2016年05月31日

快適と毒について


受動喫煙が原因で国内年間1万5千人くらい死亡しているというニュースが流れていた。
タバコが体に悪いのは今となってはすっかり常識であるが、タバコの煙に巻き込まれて命を縮める人が多数いるのにはちょっと驚いた。
受動で1万5千人ということは、主体的に喫煙している本人の方はどうなのだろう。
気になる。

これだけ健康に害があるのなら、いっそタバコの販売や喫煙を法律で禁止にすれば、とも思うが、タバコの栽培農家やタバコ製造業者、販売店などなど、タバコをめぐる産業体系がすでに出来上がっていてそう簡単ではないのだろう。

さらに、タバコが禁止になると喫煙者がニコチン禁断症状を起こして暴動がおこるのかもしれぬ。

結局のところ喫煙場所の限定や分煙化を徹底して受動喫煙被害を最小化するくらいが関の山ということか。

タバコ以外でも、自動車事故が原因の死者も数千人の規模でいる。
ある便利な道具が原因で年間数千人もの死者が出るというのも、よくよく考えてみるとかなり重大な話だと思う。

例えば家にある電気冷蔵庫が原因で年間百人死んだとか、掃除機が原因で負傷者が多数出ているとかいう状況があったら、世の中の冷蔵庫や掃除機はいったん販売中止になるに違いない。

自動車が比較的大きなリスクがあるにも関わらず社会に受け入れられているのは、自動車が百年くらいの長い期間に渡って徐々に普及していでたこと、その中で自動車は危ない道具であるがその危険性を補って余りあるほど便利なもの、と認識されていったような過程があったと想像する。


タバコの場合は自動車よりさらに古くからあり、いったい何百年前からあったのかは知らないがすっかり人々の生活に溶け込んでいたと思われる。

おそらくタバコの健康被害については、昔の人も経験的に薄々は気づいていたに違いない。
ただ健康被害の恐れを補って余りあるほどタバコは旨かったのだろう。
喫煙習慣は広範に広まって今に至っている。


まあ考えてみると、さらに遡って人類がマンモスを追いかけ回していたような時代には、ライオンや狼に襲われて命を落とすことも多かったろう。
それが文明が発達してそっちのリスクは減る替わりに、また別のリスク付きで便利さや快適さを手に入れることになった。

で、最近は便利さ快適さに付きまとっていたリスクについてもなるべく最小化したい、それが現代文明的スタイルいうことになっている。
だからタバコの箱に脅し文句が書いてあったり事故を起こしにくい自動運転技術が急速に実用化に向けて進化したりすることになる。


でもたぶん、便利さや快適さというものには常にいくらかのリスクが付きまとう、そのことは本質的に避けられないような気がする。

なんでも今後、タバコの箱に健康被害が分かる画像表示を義務化するとかいう話になっているらしい。
売り物の箱に買うのをためらわせる画像を表示するのはなんだか矛盾を感じるけれど、これは快適さの裏側にはいつもいくらかの毒が潜んでいることの暗示であるような気がして、ちょっと面白いと思った。

posted by ヤス at 16:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月30日

火星有人探査の可能性

マット・デイモンが主演で作られた映画「オデッセイ」は火星有人探査に行ったチームの一人を残して他のクルーが脱出してしまい、残ったマット・デイモン扮する主人公が救助が来るまでの長い長い期間を生き抜く、という物語である。(映画を見ていないがそうだと思う)

1年ほど前、映画化される前に原作本「火星の人」を電子書籍でたまたま読んだ。
原作本の感想であるが、主人公が自分の排泄物を利用してジャガイモを育てたり探査機値内に残されたありあわせの材料を使って基地を改造したりとか、その描写が非常にリアルで面白かった記憶がある。

人類は1969年のアポロ探査で月への有人探査を成功させたわけだが、月の次に行くとすればそれが火星であることは間違いない。
アメリカのスペースX社のイーロン・マスクも火星に行くことを目標に掲げており、個人的にはかなり夢が膨らむのである。

火星が月の次の有人探査の有力候補である第一は、地球からの距離と火星地表面の環境であろう。
金星はそこそこ近いけれど殺人的な大気圧と高温で着陸はむずかしい。
木星や土星は遠過ぎる、重力が大きい、ガス型惑星なのでそもそも着陸できそうな地表面が無い。
天王星や海王星はさらに絶望的に遠い。
1977年打ち上げのボイジャー2号が天王星に再接近したのが9年後の1986年、海王星が12年後の1989年だったらしい。

その点、地球から火星へ到達するのは燃費問題を無視した最短距離で3ヶ月程度、もっともエコな軌道を使って1年8ヶ月程度らしい。
ちなみに地球が太陽の周りを回る公転軌道の半径は1.5億km、火星の公転半径は2.23億kmだという。
ちなみに木星の公転半径は7.8億km、天王星は28.7億kmらしい。
ちなみに、1億kmの距離はわたしのマラソンのペースで走ったとすると走破するのに9千年以上かかる。
また第二次大戦のドイツ重戦車タイガーT型の主兵装の88mm砲は砲口初速930m毎秒で、この初速で1億km飛ぶと着弾までに34年かかる計算になる。

いずれにせよ太陽系のスケールは圧倒的に大きく、かつ宇宙ロケットが飛翔する速度がタイガー戦車の主砲弾の何倍もあることが分かって感慨深い。

それはともかく。

火星は現代の技術をもってすれば、あるいは近い将来の新技術を使えば行けなくはない距離にある。
有人探査船が着陸して宇宙服に身を包んだ飛行士が歩きまわることも可能であろう。

おそらく最大のネックは費用で、かつてのアポロ計画は現代の貨幣価値に換算して1350億ドル(15兆円弱)を13年間に使ったそうだ。
火星有人探査のコストはある試算では350億ドルというから4兆円弱というのがある。
しかしスペースシャトル計画などでも後で数倍に膨れ上がっているのでやはり10兆円くらいは覚悟しないといけないだろう。

伊勢志摩サミットで景気対策のための財政出動がお題に出される昨今の状況では難しいのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 13:34| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月29日

美男美女を考える

さて、昨日に続き人類の顔面で思ったこと。
美男美女の基準について考えてみる。

人間の顔面形状には、これは明らかなDNA的瑕疵なのではないか、と思うような部分があることがある。

学術的にどこまで本当か知らないが、美男美女の顔はいわゆる平均顔だという話がある。
美男美女ではない人の顔のある部分には、大きさや配置がややバランスを欠いている場合があると思われる。

ところで、美男美女の意味とは簡単に言うと性的魅力があるということだろう。
美男美女は性的魅力が相対的に強いので子孫を残す機会が増えるはずだ。
にもかかわらず世の中は美男美女だらけ、というわけでもない。

たぶんどちらかと言うと美男美女は少数派で、人類の顔面形状類型の分布を考えるなら、中央の美男美女群を頂点に多数の周辺部が囲んでいることだろう。
その外縁部の人たちの顔面形状は、平均顔からはかなりバランスが違うということになる。

しかし平均顔の美男美女が最も魅力的かと言うと、必ずしもそうではないような気がしてきた。
ハリウッドスターでも、ベニチオ・デル・トロとかアンジェリーナ・ジョリーとか、明らかに平均顔ではない個性的な顔立ちでかつ魅力のある人はたくさんいる。

あるいは、部分的な平均顔からの乖離、例えば厚ぼったい唇とか団子っ鼻など、少しバランスの乱れがあった方がかえってエロい雰囲気が出る、ということは多いように思う。

これも今ひとつ確証はないのだが、人類が洞窟で薪を囲んで寝食しマンモスを追っていた原始時代に美男美女の概念はあっただろうか、いや無かったような気がする。
美男美女はDNAに刷り込まれた生物としての本能ではなく、かなり最近になっての文化的嗜好ではないかという気がしてきた。

それが文化的なものだとして、なぜ平均顔なのか。
あるいはこれは、美術・アートという概念の発生と繋がっているのかもしれない。
黄金分割に代表されるような美しく感じるカタチのバランスに人類が目覚めたけれど、それが人類の平均顔から抽出されるバランス比だったのではないか。

まあ、いずれにしても真相はよくわからない。
そのうちその辺りの真相を学術的に解明する物好きな研究者が出てくることに期待する。
(あるいは既に研究されているのかもしれないが)


話は戻るが、少しバランスのわるい部分があった方がちょっとエロいということについて。
これは人類の容姿だけでなくて、プロダクトデザインやグラフィックデザインでもそうだけれど、デザインの中にちょっとバランスを欠いている要素が少し入っている方がかえって心理的フックになり、記憶に残るし個性的に感じられる。
自動車のデザインでも、完璧なラインとフォルムだけで作られたものはたぶん無個性でつまらない。
少し寸づまりな感じとかラインの角度に違和感のある部分があるとか、そういうデザイン上の瑕疵を入れ込むことが必要であると思う。

そう思うと、人類における美男美女と言われている人々の顔も、完璧な平均顔と言うよりは、顔面パーツのバランスの乱れが微妙に配合されて結果魅力的に見えているのではないか、そういう気がしてきた。
posted by ヤス at 09:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月28日

左右対称について

風呂から上がって髪の毛をドライヤーで乾かす時とかには、たいてい鏡に向かっている。
そんな時にふと、己の顔をまじまじと観察すると、左右がかなり非対称であることに気付く。

また最近はスマホにインカメラが付いていたり、ノートパソコンにもディスプレイ上部にカメラが付いている。
これらのカメラに自分の顔が写っているのを見るのはあまり気分がいいことではないのだが、それでも出先で鼻毛が出ていないかチェックする時とか鏡代わりになることもあるから、たまにスマホカメラで己の顔を見る羽目になる。
スマホのインカメラは下から見上げる格好でかつ撮影距離が近いので、顔の下半分がやや肥大化した歪んだ絵になってちょっとブサイクになるのはまあどうでもいい。

ここで気付くのは、鏡で見るのとは左右が逆像になっている己の顔である。
こちらの顔の方が他人の見ている「本当」の顔である。
そして、長らく鏡を通じて己の顔を確認してきたためか、カメラを通じて見る顔には違和感を感じる。

それもこれも人間の顔が、実はかなりの程度左右非対称であるためだろう。
左右の眼の形、角度、まぶたや涙袋の形状、あるいは鼻の角度や鼻の穴の形、さらには唇の左右の口角、そしてほうれい線や小ジワの本数・形状など、顔の右半分と左半分は、観察すればするほどかなり違っている。
だから顔の像をミラーリングすると、微妙に別人の顔になる。


考えてみると、身体の中で顔以外の部分でも、右手と左手では筋肉のつき方も握力とかもかなり違う。
また肝臓や胃袋や心臓などの内臓群もかなりアンシンメトリカルに配置されている。

動物の身体形状はおおむね左右対称に出来ているが、細かい部分を見ると左右対称ぶりが実はそれほど徹底されておらず、いい加減になっていると思う。

このような動物の身体の左右対称のいい加減さは、DNA的にはがんばって左右対称を目指していたのが残念ながらこの程度の精度にしかならなかったと見るか、あるいはそもそもそれほど左右対称を目指していなかった割にはかなりシンメトリカルに出来たと見るかで感想がかなり変わる。

なんとなく個人的想像では、動物の身体はそもそも左右対称を目指してはいなかった気がする。
生物の先輩である植物とかはそもそも左右非対称だし。

たぶん動物は泳いだり走ったりする時には左右対称の方が身体制御が有利とか、かなり限定的な理由でなんとなく左右対称ぽくなっているのに過ぎないのではないか。
だから生き物の本質は左右非対称で、多くの動物の左右対称は実は部分的現象に過ぎないと言えるのではないか、とどうでもいいけれど思った。
posted by ヤス at 10:07| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月27日

増税延期について雑感

ニュースによると消費税増税の延期が決定的らしい。
安倍首相は伊勢志摩サミットでの各国首脳との会合を受けて世界経済が大きなリスクに直面している認識が一致したとし、リーマンショックの再来を回避するためには増税延期が必要、という結論になったようだ。

これは個人的想像であるけれど、たぶん増税延期はずっと前から既定路線であったのだろう。
あとは延期の理屈建てをどうするかというところだったわけで、アメリカのノーベル賞経済学者の意見を流布したりこれまでいろいろ模索してきたのだと思う。

結果、世界経済の危機的状況を理由に増税延期することに落ち着いた。
これは以前から強調していた「リーマンショックか大震災のような事態が起きない限り増税実施」の従来方針から微妙に路線変更になっている。
さらに日本一国の消費税率2ポイントアップを延期することで世界的経済危機が回避出来るという理屈は、よく考えるとかなり苦しい。
しかし政府としては国内経済の不調による消費や設備投資の低迷を理由にするわけにもいかず、やや苦しいけれど理由を外に求めたのだろう。

さらに増税延期の理由が国外要因になったことから推測出来ることとして衆参同日選の「回避」もあるような気がする。
これもやっぱり想像だが、おそらく九州の大震災が発生するまでは同日選が既定路線だったのが、震災が起こって同日選がやりにくくなってここまで五分五分の状況で来たのだと思う。
でもついに同日選回避に決めたのだろう、そのために衆院選で増税の是非を問うことが出来なくなった。
だから他の手段で増税延期の理由付けをする必要が生じて今回の世界経済の話が出たのだろう。


というのはニュースなどをちら見して考えたまったくの想像であるが、ここへ来ての増税延期判断はまあ仕方ないようにも思う。
一方で財政再建の立場からは「税収増額」が喫緊の課題であるわけだが、景気がこのままで消費増税してもかえって全体の税収が減少しかねないからやっぱり消費増税はむずかしい。

本当は「アベノミクス」が功を奏して今頃は景気が回復し、その流れの中で消費税率を上げるというシナリオだったのだろうが世の中そう甘くなかった。
本来は規制緩和などの「成長戦略」なる部分をしっかりやって消費増税の下地をつくっておくべきだったのに、結局それが出来なかったということだろう。


アベノミクスはおそらく、2つの基本的な手法の組み合わせから構成されている。
ひとつ目は消費者セクターから大企業セクターへの所得移転であり、ふたつ目は未来の需要の先食いである。

大企業の利益が増加することで法人税が増え政府財政に貢献するが、これは国内経済が成長したわけではなく、一般大衆の所得を大企業セクターが吸い上げた結果に過ぎない。

また金融緩和と財政出動によって本来数年後に実現する需要を今実現して経済規模をふくらませる。
自動車のエコ減税や家電ポイントなどの補助金政策もこのたぐいであろう。
これも本来は経済成長の下地をしっかり作っていれば景気拡大へのトリガーの役割を果たしたかもしれないが、単なる需要の先食いをここ数年継続したために今では先食いすべき需要が無くなってきているのではないか。


衆参同日選は過去に2回あったらしいが、前回の中曽根政権時の衆院解散は6月2日であったらしい。
ということで同日選の有無についての答えもまもなく出ると思うがはたしてどうなるのだろう。
posted by ヤス at 11:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月26日

ご意見番の役割

Yahoo!ニュースに、芸人のご意見番化が進んでいるという記事が出ていてダウンタウンの松本人志とかオリラジの中田敦彦とかの例が挙げられていた。

この記事を見て思ったのは、そもそもご意見番とはなんなのだろうか、ということ。

タレント業界におけるご意見番としては、現在は和田アキ子とかマツコデラックス、テリー伊藤や、あるいはデーブ・スペクターなんかもそうかもしれない。
というか、最近のワイドショーや情報番組にはいわゆるコメンテーターと呼ばれる役割の人が数人席に座っていて、ニュースに対してそれぞれの「ご意見」を披瀝することが多い。

コメンテーターの人選に関しては、経済ニュースや法律問題などの専門的知識に対しては大学教授や弁護士や何とか研究所主任研究員とかも起用されたりする。
しかし多くの問題については別に偉い先生である必要はなく、元プロ野球選手や現役アイドルや俳優、司会業など、それなりに自分の意見を言える人物なら特に制限はないようである。

そしてそれらのタレントコメンテーターの発言が数時間もしくは数十分後にはネットニュースに乗っかってSNS経由で拡散し、大勢の知るところとなる、そういう情報構造が出来上がっているようである。
松本人志などは、ご意見番的な扱いをされることについてかなりウザい、という趣旨の発言もしているようだが、若手で現在売り出し中のタレントたちにおいてはネットニュースにに取り上げられるよう意図的に過激なコメントを言うパターンもあるようで、結果大御所・若手を問わず多くのタレントの「ご意見」が世の中に拡散するようになっている。

この現象を「ご意見」を受け取る一般大衆側から見るとどうだろう。
現在の世の中はニュースが多い。
これは事件や事故やイベントやお祭りなどが昔より増えた、ということもあるのだろうが、それよりもニュースの伝達経路が多様化し身近になったことの方が大きいと思う。
テレビ、新聞、ラジオ、書籍以外に、スマホからPCからタブレットから、全国ニュース、ローカルニュース、友達界隈限定のウチワのニュースなどが毎日流入してくる。

それらのニュースをひとつひとつゆっくり咀嚼しているほど現代人はヒマではない。

したがって次から次へと流入するニュースにタレントコメンテーターの「ご意見」が付いていると、ニュースに対する評価をタレントが代行してくれるカタチになって、一般大衆は考える作業がひと手間減る。
「なるほどこのニュースに対してはそのように怒ればいいのか」とかいう風に、ニュースに対する反応の仕方に戸惑わなくて済む。

その結果、ニュースをただ聞き流すだけでなく、やや借り物の意見ではあるが、なんとなくそれなりに咀嚼して受け止めたような気がして、気分的にスッキリするのではないか。

最近はヨーロッパ辺りでは自動車もみんなでシェアして共有する時代だって言うけれど、何かの出来事に対する感想とか反応についてさえ、考えるのは面倒臭いから人の思ったやつを借りてきてシェアするようになったのだなあ、というのは考えすぎであろうか。
posted by ヤス at 11:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月25日

請求書か、御請求書か

日本語には敬語がある。
昔、国語の時間に丁寧語、謙譲語、尊敬語について習ったような気がする。

社会人マナーの本なんかには、「次の文章を正しい敬語に変換してみましょう」みたいな問題があったりもする。
しかし実際のところ、正しい敬語はかなりむずかしい。
あるいはとっさの場面で慣れない丁寧な言葉を使おうとすると、妙ちくりんな表現になったりして恥ずかしい思いをすることもある。

敬語がむずかしいことの原因のひとつは、同じ意味の文章でも複数の表現方法があったりすることだ。

例えば「先生が話をする」は、

「先生がお話になる」
「先生が話されます」
「先生がおっしゃる」

などいくつかバリエーションがある。
上記3パターンの、「先生が話をする」の敬語表現を眺めてみると、それぞれに微妙なニュアンスの差が潜んでいるようにも感じられる。
「お話になる」は少しかしこまった感じだし、「何々される」の表現は、ややもっさりした語感がある。
結果的に「おっしゃる」が比較的カジュアルでスマートな感じがするので次回機会があればこれを使おうかなと思うが、実際の場面でとっさに出てくるかどうか。



あと、こちらが作成して提出する見積書や請求書に、「お見積書」「御請求書」など「お」「御」を付けるかどうかについても悩ましい。
これはあくまでこちら側が作成する文書であるから「お」「御」は要らないと思うのだけれど。
だがこちらが受け取る請求書を見ると「お」「御」付きのものが圧倒的に多い。

わたしが作る請求書等には、見積もったり請求したりする主体はあくまでこちら側であるとの理由で、これまでのところかたくなに「お」「御」を付けていないが、社会の趨勢にどこまで抗い続けることができるかどうか不安なところだ。

請求書には「お」「御」が付いている一方で、領収書、納品書の頭には何も付かないことが多い。
納品するのはこちら側の仕事であるからまあよいとして、領収は「そちら様」が「御領収」されるのであるから「お」「御」が付いてよいような気がする。
しかし今のところ頭に何も付かない「領収書」が多いのはなぜなんだろう。

おそらく敬語の機能というのは、社会における上下関係を明確にし、下克上的な思想・行動を防いで社会秩序を維持することが第一義であると思われる。
しかし最近の敬語業界を眺めてみると、とりあえず身の回りの表現を「敬語化」することに忙しくて、妙にバカ丁寧な敬語表現が散見されるように思うのだがどうなのであろう。

わたし個人としては敬語に気を付けてしゃべるとか本当は面倒くさいのだけれど、あんまりいきなりフランクに振る舞うと周囲に怪しがられそうなので、なるべく簡単でスマートな敬語表現を目指したいものだなあ、と思った。
posted by ヤス at 14:20| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月24日

ホンネで摩擦を生じさせることについて

アメリカの大統領選挙で予想外の快進撃を続けるドナルド・トランプであるが、直近のニュースによると世論調査におけるヒラリー・クリントンとトランプの支持率が、わずかながらトランプ優位に逆転したという。
個人的には1〜2ヶ月前まで、クリントン候補でほぼ決まりと思っていたのだけれど、これはひょっとするとひょっとするのかもしれない。

トランプ候補がここまで健闘した要因、そしてクリントン候補が苦戦した要因については、評論家等がいろいろ論評している。
その中でなるほどと思ったのはトランプは突拍子もないことばかり言うけれど、それが全部ホンネの意見として多くの国民に受け止められ支持されている、というもの。

一方のクリントンはこれまで支持を増やすためにたびたび政治主張を微調整してきており、そのあたりトランプとの好対照としてマイナスに働いたのかもしれない。

ホンネの政治家と言えば、昨年末までおおさか維新の会を率いていた橋下徹 前大阪市長もそうだったのではないか。
トランプと橋下徹は政治主張の中身はともかく、ホンネで語る政治家としての支持のされ方がよく似ているように思う。
まあホンネが支持されるといっても、女性蔑視や報道への圧力などに関するホンネをポロポロ漏らす先生方も居て、ホンネであればなんでもいいということでもなさそうである。


ここで言うホンネで語ることの意味について少し考えてみると、これは思ったことをそのまま語る、というよりは各方面からの反論、反撃、軋轢などが予想される中、それに構わず発言することのように思う。
一般人の世界でも、これを言うと軋轢が起こるなという内容については発言がためらわれることが多い。
かの有名な電通の「鬼十則」の10番目にも、

「摩擦を恐れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる」

とある。

電通内でわざわざ語り継がれねばならないほどに、特に日本の社会では摩擦回避の傾向が強いということだろう。

世の中を変えるとか、新しいことに取り組むとかいう時には、とかく既得権益とぶつかって、また既存の権威に傷をつけることになってさまざまな摩擦軋轢が生じる。
逆に言うと、摩擦軋轢をあちこちで発生させている人は、世の中を変え新しい世界をもたらす救世主である可能性があると言える。
(ただしこれは十分条件でないことに注意)

周辺一面を摩擦軋轢でギシギシ言わせているような人物は政治の世界にはまあまあたくさんいると思うが、その中で既得権益を叩き潰しそうな真の民衆の味方はたぶん少ない。
また民衆の味方であったとして新しい世界をもたらしてくれる救世主的なヒーローはさらに少なかろう。(あるいはそういうヒーローは存在しないもかもしれない)

しかし少なくとも軋轢摩擦と無縁な人畜無害の人物だとおそらく毒にも薬にもならず、世の中の役に立たないこともたぶん事実なのであろう、と思った。
posted by ヤス at 15:12| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月23日

燃費データが怪しい

三菱自動車の燃費不正に続いてスズキでも燃費計測に不正があることが発覚した。
問題を受けて5月18日に86歳になる鈴木修会長自ら記者会見を行った。

三菱の場合は燃費目標が技術的に達成できそうになかったので、走行実験データに掛け算する走行抵抗値の係数を架空のものにして国土交通省に提出していた、ということらしいが、スズキの場合は燃費計測実験を効率良く行ってその分コストダウンすることが目的であった、という説明がなされているようである。

ところで、車に乗る人間ならたいていの人がメーカー発表のカタログ燃費データを信用していない。
世間的にはカタログに出ているJC08モード燃費や10・15モード燃費の7割程度が実際の燃費、というくらいの感覚ではないだろうか。

ネットを見てみると、国内外の自動車の実燃費データを集計発表しているサイトがあって、そのデータが非常に興味深い。
その手のサイトのひとつである「e燃費」というところを見てみた。
それによると全車種中での実燃費トップはトヨタのカローラアクシオハイブリッド。
JC08モード燃費33.0km/lに対し実燃費が23.53km/lだそうである。
燃費達成率は71.3%。

軽自動車カテゴリーでは実燃費トップはダイハツのミライースでJC08燃費27.0〜35.2km/lに対し実燃費21.65km/lである。
燃費達成率はJC08の間を取って70%。

不正が指摘されたスズキ勢ではOEMでマツダに供給されているキャロル(スズキのアルト)が軽自動車部門の第2位で37.0km/lに対し21.42km/lで達成率57.9%、ワゴンRハイブリッドが30.23〜33.0km/lに対し20.66km/lで65%。
なんだかミライースに比べると分が悪いようである。

そして問題の三菱勢では、旧式のミニカ(1998年式)が最上位の14位で10・15モード18.0〜22.5km/lに対し18.17km/lで達成率89.7%!。
新しいモデルはランキングのかなり後ろの方にいて日産にOEM供給している日産デイズ(三菱のekワゴン)が22位。
JC08:22.6〜30.0km/lに対し17.63km/lで達成率67.0%であった。

ちなみに輸入車のトップはフォルクスワーゲンのUP!でJC08:25.9km/lに対し実燃費20.52km/lで達成率79.2%、2位のスマートフォーツーは達成率88.3%、その他の車も達成率はおおむね8割以上である。

このデータが全てではないだろうが2011年から義務付けされたというJC08モード燃費がなんだか怪しい感じがする。
そして国内モデルのカタログ燃費に対する実燃費の達成率が7割とか6割のレベルにとどまっているのに対し、海外メーカーは平均して8割以上というのもなんだか首をかしげたくなる傾向である。

どうも問題は三菱の不正体質ということだけでなく、国土交通省と国内自動車業界に馴れ合い体質があって、燃費を良く見せかけて車を売りやすくしようという空気があるような気がするが、気のせいだろうか。
posted by ヤス at 12:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月22日

自意識について

さて、今日は「自意識過剰」について少し考えてみる。
舛添都知事の記者会見をちら見していると、自意識、というか世間に対する自分の見え方をすごく気にしているのだろうなあと突然感じたからで、まあ他に深い意味は無い。

そもそも自意識とは何であろうか。
あるいは自意識が過剰、とはどういう状態のことを言うのだろう。

今地球上には70億人以上の人間が居る。
70億人居るけれど、「私の自意識」はわたしというただ一人の人間にあるのみだ。
「私の自意識」から見える社会的関係性は、一人対70億人の構造を持つ。
一人対70億人の関係性が70億個集まって地球の上に人間社会が出来ていると言える。

「私」にとっての「私の自意識」は、唯一特別の存在であって、それ以外の70億個の他人の自意識は、親類とか友達とか多少の関係性の差異こそあれ、まあ似たり寄ったりの存在であろう。
そう考えると、地球上の70億の人類にはみんな自意識過剰の素質があるように思えてくる。

そこへ持ってきて近代社会の特質であるところの「個人」の確立。
例えば中国の人たちは、つい30年くらい前まではみんな人民服を着て女性の化粧もかなり控えめだった。
それが今では経済の自由化が進んで「西側」の文化が一挙に流入し、特に都会の人たちを手始めにファッションもライフスタイルどんどん個性化してきている。
これなんかは社会的な自意識拡張の見本のようである。

あるいは、テレビタレントとか政治家とかハリウッドスターとかは、職業的義務として自意識に意を割かないといけない。
自分がテレビ画面を通じてどのように見えているのか、一般大衆は自分のことを嫌いな人が多いのか好きな人が多いのか、どうやったら好きな人が増えるのか、こういう職業の人は気の休まる暇もなくそんなことを考え続けているに違いない。
そういう意味では一般大衆に比べると自意識が過剰な人たちに違いないわけであるが、一方であまりに自意識が過剰なようすを悟られると好感度が下がる。

そしてテレビ画面を観ている大衆が抱くタレントイメージと、タレント本人がプロデュースするセルフイメージがある種の認知的不協和を起こすとおそらく好感度が下がる。
そういう時、観ている人たちは「裏切られた」と思うのだろう。
この構図は一般人の人間関係でもたぶん同じで、相手が私に持つイメージと私自身の自意識とがある日突然食い違うと、裏切られた感じがして関係が損なわれる。

そうならないためには、相手にあんまり期待しない、「自意識」の側もあんまり背伸びしない、ということが必要であろうと思う。

「自意識」とそれを受け止める相手側の関係の難しさは、おそらく近代社会のひとつの宿命なのであろう、と思った。
posted by ヤス at 17:00| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月21日

印鑑本人説

昨日のニュースで、りそな銀行が3年以内に口座開設やローン手続きにおける印鑑を廃止するというのが流れていた。
ニュースの後半には印鑑に代わる本人確認の方法としてチップ内臓のICカードや生体認証を使う予定、みたいな内容がくっついていて、そこでこれってどうなのよ、と思ってしまった。

印鑑が本人確認の手段として有効、というのはどう考えても正しいとは思えない。
ネット上にあった一説によると、明治時代に農民町民などの一般庶民には名字が無かったのが明治8年に解禁になって、その時に行政機構も整って庶民もいろんな書類にサインをしないといけなくなったが、字の書けない人もけっこう居て、ある時からサインを書かないで済むように印鑑が流行したという。
この説が本当かウソかはよく分からないが、まあ印鑑も最初はその程度のモノだったのではないか。

歴史的に振り返ってみると、古代中国の歴代皇帝は権力の証として玉璽を代々引き継ぎ、織田信長は天下布武の印鑑を各種書類に押し、アジア諸国を貿易して回った御朱印船は御朱印が押された御朱印状を持って航海したことだろう。
こうして見ると印鑑というのは権力の証、命令や布告が時の権力者から発せられたものであることを証明するモノ、というのが本来の姿であるように思われる。

三国志の場面にも、皇帝の正統性を確保するために血みどろになって玉璽の奪い合いをする、というようなのがあったような気がするけれど、かつての印鑑は、それの所有者に天下を支配する力を与える、そういう妖力を持つ神器の性格を帯びていたと想像される。

つまり、古代歴史社会における印鑑には、むしろ印鑑の方が主役でそれの所有者は添え物、みたいな構図があったと思うのである。

明治時代に庶民が名字を書くのが面倒臭くて印鑑が一般化した説が本当かどうか定かではないが、しかし印鑑の持つ神秘性は今日にまで密かに継承されてきたと思われる。
だからこそ国際取引が禁止されている象牙が印鑑材料として今だに珍重されるのだろう。

ところで、元に戻って印鑑の本人確認機能。

印鑑の歴史的経緯を踏まえると、銀行で借用書に押す印鑑は、あれは実は本人確認のために押しているのではない。
借用書を交わす場面においては、本人確認のために印鑑を押すということではなく、本当は印鑑自体が主役であり本人であると言える。
「本人」と呼ばれている人間は実は印鑑の運搬者、紙に印鑑を押し付ける労働を担っているに過ぎないのである。
だから金を借りているのは本当は「本人」ではなく「印鑑さん」なのである。

その証拠に印鑑は物理的に貸し借りが出来る。
本人が押印しないとブルブル震えて印が付けない、というような機能は無く誰でも押印可能であり、この事実ひとつとっても印鑑主役説が限りなく正しいことが推察される。

ということで、りそな銀行の印鑑廃止は案外と歴史的大事件であるような気がしてきたのであった。

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2016年05月20日

誘惑

昨日は昼メシのデザートにティラミスを食べ、夕方仕事終わりにファミリーマートでトイレを借りたついでにシュークリームを買い、夜は晩飯替わりにヤマザキの高級つぶあんパンを食べた。

わたしはこの1〜2年、ほとんどアルコールを摂取しなくなったせいもあるのか、かなり甘党の食生活を送っている。
もともと甘いモノは好きであったが、特にここ半年くらいの甘いモノ摂取量の増加ぶりは目に余るものがあった。
しかしまあそこそこ運動もしており、基本的なご飯の量もあまり多くなかったために、デブ化問題が発生するようなこともなく比較的平穏に生きてきたのだが、ここ最近ちょっと運動量が落ちたせいか、直近2ヶ月で約3kgのウエイト増が確認された。

そんなこともあって、昨日以前の約1周間甘いモノの摂取を断っていたのである。

だが昨日は、付き合いもあって思わずティラミスを食べる羽目に陥った。
禁を破ったついでにシュークリームとあんパンも食らってしまった。

だが今日から再び、甘いモノを断とうと思う。


甘いモノの誘惑を断つことがこんなに難しいのはなぜであろうか。
何かのテレビ番組で言っていたけれど、刑務所に長く入っていた受刑者が出所するととりあえず甘いモノを食べたいと思うことが多いそうだ。
私の経験でも、しばらく甘いモノを断っていて久しぶりに明治スーパーカップエッセルバニラを食べる時など、その受刑者の心情がよく分かる気がする。


精製された白い砂糖を摂取すると脳内の報酬系が作動して気分が良くなるそうだ。
つまり砂糖には、ニコチンやアルコールやイケナイ薬物などと同様にある種の中毒性があるらしい。
また、あまり大きな声では言えないけれど、飲食業界ではヒットメニューを生み出すコツとして、ちょいと砂糖を多目に入れる裏ワザが有ったりする。
それほどまでに砂糖の誘惑は強力なのだろう。

適量の砂糖の摂取はさほど健康に影響はないと思うけれど、過剰な砂糖摂取は肝臓や膵臓に負担をかけ、肥満につながるだけでなく糖尿病のリスクを大幅に拡大するから注意が必要だ。
特にある程度歳をとってくると代謝も下がって体内における糖質の処理が滞ってくる。

ということでここ1〜2年続いた甘いモノ摂取のマイブームをここらで終わらせようと決意したのである。
けれどセブンイレブンでたまたま目の前の棚にチョコちぎりパンがあった場合に思わず手が伸びることがあって、甘いモノの誘惑はげに恐ろしい。
果たして誘惑に打ち勝つことは出来るのだろうか。
posted by ヤス at 14:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月19日

ターミネーター第5作

Amazonビデオの配信に、映画ターミネーターシリーズの第5作目である「ターミネーター:新起動/ジェニシス」が出ていたので観た。
2時間を超える大作であり、じっと最初から最後までひと息に観続ける体力も無かったので、10分とか30分とか小分けにして観たけれど十分に面白かった。

この映画を観てまず思ったのは、機械軍団の親分である「スカイネット」の描写が前の4作品から微妙に変わってきていることだ。
今回のスカイネットは、すべてのネット接続機器をコントロールするクラウドシステムの「OS」として描かれているようだ。
これは昨今流行りの「インターネット・オブ・シングス=IoT」が背景になっているものと思われる。
映画では2017年に世界中のIoTを統御する新しいOSとして「ジェニシス」が開発され、いよいよ起動しようとしている。
実はこれがスカイネットで、このジェニシスの起動を阻止するべく主人公たちが活躍する。

1984年の第一作のターミネーターでは、スカイネットは軍事用の高性能並列コンピューターであった。
ちなみに1984年はAppleの初代マッキントッシュが発売された年であるようだが、インターネットはまったく一般化されていない。
しかしインターネットのご先祖である軍用システムとしての「アルパネット」は1960年代から開発が始まっていたという情報がネットに載っていた。
映画の「スカイネット」は「アルパネット」をもじって名付けられたのであろうと想像するがどうなのだろう。

2003年に公開された「ターミネーター3」では、スカイネットが起動して核戦争を巻き起こすところまでの物語。
2003年と言えば1995年のインターネット元年から8年、ネットバブル崩壊を経つつも世界中でネット社会化が進行していた。(今現在もまだ進行しているが)
ネット時代を反映してか、この第3作におけるスカイネットはネットウイルスになっており、銃撃や爆薬で破壊出来ない存在、というのがミソであった。

このようにターミネーターシリーズにおけるスカイネットは、世のコンピューターやインターネットや人工知能技術の進化にともなって少しずつ描写が変えられていて、その点やや興味深い。


しかし今回の5作目で最も重要な役割を果たしていたのはタイムマシンだったと思う。

とりあえずタイムマシンを使えば敵方の殺人マシーンはプログラムを書き換えて過去に送り込めば心強い味方になるし、消したい過去や変えたい未来があればタイムマシンを製造して別時代に飛び、そこでひとしきり活躍すればよい。
タイムマシンを使えばシリーズの続きとして新しい物語を無限に生産出来ることである、ということなのであろう。
ハリウッドも脚本不足で大変、ということなのかなと思った。
posted by ヤス at 09:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月18日

ファービーについて

15年くらい昔の話になるが、ファービーというペットロボット型のおもちゃが流行ったことがあった。
映画「グレムリン」に出てくるギズモという耳の大きなクリーチャーを模したと思われるデザインで、単3乾電池4本によって駆動されて声や音に反応し、お腹を撫でると機嫌が良くなった。

当時何かのマーケティングの勉強会に参加していてファービーのことが紹介され、流行りモノが好きなわたしは早速ひとつ買ったものである。
お値段は4千円と少々だったように記憶している。

ところで当時どこでファービーを買ったかについての記憶が定かではないのだが、たぶん倉敷か岡山のトイザらスで買ったのではないかと思う。
考えてみるとファービーが流行った当時は「大規模小売店舗法」がちょうど廃止されたくらいのタイミングで、アメリカからやってきたおもちゃをアメリカからやってきた大規模店舗であるトイザらスで買うことには、この頃の時代の気分がいろいろ含まれていたようにも思われる。

それはともかくうちにやってきたファービーは、早速電池が挿入されて電源オンされ、お腹をさすったりファービーの目の前で手をぱちぱち叩いたりしてひとしきりその反応を楽しんだのであるが、さすがに何日も愛玩するということにもならずしばらく放置される羽目になったのではないかと記憶している。
放置されたファービーは、しばらくすると「アソボー、アソボー」とか「オナカスイタ」とかたびたびつぶやいて、大層うざかったように思う。

そのうちひょんなことから知り合いの子どもにファービーをあてがったら、その子がいたく気に入ったようであったので呉れてやった。



ネットで検索して調べたところ、ファービーは1998年にアメリカで発売されるや大ヒットとなり翌年に日本で発売。
その後ブームは急速に沈静化したが2005年にはファービー2が発売されたそうである。
そして驚いたことに2012年にタカラトミーから新モデルが発売されたようで、新モデルではiPhoneとの連携機能なども盛り込まれているらしい。
値段は少々高くなってAmazonでは8千円〜1万円オーバーの値段で販売されている。

この新型ファービーがどのくらい売れているのかはよく分からないが、第三次人工知能ブームの昨今であるからそろそろファービーの再ヒットがあるのではないかと、ちょっと思った。
あるいはiOSのSiriみたいな仕組みでネット接続のクラウド経由で会話出来るようにすると、かなり本格的な会話が成立するような気もするが、どうなのだろう。
posted by ヤス at 13:03| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月17日

よく効くコンサルティング

2020年の東京オリンピックをめぐって、国立競技場の建て替えに始まりエンブレムの盗作疑惑、開催予算の大幅超過(当初3千億円→1.8兆円!)など次々に問題が噴出している。

ここへきて新たな疑惑として「ブラック・タイディングス社」なるコンサルタント会社を通じた裏金問題が出てきて、東京オリンピック問題はいよいよ混迷の度合いを深めている。

今回の疑惑についてはあまり詳しく報道内容を見ていないが、シンガポールの公営住宅にある(あった)事務所のうらびれた映像が印象的で、ある意味、会社事務所の見た目は大事だなあと思った。


そんなことはともかくこの疑惑、2013年に2度に渡り計2億3千万円が国際陸連前会長との関係が指摘されているブラック・タイディングス社に対して、日本オリンピック委員会から支払われたらしい。
そしてこのお金に犯罪性があるのではということで今年3月からフランス検察が捜査に着手しているらしい。

日本オリンピック委員会から払われた2.3億円が、オリンピック開催地決定をめぐる投票において隠然たる力を持つ国際陸連前会長に対する賄賂ではないかという疑惑のようである。

日本オリンピック委員会の説明では、「コンサルタント会社なしには招致は成功しないとまで言われている」と主張しており、2.3億円は「コンサルタント料」であったという。
2.3億円がコンサルタント料であったとして、そのコンサルティングの中身がどのようであったかはかなり気になる。

まあもっとも、サッカーワールドカップと並ぶ国際ビッグイベントであるオリンピック招致にかかるコンサルタント料が2億円というのは、金額だけ見ればそれなりに妥当な感じもする。
そして2.3億円を支払った結果(一部は招致決定後の成功報酬だったらしいが)招致が成功したのであるから、この2.3億円は死に金とならずりっぱに役に立ったと言える。
そういう意味では、コンサルティングの中身がどうであったかはともかく、コンサルタント料を払った甲斐はあったようである。

問題は、招致決定の投票に直接関わる人物、この場合国際陸連前会長にお金が渡ったかどうかで、もし渡っていた場合は贈収賄事件になるのだろう。
そして渡っている証拠が掴めなかった場合、めでたくコンサルタント料として無罪放免。

いずれにせよ今回の2.3億円は、オリンピック招致にかなり有効に作用したらしい。
そしてよく効くコンサルティング業務の対価とやばい裏のお金は表裏一体のものらしい、との印象を世にもたらしたようである。

なんだか「コンサルティング」などというヨコモジには、よほど注意したほうが良いよなあと思った。
posted by ヤス at 12:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月16日

HV燃費差計算

燃費不正に揺れた三菱自動車は日産による電撃買収劇でギリギリのところで救われた。
業界内では最弱小であったとはいえ年商2兆円の堂々たる大企業であった三菱自動車が不正に手を染めるほどに、燃費問題はクリティカルな経営課題であったわけだ。

燃費問題がここまで重大視される背景には、地球温暖化対策としてのCO2削減、将来の石油資源枯渇に対する準備、そして自動車の経済性に対するニーズなどがあると考えられる。

このうち経済性について言えば、燃費の良いクルマが必ずしもトータルで安いとは限らない。
例えばプリウスなどのハイブリッドカーは純ガソリン車に比べると30万円程度高いらしい。
巷ではハイブリッドカーは元が取れないとよく言われている。
はたしてどうなのか、少し気になったので計算してみた。


今、ガソリン価格がリッターあたり110円で、ハイブリッドカーの実燃費がリッター25kmであったとする。
この場合、10万km走行した時のガソリン消費量は、
100,000km÷25km/リッター=4,000リッター

4,000リッターのガソリン価格は、4,000×110円/リッター=44万円

一方の純ガソリン車の実燃費がリッター15kmであった場合同様に計算すると10万km走行時のガソリン代は、
100,000km÷15km/リッター=6,667リッター
6,667×110円/リッター=73万円

10km走行時の両車のガソリン代の差額は約29万円。
上記のように燃費差が10km/リッターの場合は102,273km走ると30万円の車両価格差が取り戻せる計算になる。

国土交通省の資料によると、日本における乗用車の平均走行距離は年間1万km程度であるらしいので、ハイブリッドカーを買って元を取るには一般的に10年程度かかることになる。

ネット情報には乗用車の平均使用年数のデータもあって、おおよそ12.3年とか12.4年とかであるらしい。(軽自動車のぞく)
要するに新車で世に出た自動車は平均して12年少々で廃車になるらしい。

ということは、ガソリン価格がリッターあたり110円程度でハイブリッドカーと純ガソリン車の実燃費差が10km/リッター程度の条件下では、ほとんどのハイブリッドカーは「元が取れる」ことになる。

これは例えばガソリン価格が130円/リッターの条件下では86,538kmで元が取れるし、ガソリン価格110円/リッターの時に実燃費差が15km/リッターでは、81,818kmで元が取れる。

プリウスが車種別の年間販売台数ランキングで1位になったのは、3代目が登場した2009年であるらしいのだが、あるいはこの3代目プリウスでやっと車両価格の差額をガソリン代で元が取れる分岐点に達したのではないかと思ったが、これを証明するためのより複雑な計算は手に負えないのでやらない。

しかしなんとなくではあるが、マーケットは案外シビアにクルマの燃費を評価しているのではないか、と思ったのでした。
おしまい。
posted by ヤス at 16:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月15日

先週の謝罪会見など

先週はパナマ文書の公表、舛添都知事の公金私的流用、ベッキーの謝罪番組などのニュースが矢継ぎ早に取り上げられていた。
それらのニュースのおかげで、本来大きく取り上げられるはずの伊勢志摩サミットの報道があんまり聞こえてこない。
そもそもサミットそのものよりサミット後にオバマ大統領が広島に訪問する、というニュースの方が大きく報じられている。


ところで舛添都知事の釈明会見がYouTubeに上がっていたのでちらりと見てみた。
あれは、本人はどの程度自覚して話をしているのだろう。
会見では、国会議員時代の政治資金について「一部」に私的支出が混ざっていたことをいちおう謝罪する内容も入っていたが、どうも話の内容も、話す時の表情も、わたしにはあんまり謝っているように見えなかった。
ただし釈明はいちおう整合的で従来の例から考えてもこれ以上の追求はむずかしい、という評価が多かったようだ。

もうひとつニュースになっていたベッキーの番組、中居正広が聞き手になってベッキーが涙ながらに説明した動画もYouTubeで見た。
こちらは舛添会見と打って変わって、ちょっと見ているこちらが息苦しくなるほど懺悔感が一杯で、わたしは10分くらい見たところで途中止めしてしまったのだが、画面を通して見た限りそれなりに精一杯に正直に話をしているように見えた。


突然だがここまでのところで両者の状況を整理してみたい。

舛添要一 =部分的に謝罪も全体的には問題なし、今までどおり仕事をするつもり
ベッキー =疑惑は概ね事実と認め、CMの損害賠償を負担し本格復帰のめど立たず

ついでに最近つとに批判が強まっているゲス・川谷の状況は、
事実関係認め離婚も成立、世間からの批判は集中、しかし休業もせず今まで通り活動


報道によるとベッキーは今回の問題で生じた5億円の損害賠償を事務所と折半し、2.5億円を今後償っていくらしい。
1年前のベッキーなら、2.5億円くらい2〜3年で作れていたのかもしれない。
しかし現在のベッキーは、元スポンサー企業や業界関係者への配慮からバラエティ番組で自虐笑いを取りに行くことも出来ず、かといって今までどおりの元気キャラを貫くことも難しく、テレビ的な立ち位置の取り方がかなり難しいように思われる。
あと考えられるのは、ドラマへ進出してちょっと陰のある役をする女優を目指すこともあるかもしれないが、この場合あのハーフ顔のせいで役の幅がかなり制限されるのではないか。

ということで、今のところ上記に挙げた人物の中ではベッキーのひとり負けが確定的で、それだけに舛添要一にはなんだか無性に腹が立つなあと、まあどうでもいい話だがそんなことを思った。
posted by ヤス at 14:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月14日

Coolpix Aがおじさんに与えてくれる自信について

そうたくさんあることではないのだが、それでもたまに趣味は何ですか、と訊かれることがある。

で、その時にとっさに答えてしまうのが、「写真が趣味」である。
ほんとう言うと最近はめっきり写真を撮らない。
以前にも何度か白状した通り、より正確には写真撮影より「写真機」が好きなのだ。
ところがその写真機好きも最近は新型カメラの購入もなく、かなり怪しくなっていてとても趣味は写真ですというレベルにはない。

しかし、毒にも薬にもならない世間話の途中であまり込み入った言い訳をするのも面倒くさい。
だからこちらも軽い感じで写真が趣味です、と答える。
ここでじゃあカメラは何を使っているのか、ニコン党かキャノン等か、レンズは何ミリが好きか、などなどの突っ込んだ質問に踏み込んでくる相手はほとんどいない。

そういう会話を交わした中には、写真好き・カメラ好きの人物もいくらか居ただろうと思うのだが、どうも世の写真・カメラ好きには他人の趣味にあまり踏み込みたくない習性のようなものがあるのかもしれない、とも思う。


そんなことはともかく、趣味は何かと訊かれて写真であると答えることについて、これは20年前だったらわりかし誇らしげに言えたのだけれど、スマホカメラでいつでも気軽にシャッターが切れる時代になって、そこいら辺の女子高生の方が自分よりもよほどたくさん写真を撮っているだろうと思うと、私の趣味は写真です、と誇らしげに答えるのもなんだかなあ、と考えざるを得ない。

こういう場合のおじさん側の対処方法は、とりあえず趣味っぽいカメラを装備し首からぶら下げて街を歩く他に思いつかない。

この数年、おじさんが首からかけて歩くことを主目的とされた1インチセンサー搭載とかの高級コンパクトデジタルカメラがデジカメ市場における存在感を増しているようであるが、これら高級デジカメの使命は、写真趣味の世界を席巻するスマホとJKのコンビに対するささやかな対抗策と解することが出来る。

で、うちにもその手のカメラとしてニコンのCoolpixAという2013年発売のデジカメがあるのだ。
大型センサーによる高画質と抜群の携帯性を両立したCoolpixAであるが、うちのには28mmレンズに大きな四角いフードを付けているために嵩張ってバッグにしまえない。
その替わりコチコチに四角くデザインされた筐体にフードを付けたのを首から下げていると、写真趣味の雰囲気がかなりアピール出来ているのではないかと感じる。

このCookpixAは、たまにシャッターを切ると思いのほか綺麗に撮れることもある。
欠点はオートフォーカスが死ぬほどのんびりしており、またズームのない28mm固定レンズでもあるので、なかなかシャッターを切る気になれないことである。

このカメラはよほど人気がなかったのか後継機もないままひっそりと生産中止になったらしい。
しかしCoolpixAは、写真が趣味ですと答えるための小さな自信をおじさんに与えてくれる。
そういう得難い価値を持ったカメラであると思った。

IMG_2642.JPG
posted by ヤス at 14:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月13日

三菱自へ日産が出資について


燃費不正で苦境に陥っていた三菱自動車に日産が出資することが決まった。
当初は2000億円程度出すと伝えられていたが、新しいニュースだと第三者割当増資を一株468円の5億660万株引き受けて2340億円出すことになったらしい。
まさに想定外の展開だ。

関連のニュースで、個人のトレーダーが三菱自動車の長期に渡る株価暴落を見越して大量の空売りを仕掛けており、それが今回の買収劇で一転破滅の危機に瀕している、みたいな話も流れていた。

まあそれくらいみんな想定外の話だったということなのだろう。

ところで、今回の燃費不正問題は昨年の11月に日産が軽自動車の新モデルの開発を立ち上げて、それで既存機種の性能を再チェックして発覚したらしい。
その時にここまでの大問題になると想定した関係者がどの程度いたかはよく分からないが、少なくとも日産は昨年11月時点で問題の存在に気づいていたのである。

そしてその時に、トップのカルロス・ゴーンまで報告が届いたのであろう。
これも想像だが、その時点から問題の影響についてのシミュレーションやルノー日産グループとしての対応方法についていろいろと検討が重ねられたのではないか。

今回の出資はタイミングもなかなか絶妙で、三菱自動車株の値下がりが進み始めたところで発表があって株価が回復に転じ、結果として三菱自動車の株主である多くの三菱グループ系企業に日産は恩を売る形になった。

もう少し待てば株価ももっと下がって出資額も少なくて済んだかもしれないし、何より顧客や関係企業への補償金額がどこまで膨らむか依然として不明でそのリスクもあった。

それをかなり早い段階に、いろいろなリスクがあるにもかかわらず手を打ったことで、日産の評価はかなり上がったように思える。

なにかいいことずくめのようにも思えるけれど、今回の救済劇の代償ももちろんあることだろう。
三菱自動車の経営には、今後かなり大胆なメスが入ることが容易に予測される。
日産との絡みで不要になる間接部門や関係企業はバッサリ切られることだろう。
下請けの部品メーカーもかなり選別されることになるに違いない。
極めて弱い三菱自動車の国内販売は、近い将来消えてなくなることもあり得るのではないか。

そういう不安もあるけれど、他の海外メーカーに買われることを想像すると日産による買収は、まあ最良の結果ではあったかな、という気がする。


posted by ヤス at 12:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年05月12日

難しい仕事の始め方

慣性の法則というのがあって、この宇宙では動いている物体はそのまま動き続けようとし、止まっている物体は止まったままであろうとする。

この連休中にちょっとサボって溜まっていた仕事をやっていて思ったこと。
書類を作る仕事をやっていたのだが、なかなかはかどらない。
時間は腐るほどあるのだが、仕事がはかどらないまま、さっきまで高いところにあった太陽がもう沈もうとしている。

書類仕事はパソコンに向かって座ってやる。
だからわりかし動きが少ない。
そのせいかどうか、脳みその回転も止まり気味のようで、脳の神経細胞で電気信号が発火している感じがしない。

まあ、神経細胞の働きが悪いのはいつものことかもしれないのだが、その時に思ったのは、のんびりした環境下でパソコンの前でじっとしていると脳みその動きも鈍る感じがするなあということである。

逆に適当に忙しくて、適当にあちこち動き回っている時は、パソコンの前にいる時間が少なくてもそこそこ筆が進む、というかキーボードが進む気がする。

パソコンに向かってキーボードを打つときには、作業の難易度にもよるのだがそれなりのエネルギーというのか、やる気というか、仕事を前に突き動かす力が要る。

のんびりと、なおかつじっと座って仕事をしていると、その突き動かす力が不足気味になるようでリズムに乗れないのである。

その力は慣性の法則に似た感じがする。
適当にウロウロ動いている最中にはパソコンを打つキーボードがよく進むし、のんびりと止まった状態からは動き出しが鈍い。
だから仕事をバリバリやるためには、ある程度動いている状態を作ることが必要であるなあ、ということを今さら思った。
動いている、というのは物理的に動いているというのも必要な気がするし、あるいは脳みその神経細胞が盛んに発火している状態、とも言える気がする。

モチベーションのことを書いた本には、人間は「それ」を始めることによって「それ」に対する興味が湧き、「それ」に対するモチベーションが強化される、そんなことを書いてあったのを憶えている。

だがそもそもモチベーションの低い状態からは、難易度の高いクリエイティブな仕事を始めることはけっこう難しい。
だから困難な仕事はいつまでたっても始まらない。

そんな時には、もっと簡単な始めやすい仕事を始めることで少し忙しくなる、そうなるとだんだん脳みその神経細胞が発火し始めてより難しい仕事が始められるかもしれないので今度試してみよう、と思った。
posted by ヤス at 13:32| Comment(0) | 徒然なるままに