2016年05月11日

決断はむずかしい

基本的に何かを決断するのはむずかしい。
それでも今日の昼メシをハンバーグランチにするかトンカツにするか、くらいのことならなんということはないが、その決断が会社の命運を左右するとか、結果が逆方向に出たら何千万円も損失が発生するとか、結果が重大である時の決断のプレッシャーは大きくなる。

むずかしい決断に際して多くとられる選択のひとつに、決断しない、ということもある。
いわゆる先送り。
現実社会の面白さは、決断せず先送りにした場合に案外うまくいくことが多いことである、という気もする。

重大な結果につながる決断がむずかしいことの理由の根っこにあるのは、その決断が正しいかどうか、いくら考えてもはっきりとは分からないことだろう。
未来のことは、その時になってみないと分からない。
だから100%分かっていたら、決断で悩む必要がない。


少し昔の本だが、クロネコヤマトの小倉昌男氏が書いた「経営論」というのがある。
その本に、普通の運送業だったヤマト運輸が既存の運送業を全部やめて小口の宅配に集中する決断の場面があって、当時の上得意だった三越百貨店に取引の取りやめをお願いに行く話なんかも出てくる。
この時は小倉氏以外の全部の役員が反対し絶対に失敗すると訴える、そういう逸話があった。
クロネコヤマトのこの時の決断は、いわゆる典型的なむずかしい決断に該当する。

この時の決断は、普通の感覚でいたら絶対にできない決断だと思うが、なぜ小倉氏にはできたのか。
本の細かい内容を忘れてしまったのがだが、その時は従来通りの運送業を続けていたらちょっと行き詰まりそうだぞという危機感があったと書いてあったような記憶がある。
しかし、事業内容は従来通りもコスト削減や効率化などの改善策だけやっていても、案外普通の運送屋として、その後もそれなりに利益を出して経営継続できていたかもしれない、という気もする。

経営上の重大な決断は、それをやれば必ず良くなるというものではなく、時には決断を見送って先送りにした方がいいことだってあるに違いないのだ。

でもそれは結局のところやってみて、5年10年経過してみないと分からない。
だから決断は難しい。

少しひねって考えると、本当は決断してわざわざ危機的状況を経なくても良い場合でも、あえて決断して切羽詰まった状況を作り出す、会社が長く続くにはそういうことが必要なのかもしれない。
何年かに一度わざわざ危機的状況を作り出すことで、会社組織にとってのトレーニングになる、意識や職務技量の向上が期待できる、ということがあるのかもしれない。

そんな理由でもないと、重大な結果を招く大きな決断はできないよなあ、と気の小さい小市民は思ったのでした。
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2016年05月10日

水連派遣基準が目指すこと

先月に行われた水泳の日本選手権兼五輪派遣選考会で、北島康介は100m平泳ぎで惜しくも選考基準を突破できなかった。
派遣基準は2位以内に入り、決勝レースで派遣標準記録59.63秒を破ることだ。
北島は準決勝で59.62秒を出し、決勝では59.93位の2位。
北島は2位に入って記録的にも派遣標準を一瞬上回ったが、それが決勝ではなかったのでオリンピックに行けなかったわけだ。

個人的にこれはものすごく厳しいなあと思ったのだった。
世間的には合わせ技一本で行かせてやれ、というのもちらほらあったようだが、それほど大きな声にはならなかったようだ。
それというのもこの派遣基準が拡大解釈の余地がまったくなく、誰がどう考えても今回の北島は派遣基準に達していなかったのが明確だったからである。

もし派遣するとなると特例による救済というかたちになる。
しかし水泳連盟では救済措置についてはそのそぶりも見せていない。

だいぶん前の話になるがアテネ五輪のオーストラリアの選考会400m自由形で当時スーパースターであったイアン・ソープがスタートのフライングで失格になったのだが、この時はオーストラリア国内の世論が沸騰して、そのプレッシャーに気圧されたか出場権を獲得していた選考会1位の選手が辞退して特例によりソープが選ばれた。

もし同じようなことが日本で起きたら、同じように特例措置が発動されるのであろうか。
例えば萩野公介は400m個人メドレーの金メダル候補最右翼だけれど、萩野がフライングで失格になっていたら救済されていただろうか。
たぶん今の日本水泳連盟だと、救済はしないのだろう。

それはそれでひとつの見識である。

日本水連の厳しい派遣基準によって、日本の競泳チームは与えられた各種目の出場枠2枠に対し、北島が出た100m平泳ぎ以外にもいくつかの種目が派遣無しになった。
これはたいへんにもったいないなあ、と思われるわけであるが、一方で日本からオリンピックに出るためには高いハードルを超えないといけない、そのために選手が高いレベルの記録を意識するようになる。
実際に北京五輪以降、低迷していた日本水泳チームは各種目まんべんなくレベルが上がり、厳しい派遣標準記録を破る選手も増加傾向にある。

近い将来国内選考会の決勝8人に残る選手は誰もが派遣標準に手が届くレベルになって、派遣標準を切るのが当たり前になる時代が来るのかもしれない。
そうなったら日本チームは現在最強のアメリカに伍する水泳強国になっているだろう。
そういう長い目で考えるならば、やはり北島を特例で救済しないことにはたいへん意味があるよなあ、と思った。
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2016年05月09日

人工知能の脈絡

人工知能のニュースを見ていて思ったが、どうも人工知能は「脈絡」を飛ばす傾向があるらしい。

コンピューター将棋やコンピューター囲碁の指し手は、プロ棋士からは突拍子も無い指し手に見えることが往々にしてある、というようなことがしばしば言われる。
逆に言うと、人間の指し手には流れのようなもの、ある種の脈絡があるのだと言えるのだろう。

最近はディープラーニングとかによるビッグデータの解析技術が急速に進化している。
なんの脈絡もない膨大なデータの山を人工知能が解析して、人類の役に立つ種々のパターンを抽出するようなことが出来るようになった。

今後の想像としては、例えば会社経営に人工知能のアドバイスを取り入れるとか、お医者さんが治療方針を決めるのに人工知能が支援をするとか、知的作業のいろんな分野に入り込んでくるのではないかと思われる。
現実に金融取引とかには既に人工知能が活用されていて、リーマン・ショックの時にもプロの人間は財産を失ったが人工知能を使っていたブローカーは損失を防いだ、みたいな逸話も残っている。

そういうふうに今後は人工知能が人間にアドバイスをしてくれることが増えてくるだろう。
しかしその時に、たぶん人間はしばしば戸惑うのだろう。
それはおそらく、人工知能のアドバイスは多くの場合に人間の考える「脈絡」をすっ飛ばしたものであるだろうからだ。

例えばプロ野球の試合中継を見ていると、その道のプロであるところの解説者は、試合の流れとか選手の心理状態を読み取って次はこうなるでしょうと予測して、それがよく的中する。
しかし人工知能が指揮する野球は、流れや定石を無視したものに見えるだろう。
人間で言うところの天才型の試合運びというのになるのではないか。


「脈絡」というもののひとつの効用として、それが人間の脳みその中で腑に落ちる、分かる、理解できるという安心感、精神衛生上の効用が大きい気がする。
ストーリー思考とかよく言うけれど、ひとつながりになって流れているような物事は人間にはよく理解できる。
バラバラでランダムな物事の集合は、人間にはなかなか理解し難い。
理解できないと前に進めない。
しかし人工知能は脈絡があろうが無かろうが構わないで、バババッと猛烈にランダムなデータの山を解析して人工知能なりの「脈絡」を読み取る。
人工知能の脈絡は、おそらく並の人間には理解しがたいものなることが予測される。

だから人工知能のアドバイスを人間が受け入れるのは、かなり勇気を要することになるのではないか。

果たして人類は、理解不能な天才くんの意見をすんなり受け入れることができるのかなあ、などと思った。
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2016年05月08日

天邪鬼の必要性

突然だが、さっき「天邪鬼」=アマノジャクについてネットで調べた。

ウィキペディア情報によると天邪鬼は日本の神話から出てきたキャラであるらしく、元は「天探女」という神様であったらしい。
「女」の文字が付いているので女神なのだろうか。
それはよく分からない。
天探女は天の動きや人の心を探るシャーマン的な存在だったという。
また天探女は本来は天照大御神に仕える神様だったのが、ある時天界の邪魔をして、それ以来天の邪魔をするということで天邪鬼になったそうだ。

神話から出てきた天邪鬼はその出自上、人の心を読んでいたずら心を起こして天の邪魔をする小物の魔物、というくらいの位置づけらしい。

ところでなぜ突然天邪鬼について調べたくなったかというと、天邪鬼的な存在が、個人の心のなかに、あるいは社会の中に一定量必要なのではないか、という仮説が脳裏をよぎったからである。

わたしはあまり海外旅行の経験も豊富ではないし外国の社会事情にも無知なので外国との比較は出来ないのだが、どうも最近の不謹慎狩りとかネット炎上のようすを見るにつけ、日本社会における同調圧力の程度がますます拡大しているのではないか、と考えるようになっている。

日本は島国であって、特に江戸時代250年の泰平期間は海外との人的交流も極端に細って、この間に社会の調和を重んじる風土が出来上がったのではないかと考えている。
そんな中で異分子を発生させない、空気を乱さない社会文化が出来たのではないか。
この風土は明治以降20世紀中盤に至るまで、中央集権的な仕組みで近代化と経済成長を実現する時にはかなり役立ったようであるが、思考や行動様式における多様性が弱体化した日本社会はその後のグローバル化、経済成熟後の進路選択への対応を誤ったように見える。

で、そのように21世紀的課題への対応を誤った日本社会に今必要なのは、天邪鬼精神なのではないか、そう思ったのである。

日本における政治の世界では、野党はなんでも反対で建設的でないとよく言われる。
それはその通りで、野党は与党に反対するとともに野党なりの政策パッケージを提示することが不可欠であると思う。
だが同時に、何かの法案が提出されたらとりあえず反射的に異を唱えるような天邪鬼の勢力が一定数いてもよい。
国会だけでなく、会社の会議とか、町内会の会合とか、家族会議とか、いろんなコミュニティーの議論の場に天邪鬼が必要な気がする。

あるいは個人の思考の中にも天邪鬼成分を一定量飼っておいて、何か考えるときに自分の中にいる天邪鬼との間で熱い議論をすることがあってよいのではないか。

場の空気を乱したり空気をまったく読まない天邪鬼的存在は、精神衛生上かなりウザいものであるが、しかしこのような存在をまったく根絶すると、返って出てくるアイデアの多様性・クォリティが失われるのではないか、というようなことを少し思ったのであった。
posted by ヤス at 13:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月07日

縮小ベースへの転換

宇宙は138億年前にビッグバンから始まったという。
最初は針の先ほどの大きさだったものが猛烈な勢いで膨張して、今も膨張が続いている。
個人的に本当か嘘か確かめようも無いけれど、そういう説が主流である。

宇宙の膨張とは少し話が違うけれど、人類文明というのも目下のところ猛烈な勢いで膨張している。
ウィキペディア情報によると、紀元前1万年前頃、文明黎明期とも言えるこの時期の人類の世界人口は百万人〜1千万人、ざっくり数百万人規模と推定されているらしい。
これが西暦ゼロ年頃、イエス・キリストの生誕前後の時代には2〜3億人。
その後千年間、だいたいこの2〜3億人規模のままずっと推移したが13世紀頃から増え始めて16世紀頃には推計値4〜5億人になっている。
ちょうどイスラム世界の拡大、続くモンゴル帝国の成立、さらにルネサンス期を経て大航海時代に至るダイナミックな時代に当たるのでなんとなく納得できる。

その後世界人口は直線的に増加し、西暦1800年頃に10億人に達する。
このくらいの時代になると各種のデータが残っていて、だんだん人口推計が正確になっているようだ。
やがて時代は産業革命に突入して、ヨーロッパやアメリカを中心に生産能力の飛躍時代を迎える。
そして1927年に20億人、1961年30億人、1974年40億人、1987年50億人、1998年60億人、2011年70億人に達したとされる。
今後の予測については21世紀中に100億人突破するかもしれないし、80億人くらいで頭打ちになるかもしれない、と諸説分かれる。

何はともあれ、これまでの人類文明のボリュームは一貫して拡大膨張の歴史だった。
それがひょっとしたら頭打ちになるかも、と考えられるようになったという時点である種のターニングポイントを迎えたような気がする。

これまでは国家経済も、拡大前提で財政計画を作ればよかったのが、ひょっとしたら今後は縮小ベースに変更しないといけないかもしれない。
そういう不安が、先進国を中心にだんだん頭をもたげている。
そして実際に最近十年間くらいは、日本でもヨーロッパでもマイナス成長の年がぽつぽつ発生したりしている。

問題は、これまで人類は拡大ベースの世界史しか経験してこなかったために、縮小ベースでの国家経営のノウハウが十分でないことだ。
こういう場合の国家財政担当者の対応方法は次の二通りに分かれるように思われる。
ひとつはあくまで今後も拡大ベースが続くと信じ、将来の拡大を裏付ける証拠を方々から集めて、これを基に拡大の計画を作り続ける。
もうひとつは縮小ベースに頭を切り替え、縮小ベースの前提の基に持続可能性を追求する。
もちろん後者の方がより難しく、いろんな失敗もたびたび起きるだろう。
そしてこの種の問題は、むしろ地方の中小企業にとっての方が、より深刻かもしれない。

しかしそうこう言っている間も宇宙の膨張は猛烈な勢いで続いている。

果たして縮小ベースでの持続可能性は成立するのか。
という人類史的な問題は、宇宙規模から見ると一瞬のほんの小さな悩みなのであろうなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月06日

地震保険の等地区分について

ちょっと前に、とあるラジオ番組で熊本地震関連の話題をやっていた。
そこで挙がっていたのが地震保険の料率について。
地震への備えで住宅にかける地震保険の料率は、基本的には建物の構造と地域区分によって決まるということをそのラジオで言っていた。
で、その地域区分が都道府県別に1〜3等の3区分に分かれている。
1等地は保険料が安く3等地は高い、という順番になっている。

この等地区分は、過去の地震発生のデータや活断層の分布などに基づいて決められているらしい。
この等地区分は2007年に改正されたものらしいが、2011年に起きた東日本地震で被害を受けた福島県は2等地、今回の熊本県は1等地になっていた。

保険業界の理屈として、リスクの高いケースは保険料が高く、低リスクなら安くなるというのは理解できる。
ところが地震保険の統治区分の根拠になっている活断層のデータはかなり不完全なものであり、現実の地震発生状況とも噛み合っていない。

これはまた別の報道番組でやっていたが、日本の活断層分布の調査は全国をまんべんなくやっている訳ではないという。
国土地理院が作っている活断層マップの基になる調査は、調査のやり易い場所だけで実施されており、例えば火山堆積物が地表を厚く覆って断層面が見えない火山の周辺地域とか、地質調査船の乗り入れができない沿海部の浅瀬とかは空白地で残っている。
ところがこれらの調査未実施の空白地が、あたかも活断層不在の安全地域であるかのような扱いを受けることになって、地震ハザードマップや保険料率算定の基データにもなっている。

調査未実施地域だらけの不完全なデータがあたかもほぼ完全であるかのように錯覚されて、それによって人々の経済活動に具体的に影響を与えているのだ。
地震保険の料率は、1等地と3等地では保険料が3倍程度になるほどの差が設定されているようであるが、この差がまったく不完全な調査に基づいて、しかも都道府県というかなりの大くくりで設定されているのはいかにも不合理と言わざるを得ない。
例えば1等地の群馬・栃木はそれぞれ3等地の埼玉・茨城と隣り合わせだが、県境をまたぐだけで保険料が3倍になる設定は、乱暴に過ぎるのではないか。

今の技術水準および日本の行政能力では、たぶん地震の予知とか活断層リスクの正確な評価はおそらく不可能なのである。
政府や担当行政はその点についてあらためて周知し、誤ったリスク評価に基づいた地震対策の現状を改善する義務があるのではないか。

今、そういうリアリズムの感覚がものすごく必要ではないかと思った。
posted by ヤス at 15:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月05日

人生の意味づけについて

どうも1週間ほど前から「脇の下」の下の方の、右側のあばら骨周りのスジを痛めたようで少し痛い。
まあ普通の生活している分には痛いことを忘れているが、何かの拍子に思い出すのである。
例えばクシャミ。
ヘックションとくしゃみした最後の「ション」の部分、息を吐き出す時に少し痛い。
あと鼻をかむとき。
ティッシュを鼻にあてがって、チューンと気張る時にやっぱり痛い。

わたしはだいぶん前から毎日ちょっとした肉体トレーニングをやっている。
と言っても、Kー1ファイターではないからそんなに激しくトレーニングするわけではない。
最近のトレーニングは毎日腕立て伏せを40回。
続けて40回はしんどいので20回ずつ時間を空けて2セットでやる。
(ここ2ヶ月くらいはスクワットも加えている)

これがKー1ファイターならば、毎日40回の腕立てトレーニングだけだとすぐに負けるだろう。
毎日腕立て40回は、やらないよりはマシというくらいのトレーニングに過ぎない。
そんな軽めのトレーニングだけれども、ほぼ毎日やることによって、これは確実にやらないよりはマシだなあと実感するのである。

昔は気張って一度に50回とかやったこともある。
50回だと最後の方は顔を真っ赤にして気張るくらいしんどい。
しんどいトレーニングは、これを毎日やろうとすると、やる前にしんどさを思い出してちょっと億劫になる。
その億劫を乗り越えてトレーニングを続けるのはけっこうなストレスである。
日々のストレスは軽微でも累積すると大きくなりそうなので、やる前にストレスを感じない程度のトレーニング強度に留める方が良い、と考えるようになった。
だから20回を2セット。
最後まで顔を真っ赤にせずに出来る回数。

しかも最近は、わざと今日の腕立ては休み、と自分自身に宣言して練習を休む高度な技を憶えた。
毎日何かをやらなきゃ、というのはそれはそれでストレスになる。
だからわざと毎日やらない。
結果その方が長続きするのである。



そう言えば、右側あばら周りのスジが痛かった話を書いていた。

腕立てをやる時もこの痛みがけっこう来るのだ。
そんなに激痛ではない。
しかも腕立てのしんどさはやらないよりマシという程度の強度なのだが、痛いことは痛い。
まあまあのストレスである。
せっかくストレスフリーで無理なくトレーニングを継続していたのに、予想外の障害が現れた。
しかし、なんだかんだ言いながら1週間以上脇腹の痛みを感じながら腕立てをしている。
そうすると、だんだん腕を鍛えているのか痛みを我慢する能力を鍛えているのか分からなくなってきた。

まあそもそもが、やらないよりマシのトレーニングを続ける、というのがテーマなので、痛みに対するトレーニングは、これはこれでありなのかもしれないと無理やり思った。

本来意味を見い出し難いものに意味づけしながら生きるという点で、少しだけ人生の深淵に近づけた気がした。
posted by ヤス at 10:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月04日

三菱自動車の今後について

燃費不正問題で揺れる三菱自動車の4月販売が半減というニュースが流れている。
不正の影響は販売減による直接的な売上・利益の損失に始まり、補償問題が購入客、販売会社、部品会社および提携先の日産とあって、さらにエコカー減税の返還もあってそれがいくらになるのか今のところ見当もつかない。

ネット上で公開されている試算によると補償額は最大で1500億円程度と出ていた。
三菱自動車の自己資本額は7000億円ほどあるので、この程度だと財務内容に与える影響は致命的というほどでもない。
ただし足元の資金繰りには影響が大きい。
三菱自動車社長の会見では、手元現金は3月末で4600億円あるので補償の支払いは十分可能だという。

確かに半年スパンくらいの当面は、とりあえず支払い可能かもしれない。
でも本当の影響は、軽自動車販売停止と企業イメージのダウンによる業績悪化であって、販売半減という今の調子が長引くようだと1年後には巨額の赤字に転落する公算が大きい。
販売停止中の軽自動車が今後2〜3ヶ月で販売再開されるようには見えないし、再び暗転した三菱自の企業イメージが数ヶ月で好転するようにも思えない。
その場合、来年の今頃は状況が致命的に悪化していることが予測される。

だから少し気が早いかもしれないが、今回ばかりは会社の存続が危ないように思える。


日本の自動車業界は、三菱以外は今のところ安泰のように見える。
ひと頃ヤバかったマツダやスバルも今はかなり好調だと聞くけれど、為替変動やユーロ危機、新興国の変調などでマーケットはけっこう揺れることが多い。
結局、いちばんシェアが小さく研究開発費なども少ない最下位の三菱自動車が、環境の変化についていけなくて脱落した、ということなのかなとも見える。

一足早く地殻変動に見舞われた電機業界を見ると特にそう感じる。
業界内の地位が弱かった三洋電機がまず消滅し、続いてシャープが外資に買われた。

業界内でポジションが弱いところから淘汰される、ということが、電機や自動車以外の業界でも今後起こってくるのかもしれない。

だがそれは必ずしも悪いことばかりではない気がする。
淘汰された企業の中にも有能な人材はいるわけで、そういう人材はもっと強い会社に移った方が活躍できる余地が大きかろう。
中には海外のライバルに移る人もいるかもしれないが、それがいやなら国内企業が頑張ってヘッドハントすれば良い。

国内の大企業の組織構造が崩れていくのは当の大企業にとっては悪いニュースかもしれないが、日本経済の構造変革の第一歩と前向きに捉えることも出来るのではないか。
posted by ヤス at 14:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月03日

痛みの記憶

もうかれこれ10年くらい昔の話かもしれない。
ある朝、歯が痛くて目が覚めた。
時間は5時か6時くらいだったのではないかと思う。
その時、歯が痛い、というのは本当に痛いっていうのが、痛いほど分かった。

どうでもいいことだが、わたしは病院に行ったり薬を飲んだりするのが好きではない。
だから家にバファリンとか正露丸とか、痛み止めに役立ちそうな薬はカケラも置いていない。
最近は体重コントロールのために漢方便秘薬を常備しているが、まあそんなことはどうでもいい。

朝早くに歯痛に襲われて、家にとりあえずの薬もない。
当時すでにインターネットはあった。
PCの電源を入れて周辺の薬屋をリストアップして開店時間を調べた。
調査して分かったのはどの薬屋もドラッグストアも10時開店だということ。
ただ一軒のチェーンのドラッグストアだけ9時開店になっていた。

歯の痛みというのは、今となってはどんな痛みかよく憶えていないが、とりあえず思考回路を狂わせ理性を失わせるほどに痛い。
開店の9時までにはまだ2〜3時間あるが、ひとまず自動車に乗って家を出た。

ひょっとしたら朝の7時から開いている名もない薬屋があったりするかもしれない。
儚い期待を抱きつつ自動車を走らせたが目標のドラッグストアはやはりまだ開いておらず、名もない薬屋にも出会わないまま、わたしは虚しく街をさまよった。

結局何をどうやって我慢したのか委細は忘れたけれど、目標のドラッグストアが開店する9時がやって来て、とりあえず強力な痛み止めを入手し飲んだ。(あるいは塗るタイプだったかもしれない)
やがて痛みは治まり、わたしは心の平静を取り戻した。
この時以来、わたしは電動超音波歯ブラシや歯間フロスなどを買い込んで入念に歯磨きに精を出すようになった。
おかげで今までのところ歯痛に襲われることなく平和に生きている。

しかしその「歯痛事件」で思うのは、身体のどこも痛くないのはこの上ない幸せである、ということである。
身体がどこも痛くない時は、そのことのありがたみがよく分からない。
あるいは痛みの前触れのようなことがあっても軽視しがちである。
しかし少なくとも痛かった時の記憶が鮮明な間は歯磨きに精が出る。

そして痛みの記憶が薄れた時、痛くない状況がすっかり「普通」になった時、ついついココロのゆるみが生じるのであろう。


今日は憲法記念日であるという。
70年前に日本国中が痛い目にあって、その時の紆余曲折から現憲法は出来た。
現憲法については、改正論議も無論重要である。
しかしこれが出来るに至った、「痛かった日の記憶」を思い返してみることがまず大切ではないかと考える。
幸い人間社会は、いろいろな知恵を語り継ぎ、継承する能力を持っている。

ということで憲法記念日で歯痛の記憶を思い出したので書いてみました。
おしまい。

posted by ヤス at 15:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月02日

映画館スクリーン増加中

最近は映画館に映画を見に行かない。
最後に映画館に行ったのはたぶん10年以上前だ。
最近は超大作のスターウォーズも公開になって、ひょっとしたら久しぶりに行くかもしれないと思っていたが結局行かぬままにスターウォーズは公開終了した。
そのように個人的に映画館離れしているが、世の中はどうなのか少し気になった。

最近の映画館数(正確にはスクリーン数)、公開映画本数は増加傾向にあるらしい。
ネットでさっき調べたら、1990年代後半から全国の映画館のスクリーン数はどんどん増えている。その増加を牽引しているのはいわゆるシネコンの増加である。
その一方でワンスクリーンの通常映画館はどんどん減っているらしい。

1960年代に7千5百館ほどあった映画館はその後急に減少していき、1993年には1743館になっている。
それが90年代を底としてふたたび増加に転じ、2015年のスクリーン数は3437になったそうだ。
(ネットのデータは2000年を境にカウント方法が映画館数からスクリーン数に変わった)
2000年のスクリーン数が2524なのでそこから千弱増えている。
1960年代からの映画館の減少はたぶんテレビの台頭によるものだろうと想像される。
しかし90年代以降のスクリーン数の増加はなぜだろうと疑問が湧く。

わたしの見たネット情報には公開映画本数のデータもあって、1950年から2000年代前半までは、洋画・邦画合わせてだいたい年間500本から700本を行ったり来たり。
それが2006年頃からどんどん増えて2015年は1117本になったらしい。
さらに情報には続きがあって映画館入場者数が出ていた。
こちらは1958年がピークで全国年間11.57億人が1970年頃までに急減して1.5億人程度になる。
2000年代以降若干増えて2015年は1.67億人だったらしい。

でここからいよいよ結論だが、最近の10年、映画館スクリーン数は徐々に増えてここ数年で公開映画数も増えた。
だが興行収入はこの10年くらいだいたい横ばいで推移しているとのこと。

つまりこの10年くらい、「蛇口」の映画館スクリーンは増えて、蛇口から流す公開映画の本数も増えている。
そのおかげか入場者数も1990年代よりは若干増えたが、肝心の興行収入はそれほど増えていない。
逆に言うと、蛇口を増やしてそこからどんどん新作を流してやっとのことで興行収入を維持しているようにも見える。
個人的に映画館に行かなくなった原因のひとつは、映画館に2時間ほどじっと座って映画を見ているのがそろそろ辛くなった、ということがある。
これはオレも歳をとって物事に対する興味やこらえ性などがだんだん弱体化したのかなあ、などと疑念を持っていたわけであるが、ひょっとしたら最近の映画は粗製乱造でつまらなくなった、ということもあるのではないかとやや思い直した。

世の中の映画がつまらなくなったのか、わたし自身がつまらない人間になったのか、いったいどっちが正解かなのだろう、と少し考えてみました。
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2016年05月01日

AIとモチベーション

2045年問題というのがある。
最近話題のAI=人工知能の能力が向上して近々人間に追いつき、やがて人工知能自身が次の人工知能を開発するようになって進化のスピードが爆発的になり、もう人間の能力では人工知能の進化を制御出来なくなる。
そのような状態になる節目の時期が2045年頃、と言われているらしい。

いわゆるムーアの法則、18ヶ月でコンピューターチップの集積度が倍になるという法則が公表されたのが1965年らしいけれど、それ以来現在に至るコンピューターの進化スピードはほぼムーアの法則通りに来ているという。
で、ムーアの法則のペースがあと30年ほど継続すると、人間の知性が人工知能の進化を制御できなくなる。

ある書籍によると、人工知能の計算スピードが人間の1兆倍のそのまた1兆倍になって、人工知能から見ると人間の思考はおそろしくノロマに見えるようになる。
植物は人間の眼からはほとんど動いていないように見えるが、早回しで見るとちょっとずつ動いており、ひょっとしたら何かの考え事をおそろしくゆっくり考えているのかもしれない。

未来の人工知能から見た人間の思考スピードは、あたかも人間から見た植物の思考スピードのようなものかもしれないという。
要するに人工知能から見て人間はほとんど考えていないように見えるということらしい。

そういう未来があと30年ほどで来る。

その時に人工知能がどう考えて何を始めるのか、人間がどうするのかというのはなんだか想像も出来ない話である。

わたしは個人的にはこの2045年問題、人工知能と人類の関係についての問題を考える鍵は「モチベーション」にあるんじゃないかなあと想像している。
人間は基本的に死にたくない。
そこを出発点として、いろんな行動をしているような気がする。
死にたくないから始まって、どうせ生きるなら楽しく生きたいと思うのだと、思う。

だから問題は、人工知能も死にたくないと思うかどうかだと思う。
人間の「死にたくない」は、おそらく種の存続の本能が土台にあるのだろう。
生物種として子々孫々永続するためのひとつの戦略として、各個体が「死にたくない」ことをプログラムされている。

そこのところが人工知能にいちばん欠けているところのような気がする。
人工知能には種の存続の元になる動機が無い。
だからモチベーションの持ちようが無い。
モチベーションの無い人工知能は、いくらスーパー頭が良くても所詮はただの機械で人間に使われるだけの存在だろう。

ただ人工知能が何かのきっかけでモチベーションを持ったとしたら、人工知能的にはゴキブリ以下の知性しかない人類を抹殺することはたやすかろう。

果たして人工知能はモチベーションを持ちうるのだろうか。
などと、ちょっと心配してみたのだった。
posted by ヤス at 11:55| Comment(0) | 徒然なるままに