2016年07月06日

五輪壮行会の説教事件

2、3日前のニュースに、元首相の森喜朗氏が五輪壮行会で選手に国歌を大きな声で歌うよう説教した、という事件が流れていた。
ニュースを読むと、問題の国歌の場面はプログラム上は自衛隊音楽隊の女性歌手による独唱だったようで、それを森氏は国歌斉唱と勘違いしていたらしい。
いつもは気のいい森おじいさんだけれども、歳とって以前に増して気が短くなって、そういう感じの近所のおじいさんの小さな失敗ということであれば、ある意味微笑ましい話と言えなくもなかった。

しかし舞台は五輪選手の壮行会で、本番に向けて選手を元気付けて送り出すのが本来の会の有り様であったはず。
がしかし、そこで選手の出鼻をくじくひとことを言ってしまうのが森氏の森氏たるゆえんなのであろう。

そういう意味でこの事件は別に驚くほどのこともない、いつもの事件なのかもしれない。
しかしここであえて、この件に関しいくつかの問題を考えてみる。

まずオリンピックそのものの問題。
近代オリンピックは1896年の第一回アテネ大会を皮切りに始まったらしい。
たびたび指摘されることかもしれないが、オリンピックは世界各国の国威発揚の場として利用されてきた。
一方でオリンピックは平和の祭典と喧伝され、少し前まではアマチュアリズムの聖地と信じられていたようにも思う。
しかしヒトラーのベルリン大会とかソ連や東ドイツのステートアマとかの例を出すまでもなく、近代オリンピックは創設以来国同士の団体戦としての性格がはっきり存在していて、それは今だにそうである。

森氏の説教事件もそのような前提に基づいて生じたものだろう。
だが選手にとってみれば、単に世界最高峰の試合の場というのが出場の最大動機なのではないか。
まあ中には祖国のために腕や脚が折れるまでがんばる、という選手がいてもかまわないが、選手の動機はあくまで個人の競技力向上にある方が健全な気がする。

我が国の選手が活躍することで国民が熱狂し、それによって国民がいい気分になりいくらか国家統治の役に立つ、というのは選手にとっては余計な話だろう。

もうひとつ問題と思うのは社会と個人のアイデンティティ混同問題。
日本という国が大好きな人々の中には時々、個人の自我の何割かが、美しくて優秀な日本国の一員である、という意識によって成立している場合があるように思う。
それはそれでいいのだが、面倒くさいのはそれを他の人にも強いることがあることだ。

同じ日本人でも日本国のことが大好きな人もいればほどほどに好きな人もいるし、中には日本国を嫌いな人、憎んでいる人だっているかもしれない。
それらを包摂してひとつの国だと思うのだが、すべての日本人がひとり残らず日本国大好きでないと気が済まないことがあるとすれば、それはたいへんなストレスの元になるのではないか。
と、今回の五輪壮行会説教事件に際して思った。
posted by ヤス at 11:55| Comment(0) | 徒然なるままに