2016年04月19日

ラテ欄と視聴習慣

今うちにはテレビが無い。
学生時代以降大半の期間テレビの無い暮らしをしてきたのであるが、ただ断続的にテレビが存在した期間もあった。
10年くらい前に、もらいもののテレビがうちにあった。
その時は、朝や昼間の番組を観ることはほとんど無くて、もっぱら深夜の時間帯にやしきたかじんとかの番組をダラダラ観ていた記憶がある。

深夜のテレビをダラダラ観て、それも終わって日本直販の怪しげな通販番組になって、それが終わったら画面が砂嵐になってそこでやっとそろそろ寝るかな、となる。
そういうダラダラの生活は不健康だなあと思ったので、そのテレビは間も無く処分して、ふたたびテレビの無い生活に戻ったのだった。

で、今さっき思ったのだが、ああいう深夜テレビをダラダラ観る生活の遠因として、新聞の無い生活も、ひとつあるのかなと。
わたしは新聞を取らない生活もかれこれ30年ほど続けている。
新聞紙面で一番よく読まれるのは、紙面の裏側のラテ欄である、というのはよく聞く話である。
実際にわたしが子どもの時分、テレビと新聞のある生活において、わたしにとって新聞を読むことはラテ欄を見ることとほぼ同義であった。

日本のメディア業界にはクロスオーナーシップなるものが存在して、新聞とテレビは一種のもたれ合い関係にあるといってよいだろう。
その象徴的事象として、新聞ラテ欄をチェックしてその日のテレビ視聴スケジュールを固める生活習慣、というようなことがあるのではないか、と思ったのである。

テレビ視聴はその多くが「視聴習慣」、言わばリピート利用によって支えられていると想像される。
そして新聞ラテ欄は視聴習慣を補完し、うっかり視聴忘れを防ぐことをひとつの目的として存在すると考えられる。
今、新聞の購読数も昔に比べると激しく落ち込んでいるようだが、それがテレビ視聴率に与える負の影響もかなりのものだろう。
テレビ視聴率は視聴習慣を持ったリピーター需要によってその多くが作られており、視聴習慣は新聞ラテ欄によって補完・維持されてきた。
その構造が少し前から崩れて来つつあるのではないか。

逆にテレビを観ない層が増えて、それが新聞ラテ欄の需要減=新聞の需要減となって新聞購読数の減少になったということもあるだろう。

以上の想像が示唆するのは、人間の生活スタイルがいかに惰性的繰り返し習慣によって支配されているかということだろう。
テレビも新聞も、それらがある生活習慣を世間に根付かせることに成功してビジネスを大きくしたが、その習慣が崩れてビジネスの基盤が揺らいでいる。

そんなこんなで習慣の威力はけっこう大きいなあ、と思った。
posted by ヤス at 11:13| Comment(0) | 徒然なるままに