2016年08月06日

ロックな精神の必要性について

だいぶ前にも書いたことがあったと思うが、わたしが中学生の頃、次郎物語で有名な下村湖人が書いた「論語物語」という本がたまたま家に転がっていて、これを読んだわたしはいたく感動して学校の読書感想文もこれで書いて先生に褒めらた、というようなことがあった。

論語物語は、今から2500年ほど前の中国春秋時代の偉人、孔子の言行録であるところの論語を今風に(といっても書かれた当時の「今」だが)ものがたり仕立てにして読みやすくした本である。
以降わたしは古代中国の歴史に若干の興味をもつようになり、老子とか孫子の兵法とかの解説本を読んだり、さらに後には古代中国小説で有名な宮城谷昌光の小説も読むようになった。

しかし、思想の土台はあくまでも下村湖人の論語物語の世界であって、「仁」とか「忠恕」とか「徳」のある生き方について、それなりに深刻に思索を巡らせたものである。

しかしその後時を経るにつれて、どうも論語的世界に疑念を抱くようになり、今ではどちらかと言えば老荘の徒に宗旨替えをするに至っている。

孔子はいちおう世界の三大聖人にも数えられていて、世間的には依然としてかなり偉い人という評価であると思われる。
しかし最近のわたしの独断では、孔子はそれなりのカリスマはあったのかもしれないが、しかしその本質は思想家や哲学者というよりは実務家としての性格が濃厚で、野心を秘めた政治家として士官活動をするが夢破れて、しかたなく野に下った人なのではないかと思っている。

孔子の私塾には千人を超える門下生が所属していたという伝説だが、これも単に大臣の職を追われて空に困ったので、かつての職歴を看板に塾生を集め塾費を課して生活費を稼ぐようになったことの誇大宣伝だろうと考えている。

つまり孔子は、そこそこビジネスセンスのある起業家ではあったのかもしれない。

そしてついでのことに、諸国の君主や大臣に向けて国内統治のノウハウを書籍化して売り込み、その事業を弟子の筋が引き継いでやがて「論語」という本が出来上がったのではないかと思うのである。

論語というのはひとことで言うと秩序維持のための大衆誘導のノウハウであろう。
それは血縁や年功序列を重んじ、アナーキズムすなわち革命的思想がまだ芽吹く前に摘み取るノウハウといえる。


これは事実かどうか知らないが、生きた魚をいけすに入れて長距離輸送する場合、通常は何割かが死んでしまうが、その中に一匹肉食魚を入れておくと数%は食べられるが、肉食魚なしの時より死亡率は低くなる、という逸話がある。

それと近い話だと思うけれど、社会というのもアナーキズムの要素が少し潜んでいることで、かえってその寿命が伸びる、ということがあると思う。

アナーキズムは革命思想であり、既存秩序の破壊であろう。
現代風の言い方だと、アナーキズムは「ロックンロール」だ。

それでもあまりしょっちゅう革命が起きるのは困るが、既存秩序が十年一日のごとく破壊されない社会というのもまた弊害が大きい。

理想を言えばマイルドな革命が恒常的に存在して常に社会の鮮度が保たれる、というのがいいのだろう。
たぶん世に言う保守主義とはそういうことなのかなと思う。

いずれにせよ聖人孔子が案外な俗物なのではないかと疑ってみる、といいうようなたぐいのことは、世の中の鮮度を保つ上で重要だと思う。

世の中の常識や先人の知恵や世間で共有されている当たり前の前提はすべて一回疑ってみること、このことはけっこうむずかしいがたぶん必要なのである。

逆に言うと、疑念や反論を規制する政治権力やロックな精神を排除する社会的風潮は、その社会が衰退に向かいつつあることの証拠だと思って間違いないのではないかと思う。
posted by ヤス at 16:40| Comment(0) | 徒然なるままに