2016年06月10日

直立二足歩行と人類進化

陸上自衛隊の主力戦車は、1974年に正式化された74式戦車、1990年正式化の90式、そして2010年正式化された最新の10式の3種類になっている。
あと、コストダウンと運用簡便化などを目指したと思われる、キャタピラでなくタイヤで走る装輪式の機動戦闘車が開発中だ。
この機動戦闘車は今年正式化される予定で、そうなると16式機動戦闘車という名前がつくのだろう。

この機動戦闘車の特徴は優れた砲安定装置を装備していて、装輪式装甲車はキャタピラの戦車より走行中の安定性確保が難しいにも関わらず「走行間射撃」が得意なことであるらしい。

だいたい第二次大戦中くらいまでの戦車は、打つ時はほぼ必ず止まらないといけなかった。
走りながら揺れる状態で主砲を打っても、よほどの至近距離でない限り砲弾がアサッテの方向に飛んでまず当たらない。
しかし止まっている戦車は歩兵のバズーカ砲に狙われたり吸着地雷をくっつけられたりする危険性が増すし、敵の対戦車砲が狙う場合も走っているのより止まっている戦車の方が命中率が高い。
だから本来なら、戦場における戦車はなるべく止まりたくないに違いないのだが、戦車の仕事である主砲による攻撃を全うするためには、昔の戦車は危険を承知で止まって狙いを定めないといけなかった。


ところで、話は変わるが人間とゴリラやチンパンジーなど類人猿の身体の特徴の違いの最大のものは、おそらく直立二足歩行である。
チンパンジーなどは体の構造上移動する時は拳を地面に付けて四足歩行する「ナックルウォーク」をし、完全な直立二足歩行はできない。
最近インドネシアで70万年前の原人化石が見つかったというニュースがあったけれど、現生人類以前の原人たちも、脳みその容量はチンパンジーやゴリラと大差ないが直立二足歩行ができるという意味ではずっと人類に近い、ということが言えるそうだ。

つまり人類の進化は直立二足歩行が先にあって、その次に脳の容量が大きくなった。
直立二足歩行が先で脳が後、という話をある本で読んでいてしばらくその意味について考えていたのである。

脳容量の拡大は、手先を器用に使うこととかなり関係があるらしい。
手先を器用に使うということでは、チンパンジーも手の指が人間に近い形になっていて、例えば木の枝の葉っぱや小枝を除いてシロアリ釣りの道具を作るなど、簡単な加工作業もできるという。
ただしチンパンジーの場合、そういう作業はべったり座り込んで手を自由に使える状態にしないといけない。
しかし脳容量はチンパンジー並だが直立二足歩行できる原人なんかの場合、立ったまま手が使える。
あるいは歩きながら手が使える。
歩いたり走ったりしている途中に自由に手を使う芸当はチンパンジーには難しい。

でも歩きながら走りながら手が使える原人や現生人類は、例えば槍をもって走りながらマンモスめがけて投げる、なんていう芸当ができる。

走りながら手を使える能力は狩りをするのに役立っただろうし、不安定な中で手の動きを制御することが脳の発達にも何か影響したのではないか、と想像する。


優れた砲安定装置を装備した最近の戦車は旧式の戦車に比べると格段に強く、かつてのイラク戦争では米軍のM1エイブラムス戦車はイラク軍の旧式ロシア製戦車を一方的に撃破した。

走りながらバシバシ主砲を打つ新型戦車の強さが、直立二足歩行の完成度のより高いホモサピエンスが、そうでない原人や類人猿を駆逐していった情景と結びついたのだけれど、走りながら武器を使えることが人類進化の鍵であったのではないかという妄想が膨らんだお話でした。
posted by ヤス at 13:18| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月09日

最適な急ぎ具合

仕事にはていてい締め切りがある。
というか、締め切りのない仕事はない。

仕事を進める一連の作業は、ほとんどの場合面倒くさい。
したがって締め切りがないといつまで経っても終わらない可能性が高いと思われる。

考えてみるとこの締め切りにはいくつかの種類があるのではないか。
大きく2つに分けて、余裕のある締め切りと、ギリギリな感じの締め切りがあるだろう。

ソフトバンクを率いる孫正義氏はその著作の中で仕事は割り算でやれ、と言っていた。
つまり、いつまでに終わらせないといけない仕事かの見極めをして、ゴールから逆算して工程を決めるべきという考え方である。
そんな調子だから孫氏の元で働いていると、締め切りはいつでもギリギリか、それはちょっと無理なんじゃないかというレベルのことが多くてみんな苦労しているに違いない。

これに対し、作業工程を積み上げていって、この作業量であればこれくらいの時期に終わるだろう、と計算する方式もある。
このやり方はしばしば官僚化し、スピード感が失われた大組織の弊害として語られる。
それ以外にも、基本的に例えば社外の外注先に仕事を依頼する場合、あまり締め切りがぎりぎりだと質失礼に当たるというので、少し余裕を持った依頼をする場合もあるのかもしれない。

でもこれも考えようで、あまりに余裕の有り過ぎる締め切り設定の場合、仕事がダレる、最初の打ち合わせで話していた内容を忘れる、そのうち別の仕事が割り込んできて後送りになるなど、ろくなことがない。
それに余裕のある締め切り設定の場合、クオリティが6分7分の出来だとちょっと言い訳しづらい。
だからほとんどの場合、依頼される仕事の締め切りは無理目に急ぐ感じの方が良いに違いないのである。

にも関わらず、積み上げ型で余裕のある締め切りの仕事はまあまあ多いし、いわゆるサバを読むという昔ながらの手法で余裕時間を獲得するせめぎあいが、あちこちで行われていると想像される。

よくオリンピックが決まったのはいいけれど、会場となるスタジアムの建設が計画より大幅に遅れて開催が危ぶまれるという事件が起きるけれど、不思議な事にオリンピックが終わってみれば大きな問題にならず結局は辻褄が合っている。
新興国やラテン系の国でオリンピックが開かれるときはお約束でそうなるけれど、さすがに陽気で呑気なラテン系諸国でも締め切りが迫ると瞬発的な馬鹿力が発揮できるらしい。

おそらく人間は、本質的にはナマケモノなので締め切りはなるべく余裕がある方が本来うれしい。
しかし現代資本主義社会は基本的に「締め切り」が支配する社会なのであろう。
陽気で呑気な民族も締め切り効果で本気にさせる。
あるいは資本主義下ではナマケモノは経済的敗北を喫する運命なので、敗北は嫌だなと思ったら何かに憑かれたように先を急がねばならない。

ここで問題はどの程度先を急ぐかということだ。
適切な睡眠をとったうえで精神的な健康を維持しつつパフォーマンスが最大化する「急ぎ具合」というのがあるのだろうか。
もしあったらその方程式を知りたいなあ、とふと思ったのでした。
posted by ヤス at 15:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月08日

政治家の不正直

どうも舛添都知事の問題はなかなか沈静化しないようで、自民党はまだ知事を見捨てていないという週刊誌情報もあるが、そのわりにメディア等からの批判を一身に背負っているように見える。

この間に甘利元経産大臣の不起訴が決まり、また先月の伊勢志摩サミットでなぜか予定していた消費税増税の再度の先送りを安倍首相が発表する、とかあった。

舛添都知事がメディア等から攻撃されているようすを見ていると、本人の態度にも問題があるとは思うが、ひたすら批判され質問されるのを第三者のきびしいナントカのひとつ覚えでひたすら耐えていて、なんだか気の毒な気さえしてきた。

この問題の影響により、都政運営の何%かは滞っているのではないか。
どうせこれ以上追求しても違法性を問うことも難しいらしいし、適当なところで切り上げた方が良い。
そして舛添氏ひとりの問題で終わらせるのではなく、政治資金の使途に関する規制や都庁内の費用支出基準の見直しなど、政治や行政にかかる費用全体の適正性確保をめざす方向に動いたほうが良い。

ただしこの問題は政治家や行政官僚が、政治資金や行政支出についてかなりの程度不透明さを認められているその既得権を壊す話であり、舛添氏個人の問題から日本全体の問題に昇華するにはかなりハードルが高いようでもある。
ハードルは高いようではあるけれどこういう機会に適切に問題の視点を移動して全体システムを正常化しないと、これから先も延々と問題がバレた個人への批判を繰り返し続ける羽目になる。


それと舛添都知事に限らないが、甘利元大臣にしても、消費税の増税先送りを決めた安倍首相にしても、なぜあそこまで不正直を貫き通すのか。
と言って、彼らが嘘をついている具体的証拠を何か掴んでいるわけではないのだが、世間に流通している情報から推定する情況証拠と彼らの言動を照らしあわせて、どこをどう考えてもつながらず、納得出来ない。
嘘をついているか、真実を語らず黙しているかのどちらかと思わざるをえない。

というか彼らの語っている内容を落ち着いて整理すると、実はそこには意味のある内容が含まれていない。

政治家というものは、あまりバカ正直だと務まらないのはまあなんとなく理解できる。
しかし語る言葉には少しくらいは意味があってほしい。
また何年かのうちの一回くらいは、この人もえらい正直なことを言うなあと、嘘でもいいからそう思わせて欲しい、と思った。
posted by ヤス at 15:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月07日

お化粧の謎

多くの女性は化粧をする。
これに対し多くの男性は化粧をしない。
いったい化粧とはなんなのだろう、という問題がふと頭をよぎった。
わたしもそこそこの年数を生きてきたおじさんであるが、幸いなことに(あるいは不幸にも)化粧を一度もしたことがない。

しかし世間の女性は化粧をするのに、なぜほとんどの男性はしないのか。
ただし、歴史を振り返るとお公家さんとかは男でも化粧を塗りたくっていたようである。
また、沢田研二に始まり、聖飢魔IIのデーモン閣下やゴールデンボンバーなど、ビジュアル系の音楽アーティストは化粧する。


ここで落ち着いて、化粧の何たるかを考えてみる。

まず、化粧すると素顔からは見た目がかなり変わる。
人によっては本人確認が不可能になるほどである。
「化粧」というほどであるから、やはり何かに「化ける」という作用がポイントなのであろう。

昔のお公家さんであれば、天皇に近侍する貴人としてのオーラを醸し出すために、また武家と違って実力行使を行わない公家は、もっぱら呪文や祈祷が仕事であって、そのように鬼神に仕える職業柄から、人ではない何かに化ける必要があったのかもしれない。

この構造はビジュアル系アーティストでも同じかもしれない。
彼らはステージの上では人ではない何かに変身していて、そのついでに化粧によって顔の表情も作り変えているとも考えられる。

そう言えば美輪明宏やマツコ・デラックスなど、「おねえ」の方々で元は男性に生まれたという人々も、比較的化粧をしている印象が強いのだが、例えばおすぎとピーコなどはあまり化粧の印象がない。
このあたりの嗜好の違いはどういうところから生じているのだろう、少し気になる。

また1992年に中国を旅行した時、天安門事件の3年後で経済自由化が進行中の時期だったが、まだ化粧っけのある女性は少なかった。
それがもう何年も前から、日本の化粧品は少々高いけれど安全でよいというのでバカ売れしているという話を聞いたことがある。
化粧をするのもタダでは出来ない。
したがって経済的豊かさも、化粧の一般化にかなり影響するのだろう。


何年前からだろう、「化粧顔」の対語としての「すっぴん」という単語をよく聞くようになった。
おそらく今では多くの女性がすっぴんのまま人前に出ることがない。
つまり少なくとも人前では常に化粧顔のわけで、その場合、化粧顔が本当の顔なのか、すっぴん顔が本当なのか、そういうアイデンティティ危機が生じてるのではないか、というのが人のことながら気になってならない。

ということで、化粧するとはどういうことなのか結局よく分からなかったなあ、というのが今日の結論。
posted by ヤス at 13:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月06日

ゴリラのニュースについて

もう先月のニュースになるが、アメリカはオハイオ州の動物園で子供がゴリラの檻に転落して、救出のためにゴリラが射殺される事故があった。
瞬間的な判断が必要な中でゴリラを射殺した判断は、たいへん可哀想な思いを禁じ得ないけれどまず仕方ないと言える。
ゴリラは本来大人しい動物で、専門家の間でも射殺は行き過ぎとの意見も出ているようだ。
ネットニュースでニシローランドゴリラの「ハランビ」が、4歳の男の子を引きずり回す動画も見たが、その感じではハランビはただ男の子を引っ張り回して遊んでいるだけのようにも見え、救出された男の子にも大きな怪我は無かったということであるが、何せ相手は体重180kgで怪力の持ち主である。
ひっぱられている途中でどこかに頭をぶつけるかもしれず、たいへん難しい状況であったことは理解できる。

このニュースが流れた時に、過去に起きた同じようなゴリラ舎への転落事故の事例も流れていた。
それによると転落して気絶した子供に対して、シルバーバックのボスゴリラが他のゴリラが近づかないようにしたとか、落ちてきた女の子を雌ゴリラが抱えて人間の元まで運んだとかいうことが過去にあったらしい。

今回射殺されたハランビの場合は、子供が落ちてきて、周囲の人間が叫んだりして辺りが騒然としたことで興奮状態になったのかもしれない。
前述のボスゴリラのような落ち着きは無かったようである。

しかし同じゴリラでも子供に対する反応が違うのは興味深い。
群れを統率するボスゴリラのような立場にあると、小さい人間の子供をオモチャにして遊ぶような軽率なマネはしないらしい。
それに対し「役無し」の比較的若いオスゴリラの場合は、あまり抑制が効かず乱暴な行動に走りがちなのかもしれない。

おそらくゴリラの場合でも個体ごとにいろんな性格の違いがあり、個性がある。
個性の違いは年齢性別や体の大きさ、生育環境、群れにおける序列など、さまざまな要素が影響すると考えられる。
でもたぶん、同じ環境で同じように育っても、同じ個性にはならないのだろう。
特にゴリラのように知能が発達していると、個性の振り幅も大きくなるにちがいない。

怒りっぽかったり物静かであったり、臆病だったり攻撃的だったり、あるいは思慮深いとかおっちょこちょいとか、ゴリラの場合にもいろんな個性のパターンがあるのだろうと想像する。
同じDNAを持った同種族の生き物でも、後天的な個性の振り幅が大きくあることで環境変化への適応確率が上がる、ということがあるのだと思う。

そういう意味で個体ごとにいろいろと個性が違うことには大きな意味があるように思われる。
またその意味でそれぞれの個性がなるべく頑張って生きていくことに意味があるような気がする。
時々起こる動物園での動物舎への転落事故(故意の転落もあったようだ)だが、やはり動物園側のハードウエア的な対策がもっとも必要と思う。
この場合人間の不測の行動が事故の発端であるわけで、その被害を被る動物の気持ちを思うとなんともやるせないなあ、と思った。
posted by ヤス at 14:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月05日

労働とは何か

さて、来月10日には参議院議員選挙が行われることが決まり、これを受けて自民党から公約が発表されている。
秋口の大型補正予算とかいろいろあるようであるが、公約の中に最低賃金の引き上げや同一労働同一賃金など労働関係の施策についても言及されているようだ。
これは言うまでもなく自民党が現代の労働事情に改善の余地が大きいことを認識しているからであろう。

わたしは最低賃金引き上げも同一労働同一賃金も出来ることなら実現した方がよいが、たぶん現状では実現困難と考える。
最低賃金を引き上げ、労働内容ごとに賃金水準を統一することは、正規労働者と非正規労働者の収入格差の縮小及び拡大する貧困層の所得水準底上げが目的であろう。
しかし問題の根本は、国内企業に給料の支払額を増やす「原資が無い」ということであり、よって給与総額を増やす方向に作用するこれらふたつの施策は目的を達成出来ない公算が強い。

徐々に拡大する貧困層対策や格差拡大への対策は、まず給料原資の確保を実現する施策を第一弾として打ち、それが出来たのちに賃金アップや賃金ギャップの是正など直接的な施策を打つべきであろうことは明らかだ。
給料原資を確保しないままに直接策を打っても、ギャップの解消はいくらか進むか分からないが、それは給与総額の減少か、支払い対象者の減少を伴ってようやく実現する、という可能性が極めて高いと想像する。



ところで、このような問題について考えるたびに、労働ってそもそも何なのだろうということを考えてしまう。
どうも今日的な意味での労働は、百数十年前の産業革命期に登場したもののように思う。
この時期には近代資本主義が誕生し、近代資本主義は農村から都市部に集めた労働力を最大限活用して資本の拡大に邁進した。
当時の労働時間は休日無しの1日15時間労働くらいのところが標準であり、これは要するに人間がギリギリ死なない程度でマックス働ける労働時間、ということを意味すると考えられる。
またこれらの労働者がマックス働いて生産する製品もマックスに効率化が進んでおり、当時のイギリスでは労働者階級の食べるパンの多くに製材所から出る「おが屑」が混入されてカサ増しされていたという。

ただ近代資本主義はそれなりに賢いので、巨大資本にとっての搾取対象である労働者階層をすり潰してしまうと、資本主義の発展に支障を来すことにやがて気がつく。
その結果、各種の労働者保護の仕組みが出現し、労働者であると同時に消費者である一般大衆がつくるマーケットが出来上がり、今日に至っている。

そのような経緯を考えると、標準的な労働者は週に40時間働くとか、年間休日は105日くらいが適当であるとか、そういう常識がそもそも巨大な虚構であるように感じられる。

しかし貨幣経済による囚われの身としては、現実問題としてそんなことばかりも言っていられないので、今日も少し働くフリをして日銭を稼ぐことにする。
posted by ヤス at 11:23| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月04日

北海道で男児無事発見

北海道で行方不明になっていた7歳の男児が昨日無事発見されたらしい。
不明になってから7日も経っていたということで、安否が非常に心配されていたが見つかって本当に良かった。

ところでこの件について、時間経過とともにたんだん世間の注目度が高くなって、ニュースでもけっこう取り上げられるようになっていたようだ。
その中で置き去りにした父親に対する批判、それから昨日のニュースには捜索方法にまずい点があったのではないかという批判が上がっていた。

父親に対する批判であるが、当初虐待を疑われるのを恐れて「しつけのために置いていった」という事実を隠していたらしい。
で、実際にいくつかこれは虐待にあたるからダメだ、という論評が散見された。
まあ国際的な児童虐待の定義に従えばそうなのかもしれない。
しかし今のところ体罰を受けていた痕跡を見つけたような情報もないし、このお父さんはわりかし恐いオヤジだったのかもしれないがそれでも世間的な許容範囲に収まっているような気がする。
なによりオヤジも不完全な一人の人間であって、いろいろ失敗したり悩んだりしながら子育ているのだろう。
そもそも日曜日に息子と一緒に山に出かけているわけで、子供の相手は嫁さん任せの昭和のオヤジよりよっぽどいいような気がする。


あと、捜索方法がまずかったのではないかという批判について。
これは行方不明になった経緯について父親の説明が二転三転したことが影響した、ということだがそれはその通りだったのかもしれない。
置き去りにしたことが分かってから自衛隊200名が投入されたが、その際に捜索範囲の設定が男児発見場所の逆サイドのエリアになって、結果的に発見が遅れた。
この判断の基には7歳児の体力で険しい方向へは進まないだろうという推測などがあったらしい。
この判断について批判の意見がある。

限られた人員で広いエリアを捜索しなければならず、そのためにはエリアをいくらか絞り込まないといけないのは致し方ない。
ただその絞り込みの判断はかなりむずかしいように思う。

で、ひとつ思ったのが、このような雲をつかむような捜索事案について今後AIを使った選択肢のリストアップが出来るだろうということ。
過去の山中の行方不明事件の情報をデータベースにして、いろんな選択肢をAIに出させることが出来ると思う。
人間の脳みそだけの判断では、固定観念による思い込みで判断を誤る可能性が多々あるだろうが、AIの活用でそのような盲点をカバー出来るのではないか。

あとはドローンや捜索救助ロボットとか、こういう時のために人間や捜索犬をサポートするテクノロジーも今はいろいと活用出来ると思う。

今回の事件では、北海道の自衛隊が施設の鍵を施錠し忘れていたことが結果として男児の健康保護に役立った。
今回は自衛隊の管理ミスが逆に役に立ったけれど、少し以前の実弾誤射事件といい、そっちの方が少し心配だなと思った。
posted by ヤス at 11:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月03日

総選挙速報を評価する

今年もAKB総選挙が始まった。
10年前までは総選挙と言えば衆議院選挙のこと以外の何物でもなかったが、最近は単に総選挙と言えばAKB総選挙を思い出すのはわたしだけだろうか。
そう言えば本家の日本国の衆議院選挙であるが、今回は見送りが決まったようだ。
少し前まで、ひょっとしたらAKB総選挙のひと月後に本家の総選挙があることになって、変な盛り上がりがあるかもと密かに期待していたのだがまあ仕方ない。

AKBの総選挙だが、5月31日から投票が始まり、6月1日夜に投票初日の票数がいつものように速報として発表された。
今回の速報では、初めての試みとして圏外100位までの票数も発表されたがこの結果も非常に興味深かった。

ところでAKBの総選挙だが、こちらは票数という明確な数字によって人気を測るイベントであるので、ある意味現在のAKBのパワーを定量的に把握することが出来る。
今回の速報では暫定80位までの総票数が714,944票。
昨年が686,154票、一昨年が518,554票だったので、ここまで確実にAKBグループの勢力は拡大を続けていると見ることが出来そうである。
ただし、昨年と一昨年の速報票数を比較すると132.3%の伸びであるのに、今年と昨年の比較では104.2%の伸びにとどまっている。
また、速報票数と最終票数の比率を昨年、一昨年見てみると、一昨年は439.2%、昨年は398.7%であり、4倍程度の伸びを記録しているが、その伸びしろがちょっと減っているのが気になる。
もし今年の伸びしろが昨年よりさらに減った場合、最終票数が昨年を下回る可能性も十分にあるというくらいの数字であるが、はたしてどうなるのか。

ちなみにAKB総選挙の投票権はよく知られているように投票権付きシングルCDの購入によって得られる。
それ以外にモバイル会員やファンクラブ会員への加入によっても投票が可能だ。
Amazonでは投票権付きCD「翼はいらない」が1,387円で販売されている。
またモバイル会員の月額会費は324円であり、投票後直ぐに退会することも可能である。
このあたりの投票方法の内訳は不明であるが、仮に間を取って一票の価格が900円であるとすると、今回の速報票数714,944票は6億4千3百万円に相当する。
また昨年の最終投票数2,735,433票は24億6千万円である。

1日で行われた投票において6億4千万円前後のお金が動いたというのは、やはりAKBは相変わらず大したものであると言わざるをえない。
また同時に、微妙にボリュームの伸びが縮小傾向であることについても、今後秋元康らがどのような対策を打ってくるのか注目される。

そう言えば、今回の総選挙は新潟で行われるわけであるが、活動開始後半年のNGTに関しては、80位圏内は5,924票のキャプテン北原里英ただ一人であり、100位まで合わせても3名10,941票しか獲得出来ていない。
人口80万人の地方都市新潟市を拠点とするNGTは今後のAKBのマーケティングの鍵を握る重要なテストケースと考えられる。
今後のNGTへのテコ入れ策次第でAKBグループ全体の真価が左右されるのではないだろうか。
ということで、NGTの今後について特に注目しようと思った。
posted by ヤス at 10:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月02日

計画は暴れ馬をコントロールするのか

商売柄、「計画」というのを作ることが多い。
企業の「経営計画」というやつである。

しかし経営計画というのは大抵の場合、計画の通りにいくというのがほとんどない。
経営計画は、大企業であれば出資者である株主や債権者である銀行の顔色を思い浮かべて作るのだろう。
そうなると計画の下ブレ、下方修正などという事態は断じて避けたい。
だから計画もいきおい保守的に、堅い線にならざるをえない。

この辺の事情はわたしなどの関与する地域の小さい会社でも同じであって、銀行に向けて提出される経営計画は、いろんな下振れリスクを思い描きながら作ることになる。
しかしあまりにも固く固く計画を作っていると、ふと気がついたら赤字の計画になっていた、ということになりかねないので注意が必要だ。

よく言われる話で日本の企業は7割赤字だというけれど、これは国税庁の統計データで法人税を払っていない会社が7割程度いる、ということでおおむね本当のことらしい。
しかし日本の法人は従業員9人以下の小規模な会社が8割以上あるらしい。
そういう個人企業は、わざと赤字を出して税金を払わないようにするケースも多いだろう。
一方で従業員数が数十人とか数百人規模になってくると、銀行とも本格的に付き合うようになり、本来の会社経営らしくなって利益もそれなりに出さないと格好がつかない、ということになる。
そういう中規模以上の経営になると、利益を出すのに汲々としているところも多い気がする。
だから赤字企業が7割はやや眉唾だとしても、上位何%かの儲かっている会社とそれ以外の苦戦している大多数、という構図はそれなりにあると思われる。

そして銀行から融資を受けようという会社には、イケイケで新しい設備投資するなどというのは少数派で、多くはやや微妙な経営具合のところが多いのではないか。

で、そういう微妙な会社が保守的な経営計画を作ってなおかつ返済原資を確保した十分な利益を出さないといけない。


しかし計画というのは、だいたいどんな種類の計画であってもぴったりその通りにいくということはない。
計画の本来の趣旨は、思い通りにならない未来をなるべく思い通りに近い線になるようコントロールしたい、という点にあると思う。
どっちの方向へ暴走するか分からない「未来」という暴れ馬を、計画を作ることでそれなりに限定された変動幅の範囲に追い込みコントロール下に置く。

だから保守的でかつ必要な利益を確保してある、見ようによってはやや無理な計画が目の前にあったとしても、それで暴れ馬がいくらかおとなしくなるのであればまあそれでいいのではないか、と大きな声では言えないけれど少し思った。
posted by ヤス at 16:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年06月01日

「足りない」について考える

2014年頃から続くバター不足がなかなか解消しないらしい。
農水省は秋までに6千トンを緊急輸入することを決めて需給逼迫に対応するという。

そもそも世界的には、バターは需要が一服してややだぶつき気味、だから値段も安くなっている。
それが日本だけ品薄が続き値段も高止まりというのはなんとも納得いかない。
まわりのケーキ屋やパン屋もバター不足で非常に困っているところが多いようだ。

バターの品薄状況が続く理由は、報道でもさんざん言われているようであるが、おおもとの原因は輸入を全部農水省が管理しているからである。
バターは民間企業が勝手に輸入できない国家管理品目になっていて、国家管理品目になっている理由は酪農家保護のため。

その辺はいろいろな理屈や仕組みがあるのだろうが、基本的に酪農家を保護するためには農産品が余っているより足りない状況の方が都合がよい。
だから余りが出ないようにギリギリの線で需給調整をしているのだろうけれど、需給見通しが少し狂うと基本的に余る方に行くのではなく足りなくなる方に傾くことが多い。

これは本当に困った話で、消費者目線からはなんともやるせない。
それにこのような頑なな需給調整体制のもとでは酪農家としても経営の自由度が奪われて逆に活力を削がれるだろう。


「足りない」話で勝手に連想してしまったのだが、東京都知事が外遊費や議員時代の政務活動費をかなりゆったり費消したり、消費税の増税を延期するついでに秋口に大型の補正予算を組むとかいう話があって、そのあたりおカネの「不足感」が逆に足りないんじゃないか、という気がものすごくしてきた。

日本の政府債務はGDP比200%を超えていて、主要国中でもずば抜けた水準にあるわけだが、これもよく言われるように、これら借金の債権者はほとんどが日本国内の個人や企業である。(最近は日銀がダントツ最大の債権者であるが)

要するに日本国内の個人や企業がたくさんおカネを持っていたために、日本政府はこれまであまりためらうことなく国債発行を継続できた。
個人や企業でおカネの不足があまり無かったことが政府債務がここまで膨らんだ主要因とも言える。
逆に、個人や企業のおカネが足りなくて貧乏であった方が政府の財政規律がここまで緩まなくて済んだという理屈になる。

またまた話は変わるが、最近はアメリカ大統領候補のトランプ氏が日本からの米軍撤退発言をちらつかせたりしている。
もし本当にアメリカと現在の軍事同盟を解消したらどうなるのか。
日本が独自防衛の道に行って他の先進国並に軍事費をGDP比2%にすると今の防衛予算5兆円が倍の10兆円に増える計算だ。

逆に言うと今までGDP比1%以内の軽武装で来れたために、数兆円の「浮いたおカネ」が知らない間にあちこちで便利に費消されて、ちょっとおカネの感覚が狂ったという面があるのではないか。

バターのように足りなくて腹立たしこともあるけれど、余りすぎてユルユルということもあるような気がして、足りなくてカツカツ状態というのも緊張感を持って生きていくためには必要だなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 15:17| Comment(0) | 徒然なるままに