2016年04月29日

もの分かりについて

会社で上司に怒られて、「これからはちゃんとしろよ分かったか」と言われて「はい分かりました」と言う時の「分かりました」は、たぶん分かっていない。

ひとつのお約束として、今後もこの部下は同じような感じで何度も怒られるだろうからである。
本当には分かっていないから何度も同じ失敗をするということもあるし、それ以上に、怒られて「分かったか」と訊かれたら「分かりました」以外の返答が難しいということがある。

この時の「分かった」は、会話の流れ上の特に意味のない「分かった」であることを多くの上司は半ば意図的にスルーしていると考えられる。

そもそも本当に分かる、ということはかなり難しい。
いや、実を言うと、本当に分かることはものの原理として、たぶん不可能なのである。
そう思う。

ごく一般的な出来の悪い部下は、上司から「分かったか」と怒鳴られたらとりあえず何も考えずに「分かった」と応える。
少し真面目な人の場合は、「オレは本当に分かっただろうか」とやや逡巡しながらも「分かりました」と言うのだろう。
そして少し脳みその血の巡りが良い人間であれば、本当はよく分かんないけれどシチュエーション的にそう応える他はないと考えて、神妙に「分かりました」と言うに違いない。

「分かる」というのは、所詮は分かったと「感じる」ことに他ならないのである、と思う。
これはあくまでわたしの想像であるが、長年生きてきているといろいろ体験した結果が脳みその中に格納されて、さまざまな概念として記憶される。
それらの概念が組み合わさって、自分の中にものの道理がだんだん出来てくる。
もの分かりが良くなるっていうのは、あらゆるものの理解に対応出来る程に脳内にたくさんものの道理が出来ている、ということの証だろう。

したがって長年生きていると、だんだんいろんなものが分かるようになる、そういう理屈になる。
だいたいものが分からないのはけっこうなストレスである。
本当は分かっていないことも、分かったことにした方が精神衛生上もよろしい。
しかし一方で、本当にものが分かることが実はマボロシのようなことである、と分かってしまうと、それはそれで気が楽になる気がする。

あるいは科学者が宇宙の真理を追究するベースとして、そもそもすべてが分からないことについて分かっている必要があるのだと思う。

というようなことで、これからはもの分かり悪く生きる、というのをしばらくテーマにしてみようかな、と思ったりしている。

ネット通販でパソコンを注文したのを今そわそわしながら待っているのだけれど、なかなか来ないなあと思いながら、そんなことを考えてみました。おしまい。
posted by ヤス at 13:28| Comment(0) | 徒然なるままに