コーラ」の注文が成立する。
マクドの店員はインカムを付けてドライブスルーの注文もさばいていたりするので、いろいろと音声が混信するのかもしれない。
だからコーヒーがコーラになる間違いについては特に驚かない。
ただ一身上の理由により、やはりコーラを飲むわけにはいかないので「いやあの、コーヒーです」と訂正する。

しかし時々かなり跳んだ間違いもある。
ちょっと前にも、黄色いオーダー待ちの「立て札」を持って席で待っていたら、頼んだのと違うバーガーが出て来て食べている最中に気付いたのだが、面倒くさいのでそのまま完食した。
レジの機械の電光表示にはちゃんと正しいバーガーが表示されていたようなので、たぶん他の人の注文が来たのだろう。
同じ店でナゲットのソースが付いてなかったので客席からレジに戻って「バーベキューソース」を要求したら「マスタードソース」を渡されるという事件もあった。


このようなオーダーミスに遭遇するたび、大手の回転寿司みたいにオーダーをお客さん自らタッチパネルでやるようになればこういうミスは減るだろうになあ、と思う。
回転寿司で出来ているのだからマクドナルドでも大丈夫だろう。
実際に、タブレットを使ってお客さんが客席からオーダーを飛ばすシステムが既に販売されている。
オーダー取り業務が無くなればスタッフの負担も減る。
何よりオーダーミスの「プレッシャー」が無くなるのは大きい。
人材不足が厳しい飲食業界ではメリットが大きいと思うのだが、しかしいまだにあまり見かけない。

お店の側が人手による「あたたかい接客」にこだわっている、ということもあるのだろうか。

ネットで調べてみると、今iPadやiPod touchなどiOS機器をターミナルに使ったオーダーシステムは、キッチンプリンタ(キッチンにオーダー内容を知らせるヤツ)やレシートプリンタの付いたレジの機械などハードウェア一式30万円くらいで揃うらしい。
これは従来のPOSレジのシステムなどと比べると革命的な安さだ。
以前、某NECのキッチンプリンタを客先で購入した時はキッチンプリンタだけで20万円以上したと記憶している。
iOSやAndroidベースのレジシステムが普及すると既存のレジ機器メーカーにはかなり脅威だ。
そう言えばサイゼリヤは数年前からオーダー取りをiPod touchでやっている。

Suicaなどの電子決済もどんどん普及しているし人は足りないし、そのうち雪崩を打ってセルフオーダーと電子決済が急速に拡がるのではないか。

特に2020年東京五輪に向けて外個人客増加が期待されているが、上記のシステムならオーダー画面を多言語表示にすればいいのでインバウンド対策にも便利だと思う。


ということでFeliCa搭載のiPhone7を心待ちにしているのだが、まだまだ来そうにない。

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2016年09月19日

人類の食の歴史と健康問題

さて昨日の文章で、人類は無毛になって効率的に汗をかけるようになって長時間の運動が可能になり、大型動物を追い詰める狩猟が出来るようになって高栄養価の肉を常食して脳容量の増大の土台になった、というのを書いた。

この点を確認したことにより、長年にわたる個人的な心配事が少し減少したと思った。

世の中にはかなり少数派かもしれないがベジタリアンの人たちがいくらか存在する。
彼らがベジタリアンである理由は、宗教上の理由とか食べ物の好き嫌いの問題とかいくつか種類があると思われる。
その理由のひとつに「肉を食べると健康に悪い」説を唱える一派もいて、それが普通に肉好きなわたしの心に小さく引っかかっていた。

少し以前にある知り合いの人物が以下のようなことをしきりに言っていたのである。

「自分の親戚に医者がいて、その医者が言うには、肉を常食してきた人の脳みそをレントゲン(MRIだったかもしれない)で見ると脳の神経組織がボロボロになっているからその医者は肉をほとんど食べないので自分も食べない」

だという。
何よりも医者の発言というところに重みがある。
その知り合いが何か具体的な物証を提示したわけではなく、わたしとしてはその程度の「うわさ話」で肉食を中止するほどの気にもならない。

ただし某「M」店で100%ビーフパティを食する時、ふとしたきっかけでその知り合いの肉食危険発言を思い出すことがあり、この100%ビーフパティによってオレの脳みそはダメージを受けているのか、と思わないこともなかった。

しかし、である。
現生人類の脳容量は1500ccでチンパンジーの4倍程度ある。
脳の神経細胞は主に脂肪成分で出来ていて、脳のメンテナンスには一定量以上の脂肪分を摂取しないといけない。
また脳の大きさは身体全体の中で重量比では2〜3%に過ぎないがエネルギー消費量では25%程度を占有する、きわめて燃料を喰う臓器である。
だから他の動物に比べて傑出して大きな脳を持つ現生人類には、肉食は必須であったはずなのである。

また、チンパンジーやヒヒなども肉好きで、同類の幼児を殺して食べたりもする。
ゴリラやオラウータンなど大型の霊長類では果物が主食のイメージが強いが、最近の研究では積極的な肉食についての説も浮上してきているらしい。

いずれにしても人類が狩猟技術を磨いて脳容量を拡大してきた歴史はたぶんほんとうのような気がするのである。


ところで、同様に健康と食べ物の関連で「低糖質」というのも最近よく聞く。
現生人類が米や麦などの穀類を大量に摂取するようになったのは、ここ1万年くらいのこと、農耕が始まって以降である。
1万年前の古代人類はDNA的な進化過程はまったく完成していて、脳みその容量や機能も内蔵の構造なども現代人と寸分変わらない。

身体の構造が変わらない中で食生活だけが狩猟採集の収「獲」物から穀類中心の収穫物に激変したわけだ。
穀類食は貯蔵も出来、供給がコンスタントで定住化の促進と合わせて人類の生活安定に大きく寄与したと思われる。
穀類食前と穀類食後では、後の方が平均寿命も確実に伸びたはずである。

わたしは以前は糖質食にやや否定的な時もあったが、今は人類1万年の農耕技術に敬意を表してあまり低糖質を気にしないことにしている。
糖質食は、その摂取量よりは精製の有無によるGI値の違いの方がおそらく重要だと思う。

そういう意味では精製された高GI値の砂糖摂取は問題かもしれない。

ということで今後はホモ・サピエンス30万年の進化史を信じて心置き無く肉を喰らおうと思っている。
posted by ヤス at 11:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月18日

直立二足歩行のナゾ

人間と他の動物を分ける特徴、もっと言えば猿と人間の違いでもっとも重要なことは何か。
その候補として以下の三つが考えられる。

チンパンジーの3倍の脳容量
道具を製作したり操作可能な器用な前足(というか手)
直立二足歩行

上の三つでもっとも人間を人間たらしめているのは、大容量の脳とそれがもたらす高度な知性であるように思われる。
実際、優れた知性のおかげで人間は複雑な言語を使いこなし、抽象思考を行い高度な物質文明を築き上げてきた。
人間とチンパンジーはDNA的には99%同じだというけれど、両者の知性の差がもたらす生活様式の違いはかなり隔絶している。

しかし、700万年前に人類の祖先が人類進化の方向に進化系統樹の分岐点を別れた時に獲得した最初の特徴は、直立二足歩行であったそうである。
この時代の化石からは、脳容量はほぼチンパンジー並みだが骨盤の構造や首の骨が頭骨に接続する位置関係から、「直立二足歩行するチンパンジー」的な原始人類の姿が想像される。

鳥の仲間ではダチョウやヤンバルクイナなど二本足で歩いたり走ったりするものがあるが、哺乳類で日常的に二足歩行する生き物は人間だけであるという。
700万年前の少し前の時期に、猿の仲間で時々背伸びをしたり二本足でヨチヨチ歩いたりするのがいて、それが当時の環境では生存競争上有利に働いてやがて二足歩行が定着したということか。
では直立二足歩行の何がそんなに有利であったのか。
というのはよく分からない。
ただし結果論的には、二足歩行によって人間の前足(というか手)は歩行機能の役割から外れて他の用事に使えることになった。
それで人類は石器を作ったり槍などの武器を操ったりするようになり、そのような手先の器用さの獲得と脳の大容量化が相互に作用しながら現在の技術・知性の水準に達したと考えられる。

しかし手先の器用さと脳の大容量化の土台となった直立二足歩行の最初のきっかけはやっぱり分からない。

ところで、人間の身体的特徴の中でもうひとつ他の哺乳類にないことがあって、それは「無毛」だそうだ。
まあ人間の中にも妙に胸毛の濃い人とかいるし、頭髪やヒゲはそこそこ立派に生える。
しかし体毛に関しては、チンパンジーなどと比べればほぼ無毛といってよいレベルだろう。
しかしなぜ無毛なのか。
諸説あるようだが、ひとつの考え方として発汗機能効率化との関連があるという。

人間は運動して体温が上がったら身体中から汗を出して温度を下げる。
この時に体毛が濃いと上手く汗が蒸発しないそうだ。
だから馬などの特殊例を除いて毛の濃い動物は身体から汗をかかない。

つまり人類の無毛の理由は効率的に汗をかくため、というのである。
効率的に汗をかくというのは、長時間運動する、すなわち長時間走るために必要だったのではないかという考えである。
つまり直立二足歩行で長時間走ることが可能になり、狩猟で大型野生動物を追い詰めることが出来るようになった。
大型野生動物を安定的に狩ることが出来るようになって高カロリー高栄養価の肉食が常態化し、エネルギー消費の大きい脳みそを大容量化することが出来るようになったという。

この説が本当なら、現在のマラソンブームは人類進化的原点回帰であって、マンモスを追いかけていた時代の原始記憶が現代人をマラソンに駆り立てているのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 07:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月17日

北海道の台風被害で思ったこと

北海道では台風被害で道路網が寸断されて大変らしい。
被害状況を伝える動画のニュースを見ると、谷沿いを走る道路が豪雨で地面が崩落して切断されていたりしていて、復旧にはかなりの時間がかかるのではないかと思われる。

北海道のように隣の街まで何十キロもあるような広い土地で、唯一の交通手段であるところの道路が寸断されるとそこに住んでいる人々の生活への影響も甚大だ。
ただでさえ現在の日本国内は、東日本大震災の復興工事や東京オリンピックに向けたインフラ工事などもあって、国内の工事需要に対する土木建設業界のキャパシティが不足気味である。
先日の熊本の震災といい、今回の北海道の台風被害といい、迅速な復旧工事が可能かどうか心配される。

日本列島では、各地で定期的に地震や台風などの自然災害が発生する。
わたしが住んでいる岡山は比較的災害が少ない方だと思うが、それでも10年に一回とか、台風や大雨で道路に大きな被害が出ることがある。
そういう時の復旧工事は地元の建設業者にとってはある種の特需でホクホクなのかもしれないが、しかし人口減少社会が確実に進行する中ではいつまでもそんな呑気なことは言っていられないかもしれない。

特に北海道とかは典型的であるが、ああいう広大な中にぽつんぽつんと人が住んでいる地域では、建設工事業者の数も人口密集地に比べて少ないに違いない。
過疎化の進行による人口減少の加速ということもあるだろう。
あと何年かすると、人口の少ない地域の道路の補修維持がかなり困難になる時代が来るのではないか。

そんなことを考えていて思い浮かべるのは、近い将来道路網の補修維持が困難になるような過疎地域では、主要な交通手段が地面を走る自動車からヘリコプターのような「空を飛ぶ乗り物」にシフトするんじゃなかろうかという夢想である。

今、アフリカとかの新興国では固定電話回線を飛び越して携帯電話網が猛烈な勢いで普及しているというけれど、これも電線を張り巡らせるより無線基地の携帯網の方が整備普及が簡単だからだろう。

同じ理屈で空を飛ぶヘリコプターなら道路は不要だ。
操縦が難しいという問題があるが、今の技術なら自動操縦で十分に飛ばせる。
ある意味、歩行者や自転車などと混在している自動車の自動運転よりヘリコプターの方がずっと簡単と思われる。

ヘリコプターは複数のモーター・プロペラを装備した電動式にして、航続距離は30kmとか50kmもあれば十分である。
道路を整備する代わりに10kmおきに小型のヘリポートを整備した「道」を造って、ヘリポートには交換用のバッテリーを置いておいて、適当にヘリポートに寄り道して電力を補充しながら飛べば良い。
飛行高度は2〜3mの低高度にすれば万一の墜落時にも対処出来るのではないか。
そういう近未来は果たして来るのであろうか。
電動ヘリコプターによる移動は渋滞の激しい大都会かインフラの整っていない新興国、あるいはシリアやアフガニスタンとか地雷のたくさん埋まる紛争地帯とかでも有効かもしれない。

そんなことをちょっと思った。

posted by ヤス at 14:19| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月16日

iPhoneと他人の財布


iPhone7が今日から発売になった。
わたしもいちおう数日前に近くのソフトバンクショップで予約した。
いつ頃入荷するか聞いたが、店の方では「さあいつでしょうねえ」
という予想通りの回答だった。

わたしは現在iPhone 5sを使っている。
ちょうど3年前に機種変して、2年縛りは終わったわけであるがわずかでも携帯代金を削減しようと1年間余計に引っ張って使い続けた。

結果毎月千円ほど払いは減ったと思われる。
1年間で1万数千円は削減出来たのだろうか。
ソフトバンクのサイトに、機種変時の支払いシミュレーションがあるのを発見したので、7に変えた場合を試算してみると、契約内容を見直すことで現状より安くなることが判明した。
また、今話題の20ギガのプランにしても現状とほぼ同額になりそうだ。

携帯の料金体系は、この1年ほどの間にまあまあ変わったらしい。
昨年末に契約内容を変えてからそのままにしていたが、たまには料金体系の変更について確認し、細かく契約を変更すべきだったかもしれないと思った。


もうひとつ思ったのは、やはり日本で携帯電話の主要3社のどれかを使っている限り、iPhoneは2年に一回きっちり更新した方がある意味お得であるということだ。

今さら説明するまでもなく当然のことだ。
携帯電話各社はアップルと取引するにあたって販売ノルマが課せられている。
だから携帯電話各社は、iPhoneを他機種より優遇して売らねばならない。
そのためには、iPhone以外のAndroidユーザーや2年割賦を終えてなおiPhoneを使い続けるユーザーの超過利益を新型iPhone購入ユーザーに振り向けないといけない。

つまり2年サイクルでiPhoneを新型に更新するユーザーは、他人の財布を使って高価なiPhoneを割安に購入出来る。
受益者負担の公平がやや歪んでいると言えるだろうが、iPhoneの顧客吸引力は現状かなり強いので、携帯各社は競争戦略上このシステムを維持せざるを得ない。

最近行政指導に余念のない総務省もおそらくこの点について気にしているだろう。

携帯3社の顧客が100%iPhoneを2年サイクルで更新するようになると、流用可能な超過利益が無くなるので上記の歪みは自動的に解消されるだろうが、もちろん100%iPhoneユーザーにはならないだろう。

果たして、他人の財布を使って2年ごとに新型iPhoneの快適性能を堪能してクオリティーオブライフを維持すべきか、多少のバッテリーのへたりには目をつぶっても支出の絶対額削減に精を出すか、その判断はかなり難しい。

最近はワイモバイルとか格安携帯が充実して来ているが、これは上記のような公平性の歪みに対する市場経済の自動修正が効いてきたということだろう。

何はともあれ、とりあえず今回はQOLを優先し他人の財布を利用してiPhone7に変えることにする。
人間の欲望と経済合理の関係は、なかなか絶妙に出来ている、と思った。


posted by ヤス at 13:53| Comment(1) | 徒然なるままに

2016年09月15日

ココイチの強さについて

最近、ネットニュースでカレーのココイチの記事をチラチラ見る。
今になってネット記事が流れるのは、この消費不況の最中にあってあいかわらず好業績を上げている、その秘訣を知りたいというなのかもしれない。

ココイチ、というか「カレーハウスCoCo壱番屋」は株式会社壱番屋として東証一部の上場企業である。
よく知られているように昨年、創業者からルー調達先のハウス食品に株が売却され、現在はハウス食品が51%の株を持って子会社化している。
Yahoo!の株式欄で見るとこの2〜3年株価も右肩上がりで好業績ぶりが伺える。

ココイチは日本国内に2015年10月現在で1265店展開している。
カレーは日本の国民食と言われるほど人気の食べ物であるが、カレーチェーン国内2位の金沢発のゴーゴーカレーは会社のサイトで数えてみたら国内69店舗。
その他には「カレーのチャンピオン」や「サンマルコ」などが国内に30店程度展開しているらしいが詳しくは知らない。

とにかくカレーは国民食という割には牛丼やうどんのような大規模チェーンがココイチしかない。
少し前に週刊ダイヤモンドとかでもカレーチェーンの不思議、国内30店舗の壁、みたいな特集を組んでいたことがあるくらいだ。

カレーチェーンが大規模化出来ない理由として、ルーの原料の香辛料調達があるらしい。
香辛料の輸入は日本ではハウス食品とS&B食品の独占なので、大規模化するとルー調達先の壁に当たるという。
もっともらしい話であり、たぶん6割方は真実のような気がする。
しかし疑問点も生じる。
ココイチがハウス食品の一派として全国展開したわけであるからS&B食品の方にも対抗勢力となる全国チェーンがあっていいのではないか。

また、カレーチェーンが大規模化すればルーの売上が増加してハウス・S&Bともに嬉しいはずだ。
ルー販売企業がカレーチェーンに対しある程度のコントロールを試みるのは分かるが、大規模化を阻止する理屈はそこにあるのかよく分からない。

おそらくルーの調達以外にもノウハウ上の理由があるような気がする。


ところでココイチは客単価890円だそうだが、失礼ながら同価格帯でココイチより美味いカレー屋はたくさんあるだろう。
しかしココイチは外食業界でも群を抜いた販売力を持っている。
ひとつには、社員で修行した後に原則夫婦でFC店を持って独立する独特の組織形態がある。
ラーメンチェーンでも同様の形態はあるが、労働集約ビジネスである外食企業では、夫婦二人で朝から晩までモーレツに働くことが成功への近道である、というのはひとつの真実だろう。

人間の生産性というのは結局のところ、当事者意識を持ったスタッフがどれくらいたくさんいるかどうかにかかっている。
ココイチ等が採用している暖簾分けシステムは、ブラック企業批判も厳しくなる中での回答のひとつだろう。

またココイチでは接客やスタッフ教育の考え方が確固としていて軸がブレない強さがある。
そのあたりはこのところ批判にさらされて満身創痍のマクドナルドも教育ノウハウの強みでなんとか生き残っていて、その辺り共通の強さがあるように感じる。

いずれにしても、ココイチのカレーのごはん標準300gは食の細くなったおじさんには少々キツイので、若い気になって300gを食べて胸焼けになる愚を犯さないよう、今後もずっとごはんの量は200gにしようと思っている。
posted by ヤス at 11:08| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月14日

質的成長時代がすでに始まっている話

あいかわらず日経平均は弱含みの動きをしている。
数日前に久しぶりに1万7千円を超えたと思ったらその後ダラダラと下がって今日も3ケタマイナスで終わった。
為替レートも最近は102円近傍に張り付いて円安になりそうな気配が無い。
(わたしには気配を予知する能力も無いのだが)

某週刊誌には今年の年末に向けて日経平均が2万5千円を超えるとかいう記事があったような記憶もあるが、日銀総裁の発言もいまひとつ歯切れが良くないようで、特に根拠もない個人的推測では日本経済はこのままズルズルと低調が続くのではないかという気がする。


ところでこの間調べてあらためて少し驚いたのが、1992年(前回の広島カープ優勝年)から今年にかけて日経平均がほぼ1万6千円代で同水準にもかかわらず、アメリカ主要株価指標のNYダウが1992年3300ドルから2016年18400ドルと5.5倍以上に上がっていたこと。
ちなみにロンドン証券市場の指標であるFTSE100指数は1992年2846が2016年6463とこちらは2倍以上の伸び。

GDP(名目値)を見てみると、日本の1992年は488兆円、2016年推計値506兆円と3.7%増。
アメリカは1992年6兆5393億ドルが2016年18兆5581億ドルと2.8倍増、イギリスは1992年6733億ポンドが2016年1兆9242ポンドへやはり2.8倍以上になっており、中国に至っては2兆7208億人民元が73兆1217億人民元へ27倍の激増。

この30年ほどの各種の数字を見ると、どうも日本だけが経済成長的に取り残されているのは明らかである。

しかし、だ。

1992年と2016年では我々のライフスタイルはかなり変わったのではないか。
ひとことで言うとかなり豊かになったと言えるのではないか。
1992年にはインターネットの「イ」の字も無かった。
(アメリカには「i」の上の点くらいはあったかもしれない)

重量100g少々の四角い薄い板状の機械(iPhoneのことです)を自由に持ち運んで、情報を検索したりポケモンゲームをしたり、という世界は1992年には無かった。
たまに高速道路のサービスエリアで食べる昼メシもこの2〜30年でかなり美味くなったし、コンビニで買うパンや弁当も昔よりは確実に美味くなっていると思う。

自動車に乗ってもナビが付いていたりドアノブに触れただけで勝手にドアロックがはずれたり、バックカメラが付いて後ろのバンパーをぶつける心配も多少減った。

ネットショッピングはすっかり定着し、Kindleを利用すれば思い立ってから1分以内に読みたい本を読み始めることが出来るし、カメラや電器製品も店頭で一生懸命値切り交渉しなくても安く買える。

情報通信の進化を中心に、物流や製造システムの革新が進んで前回のカープ優勝時と今年では、経済指標的にはほとんど「拡大」はしていないけれど、質的には確実に便利に豊かになっているように思われる。

過去の2〜30年、経済指標の拡大を伴わなかったけれど豊かさの進化はあった。
これからの数十年、GDPはもう増えないとしても引き続きライフスタイルの質的な進化はあるのではないか。
というか日本という国は、すでに20年くらい以前から、経済規模の拡大を伴わない質的進化メインの成長をする国になったのではないか。

という気がちょっとした。
posted by ヤス at 15:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月13日

国籍について再びちょっと考えてみる

蓮舫氏の二重国籍疑惑のおかげで、国籍について考える機会が出来た。
以前に書いた通り、客観的に見て今回は問題なしというのが現在のわたしの結論である。
そして今回の疑惑の出処には日本という国に対する過度の純血性、閉鎖性を求める心理があるのではないかと思っている。
だからこの問題の本質は、国家というものをどの程度オープンにするのかという点についての議論なのではないかと思う。

例えば、外国人の地方参政権の問題が以前からある。
いろいろ考えはあるだろうけれど、個人としては認めてもいいんじゃないかと、半分くらいそう考えている。
これには反対の人が多いのかもしれない。
何が何でも絶対反対の人も少なくないだろう。

反対意見の中身は、外国籍者が政治家になればその出身国や出身者に便宜を図って従来からの日本国籍者の利益が損なわれる、というものだろう。
極論すれば、その国出身者が勢力を伸張してその自治体が外国の属領化する、という恐怖がある。
そういうリスクもまったく無い、ということはないだろう。

例えばEU離脱を国民投票で決めたイギリスでは、際限なく流入する移民の人々に対する不満や潜在的な恐怖の心理があったことは想像に難くない。
イギリスの場合はポーランドなどからの東欧移民が主に「排斥」の対象になっていたという。

東欧から次々に移民が来て、「古くからの」イギリス国民は仕事を奪われたりして利益を失う感覚を覚えたとしても不思議ではない。

しかし他方で、国家が人的移動の面でオープンであることがその活力維持に重要であることもまた間違いない。
日本でも外国人労働力活用の中で高度人材に注力する話が聞かれるようになった。
アメリカなんかは多くの移民が経済的高付加価値分野で活躍することで隆盛を保っている。
ただその分市民権に対する意識や国家に対する忠誠にはかなりセンシティブであるように思われる。


知的に高度な外国出身者を活用するのであれば、政治家にも国籍を超えて有能な人材を求めてもいいのではないかと思う。

特に日本の場合、政治家の出身基盤である小さいコミュニティーに対する「利益還元」がひとつのお約束になっていて、それがしがらみになって国家視点での全体最適の政策が行われない。
それならばそういうしがらみになる出身基盤を持たない外国籍者または外国出身者で、能力が高く職務に忠実な人物を政治家にスカウトした方が、ベタベタの日本人ばかりで政治をするより良い結果が出はしないか。
そういう気がしてならない。

いずれにしても、国民国家の成立は歴史的には高々この200年ほどのものであり、国籍の概念もまた同様である。
国家も国籍も何か絶対的で神聖なものだと思っている人もいるのかもしれないが、それらはこの100年200年試行錯誤しつつその有り様が微調整されて今日まで来ているのである。

だから蓮舫氏の国籍問題も端から国籍を絶対的なものと決めつけて考えるのではなく、もう少し土台のところから議論した方がいいのではないか、と思う。
posted by ヤス at 11:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月12日

人によって違って見える

数学の世界、というのがある。
すべてが一分の隙も無い定理やら法則の積み上げによって出来上がった形而上の世界。
そしてその緻密な数学的世界の対極には、人間の生きるあいまいな現実世界がある。

しかしよく考えてみると、人間の生きる現実世界は言うまでもなくさまざまな物質で出来ており、それらの物質は原子とか、もっと細分化して素粒子などという微細な「何か」で出来ている。
そして原子や素粒子の世界は、精密な数式によってきわめて正確に記述可能だ。

つまり我々の生きる物理世界は、一分の隙も無い数学的世界の上に出来上がっていると言える。
もっと言うとこの現実世界は、まったく理屈の誤りを許容しない数学的世界そのものであるとさえ言っていいのではないか。

にもかかわらず、人間というのはかなりあいまいでいい加減だ。
人間の肉体も理論的に一分の誤りも無い原子や素粒子によって構成されているはずであるのに、人間の行動は理論的な正確さが思ったほどではない。
真面目で日頃の事務作業にも滅多に間違いのないようなきっちりした人でも、その口から出てくる言葉が常に厳密に理論的、ということもない。

そもそもこの言葉というのが曲者だ。
人間はおそらく目に見えたり耳に聞こえた外部世界をひとまず言語化して脳みそに格納する。
例えば「今日の天気は曇り空で日は照っていないが温度が高くてかなり蒸し暑い」、などという風に今日の気象状況も言語化出来る。
しかし上記の表現には温度が何度とか湿度何パーセントとかの情報が含まれていない。
あるいはこの記述が今日の何時何分何秒頃の状況であるか、というような細かい情報は省略されている。

我々は、普通の場合温度計がないと正確な温度を知ることが難しい。
また、ある地点の「今日の天気」を委細漏らさず正確に記述することは不可能だ。
だから人間は状況を大胆に省略し、現実に起こっている膨大な数の原子のうごめき、今わたしの周辺に原子が何百兆個の何兆倍あるか知らないが、ともかく、ほぼ無限大の情報量になるはずの現実世界の現象記述をほんの数バイトの薄っぺらい文字量に変換する。

人間は、一人一人がそうやって外部世界を大胆に省略して認識しており、省略の仕方は一人一人の思考のクセで微妙に違うだろう。
だから同じ風景を見ても人によって違う風景に見えているはずだ。

人間が外部の世界を見たときの認識の仕方は、違う人で同じに見えている共通部分よりは、どちらかというと人によって違うように見えている部分の方が多いのではないか。

人付き合いとかコミュニケーションの本質というのは、そもそも個人個人で違って見える世界の認識について、数少ない共通部分を探る試み、と言えるような気がする。

少し気を緩めると、自分と同じ場所にいる他の人も同じ風景を同じように見ているに違いない、そう思い込みがちである。
そのことに最近やっと気付いたのだが、自分でない他の人は同じ方向を向いていても自分とは違う物を見ているに違いないので、いつも忘れないようにしよう、と思った。
posted by ヤス at 14:21| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年09月11日

広島の1勝あたり年俸額は12球団いち少ない

広島カープが優勝した。
25年ぶりのことで、前回の優勝は1991年だという。
1991年といえばまだバブルの余韻が残っていた、今にして思えばいい時代だった。

ジュリアナ東京とかDCブランドとかいうのが健在の時代。
調べてみたら、日経平均は2万円〜2.5万円くらいで今より少し高い。
また、国税庁の賃金統計では1991年=平成3年の平均給与は名目値で年間4,466万円、2014年=平成26年が4,150万円だという。
この間デフレで実質賃金は若干上乗せになっていると思うが、それにしてもこの間の日本経済の停滞ぶりをあらためて見ると少し驚く。

ちなみにアメリカの株価指標のNYダウは、25年前の1992年の終値が3,301ドル、そして先週金曜日の終値は18,085ドルと約5.5倍になっている。

そういえば最近は「失われた10年」「失われた20年」とかいうのを世間でほぼ使わなくなった。
このままだと「失われた30年・40年」ということで、世の人々もこの表現にはもはや食傷気味ということかもしれない。

それに引き替え広島カープは見事に低迷の歴史を打ち破ったわけで称賛に値する。
ずっと12球団で最低レベルの年俸水準でここまで戦って優勝を勝ち取ったわけで、二重の意味で素晴らしいと思う。
ということで、広島および他球団の年俸総額を調べてみた。

<2016年の年俸総額>
1位 ソフトバンク 53.3億円
2位 巨人 45.4億円
3位 オリックス 34.0億円
4位 阪神 30.3億円
5位 ヤクルト 29.1億円
6位 西武 28.2億円
7位 日本ハム 27.2億円
8位 広島 25.2億円
9位 楽天 24.7億円
10位 ロッテ 24.7億円
11位 中日 19.9億円
12位 DeNA 19.6億円

さらに2016年シーズン途中だが、今シーズンの球団別勝利数で上記の年俸を割り算してみる。

<2016年途中の1勝あたり年俸額>
1位 広島 3,076万円
2位 DeNA 3,161万円
3位 日本ハム 3,574万円
4位 中日 3,690万円
5位 ロッテ 3,738万円
6位 楽天 4,491万円
7位 ヤクルト 4,857万円
8位 西武 4,941万円
9位 阪神 5,511万円
10位 オリックス 6,791万円
11位 巨人 6,983万円
12位 ソフトバンク 7,208万円

広島の年俸総額は8番目で25億円。
今年はすでに82勝しているので1勝あたり3076万円、12球団でもっとも効率が良い。
それに対し、ソフトバンクは7208万円、巨人6983万円、オリックスは6791万円と、1勝にかかる年俸額は広島の2倍をゆうに超える。

ちなみにわたしが一時期気の迷いから応援していた阪神タイガースは5511万円だ。
こうやって見るとDeNAや日本ハムの健闘が光るし、セリーグ最下位の中日も意外に悪くない。

逆にオリックスは、カネを出している割に成績が振るわない。
何かマネジメント上の重大な欠点があるような気がする。



参考までに、メジャーリーグの2016年の年俸総額はドジャースが1位で2億3500万ドルというから1ドル103円で242億円だ。
個人の年俸最高はドジャースの投手クレイトン・カーショウ(知らない人だ)で3460万ドル=35.6億円。

一人で広島1球団分より多い。
やっぱり今年の広島の優勝は偉大だ、と強く思ったのでした。
posted by ヤス at 13:54| Comment(0) | 徒然なるままに