2016年07月11日

参議院選挙

昨日参議院選挙の投開票があった。
大方の予想通り与党の自公で改選過半数を大きく超える69議席を獲り、非改選と合わせて145議席になった。
これに「改憲勢力」である大阪維新と日本のこころを合わせて今回の改選分と非改選分合わせて160議席。
参議院242議席の3分の2は162議席になる
今回、自公の160議席に無所属で改憲賛成の議員を足して165議席になったらしい。

これまでネックであった参議院の議席数が、これで改憲発議に向けてぐっと前進した。

改憲勢力以外の野党の方はというと、共産が議席を伸ばしたが民進は減らした。
しかし一人区での野党共闘はかなり機能して特に東北と沖縄では与党を圧倒。
今回比例統一名簿の不成立や全選挙区での共闘には至らなかったわけであるが、一定の成功体験を得たことで告示がせまる東京都知事選、さらには年内実施も噂される衆議院選にかなり大きく影響するのだろう。

民進党にとっては共産党との共闘はイデオロギー的にかなり難しいことであるが、しかし現実の選挙を考えると民進党には「この道しかない」ようである。
しかし結果を受けた岡田代表の感想は、議席を大きく減らし改憲勢力の3分の2阻止も出来ず実体として惨敗であったと思うがあまり負けた感じを受けていないようであった。

これはたぶん都知事選もあってあまり負けた感じを色濃くしたくない、ということなのだと信じたい。
腐っても野党第一党、そして衆参両院の第二党である。
この国がまともさを維持するには健全な批判勢力の存在が不可欠だ。
岡田代表は9月任期まで続けるつもりとのことだが、次の民進党執行部は今までと違う顔ぶれにして次の衆議院選挙に望んで欲しい。

今回選挙の結果、政権は改憲に向けてまっすぐに動き出すことはまず間違いない。
しかしいろいろな報道を見る限り、9条改憲は国民の支持が得られそうになく、「緊急事態条項」「家族条項」などもかなり筋が悪い。

おそらくあまり賛否がなくイデオロギー論争にもならない環境条項あたりを俎上に載せ、ひとまず「歴史的な改憲の実現」一本に絞ってくることになるのだろう。

そういう意味ではこれから始まる改憲論議は、相当に中身の無い議論になる公算が強いと予想する。

やはりこの国には健全な批判勢力が不可欠であり、これから地道に、あらためて再構築していかないといけないと思う。
posted by ヤス at 11:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月10日

爆殺の法的根拠

7月5日、アメリカ・ルイジアナ州で丸腰の黒人男性が警官に射殺された。
続く7月7日にはテキサス州ダラスでこの事件に憤った黒人のデモが起きていたが、そこにアフガン帰りの退役軍人で元スナイパーの25歳の青年がデモ警戒中の警官5人射殺の事件が発生。
銃社会、人種差別、そして今でも定期的に発生する戦場帰りの若者というアメリカ社会の暗黒面がいっきに吹き出した数日間だったように思う。

アメリカは1991年の湾岸戦争の後、911テロの報復としての2001年のアフガン戦争、大量破壊兵器疑惑による2003年のイラク戦争と21世紀に入って大規模戦闘を継続している。
1975年に終結したベトナム戦争の後アメリカは長い景気低迷期を迎え、大量の戦争帰還兵、薬物汚染などの社会問題も抱えて少し戦争から遠ざかっていたのが、1990年代にIT系新産業の勃興とともに経済も回復してまたぞろ国際紛争に積極関与するようになった。

しかし2003年に始まったイラク戦争は、その後長い長いテロ掃討戦の泥沼にはまり込み、アメリカ軍撤退による終結宣言が出たのが8年後の2011年12月。
この間に財政危機もあってアメリカ議会は軍事費の大幅削減を決めて、少なくとも今のアメリカは国際紛争への積極関与から再び内向きの孤立主義に向かいつつあるようだ。


ところでダラスで起きた元スナイパーは、遠隔操作のロボットに装着した爆弾で爆殺されたそうで、この件について議論が起こっている。
近代法治国家の基本では、人殺しは犯罪だ。
いくら警察官でも、目の前の殺人犯を勝手に殺してはいけないことになっている。
ただひとつ例外があって、警官がその犯人に殺されそうになった時、「正当防衛」として身を守るための反撃が許される。
ダラスの犯人爆殺もおそらく爆殺に至る法的根拠は「正当防衛」によるものと考えられる。

しかし遠隔操作のロボットで爆弾を運んで犯人を殺害することが正当防衛に該当するのかどうか、その解釈にはかなり無理があるように見える。
かといって大混乱状態の現場でプロのスナイパーを放置して、それ以上犠牲者を出すわけにもいかない。
この件についてはいったいどういう結論が出るのだろうか。

そう言えば2011年にアメリカ軍特殊部隊がウサマ・ビン・ラディンを暗殺したけれど、この時の法的根拠は戦争中の敵司令官を攻撃した、ということだったらしい。
しかしアメリカの本音はただただビン・ラディンを消し去りたい一心で、法的根拠は後から取ってつけたものであるのはおそらく間違いない。

ということで法治主義の完成は日本のみならずアメリカでも、そしておそらくはヨーロッパ各国でもまだ道半ばなのだろうなあ、と思った。
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2016年07月09日

思考の鋳型をAIで壊せるか

少し前のニュースに、日立製作所が企業の経営判断を支援する人工知能の開発に成功、というのがあった。

今のところ、会社の「経営判断」は人間がやっている。
同じようなラーメン屋でも経営している人が違うと片方は繁盛してもう片方は閑古鳥が鳴いたりする。

人間の経営判断には、ひとつにはこれまでの経験が大きく活用される。
そこに本を読んだり人から教えてもらった知識を混ぜて、その上でそれなりに理屈を考えて判断を下す。
だがまったく同じシチュエーションでも、異なる人が判断すると異なる判断がたぶん出てくる。

時々感じることがあるけれど、若い頃に地域一番の繁盛店で修行して毎日目が回るくらい忙しいのが当たり前の状況で育った人と、普通の店で育った人とでは考え方が全然違う。
例えば現在の一日の売上が5万円として、忙しいのが当たり前の店長ならなんで20万円に出来ないのかなあと思い、普通の店長なら7万円か8万円が目いっぱいかなと思ったりするかもしれない。

あるいは経営の内容についても、デザインや店舗の作り込みに力を入れる人、または接客サービスが再優先とか店はボロでもラーメンの味が一番とか、それぞれの経営者のスタイルが入ってきたりしてそれによっても判断が異なってくるだろう。
そのように、人間の場合は経験や経営スタイルによって思考パターンや目標設定の考え方に脳内にある種の鋳型が出来上がって、いったん出来上がるとその鋳型を壊すことがむずかしくなるような気がする。

その点人工知能というのには今のところ「経験」というのはない。
思考のスタイルについてはいくらか初期設定で変更出来るのかもしれない。
人工知能は世の中の出来事をビッグデータとして学習してそれを基に判断を下すわけで、おそらく人工知能の判断は人間の判断よりはかなりフレキシブルで、突拍子もない意外なアイデアが出てくるような期待がある。


おそらく今経営で困っている会社の経営者の多くは、長い経験上脳内に出来上がった鋳型を壊すことが出来ずにドツボにハマっている感じになっていると思う。
よく「発想の転換」をしないといけない、というのを念仏のように言っているオジサンが今でもちらほらいるけれど、そういうオジサンほどなかなか転換がむずかしいのはよくある話だ。

そんなことを思うと、人工知能による経営判断というのはひょっとしたらものすごい潜在的可能性を秘めているのではないか。
これが商業化されたら案外爆発的に活用されるのではないか、という気がしなくもない。


そして明日は参院選の投開票日だが、政治の世界にも人工知能を導入して、いろんな政治課題に対して思考の鋳型に囚われない機械の判断を見ることが出来るようになったら面白いだろうに、と少し思った。
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2016年07月08日

マイルドなんとか

マイルドヤンキーという言葉を最近ちらほら聞く。
なんだか気になって、でもマイルドヤンキーの意味とかよく分からなかったので調べた。
すると、マイルドヤンキーはEXILEが好きで四角いデッカいミニバンに乗って地元志向で家族大好きでイオンモールとディズニーランドによく出かける人々を言うらしい。
この特徴から推測するに20〜30代の若い人たちのことなのだろう。
また、ネット上にはマイルドヤンキーに対するディスりがけっこう沢山あって、上昇志向がなく低学歴低収入、選挙に行かない、直情的でモノを考えない、タバコを吸いよく酒を飲むなどなどの生態に関する情報が書いてあった。

だが少し考えてみるとこのような小さい子供のいる若夫婦の生態は江戸元禄の町民文化の頃からそんなようなもので、あるいはアメリカやイギリスの同世代も似たようなものではないかとふと思った。
要するにマイルドヤンキーとは、古今東西を問わずわりかし普遍的な一般庶民の多数派に対してあえてあるカテゴリーをはめて、それでなんとなく納得してしまうための口実なのではないか。

ネット上にはかなり多くのマイルドヤンキーに対する批判、悪口、懸念などが溢れていて、こんなのが増殖すると日本が滅亡する、というような観測記事も多いようだ。

だが、このようなカテゴライズに当たっては、我々は慎重にならないといけない。
たぶん、このように大衆の一部の層に何かのカテゴリーを当てはめてその層の生態理解を単純化するのは、脳みその機能のひとつである「ものぐさ」によるところが大きいと考えられる。
個別の人物をいちいち細かく考察するより、十把一絡げにざっくりとしたカテゴリーで括った方が、脳みそを動かすエネルギーが節約できて良いのである。

人類の脳みそはそういうものぐさ方向に流されやすく出来ている。

そしてこのような脳みそのものぐさ傾向により人間理解を大括りにカテゴライズすることで、容易にいわれのない差別意識に人間の思考は流れる。

だから本来このような「カテゴライズ文化論」には、くれぐれも注意して当たらないといけない、と思う。

ところでマイルドヤンキーでなんとなく思い出したが「マイルドインフレ」という言葉もある。
マイルドインフレはマイルドヤンキーとは全然違う世界の言葉だけれど、「マイルド」と頭に付いていることでその意味が少々深遠さを増したような錯覚がある。

実際マイルドインフレは「良い」インフレ、「理想的な」インフレというくらいの意味なのだろうが、こちらは意味が深遠過ぎて理解が難しい。

ヤンキーとかインフレとか既存の言葉の頭にそれっぽい修飾語を付けると言葉の雰囲気が少し深遠になって煙に巻かれて説得度を増すのに違いない。

この手の言葉には注意が必要だ、と思った。
posted by ヤス at 08:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月07日

政治の近さの感覚

イギリスのEU離脱の国民投票から2週間ほど経った。
離脱の動きを主導した政治リーダーたちが何人か敵前逃亡したり再度の国民投票を望む署名が400万件も集まったり混乱が広がっている。
一方でロンドン株式市場は落ち着きを取り戻して国民投票前の水準よりかなり高くなっており、市場は必ずしも離脱決定を否定的には捉えていないらしい。
ニューヨーク市場も投票直後に激しく落ち込んだがその後急回復して、ロンドンほどではないがそこそこ堅調である。

しかしドイツや日本の株価は現在までのところ投票前の水準に戻っていない。
ひょっとしてイギリス国民投票の判断の方が正しくて、実はEUの方がシステムの限界を露呈しているのではないか、という意見がちらほら聞こえてくるが実際どうなのか、それはまだよく分からない。
今回のイギリス離脱のニュースをいろいろ追っかけていて時々聞こえてきたのが、EU本部がある「ブリュッセルの距離」が遠いという話。

話が少し飛ぶが、今から2千年以上昔の中国で秦の始皇帝が統一帝国を造った。
それまでの中国はいちおう周王朝が統治していたが、実際には各地に独立した王国があった。
各地の王国が周王朝に忠誠を誓ういわゆる封建制になっていたわけで、この構造は江戸時代の幕藩体制とほぼ同じだと思う。
メールも電話もない大昔には、ある程度のせまい地域でないと治安維持や徴税などの統治がむずかしい、という事情があったのだろう。
しかし秦の始皇帝はそれまで封建制だった統治機構を全面的な中央集権にしたわけで、そのために道路を整備し地方行政官の県令を置き、厳罰主義の法律を布いてガチガチの体制で政治を行った。
中国史上初めての集権体制は、そういうバリバリさが行き過ぎていたのか、まもなく崩壊して項羽と劉邦の戦いに進む。

要するに中央集権は法律や道路などの連絡網や大規模な官僚機構を整備したりしないといけなくて、コストがかかる。
その点封建制で地域ごとに小さい独立国があってゆるやかに連携している形は管理コストが安上がりだ。
当時の中国は北方に遊牧民族の匈奴がいてたびたび侵略されており、その軍事的対応のために大きな中央集権国家の成立が不可欠という事情があった。

でも一般庶民の立場では、厳しい法治主義の集権国家よりのどかな封建制の方が住み良かっただろうという気がする。

古代中国と現代ヨーロッパでは基本的人権とかの政治意識もインターネットなどのテクノロジー面も全然違うけれど、政治の近さの感覚は案外普遍的なのかもしれない。
したがって宇宙戦艦ヤマトとかに出てくる地球連邦政府、というのはけっこうむずかしいのかもしれない、と思った。

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2016年07月06日

五輪壮行会の説教事件

2、3日前のニュースに、元首相の森喜朗氏が五輪壮行会で選手に国歌を大きな声で歌うよう説教した、という事件が流れていた。
ニュースを読むと、問題の国歌の場面はプログラム上は自衛隊音楽隊の女性歌手による独唱だったようで、それを森氏は国歌斉唱と勘違いしていたらしい。
いつもは気のいい森おじいさんだけれども、歳とって以前に増して気が短くなって、そういう感じの近所のおじいさんの小さな失敗ということであれば、ある意味微笑ましい話と言えなくもなかった。

しかし舞台は五輪選手の壮行会で、本番に向けて選手を元気付けて送り出すのが本来の会の有り様であったはず。
がしかし、そこで選手の出鼻をくじくひとことを言ってしまうのが森氏の森氏たるゆえんなのであろう。

そういう意味でこの事件は別に驚くほどのこともない、いつもの事件なのかもしれない。
しかしここであえて、この件に関しいくつかの問題を考えてみる。

まずオリンピックそのものの問題。
近代オリンピックは1896年の第一回アテネ大会を皮切りに始まったらしい。
たびたび指摘されることかもしれないが、オリンピックは世界各国の国威発揚の場として利用されてきた。
一方でオリンピックは平和の祭典と喧伝され、少し前まではアマチュアリズムの聖地と信じられていたようにも思う。
しかしヒトラーのベルリン大会とかソ連や東ドイツのステートアマとかの例を出すまでもなく、近代オリンピックは創設以来国同士の団体戦としての性格がはっきり存在していて、それは今だにそうである。

森氏の説教事件もそのような前提に基づいて生じたものだろう。
だが選手にとってみれば、単に世界最高峰の試合の場というのが出場の最大動機なのではないか。
まあ中には祖国のために腕や脚が折れるまでがんばる、という選手がいてもかまわないが、選手の動機はあくまで個人の競技力向上にある方が健全な気がする。

我が国の選手が活躍することで国民が熱狂し、それによって国民がいい気分になりいくらか国家統治の役に立つ、というのは選手にとっては余計な話だろう。

もうひとつ問題と思うのは社会と個人のアイデンティティ混同問題。
日本という国が大好きな人々の中には時々、個人の自我の何割かが、美しくて優秀な日本国の一員である、という意識によって成立している場合があるように思う。
それはそれでいいのだが、面倒くさいのはそれを他の人にも強いることがあることだ。

同じ日本人でも日本国のことが大好きな人もいればほどほどに好きな人もいるし、中には日本国を嫌いな人、憎んでいる人だっているかもしれない。
それらを包摂してひとつの国だと思うのだが、すべての日本人がひとり残らず日本国大好きでないと気が済まないことがあるとすれば、それはたいへんなストレスの元になるのではないか。
と、今回の五輪壮行会説教事件に際して思った。
posted by ヤス at 11:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月05日

芸歴尊重主義について

さて、世の中は参議院選の真っ最中であるが、先月総選挙のあったAKB48は早くも選挙の選抜メンバーによるシングルCDの発売予告が出ているらしい。
相次ぐメンバーの卒業のなか、曲がり角に差しかかっているようにも見えるAKBグループの新しいCDがどんな曲で世間的にどのように話題になるのか(あるいはさほど話題にならないのか)気になる。

3年前の「フォーチュンクッキー」は社会現象にまでなった感があったが昨年の「ハロウィン」はそれに比べると今ひとつ盛り上がらなかった気がする。
AKBが勢いを盛り返すためには、「フォーチュンクッキー」を超えるインパクトを生み出せるかどうかがポイントになるだろう。
それと、若手メンバーの中に指原を凌駕するような逸材が現れるかどうか。

AKBの多人数コンセプトは、下の方でひしめいている知名度もなくキャリアも浅い若手メンバーの中から、ある日突然彗星のごとく期待の星が現れる可能性を期待したシステムであると思う。
そのシステムはこの10年の間に、実際に数名の傑物を生み出したわけであるが、しかしたった10年の歴史ではこのシステムの「スター生産能力」が明確に証明された、ということは言えない気がする。

そういうことを考えていてひとつ感じるのは、AKBは実はかなり体育会的な芸歴尊重主義が強いこと。
同い年、同学年のメンバーでも後から加入したメンバーは「先輩」に敬語を使う。
この傾向は、初期の頃より最近ほど顕著になっているように感じる。
これはたぶん日本の芸能界が芸歴による敬語の正しい用法に厳しいことが影響していると思われる。

芸能界というのは、本来実力主義であり、実際に世間の人気を集める人が忙しくなり収入も上がる社会であろう。
一方でバラエティ番組のようすを見ているとたびたびどっちが先輩でどっちが後輩、とかの話題が出て、また逆に先輩にタメ口を使うことがひとつの芸になったりする。
さらにたまに流れてくるゴシップ記事には、礼儀がなっていないことが原因で芸能界を干された若手タレントのニュースが流れたりする。

テレビに出るようなタレントには、場の空気を読んで状況に応じた発言やボケ・ツッコミを行う能力が重要であろう。
「出来るタレント」であれば礼儀問題くらい軽くクリアして当然であって、したがって芸能界の礼儀作法への厳しさは、ある意味空気を読めるタレントをスクリーニングするフィルターであるのかもしれない。

しかしそれがあまりに行き過ぎると、突出した才能、例えば日本を飛び出してハリウッドやら世界中で活躍するような傑出したタレントを潰す、ということもあるのではないという一抹の不安を感じる。

ということで、せめてAKBグループの内々では、芸歴尊重主義を払拭してもいいんじゃないかなあと思ったりしたのである。
posted by ヤス at 14:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月04日

暑い7月初旬に思ったこと

まだ7月の最初だというのにこの数日猛烈に暑い。
うちの家も朝の7時頃には室温が30度くらいになっている。

気象庁のサイトで調べると、岡山県の平年の日中最高気温は7月5日までは29度台で6日から30度を超え28日から翌8月12日までおおむね33度台で推移する。
岡山県で一番暑いのは7月の下旬からお盆くらいまでの2週間程度の期間である。
しかし今の段階でこんなに暑いとこの先どうなるのか。

まあ今年は早く暑くなった分早く涼しい秋が来るのかもしれない。

考えてみると現生人類はざっと30万年前にアフリカの大地溝帯の辺で生まれたという。
赤道直下のわりかし暑い場所が元のすみかであったのだ。
だったらホモサピエンスにとって日本列島の暑さくらい平気であってもおかしくない気がするのだが、やはり気温も30度を超えて33度とか35度とかだと事実としてたいへん暑く感じる。

ホモサピエンスが居住地域を決めるのに、最高気温が快適な25度くらいのところを選ぶと今度は最低気温が寒くなる、また最低気温を基準にすると夏の暑いのを我慢しないといけない。
そういう意味では日本列島は世界的にもかなり条件の良い場所であることは間違いないだろう。

想像するに、ホモサピエンスはなるべく気候的にも快適で食料豊富な理想郷を求めて古来さまよい歩いたことだろう。
アフリカ大地溝帯で生まれたホモサピエンスはその後ユーラシア大陸に渡り、ヨーロッパ、アジア方面に拡散していく。
一説によると大地溝帯からホモサピエンスが世界に拡散した最初の「出アフリカ」が10万年前くらいだという。

それであるものは海を渡ってオーストラリアに到達し、シベリアまでやって来た一群はベーリング海峡を渡って北米大陸へ、その後ずっと南へ下って南米大陸の最南端のパタゴニアに到達したのが1万5千年くらい前のことになるらしい。

この間アフリカから南米大陸の南端まで5万キロの距離を7〜8万年かけて移動したことになる。
年平均の移動距離で600mとか700mくらい。
一年分の移動距離としては大したことがないように見える。
少し不思議なのは人口密度も薄く同じホモサピエンス同士の縄張り争いもそれほどでもなかっただろうに、なぜそんなに世界の隅々まで移動する必要があったのか。

たぶん脳みそが発達して、衣服の工夫などで暑さ寒さへの適応能力が上がりだいたいどこの環境でも大丈夫になったことが大きいのだろう。
それと、ご先祖様も知らない未踏の地には、何か名状しがたい魅力がある、と当時のホモサピエンスは思ったような気がする。
そのように想像すると、土地を守り同じところに定住したいメンタリティはホモサピエンス史的にかなり最近の傾向であるのまもしれない、と暑いさなか、どうでもよいことではあるがそんなことを思った。
posted by ヤス at 11:39| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月03日

政治のプラシーボ効果

プラシーボ効果というのがある。
フランス語風だとプラセボになるらしい。
日本語で言うと偽薬効果。

薬の開発で、臨床試験の時に開発中の薬を投与すると同時に、比較試験として治療成分の無いただのビタミン剤とかを別の患者に投与する。
もし両者の治療効果にあまり差が無い場合、それはプラシーボ効果によるものということになる。
つまり薬の治療成分が効いたのでなく、患者の「薬の効果を信じる気持ち」によるもの、つまりプラシーボ効果が効いたことになる。
プラシーボ効果にはまだ面白い「続き」があって、それはノーシーボ効果というやつである。
治療成分がちゃんと入った薬でも、患者がその効能を疑っていたり副作用の心配が強いと効能が弱まるらしい。

プラシーボ効果というのは経験的にその存在が知られているわけであるが、医者の中にはこれを積極的に使う人もいるらしく、それで実際に病状がよくなる患者もけっこうな割合でいるという。

話は飛ぶが平安時代の頃くらい、日本では戦闘実務家集団である武家が勃興し始めるわけであるが、京の都の辺にはお公家さん、つまり貴族階級がいた。
これらお公家さんの仕事は「まつりごと」、と言っても現代の政治家のような切った張ったの政治ではなくて、神主さんが手に白い紙がついた棒みたいなのを持ってむにゅむにゅ呪文を唱えて一心不乱にお祈りするやつ。
しばらく雨が降らないで困ったら雨乞いする、病気が流行ったら悪魔払い、戦争が始まったら敵方を呪詛する、みたいなことをやっていたのだと思う。

現代的な感覚ではそのような祈祷は意味の無いことのように感じられるが、大昔では世間の安寧のために祈祷をするお公家さんは尊敬の対象であり、また実際に祈祷の実施によって大衆心理は安定し、社会の平和が保たれる実利的効果もあったような気がする。

社会の問題に対し、直接効果のある実際の対策を実施するのではなくただ天の神様に向かって祈祷することで実利的効果が得られたとすれば、これは社会的プラシーボ効果であるな、と思った。
そしてこれは昔のお公家さんだけの専売特許ではなく、現代においても似たようなものかもしれない。
特に最近の世の中はグローバル化も進み、物質文明も高度化複雑化して社会的課題の解決が容易ではない。
どうすれば貧困問題や格差問題が解消するのか、どうすれば悲劇的なテロ事件が抑えられるのか、その抜本的な解決の道筋が見えない。

このような課題がなかなか解決しない状況では、祈祷的な政治によって社会の平穏を保つしかないのかもしれない。
そして「祈祷アピール上手」な政治家が世論の支持をとりつけるのかもしれない。
たぶん医療の世界におけるプラシーボ効果と同様、政治的プラシーボ効果にも一定の意味はあるだろう。
けれど根本治療を諦めて祈祷一本槍でも困る。
効かない祈祷を続けていると、そのうちノーシーボ効果が強まるのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 11:23| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月02日

ポイントカードの実感

先日久しぶりに本屋さんで紙の本を買い、その際に別の本屋さんのポイントカードを出したら、これは別の会社のカードですと指摘されて苦笑するという失敗があった。

先ほど財布の中にある各種のポイントカード、スタンプカードを数えてみたら全部で8枚入っていた。
一番多かったのが家電店のカードであとは本屋と飲食店など。
一般に男性はポイントカードを面倒くさいと感じると伝え聞くが、おじさんの財布の中に入っている8枚のカードは多いのか少ないのか。

冒頭書いたような別の店のポイントカードを出す事故は、たぶんいちばん最初にやったときは非常に気まずかった記憶があるが、最近は年に1〜2回のペースで発生するのでもうさほど驚きもしない。
事故の発生原因は狭い財布のスペースに同じサイズのカードが何枚も入っていて、これがなかなか取り出しにくいということがある。
取り出しにくいから最終段階でのカードの判別がおろそかになり、とりあえず本屋さんのレジ前では「書店のポイントカード」に意識が集中しすぎて「どの書店」の判断をスキップしてしまうようだ。

以前から財布の中におけるポイントカード増殖問題は、世間的にもそれなりに問題になっていたと思われる。
普通に考えるなら、カードが増えて財布が膨らみ過ぎると使用頻度の低い順に財布の外に押し出されることになるだろう。
ポイントカード発行店舗側としては、カードが財布の外に押し出されないようにせっせと日常の販売促進に精を出し、店に足を運んでもらわないといけない。

最近はお財布ケータイ機能の付いたスマホが普及してポイントカードのアプリ化も進んでいる。
あるいはLINEが提供している店舗用サービスの中にLINEショップカードというのもあり、これらの電子的な方法を使うと、とりあえずスマホ1台あればよく財布が膨らむ心配がなくなる。

電子的なポイントカードにまつわる最大の問題は、たぶんポイントをもらった実感をどうするかだ。
この点紙のスタンプカードにハンコを押す昔ながらのポイント付与は、「ポイントもらった感」が確実にある。
一方で電磁気カードやお財布ケータイとか電子的にポイントをもらうと、いつの間にかポイントがたまっていて「もらった感」があまりない。

こういうことを考えていると、人間の実感というのは必ずしも現実の物理世界がすべてではないのだとあらためて思う。
最近またバーチャルリアリティ=VRが流行りつつあるみたいだが、VRの実感はある意味現実世界とほぼ同等、というかバーチャルとリアルの区別は、たぶん実感が強い方が「リアル世界」なのである。

スマホがこれだけ普及しても紙のカードが廃れないで財布がパンパンになるのは、紙のカードが今でも実感の強さでは電子的方法にまだまだ優っているからなのだろう。
そういう意味では違う店のカードを間違って出すのも実感を感じることに一役買っているのかな、とも思ったりした。
posted by ヤス at 13:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年07月01日

ソニーロボット再参入

ソニーがロボット事業に再参入するらしい。
ソニーといえば1999年に出た犬型ペットロボットのアイボというのがあった。

その当時、知り合いの方で70歳過ぎの男性がアイボを買ったと嬉しそうに話していたのを思い出した。
そのおじさんは、どうも機械やコンピューターが好きな人だったみたいで、アイボを買ってこれが可愛くて仕方がないという話をしていたと思ったら、その後にアメリカからやってきたファービーも買っていた。

ひとくちにロボットといっても種類がたくさんある。
前にも書いたがロボットの概念の最初は100年ほど前のチェコスロバキアの戯曲に登場し、そのロボットは金属製の機械というよりは人間に似せたアンドロイドのようなものだった。
その後のロボットは日本で鉄腕アトムになったり人間が操縦する鉄人28号になったり、あるいはハリウッドでブレードランナーのレプリカントになったりした。

想像上のロボットはともかく、現実世界におけるロボットとしては、次第に産業用ロボットが増殖して人型でない機械もロボットと認識されるようになっていったのだと思う。

そして最近のトピックはなんといってもアメリカのお掃除ロボットルンバであろう。
それまでのロボットはテレビの向こうの想像の世界にいるか、あるいは自動車工場のラインでせっせとアームを動かして溶接作業をしているかくらいだったのが、ロボット的なのがいよいよ家庭の中に入ってきた。

ルンバの登場は2002年ことだったらしい。
その頃仕事の知り合いで発明好きの人物がいて、その人がほぼルンバと同様の原理で動く掃除ロボットを考えた、と言っていたのを思い出した。
同じようなことを考える人がたくさんいたということだったのか。
だが結果的に掃除ロボットはアメリカからやってきて、その後日本の家電メーカーがいっせいに後追いすることになった。

まあ考えてみると人間がやっていた家事労働をロボットが肩代わりするようになる流れは歴史の必然、という気がしなくもない。
そのようなロボット開発の機が熟してきたということなのか、経済産業省でも「ロボット新戦略」という政策をつくって日本のロボット技術で世界を牽引しようとがんばっているらしい。
特に介護や災害対応や農林水産業分野などにも向けたロボットの開発を進めるそうである。

だがいつものことだけれど、役所の考えることは常識の範囲内で突拍子もないアイデアは政策の対象とはならない。
このような政策を実施することで産業界の開発方向にバイアスがかかり、思っても見たことのない突飛なアイデアが弾かれる可能性が高まるということが考えられる。
たぶんアイボのような「働かない愛玩ロボット」は政策の範囲外であろう。

しかしだからこそ、ソニーのような会社にはなるべく「ロボット新戦略」の範囲を飛び越えた突飛なものを開発して欲しいよなあ、というようなことを思った。
posted by ヤス at 13:42| Comment(0) | 徒然なるままに