2016年08月20日

スポーツとオリンピックと個人と国家

オリンピックもそろそろ終わりだ。
と思っていたら甲子園の高校野球もやっていて明日決勝戦だという。
おかげでプロ野球における広島カープのめざましい進撃や強かったソフトバンクの急減速ぶりがすっかり目立たない。

わたし的には水泳が終わったら最終日のマラソンまでオリンピックに用事はないのだが、このところオリンピックなどスポーツがらみでいくつか小ネタがニュースに上がっていたので、ちょっと考えてみる。

少し前のニュースであるが、保守系論客の竹田恒泰氏が「税金を投入したのにメダルがとれなかった」発言が流れていた。
正確な発言内容を調べようと思ったが、すぐには出てこないので、とりあえず為末大氏の反論などを参考にする。

竹田氏は以前のオリンピック時にも同様の発言を繰り返していてそのたびに炎上している。
竹田氏の発言はまちがっている。
少なくともわたしの考えとはまったく違う。
まず、オリンピックにおける国家と個人の位置関係が違うのだと思う。

竹田氏は、オリンピックは国家同士が国としての競技力を競い、メダル数を争う場であると思っているのだろう。
だから出場選手に対して国家の責任において強化費を支出し、選手は国家に雇われてオリンピックに出場するのだ。
そう考えているのだろう。

しかしオリンピック憲章には「国家」というのはまったく出て来ない。
オリンピック憲章が必ずしも理想的な憲章である、とは断言できないが、この憲章を基本とするならば、オリンピックは個人参加がベースになっているように見える。

だから本来のオリンピックの意義から考えて、国家が出場選手に対して行う各種の援助は、個人として参加する選手に対する国の好意であって、そこに責任・義務の関係は存在しないはずなのである。

そもそも国家というものは本来国民に奉仕し、各種のサービスを提供すべき存在のはずだ。
選手への援助もそのようなサービスのひとつと考えれば済む話だ。

あと、竹田市の発言は女子マラソンの福士選手のレース後の「ヘラヘラ」した態度に向けられたものではないかという話もあった。
だが、わたしはオリンピックで選手がヘラヘラしたりするのは個人の自由であると考える。
確かに、そのヘラヘラぶりによっては、なんだか感じが悪いなあ、と思わないでもない。
だがたとえ感じが悪くても、やっぱり選手の自由裁量の中にある行為だと言わざるを得ないのだ。

スポーツが上達する動機には、貧乏からの脱出とか兵役免除とかお世話になった両親やコーチへの恩返しとかいろいろあるだろう。
だがその基本は、競技に没入し純粋に技を極めた結果ライバルとの間で優劣がつく、そういうものであると考える。

現代のスポーツ界の頂点は、個人的な努力だけでは到底太刀打ち出来ないほどに高くなってしまったのかもしれないが、スポーツの基本は個人が技を極めるところにあるという基本線は譲れない、と思うのである。
posted by ヤス at 15:23| Comment(0) | 徒然なるままに