2016年04月11日

エンブレム問題の不毛

五輪エンブレムの再選考作業が進んでいる。
今回は前回の反省からデザイン専門家以外の一般人も含めて、前回の公募数104件に対し1万4599件の候補が集まったらしい。
その1万4599件がこの度4件に絞り込まれてさてどれにするかというところまで来ている。

で、その最終4案に対し日本グラフィックデザイナー協会の会長がレベルが低いとバッサリ切り捨てたとか、最終案の中に前回の公募作品が紛れ込んでいて選考過程の不透明さがあらためて問題にされたりとか、なかなかすっきり解決という感じでもない。

今回の選考にあたっては、前回問題の原因となったデザインの類似性についてかなり入念に調査が行われたようである。
ネット情報によると、前回の類似商標調査費2300万円を8000万円以上に増額して対応しているらしい。
少し意地の悪い見方をすると、今回の最終候補作は、東京オリンピックの心意気を表現したものと言うよりは、類似デザイン回避の観点から選ばれたものなのではないか、と思ってしまう。

よくよく考えてみると、オリンピックのエンブレムは我々一般人にとってはかなりどうでもいいことのように思われる。
と、言ってしまうと身も蓋もないが、エンブレムのデザインが4案のどれに決まったとしても、あるいはそもそも初回選考の佐野氏の案のままだったとしても、それで日本の景気が浮いたり沈んだりするとか、五輪本番の集客が左右されるとかの実際的な問題は生じないだろう。

大会組織委員会は前回の盗作騒動によほど懲りたのだろう、今回の選考は公募の間口を広げて類似リスクに神経を使うという、過剰に安全運転的な方法に走っていると見えてしまうのは気のせいか。
ただ、安全運転によってデザイン的に無難な案に決まったとしても、それで何か実際的な問題が生じるわけではなく、だからそれはそれでもう構わないと思う。

エンブレムのデザイン業務もある種の公共事業であるので、公募や選考過程の透明性確保は必要であるとは思うのだが、ことが「デザイン」という雲をつかむような対象物であるだけに、明確にその選考理由を説明するのはまったく不可能であると考えられる。
結局最終的にはドサクサまぎれのえいやっ、で決めざるを得ない。
えいやっで決めた後で老若男女からなるべく批判が出ないことに配慮すると、あまり先鋭的なデザインにはなり得ない。

そう考えると、前回の佐野氏案は先鋭性と批判回避デザインのバランスをとった妥協案であったようにも思える。

おそらく、エンブレムデザインというそもそも極めてセンシティブな問題を民主的手続きで決めようとすることに無理がある。
デザイン的に尖ったセンスのいいエンブレムを決めようとするならば、まず最初にオリンピックのコンセプトや演出について全責任を持って企画する総合プロデューサーを任命することが必要だったのではと思う。
プロデューサーもおらず、オリンピックのコンセプトも判然としない中でただエンブレム単体のデザイン性を云々するのはかなり不毛な議論だ、と思った。
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2016年04月10日

1日24時間サイクル

生き物には、脳みその中に生物時計の仕組みがあって、活動と休息の1日周期を制御しているらしい。
地球は24時間でクルリと自転する。
その間地上の任意の一点は自転とともにすーっと動いて、しばらく太陽の光が当たってやがて日影に入って夜になる。
このことは地球の誕生以降46億年ずっと繰り返されてきた。
(もっとも地球の自転速度は大昔と今では多少違うだろうが)

生き物は太陽の光によってその生き方が大きく左右される。
だからクルクル自転する地球の上で誕生した生き物が、地球の自転に合わせたライフサイクルを刻むようになったのは必然であったろう。

人間もたいていは、朝起きて日中は仕事や学校に行って、夜になったら寝る。
昼夜逆転の夜行性人間などもいるけれど、活動サイクルとしてほとんどの人が24時間で1回転の昼行性である。
これを1日1サイクルでなくて例えば3日1サイクルで1日まるまる寝て2日はぶっ通しで起きている、というような変則サイクルの人はあまりいない。
少なくともわたしの個人的経験から言うと、そのような変則サイクルでは活動時間と睡眠時間の割合が適正であったとしても、かなり体調に異常を来す。

だからやっぱり長生きのためには24時間1サイクルで生きるのが具合がよろしい。
それはまあものすごく当たり前のことであるが、あらためて考えてみると何か不思議な感じがするのである。
夜勤や長時間労働の多い人の中には、体内時計が壊れてしまって睡眠障害で体調を崩す、ということだってある。
24時間1サイクルを律儀に守って生きることは、意外と繊細な我々の健康を守るための土台になっているようである。

そういうことがあるので、24時間サイクルをつつがなく繰り返すことは人間にとっての(他の生き物にとっても)重要課題である。
たぶん無意識のうちにサイクルを正常に回すことに気を付けて、何かの拍子にサイクルが狂って体調を崩さないように気を付けているのだろう。

人生80年とすれば、この24時間サイクルはおよそ2万9千回以上繰り返される。
朝起きて、活動して、夜になったら寝て、また朝が来たら起きる。
これを2万9千回。
まさに輪廻転生だ。
わたしの場合、すでに1万8千回ほどその輪廻転生を繰り返したことになる。

このように人生は、とめどないワンパターンの積み重ねであるように思われる。
しかし同時に、昨日の朝と今朝とは確かに違っている。
例えば今朝は、昨日より1日分確実に歳をとっている。
1日1日のサイクルは、ひたすらワンパターンだが少しづつ違う。

どうでもいいが、そういうことをふと思った。
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2016年04月09日

200m平泳ぎ

競泳の日本選手権の5日目、男子200m平泳決勝があって33歳の北島康介は5位に沈んだ。
レースの動画をまだ見ていないのだが、日本水連のウェブサイトに載っているリザルトを見たところによると、北島は150mまでは2位に付けていたのが最後に3人に抜かれたらしい。
北島の最後50mのラップは34.52秒で、上位4人は33秒〜34秒ちょうどくらい。
ラストでコンマ5秒以上差がついて代表に手が届かなかった。

このレースで注目は、1位になった小関也朱篤(「やすひろ」と読むらしい)のラップタイム。
100mは1分0秒台と、ほとんど100mのベストに近いところで突っ込んでいる。
小関は昨年の世界選手権の時から「世界記録を狙う」と公言しており、ラップタイムにその意気込みがよく表れている。
小関の50mごとのラップタイムは、28.52秒、32.42秒、33.20秒、33.97秒。
100mー150mをコンマ3〜4秒削ってラストも33秒ちょうどくらいで耐えることができれば世界記録の2分7秒01が射程に入る。

小関は3〜4年前までは自由形の選手で、平泳ぎを始めたのは最近らしい。
昨年ベストタイムを出して以降少し伸び悩んでいる感じがしないでもないが、上背もあるし、経験が少ない分伸びしろがあるだろう。
五輪本番は北島康介の分まで頑張ってくれると期待している。

あと、2位に入った早稲田の渡辺一平。
決勝レースで準決勝から100分の1秒タイムを上げて来たようだが、150mまでのラップだけ見るとコンマ2秒ほど上がっている。
最後少し疲れたようだけれど、こちらも本番に期待の持てるタイムの上げ方だと思った。

平泳ぎの世界記録は2012年に当時高校生の山口観弘(「あきひろ」、読めないなあ)が出して以降破られていない。
だから五輪本番では世界記録ペース、2分6秒台の争いになる予感がする。
スピード自慢の選手は100mを1分切って入るだろう。
小関も渡辺も金メダルを獲りに行くには、前半は離されないように我慢して後半の100mでイッキにスパートして追い抜く、という展開が必要になるに違いない。

日本選手団が100m平泳ぎに選手を送らないのはどうも史上初めてのようであるが、100mで選に漏れた悔しさを200mで爆発させて欲しいなあと思う。

そして今回の日本選手権で力を出し切った北島康介の分まで暴れ回って来て欲しい。
と思った。
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2016年04月08日

スマホ料金見直し

この4月1日から適用された総務省によるスマホの値引き是正指針。
この指針に基づく指導が、さっそくソフトバンクとドコモに対して出された。

確かこの指針は昨年、日本のスマホ料金は高過ぎるからどうにかせねば、という首相の意向で始まったものと記憶している。
ところがその後、日本のスマホ料金は国際的にそれほど高くないことが知られるようになり、また政府による私企業への経営介入批判もあってその方針が少しづつ変質していったようだ。

おそらく当初は、日本の高過ぎるスマホ料金は引き下げ余地が十分にあり、政治の力でこれを実現できると考えたのだろう。
その結果特にスマホの中心ユーザー層である40代以下の若年層において、政権支持者を増やすことが出来るかもしれない。
またスマホ料金の値下げ分が可処分所得に回れば景気浮揚効果も期待出来る。
そんな考えだったのだろう。

ドコモ、au、ソフトバンクの利益水準は極めて高いので値下げ余力は確かにある。
だがいかに現政府の権力が絶大であったとしても、資本主義の世界においては民間企業の利益を勝手に削る芸当は出来ない。
その発想は社会主義そのものであって、現政権の基本理念と矛盾する。

どうやら途中でその点に気付いたらしく、問題の中心は単純値下げから料金不公平の是正に移った。
日本の携帯料金は、新規ユーザーや乗り換えユーザーを過剰に優遇しておりその優遇原資に既存ユーザーからの利益が「流用」されている、という風に変わったようである。

具体策としては端末料金の過激な値下げを制限すること、パケットをあまり使わないライトユーザー向けの料金を設定することの2点に絞られたと見える。

これは意訳すると、スマホの頻繁な買い替えを止めましょう、また四六時中スマホいじりしてムダなパケット浪費を節約し、その分自動車を買ったりレストランに美味しいものを食べに行ってスマホ以外で日本の消費拡大に貢献しましょう、という風に解釈出来る。

あるいはスマホ市場で大きなシェアを持つアップルなどの外国企業が念頭にあったのかもしれない。
スマホの買い替え市場を縮小すると、アップルによる日本の消費市場からの収奪をいくらか防ぐことが出来る。
ただ同時に、細々と国産スマホを製造しているソニー、シャープなどの国内端末メーカーにはとどめの一撃になる可能性が大きい。

おそらく今回の携帯料金に関する措置は、たいして政権支持の上昇にも繋がらず、消費市場の活性化ももたらさない公算が強い。
政治的にも経済的にも効果なく、やがて政府も興味を失って元の木阿弥になるような気配が濃厚だと感じる。
政府が当初目指した内容は、通信市場の新規参入促進によってのみ可能である。
が、今の所そういうことが始まりそうな気配もない。
だからたぶん、ドコモ、au、ソフトバンクは当分安泰である。
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2016年04月07日

ドM仮説

人間は他の生き物とかなり違って見える。
頭のサイズが大きくて姿形が比較的人間に似ているチンパンジーあたりでも、やっぱり人間とは何か違う。
ただ動物園等にいる猿を眺めていて、時々まるで人間のようだなあと感じることはある。
それはたぶん、何かを考えているような仕草の時に特に感じる気がする。
猿の仲間は他の哺乳類と比べても大きな脳みそを持っているので、あの考えるような仕草は、実際に何かを考えているのだろうと思う。
結局のところ、人間が他の生き物と決定的に違うのは脳みその容量と機能にあることは間違いない。
要するに、人類は他の種より際立って頭が良い。
性格が良いかどうかは知らないが。

「自己家畜化」という概念がある。
地球上の生き物は、何万年何十万年のタイムスパンで生物的な「自然な」進化過程の中にある。
一方で人類は自ら創造した文化・文明によって、独自に「人類的な」進化を行っている。
ここで自己家畜化というのは、自ら創造した文化によって自身が爆速進化をすることだとしておく。
その進化は、肉体的な変化ではなくて、もっぱら技術や生活様式などのソフトウェア的変化である。

肉体的な変化、DNA的なハードウェアの変化には十万年スパンの時間がかかるのに対し、ソフトの変化はほとんど一瞬で起こる。

ここで少しまとめると、人間が人間である所以は、ソフト的な進化を行うようになったこと、文化レベルの変化を自らの意思で行えることなのであろうと考える。
で、そういうソフト的な進化の原因、原動力になったのは人類の大きな脳みそだろう。
でもなぜ人類の脳みそはここまで高機能に発達したのだろうか。

わたしの思いついた仮説は、「人類ドM仮説」である。
人間は元々みんな「ドM」なんじゃないか。
数百万年の昔、アフリカの大地溝帯の辺に群れていた一群の猿たちの中に、ドM気質の奴らがいて、彼らはドM気質なのでやたらと自分をいじめる。
あるいはものすごく無理をする。
肉体的にも無理をするが、精神的にもムダにがんばる。
無理をすると疲れるが、彼らは自分をいじめることが無上の喜びなのでそれでもがんばる。
それで、いろんな考えごとをムダに頑張っているうちに脳みそのめぐりが良くなってくる。

最初はわずかな脳機能の差が生じただけだったが、百万年か何百万年かドM気質を貫いたその猿たちは、いつの間にかソフト的な爆速進化の域に達して他の猿と文化的に隔絶した存在になった。
ということは考えられないか。

何か、人類以外の生き物一般の立場から見ると、人類の頑張り様はちょっと度を過ぎている気がしなくもないのである。

だから自分のMっ気がちょっと濃いかなと心配な人は、自分は他の人よりずっと人間的なのだと思って安心して良い。
たぶんそれで間違いない。


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2016年04月06日

派遣標準記録

昨日競泳の日本選手権の2日目、北島康介が出る100m平泳ぎ決勝があった。
北島は2位で59.93秒の2位。
優勝の小関が59.66秒で2人とも派遣標準記録の59.63秒を切れなかった。

最近自由形中距離や個人メドレーを中心に層の厚さを増す男子競泳陣にあって、かつての栄光を思うと平泳ぎはちょっと停滞しているように見える。
ただ、オリンピックの派遣枠は各国各種目2枠ある。

わたしが高校生の頃にロサンゼルスオリンピックがあって、当時やはり高校生だった鈴木大地なんかも出ていた。
当時の競泳チームは非常に弱くて、唯一女子平泳ぎの長崎宏子がメダル候補だった。
(結果は個人2種目4位)
男子の方は16位のB決勝進出がやっとで決勝の8位内に入る選手は皆無だったと思う。
(メドレーリレーで決勝に出ていたらしいが、結果は引き継ぎ違反で失格)

当時のことを思うと、今の派遣標準記録は非常に厳しい。
日本水泳連盟の基本方針として出場選手は全員16位以内に入るということがある。
派遣標準記録はこの方針に基づいて、直近の世界ランキング各国上位2名だけ残した中での16位相当に設定されている。

この方式を確立して以降、日本チームは強くなった。
かつての弱い時代は、前半様子見の消極的なレース展開で見せ場なく終わるパターンが多かった。
それが目標タイムが上がったことで、当落ラインの選手は前半から一か八かでチャレンジしないとダメになったのだ。
結果国際大会でも、レース中盤までは各国強豪と伍するレースが出来るようになり、終盤の粘り次第では勝てる、というようになって来た。

出場枠をみすみす放棄してまで高いレベルを保ち、少数精鋭にこだわる姿勢は確かに評価出来るのだが、一方でやっぱりなんかもったいないなあという気持ちも拭えない。
派遣標準記録が厳しいために、世界のレベルが高い自由形短距離は、現実的に出場権獲得がかなり厳しい。

鈴木大地は高校生でロス五輪に出て次のソウルで金メダル、今回残念な結果だった北島康介もやはり高校時代のシドニー五輪で100m4位に入って次のアテネで金メダルを獲った。
1996年のアトランタではノーマークの中学生、岩崎恭子が自己ベストを驚異的に伸ばして金メダルをかっさらった。
そういうことを思うと、せめて中学・高校生に限り派遣標準記録の縛りを無くして経験を積ませるために大舞台に出してみる、ということでも良いような気がする。

そういう考えは甘いのだろうか。


何はともあれ、北島康介選手には残る200mで気持ちを切り替えて是非リオ五輪に行って欲しい。
100m直後のショックは相当大きかったようだが、北島ならこの悲劇を大逆転ドラマの前フリに変えてくれると信じている。
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2016年04月05日

改名願望

最近はその手のニュースが世間を賑わせていてこんがらがってくるけれど、少し前に桂文枝もまた不倫報道の餌食になって、記者会見まで開いた、ということがあった。
不倫報道の方はどうでもいいのだが、その時に思ったのは、桂文枝は前は桂三枝だったよなあ、ということ。

「新婚さんいらっしゃい」の司会の人はあくまで三枝、というイメージが強く残っていて、分枝という名前にはまだ馴染めずにいる。
落語や歌舞伎の世界には襲名の慣習があって、順調に「出世」していくごとに名前が変わる。
相撲取りにも二代目貴乃花とか、三代目若乃花とか先代の名前を引き継いだりすることは多い。

その襲名の慣習、これってどういう意味合いがあるのか、考えてみると不思議な気がする。

特に桂分枝の場合、前の「三枝」名で長年テレビで活躍し世間にイメージが定着していた。
正式に三枝が文枝になったのは2012年のことだったらしいが、その1年前に襲名の意向を発表していて、しかし最初は表では三枝の名前を使い続けようと考えていたようである。
その名前での活動期間があまりに長かったので、今更変更することにためらいがあったものと想像する。
が、最終的には思い直して全面的に文枝に改名することになったらしい。
この時に桂文枝がいろいろ悩んだり考えたりしたことの中に、襲名の意味合いを知る手掛かりがあるのだろうが、とりあえず今その情報は無い。

ところで、江戸時代より以前には元服というのがあって、生まれた時に付けられた幼名がある段階で諱(いみな)つまり実名に変わる。
元服以外でも、けっこうクルクル名前を変える人が多い印象がある。
わたしの好きな戦国の智将・黒田官兵衛も、幼名は万吉で、その後、祐隆、孝隆、孝高と名前が変わった。
一般的な呼び名の「官兵衛」は通称、いわゆるニックネームであったらしく、その後の黒田家において二代目官兵衛、三代目官兵衛と継承されたらしい。
名前がクルクル変わった理由はよく知らないが、当時支配を受けていた地域の親分の名前を一字貰ったことにして媚びを売るとか、そんなこともあったようだ。

そうではなくて自主的に名前を変えるパターンでは、やっぱり運を開きたいとか、人生を一旦リセットしてやり直したいとか、そんな気持ちがあったのだろう。
で、実際名前を変えてみると、自身の気持ちのありようが変わったり世間の見る目が変わったりして、それなりに人生が変わった人が多かったのではないか。

例えば自分自身が今の名前をガラリと変えたら、多少なりとも人格形成に影響があり、周囲の見方が少し変わる、あるいは別人として認識される、などの効果はあるような気がする。

折しもマイナンバー制度も導入されたことではあるし、姓名というものの、戸籍管理上のアイデンティファイ手段としての意義はやや薄れたと考えられる。

だから本名の改名を思い切って自由化し届け出制とかにしたら、人生の可能性がもっと広がるのではと思ったりした。
そうなったら、カタカナのアイルランド系の名前にしてイケてる感じになれるかもしれない。
が、たぶん自由化はされないのでこれからも平凡な日本人として生きていくことにする。
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2016年04月04日

競泳日本選手権開幕

今日から競泳の日本選手権が始まった。
オリンピックイヤーの日本選手権は、代表派遣選考会も兼ねている。
昨年のロシア・カザンの世界選手権優勝者の3名を除く、残りの選手がここで決まる。

今年の日本競泳陣は近年になく充実しているように見える。
特に萩野公介と瀬戸大也がいる男子個人メドレーは、五輪金メダルの本命だ。
昨年の自転車転倒の怪我が心配された萩野も、年初のレースでかなり良いタイムで泳いでいて安心した。

直近2〜3年のレースでは、特に萩野はアメリカのエース、マイケル・フェルプスとライアン・ロクテにかなりの勝率で勝っている。
五輪イヤーには時々、聞いたことのない若手のダークホースが突然出てきて金メダルをかっさらうことがあるけれど、萩野か瀬戸のメダルは固いように思う。

あと、女子の平泳ぎと個人メドレーを泳ぐ渡辺香生子。
特に200m平泳ぎは世界記録を出すくらいの勢いで最初から飛ばして欲しい。
平泳ぎはダークホースが出やすい種目の気がするので、守りに入らず攻めていかないと金メダルに手が届かないんじゃないかと思う。

それから、なんといっても今月高校生になったばかりの池江璃花子に注目している。
去年の初めころまでは中学生なのに妙に速い選手、と思っていたのが、あっという間に日本短距離陣のエースになっていた。
身体も大きいし、何より泳ぎ方が男子選手のような力感があって、まだまだ記録が伸びそうな雰囲気がある。
自由形短距離や100mバタフライはアメリカもヨーロッパも強くて、日本としては苦戦が予想されるけれど、池江璃花子ならなんかやってくれそうな気がするのである。

あとは男女とも400mメドレーリレーは決勝に残ってメダルに手が掛かる位置には居るだろう。
が、男子は平泳ぎ、女子は背泳ぎがポイントだと思う。
北島康介が君臨していた時の日本のメドレーリレーは滅法強かった。
その北島康介が、今回も五輪に挑戦するらしいが、100mで勝ってメドレーリレーにも出てくれると心強かったりするなあ。

それから、ひそかに期待するのは男子の800m自由形リレーだ。
どういうわけかこのところ男子の200m自由形は選手が揃っていて、800mリレーもかなり期待できる。
怖いのは、身体のでかい選手が多い中国チームがけっこういいタイムを出しそうな予感がすること。
ここでも萩野公介の活躍がカギを握る。

できることなら、五輪本番で日本チームが800mリレーで金メダルを争う姿を見てみたいなあ、などと思っている。

今日の日本選手権の1日目決勝レースが今から楽しみだ。
posted by ヤス at 12:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月03日

組み体操の教育効果

ちょっと今さらな感じだけれど、組み体操問題について考えてみる。

結論から言うと、組み体操って何か教育的な意味があるのかね、と疑問に思う。
巷の意見をちら見してみると、みんなで力を合わせて難しい技を完成させる達成感とか、土台になった人が上の友だちに怪我をさせないために必死に我慢する経験、そのあたりの教育効果について語る向きが多いようだ。

しかし一方、毎年全国で、組み体操だけでも千人単位の怪我人が出ているという。
さらに過去40年遡ると合計9人の死亡者がいるっていう。
(9人の内訳は組み体操だけかどうかよく分からないが)

そして最近、大阪市教育委員会では中止を決めたらしい。


わたしもたぶん小学校の時に、組み体操のピラミッドをやった憶えがある。
わたしはチビだったのでたぶん上の方の担当だったのではないかと思う。

そういえば、裸足で旧友の白い体操服の背中に上がる時の、ちょっとぐにゃりとした足裏の感触、そういうのがあったなあと思い出してきた。
達成感があったかと言われればあったような気もするし、たいして感動もしなかったような気もする。

ただし、なんかピラミッドが崩れて怪我するんじゃないかという怖さ、実際に小さい崩壊が起きた時に背骨に上の奴の全体重が乗って痛かった、みたいなことがあったのを思い出して来た。


書きながら思ったのだけれど、あのピラミッドとかの組み体操、あれはそういうちょっと気を緩めると怪我しかねない怖さ、あるいは練習中の小さな失敗で感じる実際の痛み、その辺りの体験にこそ、先生たちは教育効果を求めているのではないか。

あれが、痛くもなくて怖くもない種目だと、教育上必要なしびれるような緊張感が味わえないということなのではないか。
組み体操の教育効果に期待する先生たちは、あまり表立って言わないけれど、組み体操は危ないからこそ教育効果があるんだと思っているのではないか、そういう深層心理があるように思えてしょうがない。

全国の年間の怪我人が千人くらいというのは、確率的に言うとざっくり千人に一人くらいの割合。
今、日本の年間の交通事故の死傷者数はざっくり100万人くらいだそうで、要するに一年間に交通事故に合うのは百人に一人くらいの割合。
組み体操で怪我するのは、交通事故よりも確率的には少ないらしい。
だから良いっていうものでもなかろう。
組み体操を止めれば千人に一人の事故の可能性も無くすことが出来るし、無くすべきだと思う。

だいたい上に乗っている友達のために怖さや痛みに耐えるっていうのは、まったくクリエイティブではない。
自己犠牲というのは、八方塞がりになって他に手段が無くてほんとうにもうどうしようも無い時に発動されるべきもので、あまり安売りするべきものでもなかろう。
それよりも、知恵を絞ってみんなが御利益を享受できるように創意工夫するマインドが標準形態であって欲しい。

そんなことを思いました。
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2016年04月02日

憲法の改正についてなんとなく

さっきニュースを見ていたら、『政府は1日の閣議で、「憲法9条は一切の核兵器の保有および使用を禁止しているわけではない」とする答弁書を決定した。』というのが流れていた。

その上で、日本国は政策上の方針として核兵器を持たない、ということになっているらしい。
憲法解釈とか法律解釈というのは、その道の素人から見るとなんとも奇体に感じられる。

同様の論法で自衛隊も合憲とされている。
憲法9条1項は『日本国民は 〜略〜 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』とあり、2項には『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』とある。
小学生的な視点でこれを読むと果たして自衛隊は軍隊だからダメだろうと思えるし、核兵器の保有・使用についてもなんだかなあ、と思わざるを得ない。

が、戦後70年の日本政治史上においていろいろ議論の末に自衛隊の意義が認められ、法的にもそれなりに位置付けられてきたことは、まあ妥当なことだと思う。
核兵器についても、「将来の核保有の構えを匂わせる」ことが大きな外交カードになり得ることから、これを一概には否定しづらいというのがあるのだろう。
それも分からぬ話ではない。

こういう問題が出てくるというのは、日本国憲法が出来た当時とその後の状況変化の落差が想像以上だったのだろう。
憲法の内容を現実に追いつかせるためには、やはり改憲した方がいいと個人的にも思うのだけれど、一方であんまり変更が手軽に出来るようになると、いったい何のための憲法なのかということになりかねない。


憲法や法律の条文解釈は、日本だけでなくアメリカとか他の国でも、うまく解釈して辻褄を合わせるというのが政治の技術としてあると思われる。
あんまりガチガチで解釈のアソビが無い条文は、運用上使いづらい。

ただ9条解釈については、虚心に見れば明らかに無理があり、少なくない憲法学者が今でも自衛隊を違憲と考えているという。

法律の効能として、条文解釈にアソビがあっても、少なくともアソビの範囲内で律することが出来る。
ドロボウはいけませんという法律に対し、いったいどこまでがドロボウかという解釈のアソビは生じるだろうが、とりあえずドロボウ的なことはいけない、というメッセージは理解出来る。

9条と自衛隊の議論とか、今回のニュースの核兵器の話は、そういう一般感覚から見てかなりの超越的議論と感じられる。

敗戦直後に出来た現憲法は、歴史の激動を背景に成立したために、その内容もかなりラディカルになったのではないかと思われる。
過激な成立過程を経た憲法であるからこそ、穏便に時間をかけて修正を議論していくことが必要なのではないかと、花見日和のぽかぽか陽気の中、少し考えてみた。
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2016年04月01日

不倫文化考察

週刊文春の活躍によって、有名人の不倫問題が世間を賑わしている。
なかでも一番最近の、乙武氏の問題は衝撃度が大きかった。
乙武氏のスケベ癖は業界内ではつとに有名で、Twitterでのケッタイな書き込みや出演番組でのスケベなジョークなど、世間的にもうすうす感づかれていた節がある。

それでも、乙武氏のオフィシャルなイメージは、障害を持ちながら教育問題にも熱心に取り組むクリーンな人、ということに建前上なっていたと思う。
それが、選挙の話が出た途端に週刊誌のネタになって、選挙出馬は元より今後のタレント活動、社会活動にも大きく影響しかねない感じになっている。
(今回のスクープは週刊新潮だったらしいが)


ところで、統計データがあるのかどうか知らないが、おそらく日本国内においては、一定数の不倫事象が生じていると思われる。
このところ有名人の不倫報道が喧しいが、これは必ずしも国内の不倫事象発生件数が増加傾向にある、ということを示しているのではなかろう。

それよりも、不倫ネタが大スクープになるほど日本は平和になった、ということなのかもしれない。
その分、不倫のリスクが近年になく高まったということなのだと思う。
特に有名人にとっては。

歴史モノの小説とかを読むと、昔の日本は性風俗に関してかなりおおらかで、特に農村部などの庶民階層の「そっち」の行動は相当自由であったようである。
さらに昔の源氏物語なんかにあるとおり、貴族階層においてもかなりお盛んであったようだ。

性の規範意識が高まるのは、これは想像であるけれども、江戸時代の武士階級以降ではないかと思う。
江戸時代の武士階級は、戦闘集団というより行政官僚機構であり、そういう人種にとっては社会秩序や規範意識がより大切になったのだと考えられる。
徳川幕府の教化によってルールを守る人たちの層が一定程度出来て、明治以降は欧米プロテスタント的な規範意識が普及して、おそらくその辺で不倫は「不倫」になったのではないか、そのように想像する。

要するに人間が人間である以上、人間社会には常に不倫事象が一定数存在するのだ。
と思う。
政治家や有名人の間にも当然あるだろう。
むしろそのような特殊な立場の人々こそ、そちらの意欲も並々ならぬものがあるかもしれない。
よくは知らないけれど。

だから週刊誌等は彼ら有名人に張り付いていれば、一定割合でその「現場」を押さえることが出来る。
あとは裏を取って、タイミングを見て報道すれ世間の需要を掴むことが出来る。

この勝負、どう見ても有名人側の分が悪い。

そして、この状況はこの何十年変わっておらず、これからも同様のパターンが繰り返されるのだろう。
立場を失う有名人にはたまったものではないが、状況がほとんど改善されないところが人間らしくていいのではないか。

今日もあんまり結論的なことは出ないのだけれど、そんなことを思った。
posted by ヤス at 14:03| Comment(0) | 徒然なるままに